ジョン・レノン暗殺の日〜詩篇43篇

12月8日は太平洋戦争開戦の日であるとともに、ビートルズのリーダーだったジョン・レノンが暗殺された日です。とくに今年は、その40周年の悲しみの日です。同時に、今年はジョン・レノン生誕80数年の年でもあります。

ただ、今日、ジョン・レノンの暗殺者チャップマンについての以下のような解説を見て、とっても悲しくなりました。

「福音派のキリスト教徒であるチャップマン受刑者は、それから数年後に刑務所の独房からあるジャーナリストに、レノンさんに憤慨した理由として楽曲「ゴッド (God)」の歌詞を挙げ、「神を信じない、信じるのは自分とヨーコだけ、ビートルズも信じないと歌っているからだ」と語っている。

今、映画館では、ジョンとヨーコを描いた「イマジン」が1週間だけひっそりと上映されています。そこで何よりも美しく演奏されていたのは、タイトル曲のイマジンと並んで、ジェラス・ガイという曲でした。

以下でお聞きいただけます

以下は、僕が「正しすぎてはならない 伝道者の書の翻訳と解説」の第六部「成功の意味を知るー今、ここにある幸せ」に書いた記事です。僕の妻の名もヨーコと呼びますが……


私が、ジョン・レノンの曲に魅力を感じるようになったのは、「ジェラス・ガイ」という曲を聴いたのがきっかけでした。そこで彼は、自分を「ただの嫉妬深い男」と呼びながら、ヨーコに振り向いてもらいたいと思うあまり、彼女を傷つけ、泣かせてしまったという、矛盾に満ちた自分の心の不安と葛藤を、驚くほど正直に切々と歌っていました。これはジョンの心の追悼曲とも言え、彼の死の翌年、ロキシー・ミュージックがこれを歌い全英一位となったほどです。

彼はそこで、自分の強がりや攻撃性の背後に、自分の「見捨てられ不安」があったということを正直に認めています。それは「死の不安」と基本は同じです。実際、ジョンは、「ヨーコが自分の人生を救い出してくれた」と言っています。彼は、ビートルズ時代に、「俺たちは今や、イエスよりも有名になった……」などと豪語しましたが、それは孤独と不安の裏返しの気持ちでした。

しかし、ヨーコと出会ってから、「僕がどこにも居場所がなかったとき、彼女がいてくれた」と言っています。ジョンは彼女の愛を受けることによって、自分の心の内側にある闇をすなおに認めることができるようになったばかりか、自分の心の弱さや醜さに居直ることもなく、そのあるがままを歌にして全世界に知らせることができました。そのとき多くの人は、彼と同じような気持ちが自分の中にあることを認め、その音楽に慰めを受けることができたのではないでしょうか。

私たちは、自分の不安の原因が、まわりの人にあると思うときに、他の人を攻撃します。しかし、怒りたくなる原因は、まわりの人ではなく、自分の内側の不安にあります。そして、不安は、死の不条理から来ます。そして、私たちは自分をそのままで愛してくれる人を知ったときに、その不条理に直面する勇気が生まれます。そのことを聖書は、「愛は死のように強い」(雅歌8:6) と記しています。愛は、死に勝つというより、死の恐怖に直面する勇気を与えることができるのです。

ところで、当然ながら、ヨーコは神に代わることはできません。七歳年上の彼女も、彼の母になることに疲れたのかもしれません。六年間の蜜月生活の後、彼らは十五ヶ月間の別居生活をせざるを得なくなります。そしてこのとき、ジョンは酒と麻薬で自分を破滅させる一歩手前までの狂気に陥ってしまいました。それはヨーコに精神的な依存をしすぎたことの反動かもしれません。

彼はその後、ヨーコに「甘える」代わりに「生かす」方向へ変わります。彼女がショーンを出産した後、彼は公の音楽活動を止めて、約五年間、主夫として生きるようになります。その間、彼女は、不動産や畜産などの投資事業を積極的に行い、ビジネスの才覚を発揮したと言われます。そして何よりも、この時期、ジョンは本当の意味での幸せを味わうことができました。

そして、彼らがふたりでそろって、音楽活動を再開した数ヵ月後、ジョンは狂信者の凶弾に倒れました。彼は、ほんとうの成功を手にできたと喜んだ矢先に、息を引き取りました。それこそがこの世の人生の不条理、限界です。しかも、その悲劇の意味を解釈しようとすることは傲慢です。私たちはただ、不条理の中を生きるように求められているということを覚えるべきでしょう。


冒頭にチャップマンのことを書きましたが、本来、私たちクリスチャンが異なった発想を持つ人々を愛することができる鍵は、以下のような詩篇43篇の祈りをささげることから可能になります。

人をさばくのは、神の責任です。そして、神の公平なさばきを信じることができるときに、私たちは隣人を愛することができるようになります。神のさばきを信じることができない結果として、自分をさばき主にする必要が生まれるのです。

神よ。私のためにさばいてください。

私の訴えを取り上げ、不真実な民の言い分を退けて下さい。

欺きと不正の人から、私を助け出して下さい。

あなたこそ、私の神、私の隠れ場なのですから。

なぜ、私を拒まれたのですか?

なぜ、私は敵の虐げに、嘆いて歩き回らなければならないのですか?

どうか、あなたの光と、あなたのまことを、遣わしてください。

それらに、私を導かせて下さい。

あなたの聖なる山、御住まいに向かって。

そして私は、神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、

立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。

神よ。私の神よ。

私のたましいよ。なぜ、うちしおれて(絶望して)いるのか?

なぜ、私の前でうめいて(思い乱れて)いるのか?

神を、待ち望め。私はなおもたたえよう。私の顔の救い、私の神を。