「一羽の雀」の歌〜詩篇73篇

新型コロナが世界中に蔓延している中で、日々、息苦しさを味わっておられる方が多いのではないでしょうか。日本の感染による死者数は米国の百分の一、ドイツの十分の一程度に留まっていますが、この何とも言えない息苦しい雰囲気は日本が特に激しいのかもしれないと思わされています。それは、すべてを原因結果で考える価値観が人々の心の奥底に深く根付いているからです。ですから、どこの施設でも、感染者が出たら責任が問われると、ピリピりした雰囲気になります。

しかし、現実には、どれほど注意深く生きていている人も感染することがありますし、どれほど能天気に生きていても、感染しないということがあります。

すべてを因果律から考えるのは、神を知らない文化の特徴です。私たちもせっかく神を知っていながら、そのような因果律に深く心を支配されているということがあるかもしれません。

何か悪いことが起こると、しきりに自分の過去の行動を振り返って、自責の念に駆られてしまうようなことがあるかもしれません。イエス様は、わざわいや迫害に会うことばかりを恐れて生きている人に次のように言われました (マタイ10:28-31)。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはなりません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

二羽の雀は1アサリオン(300円ぐらい?)で売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。

ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。

この聖書箇所から、「一羽の雀」というすばらしい賛美歌が生まれました。以下でお聞きいただくことができます。

(念のため、小生はこれを公開しているミニストリーのことは全く知りません。歌のみを味わってみていただければ幸いです)

今度の日曜日はヨブ記8章~10章をまとめて解説します。その際、詩篇73を引用します。この詩篇は、「悪しき者が栄え」「正直者が馬鹿を見る」この世の不条理に対しての神様からの答えです。

因果律ばかりを考えると、息苦しいばかりか、神様さえ見失ってしまうことがあります。それに対する絶妙な答えが記されています。

詩篇73篇は第三巻の初めで、「アサフの賛歌」はここから83篇まで続きます。アサフはダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた時の音楽家です (Ⅰ歴代誌15:17、16:5)。

1節では聖書の真理が描かれます。しかし2節では、「けれどもこの私は 足がつまずき……歩みは滑りかけた」と記され、その理由が、「私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶるものをねたんだからだから」(3節) と描かれます。

それは彼らが死においてさえ「苦痛がなく」「からだは肥え」「苦労」もなく、「打たれることもない」からです。そのような中で彼らは自己中心的で乱暴な生き方を押し通し、「どうして神が知るだろうか」(11節) と、神の公平なさばきを軽蔑するようなことを続けます。

そして12節は皮肉な現実が、「見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している」と描かれます。まさに著者は、「正直者がバカを見る」という現実を見て、心を痛めています。

そのような一方で著者は、精一杯誠実に生きようとするのですが、かえって自分の立場は苦しくなるばかりでした。しかも、それを正直に語れば、人々をつまずかせるとしか思えませんでした。彼はこのような不条理をなぜ神が許しておられるのかを「理解しようと」しましたが、それは「私の目には苦役であった」というのです (16節)。

しかし、17-19節では、「ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った」と描かれ、その啓示された現実を神に向かって、「まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅ぼし尽くされます」と告白します。

著者はこの世の不条理を見ながら、「私の歩みは滑りかけた」(2節) と言っていましたが、実は「悪しき者」こそが「滑りやすい所に置」かれていたのです。

イエスもルカの福音書16章19-31章で、「ある金持ちが……毎日ぜいたくに遊び暮らしていた……門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた」という話から初めて、死後、金持ちは炎の中で苦しみ、ラザロはアブラハムのふところで慰めを受けるという対比を示されました。

金持ちはそこで初めて自分の愚かしさを悔い、自分の兄弟に警告がもたらされることを願いますが、それに対して、真理はすでにモーセと預言者たちを通して十分に知らされていると言われます。

このイエスのたとえこそ、この詩への何よりも明確な解答です。実は、聖書を知らない「悪しき者」でさえ、どこかで超越者の存在とさばきを聞いています。しかし、それがなかなか実現しない中で、自分をますます危機的な状況の中に追い込んでいるだけなのです。

その一方で神に向かって著者は、「あなたは私の右の手を しっかりとつかんでくださいました。あなたは 私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます」と告白します (23、24節)。

そしてこの詩の終わりでは、「私にとって 神のみそばにいることが 幸せです」(28節) と告白します。それこそ、私たちがこの世の不条理の現実を越えて味わいつづけることができる「幸い」です。

目に見える栄華は、すべての豊かさの源である創造主からの賜物ですが、それを自分の功績と誇る者には望みがありません。与えられている豊かさは、私たちの生き方を試す、神からの試験でもあるのです。


祈り

主よ、悪しき者の栄えを見て、彼らへの同情を抱く者とさせてください。まことに豊かさは神の恵みの招きによる試験です。その厳しさをも私たちが味わえますように。