「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」とレ・ミゼラブルのテーマ〜詩篇11篇

先日の婚約式のメッセージを準備しながら、婚約者の二人から指定された聖書箇所のⅠヨハネ4章16節の文脈を見ていましたら、その前の12節に「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです」というみことばが心に留まりました。

そこで思い起こしたのが、ミュージカル「レ・ミゼラブル(ああ、無情)」の最終場面の歌詞です。そこでジャンバルジャンが死を迎えるとき、「to love another person is to see the face of God(他者を愛することは、神の御顔を仰ぎ見ることだ)」と歌われます。

ジャンバルジャンは、飢えた甥子を助けるため、一切れのパンを盗んで牢獄に入れられ、脱獄を試みて刑が重くなり、出獄して、盗賊になって生計を立てようとします。

ある夜、教会の銀の食器を盗み捕まりますが、そこのミリエル神父は「この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束した」という嘘を言って、彼を解放します。

ところがジャンバルジャンはこれから真っ正直に生きようと決意しながら、次に出会った少年からお金を盗み取ってしまい、自分の内側に住む罪の性質に愕然とします。

そのとき彼は「今後、最善の人にならないとすれば、最悪の人に自分はなってしまう、中間はない……」と思い知り、「もし善良たらんと欲せば天使とならなければならないこと、邪悪にとどまらんと欲せば怪物とならなければならない」と示されます

その後、ジャンバルジャンの生き方は決定的に変わりますが、あるとき不幸な死を遂げる女性ファンチィーヌに、その娘のコゼットを生涯、見守って育てると約束します。ただ、コゼットガ美しい女性に育って、ある男性と結婚するときになると、ジャンバルジャンは自分の過去の罪を恥じて身を引きます。

ただ、最後にジャンバルジャンのすべての誠実な行いが明るみに出た時、コゼットの夫は、彼女に、「あなたの父はまさに聖人であったのに、愚かな自分はそれに気づかなかった」と歌います。

そして天国のファンテーヌが、コゼットの幸せばかりを願ったジャンバルジャンの愛に感謝し、神のみもとに招くように歌います。そして、最後、ジャンバルジャンとファンテーヌ、ともう一人で、先に紹介した、「to love another person is to see the face of God(他者を愛することは、神の御顔を仰ぎ見ることだ)」という歌詞が歌われます。

このことばは、ビクトール・ユーゴがこの長編小説「レ・ミゼラブル」を書いたときの隠されたテーマであるとも言われます。

僕は2016年に妻とロンドンでこのミュージカルを見た時に、この歌詞が歌われるときに、自分の心と身体に電撃が走る体験を味わい一時間余り茫然自失、涙が止まらないという感動を味わいました。ジャンバルジャンをはじめとする人々が、その誠実さがあまりにも誤解され、報われないように見えても、実は、身近な人に誠実を尽くしているということを神は天から見ておられ、その人は神の御顔を仰ぎ見て、そこにすでに天国の前味があるという意味に理解できたからです。

愛する人は、愛することができるということにおいて、すでに神に喜ばれている存在なのだと……

以下のユーチューブでその歌の部分を聞いていただくことができます

そして、そこから今日改めて、詩篇11篇の最後の言葉、「主 (ヤハウェ) は……正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」が示されました。

作者ダビデは、羊を救い出すため、一人でライオンや熊とも戦い、巨人ゴリヤテを打ち倒した力強い戦士でしたが、その彼が、自分の力に頼る代わりに、この詩篇で「主 (ヤハウェ) に私は身を避ける」と告白します。これは彼が多くの詩で繰り返す言葉です。

なお、1-3節は、敵がダビデをあざけることばです。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」とは、「シオンの山にある神の幕屋に助けを求めてみよ、悪者どもが弓で矢を射るときに、何の助けにもならない」という趣旨の中傷です。

しかしそこで、「主 (ヤハウェ) は、その聖座が宮にあり、主 (ヤハウェ) は、その王座が天にある」と宣言されます。当時の人々には、敬虔なダビデは、目に見える神の幕屋に頼っているように見えましたが、主の王座は、この三次元空間を超えた天にあるというのです。

しかも、天地万物の創造主は、どんな小さな隠されたことも見分けるという意味で、「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる」と言われます。

さらに、「王座が天にある」とは、同時に、主はいつでもこの地をさばくために降りて来ることができるという意味で、そのことがミカ1章3、4節では、「主はその聖なる宮から……御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように」と描かれます。

そして、主がすべてを見通し、地をさばくことがセットで、5、6節で述べられます。

最後に、7節では、「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る」と告白されますが、「直ぐな人」とは、完全無欠な人という意味ではなく、ダビデのように罪を犯しても、いつでもどこでも、心をまっすぐに主に向けて、主にすがり、祈りながら生きる人を指します。

私たちがイエスの御名で、天の父なる神に祈るとき、そこで天の御座とこの矛盾に満ちた地は、重なり合うように互いに近づいています。それこそ霊的現実です。


祈り

イエスの父なる神に向かって「お父様!」と呼びかけられることを感謝します。天の御座におられる方の御守りを、いつでもどこでも、覚えさせてください。