災害の「再文脈化」〜詩篇77篇抜粋

今日は、75回目の終戦記念日ですね。

日本がこれほど長い間、戦争に巻き込まれずに、平和が守られていたのは、戦時中の人々の心の底からの「うめき」があったからと言えましょう。その歴史を思い起こし続けることが、平和の鍵となると思います。

ブルッゲマンという神学者が、「災害を『再文脈化する recontextualize』関係の有効性と信頼性」について書いています。

以下はそれを簡潔に明日の週報に書いたもの、その下はそこで引用された詩篇77篇8-20節の抜粋私訳と解説です。

そこには、主のみ前で「うめく」ことの創造的な意味が記されています。

「私はこう言った。『私が弱り果てたのは いと高き方の右の手が変わったからだ』と。私は 主 (ヤハウェ) のみわざを思い起こします。昔からの あなたの奇しいみわざを思い起こします」(詩篇77:10、11)

新型コロナウィルスの蔓延は、私たちの計り知れない神の御手の中で起きていますが、それはすべてが、私たちが創造主との生きた交わりを深める機会とされるものです。それはアブラハムとその子孫の歩みにおいて明らかです。

以下は詩篇77篇8-20節抜粋私訳

「主 (アドナイ) は、いつまでも拒まれるのだろうか。(7)

もう決して、目をかけてくださらないのだろうか。

主の慈愛 (ヘセッド、 unfailing love) は、永久に絶たれたのだろうか。(8)

約束は、代々に至るまで、廃れたのだろうか。

神は、恵みを施すことを忘れたのだろうか。(9)

もしや、怒って、あわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」 セラ

そして、私は言った。「私が苦しんでいるのはこれだ。(10)

いと高き方の右の手のわざが変わるからだ。」

(My sorrow is this: the changing of the right hand of the Most High!)

私は、主 (ヤハ) のみわざを思い起こそう (remember)。(11)

昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう (remember)。

私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ (reflect)、(12)

あなたの恐ろしいさばきのみわざに、思いを巡らそう (meditate)。

神よ。あなたの道は聖です。(13)

どの神が、神のように偉大でしょう。

あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、(14)

国々の民にご自身の御力を知らされる方です。

あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。(15)

ヤコブとヨセフの子らを

     ……

あなたの道は海の中に、その小道は大水の中にありました。(19)

それで、あなたの足跡 (footprints) を見た者はありません。

あなたは、ご自分の民を、羊の群れのように導かれました。(20)

モーセとアロンの手によって。

人は、悩みが深くなると、眠ることができなくなります。そんなときに、自分の弱さを責める代わりに、不敬虔とも言える気持ちを正直に神に表現訴えます (7-9節)。

「もう決して、目をかけてくださらないのだろうか」とは、神の選びへの疑問であり、「主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか……」とは、神の真実な約束への「疑い」を真っ向から表現するものです。「もしや、怒って……」とは、自分に原因があると思う中で、絶望して行く様子です。しかし、神に対する疑いを、神に向かってぶつけることこそ、信頼の証しかも知れません。

そのような中で、著者は突然、「私が苦しんでいるのはこれだ。いと高き方の右の手(のわざ)が変わるからだ」(10) と言います。これは神への不満の表現のようでありながら、同時に、自分が理解できない神のみこころの神秘への信頼でもあります。まさに信仰と不信仰が交差するこの詩篇の転換点です。

たとえば、ヨブがあまりも不条理な苦しみにあったのは、神がサタンにそれを許された結果でした。まるでヨブが、「いと高き方の右の手」の中で、もてあそばれているかのようです。しかも、彼にはその理由を知ることは許されていません。それでも、彼は、神の語りかけを聞くという体験を通して、自分の苦しみが、神のさばきではなく、あわれみに満ちた選びから始まっていることが分かり、「あなたには、すべてができること。どんな計画も成し遂げられることを知りました」(42:2) という告白へと導かれます。

また哀歌の著者も、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(3:38) と告白しますが、それが神への信頼の表現であるのは、みことばをとおして神の救いのご計画が理解できた結果でした。

私たちは多くの場合、わざわいの原因も分からなければ、わざわいを避けることもできませんが、それがすべて、神の御手の中で起こっていることだと受け止められるなら、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28) と告白して安心することができます。

しかも、それは最終的には、私たちの地上の生涯の枠を越えた時間の中で起こることでもあります。人生は、「露と落ち、露と消え行く」ほどに、はかないものですが、この地上のいのちを、神の救いのご計画の全体像から見直すときに、私たちは究極の慰めを受けることができます。

日本の歴史だって1500年前ぐらいの記録しかないというのに、三千数百年前に記された聖書の中には、人間がどのように誕生し、どのように堕落し、今、どこに向かっているのかという全体像を見ることができるからです。しかも、その確かさは、星の数ほどの多くの人々の人生を導き、生かしてきたという実績で証明されています。

著者は、ここで、はるか昔の、イスラエルが奴隷の地エジプトから解放されたときにまでさかのぼって、「私は、主 (ヤハ) のみわざを思い起こそう。まことに、昔からの、あなたの不思議なみわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことを思い浮かべ、あなたの大いなるみわざ(恐ろしいさばき)に、思いを巡らそう」(11、12節) と告白します。

それは、神がご自身の民の叫びに耳を傾けられ、何と、「天を押し曲げて降りてこられ」(詩篇18:9) て、エジプトの大軍と戦い、神の民を救ってくださったという、歴史に現された具体的な生きた救いのみわざです。

その上で、「神よ。あなたの道は聖です……」とのことばで、私たちの目は、自分ではなく神に向けられ、神の視点から歴史を見るようにと導かれます。「神のように偉大な神が、ほかにありましょうか。あなたこそは、不思議なみわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。あなたは御腕をもって、ご自分の民を贖われました。ヤコブとヨセフの子らを」(13-15節) とは、神のみわざが、私たちの正しい行いに対する報いである以前に、不思議な神の選びとあわれみから生まれているという告白です。私たちの救いは、自分の信仰以前に、神の愛の眼差しから始まっています。そこに究極の慰めがあります。

そして、神にとって、その海にできた道は、「小道」(19) にしか過ぎないもの、神の小指のわざに過ぎません。そして、神の「足跡」(19) は、海の中に消えていますが、それは救われた民を通して確かに証しされています。それは、まさに多くの人に親しまれている「フットプリント」という詩に表わされているように、神が私たちを背負って歩んでくださった記憶でもあります。

しかも、これらのみわざの目的は、神が「ご自身の民を贖い……ご自分の民を、羊の群れのように導く」(20) ことにあったのです。

なお、神の御手は、同時にイエスの御手であり、それらの御手の現われとして、「モーセとアロンの手」があり、また、私たちの回りの目に見える人々の手があるのです。神が数々の不思議なみわざをしめしてくださったのは、私たちを奇跡の奴隷にするためではなく、この世界の毎日のすべての現実が、神の御手の中にあることを教えるためなのです。