この世界で評価されるのは、世間の評価に振り回されない強い信念を持ちながら、公明正大な人格者です。それに対し、何かあるたびに感情が激しく揺れ動き、人前で涙を隠すこともなく、必死に神にすがりながら生きる人は、軟弱に見えるかもしれません。
しかし、そのような繊細さを抱えていたのがダビデでした。そして不思議にも、イエスはダビデの詩篇を用いて父なる神に祈っていました。
一方、人々から悪魔の代名詞と見られるアドルフ・ヒトラーは、他者との距離感の保ち方が絶妙で、読書を好み、並外れた記憶力を持ち、揺るぎない信念の人でした。それでも、秘書の誕生日に何をプレゼントするなかなど、些末な事柄に関して細やかに気遣いができ、女性に対しては礼儀正しく親切であり、自分を支持してくれた同志には強い忠誠の気持ちを抱いていたと言われます。
彼にはまさに身近な人々を魅了するカリスマ性が確かにあったからこそ、ウィーンの落後者として育ちながらも、ドイツ全体の支配者になることができたのです。人に弱みを見せない固い信念の人が、いかに世界を混乱に陥れるかの代表例とも言えます。
それに対し、真の信仰者とは、神と人との前で自分の弱さを隠すこともなく、自分の狭い信念に固執することもなく、柔軟に神の御声に耳を傾け、泣きながら神に祈ることができる人です。
1.「善い人は善い倉から善いものを取り出し、悪しき者は悪しき倉から悪しきものを取り出します」
12章33-35節では、「木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。まむしの子孫たち、どうして善いことが言えよう、おまえたち悪しき(よこしまな)者に。心からあふれることを口が語るのです。善い人は善い倉から善いものを取り出し、悪しき者は悪しき倉から悪しきものを取り出します」と記されます。
ここで「木」または「実」が、「良い」「悪い」と記されていることばと、「善い人、悪しき(よこしまな)者」と記されていることばは、異なったギリシャ語が用いられています。前者は美的な意味、後者は道徳的な意味が強いと思われます。「良い木」と「良い実」とはセットであり、「木」の良し悪しはその「実」を見れば明らかになります。
ただし、私たちは社会的な意味での「果実」というとき、当時のパリサイ人は世間的には高く評価されている人々であったことを忘れてはなりません。彼らはいつも神のみ教えを守り、人々に神の規範を教えることができる人でした。ある意味で、彼らこそが「良い実」を結んでいるようにさえ見えました。
ところが驚くことに、イエスはパリサイ人たちが、イエスの悪霊追い出しが、悪霊どものかしらベルゼベルによることと言ったことに対し、彼らを「まむし(毒蛇)の子孫」と呼びながら、彼らの「心」が「悪しき(よこしまな)」思いで満ちているので、悪しきことしか語れないと、真っ向から批判したことです。
愛に満ちたイエスが、なぜこれほどパリサイ人を罵倒されたのでしょう。それは、彼らが人の痛みを理解しようとせずに、神のみ教えを用いて自分たちの尺度に会わない人を排除することしか考えていなかったからです。彼らの中にある思い、それは自分たちの基準に合わない人を徹底的に排除し、人を人とも思わない高慢な思いでした。
彼らの「心」はそのような「よこしま」な思いが満ちていました。しかもイエスはここで私たちの心の中に「倉」のようなものがあると述べます。アダムの子孫の心には闇があります。しかし私たちの心が、イエスという良い木につぎ合わされていときに、心に「善い倉」を持つことができます。
は、「イエス、心の光、私の闇が私に語りかけないようにしてください」と祈りました。
続けてイエスは、「あなたがたに言います。人々は、自分たちが語るすべての無益(無駄、非生産的)な言葉(おしゃべり)に関して、さばきの日に申し開きをする責任があるのです。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義と定められるのです」(12:36、37) と言われます。
ここでイエスが言われた無益な言葉の代表は、「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼベルによることだ」(12:24) というようなことばです。それは、イエスを神から遣わされた方であることを認めない愚かな言い訳にすぎませんでした。
そのような言葉が出てきたのは、イエスのみわざを見て、自分たちの立場が無くなることを恐れたからです。それは自己保身の思いであり、自分を友のために差し出せるような愛とは正反対の思いです。
私たちの心の中にある思いは、口から出ることばによって明らかにされます。あなたの内側から悪い言葉や憎しみねたみが出てくるとき、口を制しようとする以前に、自分の思いが、心の悪い倉ではなく「善い倉」として開かれるようにと求める必要があります。
イエスはヨハネ福音書15章1、5-8節において次のように言っておられます。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です……わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です、人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます……あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすればそれはかなえなれます。あなたがたが実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光を受けます」
ここに健全な「木」と「実」との関係が描かれています。パリサイ人たちはそれほど聖書の学びをしていても、所詮はアダムの子孫に過ぎません。自分で豊かな実を結ぼうとどれだけ頑張ってみても、アダムの子孫であるという限界を超えなければ良い実を結ぶことができません。
私たちは真に「善い人」であるイエスにつながることによってのみ、「善い倉」から「善いもの」を取り出すことができるのです。
2.「悪しき、姦淫の時代はしるしを捜しますが、しるしは与えられません、預言者ヨナのしるし以外は」
38節は「そのとき、律法学者、パリサイ人の何人かがイエスに応答した」と記されています。つまり、これはイエスが彼らを「まむしの子孫たち」と呼び、彼らが「無益なことば」を語っていると非難したことに対する「応答」なのです。
イエスは自分を権威ある者の立場に置いているので、そのように人を断罪できる根拠としての「しるし」を見せるようにという意味で、「先生、私たちはあなたからしるしを見せられることを望んでいます」と言いました。彼らからしたら、イエスこそ自分を神の立場に置いているのだから、そのような大胆な発言ができる根拠を示すようにと言ったと解釈すべきです。
それは、モーセでさえエジプトで奴隷状態であったイスラエルの民に神のことばを告げるときに、杖を蛇に変えまた戻すとか、自分の手をツァラアトにしたりそれを回復させたりとか、またナイル川の水を血に変えるなどの「しるし」を見せながら、イスラエルの民に神のことばを伝えたからです。これはイエスの大胆な発言に対する当然の反応とも言えます。
なお、律法学者やパリサイ人たちは、聖書をよく読んでいますから、イエスがご自分をモーセのような立場に置いていると思うとすぐに、モーセに与えられた「しるし」を行うべきだと考えました。
しかし、神のみわざはそのときそのときにユニークなものです。イエスが盲人の目を開け、聾唖者の耳と口を開かれたとき、それはエリヤやエリシャの時代にさえ前例のないことであったため、イザヤ35章5、6節の預言の成就とは思えず、ベルゼベルによって悪霊どもを追い出したという冒涜しか思い浮かびませんでした。
それに対し次のように記されています。「イエスは応答して、言われます」「悪しき(よこしまな)、姦淫の時代はしるしを捜しますが、しるしは与えられません、預言者ヨナのしるし以外は。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中心 (heart) にいるからです」
イエスはここで「律法学者、パリサイ人」が捜し求めるような「しるし」は与えられないと言われながら、「ヨナのしるし」だけは与えられると不思議なことを言われます。
なお「この姦淫の時代」とは偶像礼拝に流れる時代を指しますが、当時のパリサイ人は決して偶像礼拝はしませんでしたが、モーセの律法の本来の意味を忘れて、その一字一句を偶像のように扱っていたことを指摘したとも言えましょう。
なお、ヨナは最初、ニネベへの宣教を命じられて、それを拒否して、「三日三晩」、大きな魚の腹の中に閉じ込められることになりました。しかし、そこでヨナは、「よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました」(ヨナ2:2) と告白しています。イエスが「大地の中心 (heart) に三日三晩にいる」とは、使徒信条の告白にあるように、「よみに降られた」ことを指します。
イエスは金曜日の日没直前から日曜日の早朝まで墓の中にいましたから、それを足掛けで数えると「三日三晩」ということになります。つまり、イエスが、神から遣わされた「救い主」であることは、何よりも、十字架と復活という「しるし」によって証しされることになると言われたのです。
それは信じようという気持ちのない人には、荒唐無稽にしか聞こえませんが、ヨナの場合は、大魚の中から吐き出された後、ニネベの人々は大魚の腹の中から出てきたという稀有な試練を潜り抜けたという経験から生まれたヨナのことばの権威に敏感に反応しました。
そのことがここでは「ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って(復活して)、これを罪に定めます。それはニネベの人たちはヨナの説教を聞いて、悔い改めたからです」(41節) と記されます。
当時の人々にとってアッシリア帝国の首都であったニネベの人々は野蛮で横暴な人間の代名詞のような人々でしたが、彼らが当時のユダヤ人たちを裁く側に立つというのは、当時の人々のあらゆる感覚に反することでした。
そればかりかイエスはここで、「ここにヨナよりも大いなるものがあります」と言われます。これも12章6節と同じ中性名詞ですが、そこでイエスは「ここに宮よりも大いなるものがあります」と言われ「天の御国(神の御支配)」とご自身のことの両方を指し示したと思われますが、ここでも同じように、天の父の御支配とイエスご自身がヨナよりも偉大な存在であるという両面を指し示したと思われます。
さらにイエスは、「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って(復活して)、これを罪に定めます。それは、彼女がソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンより大いなるものがあります」と言われます (42節)。
なおニネベの人々は、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたことを見てはいませんでしたが、彼の説教を聴いて悔い改めました。また、南の女王、シェバの女王は、ソロモンの知恵に満ちたことばに何よりも感動しました (Ⅰ列王記10章)。それは神ご自身から与えられたものでした。
つまり、南の女王も、ニネベの人々も、「聴く」という一点で満足し、悔い改めたということで、「しるし」ばかりを求める者たちを罪に定める側に立つというのです。そして、イエスはご自身を、「ソロモン……ヨナよりもまさった者」と呼ばれましたが、私たちはその方のみことばを預かっているのです。
今、イエスは、みことばによって私たちのうちに住んでくださいます。私たちは、何より、みことばによってイエスにつながります。たとえば、私たちは自分のこころの痛みがそのまま詩篇に記されていることに感動しますが、それはイエスご自身も用いられた祈りでもあります。
ですから、自分の心を注ぎだして祈る中で、イエスとの不思議な一体感を味わうことができるのです。そして、その後生まれる沈黙の中で、みことばが不思議に心の底に落ちてくるということがあります。そこから、私たちが真に語るべきことばが生まれます。
私たちの信仰とは、何においてもイエスに頼る生き方に変えられることです。話すことも、心を注ぎだして祈ることも、聴くことも、すべてイエスから生まれます。
3.悪霊は「自分より悪い、七つのほかの霊を連れてきて……そこに住みつきます」
ただし、イエスは、悪霊を追い出し、病を癒すことが最終ゴールではないことを明快なたとえで話されます。
「汚れた霊が人から出て行くと」という「癒し」が起こっても、悪霊は「水のない地をさ迷いますが、休み場を探しても、見つかりませんでした」(43節)。それで「出てきた私の家に帰ろう」と言いますが、「帰ってみると、家は空いていて、掃除をしてきちんとかたづいていることを発見しました」というのです (25節)。
それは、人が「私の問題は解決した!もう自分ひとりでも大丈夫だ……」と思っているような状態です。そのような人は、自分には神も教会も必要ないと思っていますから、これほど悪霊に住み心地の良い場所はありません。
それで、悪霊は「出かけて行って、自分より悪い、七つのほかの霊を連れてきて、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い(よこしまな)時代にも、そのようなことが起こります」と言われます (45節)。
たとえば、アドルフ・ヒトラーは30歳頃、第一大戦の敗北の衝撃から立ち直る過程で、自信に満ち溢れた人間になりました。彼は清潔で、質素で、礼儀正しく、秘書たちからも尊敬されました。ただ、自分は善意に満ちた人間だと思いこみ、悪いことは徹底的に他人のせい、特にユダヤ人のせいだと思い込みました。彼はある意味で、正義感?に燃えて600万人ものユダヤ人を強制収容所で虐殺したのです。
そればかりか戦争で何千万人もの人々を死に至らしめながら、自分はドイツのために身を投げ出していると信じていました。彼の中には、七つの悪霊どころか、一個師団の悪霊レギオン以上のものが宿っていました。
誤解をしてはなりません。聖書は、キリストの霊を受けていない者たちはすべて、「空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ2:2) と断言しています。
人間の心の家の主人は、キリストかサタンかのどちらかでしかない、中間はないというのです。そして、地獄は、皮肉にも、「私は良い人間だ……」と思い込んでいた人々で満ち溢れているのです。
ところで、悩める魂の相談に乗ることは伝統的に教会の大切な働きの一部でしたが、今や、世のカウンセリング技術の発展とともに、その有効性が疑問視される傾向さえ生まれています。確かに、目の前の問題解決という点では、世に多くの有能な専門家がいます。しかし、それは主の例話にあるように、七つの悪霊を歓迎する家を備える働きに陥る可能性があります。
一方、教会で行なってきた伝統的な「魂のケアー」とは、その人の心にあるうめきの声を聴いて、それを神の前での嘆き、つまり「祈り」へと導くことです。実際、詩篇では、あらゆる種類の心の悩みが、祈りへと変えられているのを見ることができます。
たとえば私は、未信者の方の悩みを聞く機会も多くありますが、心の痛みを理解することに何よりも集中し、何かの助言を与える前に、「私の神に、お祈りさせてください……」と申し上げます。そして、その深刻な悩みを、その人に代わって切々と主に向って祈るときに、しばしば、涙とともに不思議な変化が生まれます。
世的には、問題が何も解決していないようでも、祈ることの恵みをともに体験できるからでしょう。主のみこころは、何よりも、その人が、問題のただ中で、イエスの御名によって祈る者へと変えられることです。
4.「誰でも、天におられるわたしの父のみこころを行う人であるなら……」
46節から不思議な展開になります。
「まだイエスが群衆と話しておられるときのことであったが、見よ、イエスの母と兄弟たちが外に立っていた、イエスに話をしようとするためであった。ある人がイエスに言った、『ご覧ください。母上と兄弟方が外にたっておられます、あなたとお話しするために』と」(46、47節) と描かれます。
ここで描かれている情景は、イエスが人々と話している最中に、母と兄弟たちが外に立ち続けているために、人々がイエスの話し集中できなくなっているなることです。それに対するイエスの対応が、次のように描かれます。
「それから、そのように言った人に答えて、イエスは言われました。『誰がわたしの母でしょう。誰がわたしの兄弟たちでしょう』と。それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われます。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです』と。『誰でも、天におられるわたしの父のみこころを行う人であるなら、それこそわたしの兄弟、姉妹、また母なのです』」(48-50節)
マルコ3章21節では、「イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである」と記されます。これは、イエスの母や兄弟たちですら、イエスが聖霊に満たされている代りに、「イエスは汚れた霊につかれている」(同3:30) という噂に惑わされていたことを示唆しています。
ただし、このマタイの文脈では、「イエスが群衆に話しておられる」その最中に、イエスの家族の方が「イエスに話をしようとして、外に立つ」ことで、イエスが人々に話をすることの妨害をしてしまったという点にあります。
そして、ここでイエスが言われた「天の父のみこころを行う」とは、何よりも、イエスの話に耳を傾け続けることに他なりません。だからこそイエスは、自分の話に真剣に耳を傾けている弟子たちを、「わたしの母、わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。
イエスにあっては肉の家族よりも、天の父なる神のもとにある霊的な家族の方が大切であったということになります。これも、先の悪霊を追い出して、その人の問題を整理してあげたようでも、新たな関係作りができていないことの悲劇につながります。
詩篇1篇の始まりでは、「幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座につかない人」という、神に敵対する交わりと一線を画すことの幸いが歌われています。
私たちは常に誰かとの交わりの中に生かされています。私たちはその点で、どなたにつながり、どなたとの交わりに生きているのかということが問われています。
パリサイ人は、当時の社会で大変尊敬されている人々でした。その立ち振る舞いは、当時の人々にとっての模範でした。彼らは自分の手を使って稼ぎながら、人々に無償で神のことばを教えていました。礼儀正しく、自分の感情に振り回さることがないような人々でした。
しかし、イエスは彼らを「まむしの子孫たち」と厳しく非難されました。それは、心の中で「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下していた」(ルカ18:9) からに他なりません。
一見、自分の心がきれいに整理されていると思う人の心の中に、七つの悪霊が宿るというイエスのたとえを忘れてはなりません。寝ても覚めても、イエスにすがりながら、イエスとの対話の中に生きる人こそ、聖書が語る「善い人」なのです。