神学生卒業メッセージ〜詩篇26篇

卒業した神学校から神学生の卒業メッセージの案内が届きました。今年はリモート配信ということなので、わざわざ出向くことなく20分間の凝縮したメッセージを聞くことができました(ご希望の方にはご紹介できます)。

先ほどその一つを聞きながら、詩篇26篇1節の「私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています」というみことばを思い起こしました。

それぞれが自分の罪と向き合いながら、少しでもイエスの姿に倣い、イエスの御跡に従おうと誠実に学んでいます。

4年間の学びを20分間のメッセージに込める迫力が感じられます。小生のように毎週のように異なった箇所から語っている者にとっては、本当に原点に立ち返らされる思いがします。

この「誠実」と訳されることばは、原文で「完全」という訳が一般的です。

共同訳では「私は全き歩みをしてきました」と訳されています。

聖書の語る「完全」とは、決して多くの日本人がイメージするところの、完全無欠、完璧、非難されることがない……という意味ではありません。どちらかというと、謙遜に神に従おうとしている、その心の方向性を示します。

私たちは信仰生活が長くなるにつれ、「どうせ、自分はこの程度の存在だ……」と居直ってしまう傾向があります。

しかし、大きな恐れとともに、主と主の教会に真剣に仕えようとしている神学生たちには、よりイエスに倣う者でありたいという成長を目指す思いが本当に新鮮に感じられます。

それは詩篇26篇を記したときのダビデも同じです。

サウル王にいのちを狙われながら、必死に主に従おうとしていました。そのときの新鮮な思いが詩篇26篇には記されています

この詩は、「私を弁護してください」という訴えから始まります。これは多くの英語訳では、Vindicate me と訳され、「私のために裁きを下し、私の正義を明らかにしてください」というニュアンスが込められています。

ダビデはサウル王のもとで誠実に仕えましたが、サウルはダビデの評判をねたみ、理由もなく殺そうとしました。そのように、神の公平なさばきが隠されているように思える中で、この訴えがなされています。

自分が受けている苦しみが不当なものと思えるとき、自分の正義を訴えたくなるのは当然の人情です。ただここでは、「私は誠実に歩み……主に信頼したこと」が神によって明らかにされること、また、「私を調べ、私を試みてください」と、神ご自身の公平なさばきに謙遜に委ねようとしているという点にこそ注目すべきでしょう。

しかも、ダビデは、「あなたの恵み(ヘセド:契約の愛)が私の目の前にあり」(3節) と告白しつつ、自分があくまでも、神の恵みと真理(真実)に、謙遜に応答しながら生きてきたと訴えています。

ただこれは、「自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ10:3) という、イエスを十字架にかけたユダヤ人の自己義認とは異なります。ダビデは単に、悪者が繁栄し、正しい者が虐げられているという現実に対して、神のさばきが明らかにされることを望んでいるだけなのです。

6-8節でダビデは、神の家における真心からの礼拝の姿勢を大切にすることを宣言します。これは、悪者に対するさばきがまだ明確には見えない中で、なお、主の前に誠実を尽くすと約束することです。

「正直者がバカを見るのなら、自分の気ままに生きる方が良いのでは……」などという居直りとは正反対の生き方です。私たちの中には確かに、いろんな醜い思いや不誠実がありますが、神の霊が私たちのうちに働く時、このような告白を真心からできるように導かれます。聖霊のみわざに期待しましょう。


祈り

主よ、あなたに敵対する者が栄え、信仰者が虐げられる現実を見ると、心が痛みますが、あなたの公平なさばきが明らかになることにいつも信頼させてください。