半沢直樹〜詩篇62篇9−12節

今、テレビドラマ「半沢直樹」が人気を博しています。先日、それを見ていたら、拙著「聖書から見るお金と教会、社会」に引用したことばが出てきて嬉しくなりました。

ドラマの主人公、半沢直樹は、父親が銀行のせいで自殺に追いやられたからこそ、銀行員になって社会の経済活動を支える本来の働きをしたいと願います。企業の資金需要に応えず、「晴れの日には傘を貸し、雨になったら取り上げる」ような銀行の身勝手な姿勢を正したいと悪戦苦闘します。彼は、ロスジェネ世代の部下に向かって次のように語っています。

「仕事は客のためにするもんだ。ひいては世の中のためにする。その大原則を忘れたとき、人は自分のためにだけ仕事をするようになる。自分のためにした仕事は、内向きで、卑屈で、身勝手な都合で醜く歪んでゆく。そういう連中が増えれば、当然組織も腐って行く。組織が腐れば、世の中も腐る。分かるか……顧客不在のマネーゲームが、世の中を腐らせた。お前らがまずやるべきことは、ひたすら原則に立ち返り、それを忘れないようにすることだと思う……戦え……オレも戦う。誰かが、そうやって戦っている以上、世の中は捨てたもんじゃない。そう信じることが大切なんじゃないだろうか。」(池井戸潤『ロスジェネの逆襲』2012年 ダイヤモンド社 367頁)

「倍返し」で有名になった物語には、組織の論理の中で、自己保身のための生き方に流され、仕事の理想を忘れた人を、原点に立ち返らせようとする願いが込められています。それは自分の身を守るための損得勘定から自由に、ある意味で「愚かになる」ことの勧めです。

しかし現実は、小説のようにはいきません。自分で自分の身を守ろうと、卑屈にならざるを得ないことがあります。その一方で、私たちは世の中に正義を求めながらも、傍観者的に世の不条理を批判します。しかし、それでは社会は変わりません。私たちは一歩でも二歩でも、この世界に神の平和(シャローム)の前味を実現するために格闘する必要があります。しかも、その際に人々の共感と協力を得るためには、私たち自身が損得勘定から自由になっている必要があります。

人は皆、心の底では、力や富の支配から自由に生きたいと願っています。しかし、創造主の真の愛を知らければ、自分の身は自分で守るしかないと、自己保身に駆り立てられることもあるでしょう。

しかし、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」と告白できる者は、この世的な「正気」の感覚を超えた生き方ができます (Ⅱコリント5:13、14)。現代の聖霊のみわざは、世を儚(はかな)むような隠遁生活の中ではなく、ビジネスの最前線で格闘する人々の中にこそ現されるのです。

キリストにあって愚かになる

ローマ・カトリックより歴史が古い東方教会の流れの教えの中に、個人に対する聖霊の働きの現れとして、「キリストにあって愚かになる」というものがあります(「愚か」のギリシア語は salos で、キリストにあって、所有欲やプライドから完全に自由になった心の状態。)

しかし、人の目には、生活能力のない「愚か者」に見える。それは、すべての所有欲から自由になり、どのような貧しさの中でも神の子としての平安と自由を体験できる状態です。

使徒パウロは、知恵や富を追求するコリント教会に対して、「誰も自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい」(Ⅰコリント3:18) と言いました。また信者間の争いをこの世の裁判官に訴える人に対して、「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(同6:7) と叱責します。また彼は、キリストにあっての苦難と貧しさに耐えながら、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11) と告白しています。このように自分の人間的な誇りや損得勘定から自由になれることこそが、「キリストにあって愚かになる」という聖霊のみわざと言えましょう。

ロシアを代表する二人の作家は共に、そのように人間的には愚かに見られながら高潔な生き方を全うする人物を描き出そうとしています。たとえばドストエフスキーは、『白痴』という長編小説で「極度にまでナイーブな、むしろ一見して白痴かと思われる単純な性格の所有者」を極めて肯定的に、人間らしく描き出しています (注14)。また未完の大作『カラマーゾフの兄弟』では、その姿は三男の主人公アリョーシャに表されています。

また、トルストイの短編小説では『イワンのばかとそのふたりの兄弟』において、軍人としての天才、また商売の天才として紹介される二人の兄たちが悪魔の誘惑に負けて自滅する一方で、土を耕すしか能のないイワンが悪魔を破滅させる様子が描かれています。イワンが悪魔の誘惑を退け続けたのは、力や富にまったく無頓着であったからです。悪魔は、私たちの心の欲望に語りかけて神の道を踏み外すように仕向けますが、欲望に駆られない人は誘惑のしようがありません。

それらの心は以下の詩篇に表現されています

詩篇62篇9-12節 (私訳)

まことに、人間の子らは 息のようなもの、(9)

人の子らは 欺くもの。

はかりに載せると上に上がる。

彼らを合わせても息よりも軽い。

暴力に信頼するな。略奪をむなしく誇るな。(10)

強さが 結果を生んでも、それに心を留めるな。

神は、一度告げられた。(11)

二度、私はそれを聞いた。

力は 神のもの。

主(「アドナイ」主人)よ。慈愛 (ヘセッド) も あなたのもの。(12)

まことに、あなたは、報いてくださる。

それぞれの人の行ないに応じて。

9、10節は翻訳が困難な表現です。ただ、どのような翻訳においても、人の力に頼ることのむなしさが語られていることは共通しています。

神は現在、天からパンを降らせる代わりに、人との協力から成り立つ仕事の場を備えることによって、私たちにパンを与えてくださいます。しかし、そのような霊的現実を忘れ、眼に見える現実ばかりに心が奪われてしまい、神の前に静まることを素通りするなら、人の顔色ばかりを窺うような、人間の奴隷になってしまう可能性があります。

「まことに(ただ)、人間の子らは息のようなもの」とあるように、いざとなったら頼りにならないという面があることを忘れてはなりません。ほとんどの人は所詮、自分の身を守ることに夢中です。自分に被害が及びそうになると、良い人と思われる人でも、「人の子らは欺くもの」とあるように、「欺く」ことがあります。

しかも、この世の権力者が人の目にどんなに重く見えても、神の目からは「息よりも軽い」存在に過ぎません。

そして、「暴力に信頼するな」(10節) とは、8節の「この方に信頼せよ」との対比表現です。10節は「信頼するな」、8節は「信頼せよ」ということばからそれぞれ始まり、対比が明らかになっています。

人は「暴力」または「力による強制」に動かされがちですから、「力に」頼ることで短期的には効果的が生まれる場合が多いことでしょう。しかし、そこに落とし穴があります。

それが、「強さが結果を生んでも、それに心を留めるな」という勧めです。なぜなら、富や力を基にした「強さ」は、麻薬のように人を依存させ、目に見えない神を忘れさせるからです。

「力は、神のもの」(11節) とあるように、私たちは、目に見える力の背後におられる神にこそ目を向けるべきです。そして、王であるダビデは、神を自分の主人という意味を込めて、「主(「アドナイ」主人)よ」と呼びかけます。

その際、「慈愛 (ヘセッド) も、あなたのもの」(12節) と、主がご自身の契約を守り通してくださるという真実さを賛美します。「神を知る」という黙想の目的は、何よりも「神は真実です」(Ⅰコリント10:13) ということを腹の底に据えることです。

そして最後に、主を「あなた」と呼びつつ、この世の因果律や方法論を越えて、ただ神だけが私たちの労苦に公平に「報いてくださる」方であると告白します。