第二次大戦中の英国を導いたチャーチル首相の息子ランドルフは友達と、「二週間で聖書を全部読むことができるか」という賭けに挑みました。聖書をそれまで一節も読んだことがなかった彼は恐ろしく興奮し、友に向かって、「君たちはきっと、こんなことが聖書に出てくるなんて知らなかったはずだ」と言いながら、わき腹を叩いて、「神様、あなたはくそじゃないか」と笑ったとのことです。
また米国の独立宣言の起草者 は で、「旧約の神は恐ろしい性格をしているー残忍で、執念深く、気まぐれで、不誠実だ」と述べたとのことです。しかし、それは三千年前の時代の文脈を無視して読んでいるからに過ぎないとも言えます。
それにしても今日の箇所では、ヨブも神を、意地悪で残忍な悪の創造者かのように描いています。ただ、ヨブはその自分の正直な思いを直接、神に向かって訴えています。一方、ヨブを批判したビルダテは、神を人間の理想をすべて体現する存在として描いています。
私たちが礼拝する神は、ときに人の理性や常識に反することをなさいますが、信仰とはそのように不思議な神との対話なのです。
1.「さあ、先人に尋ねよ。先祖たちの探求したことを確かめよ」
8章初めは、厳密には、「すると答えた、シュアハ人ビルダテが、そして言った」と記されています。シュアハ人とはアブラハムが晩年に迎えた妻ケトラの子でアラビアまたはエドムに住んだ民だと思われます。ビルダテもヨブの痛みに七日七夜寄り添ってともに嘆いたヨブの友人でした。ただ、ヨブのことばがあまりにも激しいので、神の弁護をする必要を感じたのだと思われます。
6章4節でヨブは、「まことに全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に準備されている」と訴えていました。また、7章20節では、「私が罪ある者だとしても……どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」と、すべての人々が罪人であるのに、どうして自分だけがわざわいを受ける必要があるのかと、訴えていました。
敬虔なヨブを苦しめているのは、彼に神を呪わせようと計っているサタンですが、その背後に、ヨブを信頼する神の御許しがありました。その意味で、全能者がヨブを特別な標的とされたというヨブの訴えは間違ってはいません。
しかし、これまで「神を恐れる」ことにおいての模範であったヨブが、このような乱暴なことばを述べることに、ビルダテは戸惑い、友として一言、彼に忠告せずにはいられなかったのでしょう。
ただし、自分の心が萎えているようなときに、分かり切った訓戒で諫められることほど辛いことはありません。ときに信仰者は「愛を持って真理を語る」(エペソ4:15)ことに生きがいを感じることがありますが、これは「愛において真実となりなさい」とも訳すことができます (2009年新ルター訳参照)。
相手の気持ちとか事情を真剣に理解しようという思いが十分にないままに語られる「真理」は、心を刺す「抜き身の剣」(詩篇55:21) になるだけです。
なお、ビルダテが「あなたが口にすることばは激しい風だ」(8:2) と言ったとき、それはヨブがかつて三人の友に向かって「あなたがたは自分で何を責めているのか……絶望している者のことばを、風と見なすつもりか」(6:25、26)と言ったことを意識しています。
ヨブは自分の絶望感が「風」のように軽く見られていると非難したのですが、ビルダテはそれを神と人とを攻撃する「激しい風」と言い換えたようです。
そしてビルダテは、「神がさばきを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか」(8:3) と神を弁護し、神がヨブを苦しめることには、正当な理由があるに違いないと主張します。
さらにヨブがとるべき態度に関して、「もし、あなたが熱心に神を求め、全能者にあわれみ乞うなら、もしあなたが純粋で真っ直ぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう。あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは、きわめて大きなものとなる」(8:5-7) と言います。
これは簡単に言うと、「あなた」の将来が祝福に満ちたものへと変えられるかどうかは、あなたの心がけ次第であるという意味です。
続いて「さあ、先人に尋ねよ。先祖たちの探求したことを確かめよ。私たちは昨日からの者で、何も知らない。私たちの地上の日々は影にすぎないのだ」(8:8) と、先祖たちの事例から学ぶようにと勧めます。これは、何か問題が起きた時、前例とか伝統に立ち返るようにという勧めです。
19世紀末の帝政ロシアの支配下でのウクライナのユダヤ人の村を舞台にした映画がありました。その最初で、ユダヤ人の生活は「」のような不安定なものだが、tradition(伝統)によってバランスを保つことができると歌われます。それはどのように働き、どのように休み、どのように祈るかのという生活の細部に至るまでの暗黙の了解です。
しかし突然、激しい迫害が始まり、多くのユダヤ人が家を奪われ、伝統に従った平穏な生活が一瞬のうちに奪われます。それは、伝統では到底解決できない問題でした。
なお、19世紀末のロシアでのユダヤ人迫害に心を痛めた英国在住のユダヤ人銀行家の は、日ロ戦争の際に、「ロシア帝国に対して立ち上がった日本は神の杖である」と言って、買い手が少なかった日本政府の戦時国債一千万ポンドの半分を引き受けてくれました。このユダヤ資金なしに乃木大将が旅順要塞を落とすことはできませんでした。
実は、ユダヤ人のしたたかさとは、「伝統を大切にする」と言いながら、突然、伝統を超えた発想を全能の神に信頼して持てることです。それは伝統の大本を作られた神ご自身を知っているからです。
8章の11-13a節では、「ほかの草に先立って枯れる」と描かれる「神を忘れる者の道」の儚(はかな)さが描かれます。さらに13b-15節では、「神を敬わない者の望みは消え失せる」という危うさが描かれます。
さらに16-19節では、「神を敬わない者は日に当たって青々と茂っている」ように見えても、簡単に取り除かれ、やがて、全ての記憶が消され、「その土からは、ほかのものが生え出る」という儚さが描かれます。
しかし、ここに記されることは、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」と言われることと極めて似ており、創造主の存在を前提としない仏教的な価値観と変わらないのです。
つまり、伝統的な価値観で、ヨブの苦悩を説明することには無理があるのです。その論理では、ヨブが心の底で「神を忘れ、神を敬わない」から、このようなさばきを受けたという説明しかできません。
20-22節はビルダテの主張の結論で、「神は完全(誠実)な者を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない」と言われます。これは一見、聖書の核心のように聞こえますが、「永遠」という時間の観念が入っていません。
ヨブについては「この人は完全(誠実)で、まっすぐで、神を恐れて悪から遠ざかっている」と三度も繰り返されていましたが (1:1、1:8、2:3)、ヨブのこの時点での苦難は、表面的には神に退けられた証しに見えます。しかも、神は「悪を行う」サタンの「手を取る」かのように、ヨブを傷つけることを許しています。
そしてビルダテのことばをヨブの現実に適用すると、「ヨブが苦しみに会っているのは、神が、彼の完全からほど遠い、隠された罪を見通しているから」という矛盾になります。
さらにビルダテが続けた、「神は、ついには笑いをあなたの口に、喜びの叫びをあなたの唇に満たされる。あなたを憎む者は恥を身にまとい、悪しき者の天幕はなくなる」(8:21、22) ということばも、地上の生活ではそれに反する現実が数多くあります。
たとえば詩篇73篇では、「この私は 足がつまずきそうで 私の歩みは滑りかけた。それは 私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶる者をねたんだからだ。実に 彼らの死には苦痛がなく 彼らのからだは肥えている 人が苦労するときに 彼らはそうではなく ほかの人のように 打たれることもない……
私は このことを理解しようとしたが それは 私の目には苦役であった。ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最後を知った。 まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます」(2-5、16-18節) と記されます。
つまり、現実の世界では「正直者が馬鹿を見る」、「悪しき者が栄える」という不条理が常にあり、信仰とはそれに対する答えを神に求めるものです。なぜなら、「死後のいのち」を含む永遠の視点がなければ、この地上の生涯だけで、神の「公平なさばき」を確認することはできないからです。
2.「神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え……」
それに対しヨブは、「そのとおりであることを、私は確かに知っている」(9:1) と、まずビルダテのことばが原則的には間違ってはいないことを認めながら、「しかし、人はどのようにして、神の前に正しくあり得るのか」と尋ねます (9:2)。
それは先にビルダテが「神は完全(誠実)な人を退けることがない」(8:20) と言ったことへの疑問です。今、ヨブが神から退けられているように見える中で、神の「正しさ」の基準が問われています。
そのことに関し続けてヨブは、「もし人が神と言い争うことを望んだとしても、神は人に千に一つも答えはしない」(9:3私訳) と述べます。ここで「神」と「人」という代名詞は原文でどちらも「彼」と記され、「神が人と言い争う」という解釈もあり得ますし、さらに「人が神に答えられない」と訳すこともあります。
ただここでは、ビルダテが言う「完全」の基準は、神の神秘に属することで、神はそれに答えもしないと訳す方が文脈に合っているかと思われます。つまり、「完全(誠実)」ということばを用いることは何の助けにもならないのです。
ヨブはさらに、「神は心に知恵のある方、力の強い方。この神に対して頑なになって、だれが、そのままですむだろうか」(9:4) と言います。それは、ビルダテとヨブの神に対する姿勢の違いを言い表しているのかもしれません。
ビルダテは「神について」の真理と、「神を敬う」生き方を説いています。一方ヨブは、神の答えがそう簡単に得られないことを分かっても、必死に神にすがっています。
そうするとビルダテは神を敬っているようでも、神に頑なに自分の心の奥底の思いを閉ざしながら「神について」語っているにすぎない一方で、ヨブはまるで幼児が親にすがるように、神に心を開き、自分の気持ちを訴えているとも言えます。
9章5-10節は神のみわざの偉大さが描かれます。しかし、5章9-16節でエリファズが述べた神のみわざと異なり、「神は怒って、それら(山々)をくつがえされる……神が地を基で震わせられる」と描かれるような火山活動や地震を起こすこと、また太陽を昇るのを止め、星を封じ込めなどのような、わざわいの創造者としての神が描かれています。
ただし、8、9節の「海の大波を踏みつけ……牡牛座、オリオン、すばる、南の天の間を造られた」という表現に関しては、意味がほとんど分かりません。少なくともここでの星座名はギリシャ由来のもので、当時のイスラエルの民が「オリオン座」と呼んでいたわけではありません。
エリファズは神の創造のみわざの測り知れない偉大さや奇しさを語りましたが、ヨブは神のみわざを「測り知る」ことや「数える」ことができないという面、つまり、神のみわざは人間には理解しがたいという面を強調しています。
さらにヨブは、9章11、12節で、神がどのように動かれ、何をなされるかについて理解しがたいということを述べます。13-16節では、神が私たちの期待するようには応答してくださらないという面が描かれます。
何よりも衝撃的なのは17、18節で、ヨブが「神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる」と述べていることです。特に「理由もなく」ということばは、サタンが神に、「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか」(1:9) と問いかけ、また神がサタンに「おまえは……理由もなくヨブを呑み尽くそうとした」(2:3) と言われた表現を思い起させます。
神に対するヨブの訴えはあまりにも乱暴に見えますが、神がサタンにヨブを徹底的に苦しめることを許可されたという前提があったことを思うと、ヨブの訴えはまさに的(まと)を得ています。
そのような中で、19、20節では、神の「力」また「さばき」に抵抗することができないことを訴え、自分の「正しさ」や「完全(誠実)さ」により頼むことができないことを告白します。
そして21、22節は、「完全(誠実)だ、この私は。自分自身のことを分かりはしないが。生きることが厭わしい。すべてが同じだ。だから私は言う、神は完全な者も悪い者も滅ぼされる、と」と訳すこともできます。ここでは、自分に関しても、また神に関しても、明確に理解も納得もできないことだらけだと言われます。
ビルダテと同じように、多くの人々は、神は私たちの期待を裏切ることがない、私たちの誠実さに誠実に答えてくださる信頼できる方であると述べます。しかし、注意しないと、そこで神について抱かれるイメージは、人間の理性によって把握できる、合理的な存在になってしまいます。
18世紀末のフランス革命の中から、「理性崇拝」とか「最高存在の崇拝」という運動が生まれました。それ以降、20世紀初めまで、神を理性的に把握しようという動きが生まれます。そのような中で、聖書に記される異教徒の絶滅などの様々な不合理と見える教えや、科学的に説明できない奇跡などが否定され、聖書の記述をそのまま受け止める代わりに、理性で納得できる教えだけを選んで信じる自由主義神学がドイツで盛んしかになります。ビルダテはある意味で、その走りと言えます。
それに対してヨブが信じる神は、理性や科学では説明できない、ときには「理由もなく傷を増し加える」、人の期待を超える、感情に満ち溢れる神でした。しかし、神を私たちの理性で把握できる存在とすると、無意識のうちに自分を神の立場に置き、自分の理性的判断を絶対化してしまうことになります。
ヨブが描いた、不合理な神、予測つかない神という視点を決して忘れてはなりません。
3.「知らせてください、どうして私と争われるのかを」
9章25節からの箇所で、ヨブは再び、自分の人生の儚さを述べ、自分が抱く絶望感を訴えています。とくに28節に記された「自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私は知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを」という表現は、ヨブが抱く恐怖感、絶望感をよく表しています。
その上で29-31節では、自分がどれほど努力し、誠実を尽くしても、神が自分を苦しめ滅ぼそうとしていると嘆きます。そこでは何よりも「なぜ私は、空しく労するのでしょうか」(29節) という表現が痛々しく響きます。
すべての人間は、自分の労苦が報われると信じられるからこそ、苦しみに耐えてでも誠実を尽くそうと思えます。その期待が必ず裏切られるとしか思えない状況で、誰がこの不条理に満ちた世界で努力を続けられるのでしょうか。
32節で、ヨブは、神が理由もなく自分を傷つけていることの不条理を、誰かに訴えたいと願っていると告白します。人間同士が争っているとき、神が正しいさばきをつけてくださることが希望になります。しかし、自分を不条理に苦しめる相手が、神ご自身であるときに、誰にその不当性を訴えることができるでしょう。
そこでヨブは不思議にも、「私たちの間には仲裁者がいません。ふたりの上に自分の手を置いてくださる方が」(33節) と述べます。旧約における祭司職は、神と人との間に立つ存在でしたが、ここに描かれる「仲裁者」とは、神をも動かす力がある存在です。
後にパウロは、「神は唯一です。神と人との仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」(Ⅰテモテ2:5) と記しています。
またヘブル書の著者は、イエスが神に等しい方であることを述べながら、「イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」(7:25) と記しています。
また人としての大祭司の姿が、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」(4:15) と描かれます。
さらに、神から不条理な苦しみを与えられていると嘆いたヨブは、「神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。そうなれば、私は恐れずに神に語りかけます」(9:34、35) と述べました。
神の厳しいさばきの「杖」が、今、イエス・キリストの十字架によって取り去られたとも言えます。そして私たちは今、イエスの御名によって、大胆に、恐れることなく神に近づくことができます (ヘブル10:19-22)。
9章35節bの「しかし今、私はそうではありません」ということばは10章の全体への導入になります。そこでヨブはまず、「私のたましいは生きることを忌み嫌う」(10:1) と大胆に告白しながら、神に向かって、「私を悪しき者としないでください。そして知らせてください、どうして私と争われるのかを」(10:2) と述べます。ヨブが神と争っているというのではなく、神がヨブと争っているというのはあまりにも大胆な表現です。
さらに彼は神に説教をするかのように、「あなたにとってそれは良いことなのですか、あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとを光に変えることは」(10:3) と大胆に訴えます。これは神を悪の創造者のように非難することばですが、サタンが神の御許しのなかで行動していることを思えば、間違っているとも言えません。
かつてアブラハムは、ソドムを滅ぼそうとする神に向かって、「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか……全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか」(創世記18:23、25) と訴えました。
またモーセも、金の子牛を拝んだイスラエルの民を神が滅ぼすと言われたとき、「どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください」(出エジ32:12) と訴えました。
私たちはそのように、神に向かって大胆に自分の思いをぶつけることができるのです。
ヨブはさらに10章8節以降で、「あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。思い出してください」と言いながら、せっかく神が自分を創造し、成長させてくださったことが無駄になると訴えます。
また、現実の苦しみの中で、「もし、私が悪しき者とされるなら、ああ何と悲しいことでしょう」(10:15) と訴えます。
そして18節では再び、「なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか」と言いながら、さらに「私の生きる日はわずかなのですか?それならやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくふるまいたいのです」(10:20) と、必死に神にすがって行きます。
ドイツの哲学者インマヌエル・カントは実践理性批判の結びで、「ふたつのものがある。それに思いを巡らし、心を集中させればさせるほど、この心をいつも新たな驚異と畏敬の念に満たしてやまない。それは私の上の星空と、私のうちにある道徳律である」と記しています(私訳)。
本当に、宇宙の偉大さとすべての人間の中に共有できる道徳律があること自体が、何よりの神の存在証明になります。しかし、注意しないと、それは人間の理性で把握できる神に過ぎません。それはビルダテが描いた誤った神のイメージです。
紀元200年頃の は、旧約を否定する異端の教えに対して、「不合理ゆえに我信ず」と言ったとのことです。厳密には、「神の子が死んだということは信頼できる。なぜなら、それは相応しくないことだから。主は葬られ、よみがえった。それは確実だ。なぜなら、それは不可能だから」と言ったことを言い直した表現だと言われます。
もし、理性で把握できる神であるならば、その方は理性を超えた存在、理性で納得できない超越的な真理を啓示する神ではあり得ません。私たちは不合理な存在で、この世の不条理に苦しんでいます。
人は理性では把握できない神を信じ、その方との対話に生きることによって初めて、自分を神の立場に置くアダムの生き方から自由になることができます。信仰とは、生ける神との対話です。