創世記18章~22章「神の友と呼ばれるまでのプロセス」

2020年9月20日

神がソドムとゴモラを硫黄と火で滅ぼされたこと、また、アブラハムにその子イサクを全焼のささげ物として献げるように命じたという記事は、多くの人にとっての信仰の躓きの石となっています。それは安易に納得してはならないことかも知れません。

しかし、その疑問をすなおに認めながら、しかも、聖書を通して神と率直に対話するときに、私たちにとって何よりも大切なことが見えて来るのではないでしょうか。

多くの人は自分を納得させようと焦り、また信仰の飛躍を願って、かえって自分を霊的な死に追い込もうとしているかもしれません。創世記12章以降の文脈をじっくり味わう中で、神の真実が見えてきます。

1.「アブラハムはまだ、主 (ヤハウェ) の前に立っていた」

(ヤハウェ) マムレの樫の木のところで、アブラハムに現われた。彼は、日の暑いころ、天幕の入り口に座っていた。彼が目を上げてみると、なんと、三人のが彼に向かって立っていた」(18:1、2) とは驚くべき表現です。

アブラハムは「約束された地に他国人のように住み……天幕生活をしました」(ヘブル11:9) と描かれたような質素な生活をしているその前に、(ヤハウェ) ご自身が人の姿で現れてくださったというのです。

しばしば、この方は受肉前の神の御子であると解釈されます。後の記述を見ると (18:22、19:1)、他の二人は「御使い」です。

アブラハムは地にひれ伏し「(アドナイ) 」と呼びかけ、最高の客人を迎えるように接待させてほしいと願います。興味深いのは「彼らは食べた」(18:8) と記されていることです。これは主 (ヤハウェ) ご自身がアブラハムの日常生活に降りて来られ、彼に親しく語りかけたことです。

これは後に、神の御子が、私たちとまったく同じ人間の姿となって、私たちと同じ日常生活を過ごされたということの前触れと言えます。

主はアブラハムに、サラから子が生まれると改めて約束されましたが (18:10)、その実現のためには、90歳のサラ自身も納得し、肉的とも言える営みが必要なのです。そのために主ご自身が肉の姿で現われ、サラが調理した肉の糧を食べたのかも知れません。

なお、サラが「心の中で笑って……『年老いてしまったこの私に……」(18:12) とつぶやいたことが問題にされたのは、それが17章16節に続く二度目の明確な啓示であり、サラがアブラハムから既に聞いていたからです。事実、アブラハムも最初それを聞いたとき疑いながら笑いましたが (17:17)、それは問題にされませんでした。

しかし、ここでは、「なぜサラはこれを笑うのか」(18:13私訳) と責められ、サラは恐怖に覚えて、笑ったことを打ち消さざるを得ないほどでした。そこで主は、「 (ヤハウェ) にとって不可能なことがあるだろうか」(18:14) と言われます。それは、神のみわざを自分の常識の枠で把握しようとする傾向がある私たちすべてに対する永遠のメッセージと言えます。

それから「その人たちは、そこから立ち上がって、ソドムの方を見下ろし」ますが、そこで「 (ヤハウェ) 」と呼ばれる方が、ソドムとゴモラを滅ぼすことを「アブラハムに隠しておくべきだろうか」とご自身に問いかけます (18:17)。

そしてそれを知らせる理由が、アブラハムが後の家族に命じて、「彼らが主 (ヤハウェ) の道を守り、正義と公正を行うようになるため」(18:19) だというのです。これはソドムの罪に対して主がどのようなさばきを下したかを、アブラハムが子孫たちにきちんと説明する必要があるからです。

残念ながら人は、自分たちの罪がどのような非劇をもたらすかを目の当たりにして初めて、「 (ヤハウェ) の道」に従って生きることの大切さがわかるということがあります。現代の私たちも、罪に対する神の怒りが分からなければ、「キリストの血によって義と認められ」、「神の怒りから救われる」(ローマ5:9) ということの意味が分かり得ません。

ところが、二人の御使いがソドムの方へと進んで行ったときに、「アブラハムはまだ、主 (ヤハウェ) の前に立っていた」(18:22) と描かれます。彼は、何と全世界の創造主に向かい、まるで説教をするかのように、「全世界をさばくお方は、公正を行なうべきではありませんか」(18:25) と言いました。

そして、「五十人の正しい人がいたら……」から始まって「もしやそこに十人見つかるかもしれません」まで、六段階の数字をあげて、正しい者が悪い者と一緒に滅ぶことがないようにと、主に断固として訴えます。その際、彼の頭には、誰よりも甥のロトに対する心配があったことでしょう。

どちらにしても、これこそ祈りの模範でもあります。私たちも自分が納得できないことを、正直にストレートに訴える必要があります。信仰とは、決して思考を停止することではありません。信仰とは祈りです。それは、神に訴えすがることから始まります。

その後、二人の「御使い」はロトの住むソドムを訪ねます。不思議なのは、ロトが「彼らを見ると……顔を地に付けて伏し拝んだ」(19:1) と描かれ、彼らを神の御使いと認めていながら、もてなしたり、守ろうとすることに夢中になっている点です。何と、御使いたちを町の人々の男色の標的から守るために、自分の娘たちを犠牲にしようとしたほどでした。

なお、この記事から、ホモ・セックスは Sodomy(ソドムの罪)と呼ばれます。それに対して町の人々は、「こいつはよそ者のくせに、さばきをするのか」(19:9) と激高し、「ロトのからだに激しく迫り」ました (19:9)。これをもとに使徒ペテロは、ロトに関して、「この正しい人は……不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていた」(Ⅱペテロ2:8) と記しています。

なお、ここに至って初めて御使いたちは力を発揮し、ロトを助けるために攻撃者たちの目をくらませます。皮肉にも、ロトは、神の御前に正しくあろうと必死でも、自分こそが、主のあわれみを必要とすることを分かっていないかのように振る舞っています。

その意味で、ロトの「正しさ」は、「パリサイ人の義」(マタイ5:20) に近いものだったのではないでしょうか。しかし、神の前に正しくあろうとすることよりも、神のあわれみにすがることこそ信仰の基本です。

しかも、ロトが逃げることを「ためらって」(19:16) しまったのは、御使いの訪問の目的を真剣に聴こうとしなかった結果かもしれません。それで彼らが、彼と妻と娘たちの手をつかんで町の外に連れ出す必要がありました。それは、「彼に対する主 (ヤハウェ) のあわれみによる」ものと描かれます (19:16)。

しかも、ロトは、「山に逃げなさい」と言われても、主のあわれみを信じることができず、自力で走りきられる範囲の小さな町を願いました。しかし、主はそれをも聞き届けて下さいました。そして、ロトがその町ツォアルに着いたその時、「 (ヤハウェ) は硫黄と火を、天から、(ヤハウェ) のもとからソドムとゴモラの上に降らせた。こうして主は、これらの町々と低地全体と、その町々の全住民と、その地の植物を滅ぼされ」(19:24、25) と描かれます。

ただ、残念ながら、ロトの妻は、御使いの命令に反して(19:17)振り返ったので、「塩の柱」になってしまいました (19:26)。

その翌朝、アブラハムがかつて主の前に立ったと同じ場所から、主のさばきの跡を見下ろした様子が描かれます。その際、「神はアブラハムを覚えておられた。それで……神はロトをその滅びの中から逃れるようにされた」(19:29) と敢えて記されます。ロトが助かったのはアブラハムのおかげでした。

その後、ロトは、神の許可があったツォアルさえも離れ、「山の上に住み」ます。それは、神がその町をも滅ぼすのではないかと「恐れた」からで、「彼と二人の娘たちは洞穴に住んだ」と描かれます (19:30)。二人の娘も希望を失い、父親を酔わせて子孫を作ろうなどという、主の御教えに反することを実行します (19:36)。その結果、モアブ人とアンモン人という不幸な民族が誕生します (申命記23:3)。

ロトはアブラハムにすがることもできたはずです。ロトは、主のあわれみに信頼できず、災いを招きました。自分の正義感にとらわれ、また自分の狭い世界を守ろうとしたため、すべてを失ってしまいます。ロトの問題は私たちの問題でもあります。私たちもアブラハムのように「 (ヤハウェ) の前に立っていた」という大胆さが必要でしょう。

2.「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」

アブラハムは、その後ペリシテ人の地ゲラルで、エジプトの時と同じ間違いを繰り返します (20:1、2)。彼は、すでに90歳になっていたはずの (17:17) 妻の美しさのゆえに自分が殺されるかもしれないと恐れ、サラを「これは私の妹です」と紹介します (20:2)。

それを信じたゲラルの王アビメレクはサラを召し入れました。神は「あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい」(17:19) と明確に語っておられ、彼も確信していたはずでしたが、再び昔の悪い癖に動かされました。いつまでたっても学習できないものです。

しかし、神はそんな彼をあわれみ、夢の中でアビメレクに現われ、「あなたは、自分が召し入れた女のために死ぬことになる。あの女は夫のある身だ」(20:3) と警告して下さいました。しかも、アビメレクの正当性を認めながら、アブラハムを「預言者」と紹介し、とりなしの祈りを求めるように命じます (20:7)。まさに、神は、人間の善悪の基準を超えて、アブラハムの側に立っておられるのです。

それを知ったアビメレクは、サラを返すばかりか、羊や牛の群れ、男女の奴隷を与え、自分の領地のどこに住むことをも認め、銀千枚までも与えました。その上で、「アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、また女奴隷たちを癒されたので、彼らは再び子を産むようになった」と記されます (20:17)。

明らかにアブラハムに非があったのに、神は、ご自身がアブラハムの側に立ち、彼の祈りを聞かれることを証明されたのです。それはまた主が彼に「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地 (アダマー) のすべての部族は、あなたによって祝福される」(12:3) と言われた主の約束が成就したということです。

このようなアブラハムの過ちにも関わらず、その後、「 (ヤハウェ) 約束したとおりに、サラを顧みられた……サラはみごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に……男の子を産んだ」(21:1、2) と描かれます。このようなイサク誕生の経緯に、主のご真実が見られます。

後にパウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と記しています。

21章8節以降では、イサクの乳離れの頃、サラハガルとイシュマエルを追い出すと主張した経緯が描かれます。アブラハムも悩みますが、「(イシュマエル) も、あなたの子孫なのだから」(21:13) という主からの約束を聞いて、彼らを送り出します。

その後、ハガルは荒野をさまよい、「皮袋の水が尽きると」、息子の死を覚悟して「声を上げて泣き」ます (21:15、16)。このような悲劇が起きたのは、アブラハムとサラが人間的な計算で、女奴隷から子孫を生もうとしたからです。その後のアブラハムの対応も、家長としては失格です。

主がイサクの誕生をイシュマエルの誕生から14年間も遅らせたのは (16:6、17:1)、イシュマエルがハガルとともに荒野で生き延びられる年齢になるのを待つためとも言えましょう。

そしてこのとき、絶望するハガルの目が開かれ、井戸が見つけられ、二人は生き延びます。その後のことが「神が少年とともにおられたので、彼は成長し」と描かれます (21:20)。ここでもアブラハムの人間的な弱さにも関わらず「あなたは祝福の基となる……すべての部族は、あなたにおいて祝福される」(12:2、3私訳) という約束が守られます。

その頃、アビメレク軍の長ピコルがアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます」(21:22) と言います。それは、アブラハムの側にたとえ非があっても、神が彼の味方になっているのを見たからです。私たちは自分の立派さによって世の人々に神を証ししようと頑張りがちですが、アブラハムは、その愚かさによって主の真実を証ししています。

彼らは「私があなたに示した誠意 (ヘセド) ふさわしく……私にも……この土地にもなしてください」と恐れをもって願います (21:22、23)。そればかりか井戸のことでアブラハムが抗議をすると、あっさりとそれを受け入れます。それがベエル・シェバの始まりとなります。

まさに、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) とあるとおりです。

そしてここでも、「アブラハムは……永遠の神、主 (ヤハウェ) の御名を呼び求めた」(21:33) と描かれます。彼は何度も間違いを犯しますが、彼を特徴づける最大のテーマは「祈り」なのです。私たちもアブラハムのようにこの世に対して神の祭司としての役割が期待されています。

それは、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(Ⅰペテロ2:9) とある通りです。私たちが世の人々にできる最高の証しとは、いつでもどこでも主に祈っているという姿勢と言えましょう。

3.「これらの出来事の後、神はアブラハムに試練を与えられた」

これらの出来事の後」(22:1) とは12章からのアブラハムの歩みのすべてを指すように思えます。彼は家長としての責任を果たすことができませんでしたが、神は彼に真実であり続けました。

その上で、「神がアブラハムを試練に会わせられた」(22:1) と記され、主はあなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしが……告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさいと命じられます (22:1)。それにしても、これほど不当で乱暴な命令があるでしょうか?

これは が著書「おそれとおののき」で問題にしたように、しばしば教会で牧師が、「アブラハムが最善のものをささげようとしたほど、神を愛したことは偉大なことであった」などと安易に語ってはなりません。もし、誰かがそれに倣おうとするなら、「お前は悪魔に取りつかれたのか」と制止されて当然のことです。これは、忌まわしい幼児殺しのモレク礼拝と同じに見えます。

またこれは何よりも明らかに、「星を数えられるなら数えなさい……あなたの子孫はこのようになる」(15:5) という主の約束に反し、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」(21:12) と主が言われたことにも真っ向から反するように思われます。

事実、アブラハムは出発して三日目に、モリヤの地(後のエルサレム神殿の地)を、「遠くの方に」見ながら、しもべたちをそこに残して向かいます。自分がやろうとすることを誰にも説明できないからです。

そして、イサクも何かがおかしいと感じ、「全焼のささげ物のための薪」を背負いながら、彼の父アブラハム」に向かってお父さんと呼びかけます。彼は「何だ、わが子よと答えます。

イサクが「全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか」と尋ねると、彼は「神ご自身が……備えてくださるのだ。わが子よと答えます (22:7、8私訳)。「父」、「わが子よ」という繰り返しに緊張感が示唆されます。父はこの厳しい命令に悶え苦しみながら、とっさに「そうであって欲しい」という希望的な観測を「わが子に」に述べたのかもしれません。

なおも二人は歩き続けて目的地に達し、アブラハムは自分の息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せ……刃物を取り、息子を屠ろうとした」(22:9、10) と描かれます。このときイサクが自分の身を縛られるままに任せられたのは、父への信頼の証しなのでしょうか……。

後にヘブル書ではアブラハムの気持ちが「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」と描きますが (11:19)、それでも「わが子」にナイフを突きつける気持ちはどのようなものでしょう。

だからこそキルケゴールはアブラハムの試練の考察の書名を、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」(ピリピ2:12) から取ります。信仰の歩みは、最終ゴールは明らかでも目の前はしばしば不安に満ちているからです。

ただし、このような命令は、突然与えられたものではありません。アブラハムにとって、イサクの誕生こそ神の真実の最大の証しでした。ですから彼は、この命令を聞きながら、神には何か特別のご計画があると思ったことでしょう。彼は神の真実を体験的に知っていたゆえに、人間的な価値判断を超えて、神の命令に従えたのです。

かつてアダムは、神の明確な命令を聞きながら、自分を神とし、自分の価値判断に従って、神に背きました。しかし今、アブラハムは自分の価値判断を超えて、神を善悪の基準としたのです。つまり、この命令は、人の目には理解しがたいこと自体に意味があるのです。

アブラハムはこれにより、「神のようになり、善悪を知るようになった」(創世記3:5、22) というアダムの罪を逆転させました。この試練を通して、「私の道」ではなく「 (ヤハウェ) の道を守る」という、神のわざとしての信仰に導かれたのです。

(ヤハウェ) の使い」は、その時になって彼を差しとめ、「今、わたしは、あなたが神を恐れていることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった」(22:12) と言われ、「一匹の雄羊」を見せてくださいました。そのことからその場所の名が「アドナイ・イルエ」( (ヤハウェ) の山には備えがある)と言われるようになります。

それから主 (ヤハウェ) の使いは、天からアブラハムを呼んで、「あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し……あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(22:16) と言われました。

パウロはこれと同じことばを使って、「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された方が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか」(ローマ8:32) と記しました。

つまり、神は、世界の救いのためにご自身の御子をおささげになるご計画を既に持っておられた上で、アブラハムに同じ痛みを体験させ、真に彼を「神の友」にふさわしいものとして承認してくださったと解釈できるのです。

ヤコブは、「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました……彼は神の友と呼ばれたのです」(2:21-23) と語っています。

つまり、私たちの信仰は、いのちよりも大切なものをも犠牲にする行動として完成するというのです。私は長らく、自分の信念や愛する人のためには命を犠牲にできる気高い人になりたいと思っていましたが、そこには自分の世界を絶対化する、自爆テロと変わらない思いがありました。

アブラハムはイサクをささげたとき、人の目には最悪の父になる覚悟をさえ決めたのです。彼の「信仰」とは彼の信念ではなく、神の真実への応答でした。

アブラハムが神のみこころと自分の思いを一つにし「神の友」と呼ばれるまでに、どれだけのプロセスがあったことでしょう。創造主ご自身でさえ、一人の人の心を成長させるにはこれだけ苦労しておられます。私たちは、自分も人も、余りに厳しい尺度で測ってはいないでしょうか。

アブラハムは「信仰の父」ですが、彼の信仰は、彼の功績というより神の作品でした。彼の模範に倣うことは大切ですが、それよりはるかに大切なのは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2) という勧めに従うことです。イエスこそが私たちの信仰を創造し、また完成してくださる方です。 そして私たちの歩みにどのような試練があっても、十字架の苦しみの向こうには、必ず復活の喜びが保障されています。