多くの日本人は、「敬虔なクリスチャン」ということばにあるイメージを重ねます。その枠の中にはたぶん株式投資を勧める営業マンは入らないことでしょう。その後、僕は牧師への召しを受けながら、自分の中にある神経症的な不安感を受け入れられずに悩んでいました。柔和で平安な雰囲気を醸し出す牧師像にはとうていふさわしくないと思ったからです。しかし、今は、そのように人々の期待に沿うことができることの虚しさを思わされます。イエスでさえ、「大食いの大酒飲み」と呼ばれました。それは当時の人々の期待を裏切る自由な振舞いの結果でした。しかし、そこにこそ、人々の常識を覆す、真の自由があります。
1.『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』
11章では、「バプテスマのヨハネ」が自分の弟子たちをイエスのもとに遣わし、「おいでになるはずの方はあなたですか」(3節) と、期待した救い主と異なるという疑問を率直に伝えたこと、またそれに対しイエスは、ご自身がイザヤ35章を中心とした預言を文字通り成就しているということを伝えさせたことが描かれていました。その上でイエスは群衆に向かって、ヨハネこそ「来たるべきエリヤ」(14節) だと途方もないことを言いました。それはヨハネこそ旧約最後のマラキ書最終節で、主ご自身が「見よ。わたしは、主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ3:5) と言われた方だという宣言です。まさにヨハネとイエスにおいて、イスラエルの歴史は新しい時代を迎えたということになります。
その上でイエスはご自分の前にいる人々に向かって、「この時代は何にたとえたらよいでしょか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。『笛を吹いてあげたのに 君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに 胸をたたいて悲しまなかった』」(16、17節) と語られました。このたとえは、ある子どもたちのグループがそこにいる他の子どもたちに向かって、一方的に自分たちの遊びを押し付けながら、それに従わないと言って不満を述べ合っている、身勝手な期待を持つ姿を描いたものです。前者は「結婚式ごっこ」、後者は「葬式ごっこ」と言えましょう。しばしば、子どもは自分たちが思いついた遊びに他の人を巻き込もうとします。それは他の人の事情を知ろうともしないで、自分のうちに湧いてきた思いを絶対化してしまうからです。大人になっても、そのような自分のゲームを他の人に押し付けているのが、当時の宗教指導者たちであるとイエスは皮肉を言ったのだと思われます。
彼らは、ヨハネもイエスも、自分たちのルールに従おうとしないと勝手に責めています。その姿が、「ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、人の子が来て、食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです」(18、19節) と描かれます。この背後には、先の9章14節で「ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか』と言った」ことに対し、イエスが「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」(9:15) と答えた会話があります。とにかく、ヨハネは頻繁に断食を勧める一方、イエスは結婚式のような祝宴を大切にしたのですが、当時の人々にとってはその両方とも極端に見えたということでしょう。ヨハネは、「主 (ヤハウェ) の大いなる恐るべき日」(マラキ4:5) というさばきを宣言して、人々に「悔い改めのバプテスマ」(3:11) を授けていました。それは自分たちの生き方の方向転換を勧めることで、そこに自分たちの罪深い生き方を反省し悲しむ姿としての「断食」が伴いました。それに対してイエスは、神の新しい救いの時代が到来したという喜びを伝えるために、食事の交わりを大切にし、そこにご自身の救いを感謝し喜ぶすべての人を招き入れました。そして当時の人々にとって、ヨハネの厳格さが「悪霊につかれている」しるしに、イエスにある喜びが「大食いの大酒飲み」に見えたということです。しかし、どちらの判断も、自分たちの常識の枠の中からなされているもので、神の救いのご計画の原点に立ち返るものではありません。
そして19節の最後の文章は、「知恵はその働き(わざ)によって正当化される」と訳すことができます。これは、ヨハネとイエスの「知恵」は、その生活や働きの果実によって正当化されるという意味です。ヨハネは当時の権力者を真っ向から批判した勇気が、彼の知恵を正当化しますし、イエスの場合は、ご自身がイザヤの一つ預言を成就したような「みわざ」(11:2) によって、その知恵が正当化されると言えましょう。
2.「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」
11章20節では、「それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである」と記されます。そして主のさばきのことばが、「わざわいあれ、コラジンよ。わざわいあれ、ベツサイダよ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって、回心していたことだろう」と記されます (21節)。コラジンとは、ガリラヤ湖北西岸のカペナウムからさらに約3㎞北西の内陸部に入った町だと思われ、ベツサイダとはガリラヤ湖北岸、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込むすぐ東の町で、ペテロ、アンデレ、ピリポの出身地です (ヨハネ1:44)。一方、ツロもシドンも、バアル礼拝の発祥地のような地中海岸の自由貿易都市で、経済的繁栄と道徳的な退廃が同居している、まさに神のさばきを受けるのにふさわしい町です。イエスはコラジンやベツサイダで行われた神の臨在のしるしの力あるみわざが、堕落したツロやシドンで行われていたとしたら、彼らはとうの昔に真の神への回心を行動で示していたはずだと言ったのです。
そればかりかイエスは続けて、「おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ」(22節) と言われます。これはすべての堕落した町々が神のさばきを免れることはできないということを前提に、イエスのみわざを見ながら、真の神に立ち返ろうとしなかったコラジンやベツサイダの罪は、ツロやシドンよりもより厳しくならざるを得ないということを語ったものです。
さらにイエスは、「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか?」と疑問形で問いかけておられます (23節)。それは本来なら、イエスの来臨によって彼らの心が真の神に立ち返り、町全体が天に引き上げられるような祝福を受けることができたはずだったからです。しかしイエスは、「(おまえは)よみ(ハデス)に落ちるのだ」とすぐに言い直されます。それは「おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう」と記されるように、カペナウムが恵みのみわざを無駄に受けるばかりで、神に立ち返ることがなかったからです。もし、そのみわざが悪徳の町のシンボルであるソドムで行われていたなら、彼らでさえ、神に立ち返り、神のさばきを回避して今にいたるまで町が残っていたはずだというのです。その上でイエスは22節と同じ表現を用いながら、「おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりさばきに耐えやすいのだ」(24節) と繰り返します。ソドムはその罪深さのゆえにアブラハムのときに天からの「硫黄と火」で焼き尽くされましたが (創19:24)、それより厳しいさばきが、イエスが多くの時間を過ごしたカペナウムに下るというのは、何と恐ろしいことでしょう。
後に使徒パウロはコリントの教会に向けて、「神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける』 見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」と記しています(Ⅱコリント6:1、2)。なおこの引用されたみことばはイザヤ49章8節からのもので、その前には主 (ヤハウェ) が、イスラエルの民が「人に蔑まれている者、国民に忌み嫌われている者……支配者たちの奴隷」とされている現実に目を留め、彼らをその苦難から贖い出すことを約束すると同時に、「わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を復興して、荒れ果てたゆずりの地を受け継がせる」という使命を与えておられます。神はイスラエルを通して世界中の民に対して神の憐れみと真実を伝えようと彼らを選ばれたのです。ですから、神の豊かな恵みには必ず使命とか責任が伴います。事実コリント第一の手紙の最後の部分は、「主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください」(16:22) という記述で終わります。つまり、ここにも「神の恵みを無駄に受け」た者に対するさばきが宣言されているのです。主 (ヤハウェ) がイスラエルと結んだ契約には、「祝福」と同時に「のろい」の警告があります。もしあなたが神の特別な恵みを受けているなら、そこには同時に、重い責任が伴っていることを忘れてはなりません。
3.「子が父を現わそうと心に定めた人のほかには、だれも父を知る者がいない」
イエスはそのような厳しいことばの直後に、「あなたをほめたたえます。天と地の主であられる父よ」(11:25) と祈ります。それは、そのような中でもイエスを救い主と信じる人々も起こされていたからです。そのことをイエスは、「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と、父なる神の選びによるものであると言います。ここでの「幼子」とは、文脈からすると、年齢的な意味よりも、未成熟な者、無知な者という意味が込められており、イエスの弟子たちが社会の底辺の人々から構成されていたことを指すと思われます。さらにイエスは、「そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした」(26節) と言われますが、そのことを後にパウロは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです……これは神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:27、29) と記しています。つまり、神は、自分の愚かさ、弱さを自覚した「幼子」のような人から順番に福音を知らせようとしたのです。ところが、しばしば、聖書が「いのちの書」というより、ひとつの教養に留まってはいないでしょうか。しかし、福音は本来、愚かな者に生きた知恵を、弱い者に真の生きる力を与える、神の生きた働きとして理解されていたことを忘れてはなりません。
その上でイエスは、福音の核心を、父なる神とその御子であるご自身との関係から説明します。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています」(27節) とは、ご自身が父なる神から全面的に信頼され、働きを任されているという意味です。そして、「父のほかには、子を知る者がない」とは、イエスが完全な人であり同時に完全な神であるというような不思議は、父だけが理解しうる神秘という意味です。そればかりか、神の子であるイエスご自身と、「子が父を現わそうと心に定めた人のほかには、だれも父を知る者がいない」と言われます。つまり、イエスが私たちに知らせてくださらない限り、だれも父なる神を真の意味で知ることができないのです。私たちの信仰はイエスによって与えられた一方的な恵みです。
私たちが「神の子」とされるのは、互いを完全に知り合っている父と子の親密な愛の交わりの中に、聖霊のみわざによって招き入れられるという途方もない奇跡です。イエスの父なる神を「私の父」と呼ぶことができることこそ「救い」の核心です。私たちはどこかで、自分の敬虔さや信仰心を人間的な基準で計ろうとしてはいないでしょうか。そのようなとき、神がご自身の救いの豊かさをまず「幼子」に知らせようとしたという神秘に思いを向けてみましょう。私たちはどこかで福音を難しくしすぎているのかもしれません。そしてまた、一方的な恵みの選びよって与えられた信仰を、人間的な基準で評価してはいないでしょうか。
4.「すべて、くたびれた人、重荷を負わされた人は、わたしのもとに来なさい」
この世の組織は、有能な人材を集めようとしますが、イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(28節) と不思議な招きをしました。ここで「疲れる」とは「くたびれる」という強い疲労感を、「重荷を負っている」も誰かによって「重荷を負わされている」状態を意味します。「律法(トーラー:み教え)」は、本来、神の愛の語りかけですが、当時の宗教指導者は、それを人の行ないを矯正する道具に用い、「お前は神の教えに反したので、のろいを受ける」などという脅しの手段に用いました。
あなたもこの社会で、個性を無視した一方的な重荷を負わされて苦しんでいないでしょうか。また、「こんなこともできないのは社会人として失格だ……」などという脅しを受けて生きてはいないでしょうか。しかし、イエスは「取税人や罪人の仲間」(19節) と非難されるほどに、落ちこぼれ意識を味わっている人々の味方となってくださったのです。そしてそのような人々にイエスは、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節) と力強く断言されました。この「休み」とは、「そうすればたましいに安らぎが来ます」(29節) とある「安らぎ」と同じことばです。つまり、イエスが与える「休み」とは、この世が期待するようなものとは異なります。
それどころかイエスは続けて、「わたしのくびきをあなたがたで負い、わたしから学びなさい」(29節) と命じられました。「くびき」とは、苦難や服従を強いられることの比喩として用いられる表現ですから、これは何とも不思議です。それで主はすぐに「わたしは心が優しく(柔和で)、へりくだっているから」と付け加えられました。「優しく」とは、人や状況に合わせて揺れることができる柔軟さ、「力みのない生き方」を意味します。また「へりくだっている」とは、イエスが弟子の足を洗う自由を持っておられたことを示しています。
初代教会で、異邦人から信仰に導かれた人に「割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張する人々がいました。それに対しペテロは、「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか」と反論しました (使徒15:5-11)。多くの人は、様々な「くびき」からの解放を望んでいるようで、互いに「くびき」を作り続けています。それは、人は仕事からの解放を望みながら、仕事がなくなったとたん空虚感と無力感に襲われるようなことと同じです。つまり、イエスの招きの基本は、人間的に解釈された律法のくびきで苦しんでいる人に、イエスご自身のくびきを負わせ、イエスの生き方、働き方に習うことを勧めることだったのです。
アダムが、禁断の実を食べて、「神のようになり、善悪を知るようになった」結果、人は、神の基準ではなく、人間的な基準で、互いや自分を評価し続けています。人に向かって「おまえは役立たず!」と言っている人は、自分をいつも駆りたて、決して安らぎを体験し続けることはできません。ですから、くびきをなくすことよりも、自分に合った「くびき」こそが救いとなるのです。イエスは、自分の存在価値を証明しようなどというあらゆる駆り立てから自由な、自分の存在を喜ぶことができる「生き方」を示しておられます。
私たちがときに頑固で傲慢になるのは、余裕がないからです。それがまた互いを安らぎのない状態へと駆りたてます。イエスに見られる柔和と謙遜は、「すべてのことが……わたしに渡されている」(27節) という、御父との信頼関係から生まれています。そして、御父と御子は互いを完全に知り合っていますが、私たちは「子が父を現わそうと心に定めた」結果として、御父を知る「神の子」とされました。ですからイエスの「くびきを負う」とは、何よりも「神に愛されている子」としての生き方「Sonship」を習うためのものと言えましょう。そのことをイエスはここで、「そうすれば、たましいに安らぎ(休み)を得ます」と言われました。
さらに、イエスはそのようになる理由を、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(30節) と言われました。30歳までのイエスは有能な大工で、特注品のくびきを作ることに長けていたという話しもあります。ですから主は私たちに一定の枠を当てはめてさばく代わりに、それぞれの能力と個性に合わせた働きのリズムを与えてくださると期待できます。社会では人に働きを委ねる基準としての何らかの共通の尺度が必要になります。偏差値教育を否定はしても、一人一人の教師の評価に任せて良いのでしょうか。たとえば、私は野村證券での営業のノルマで苦しめられましたが、そこにある公平さにも感謝しています。上司からは「数字は顔である」と教わりましたが、それは会社が社員を公平な物差しで計っているという意味でもありました。どんなに口先で偉いことを言っていても、結果を出すことができない人が出世するようでは、同業他社のように倒産の憂き目に会います。ただ、それが問題になるのは、会社が与える評価を、自分という人格への評価?として受け入れてしまうセルフイメージの不安定さにあります。
私たちは「イエスのくびき」の代わりに、この世のくびきを自分の首にはめるから苦しくなってしまうのです。パウロは「私は自分で自分をさばくことさえしません」(Ⅰコリント4:3) と言いましたが、私たちは知らないうちに、人間的な尺度を受け入れ、「もっと成果を出さなければ……」と自分を駆りたてて、自分で自分の首を絞めてはいないでしょうか。自分を責めるのでも、人に脅されながらでもなく、神に愛されている子としての働きのリズムを見出すようになりたいものです。それは、イエスとの親密な交わりの中から生まれるものです。あなたの上司、依頼主、主人は、イエス様です。人ではなくイエスの期待に答えることを求め、日々、課せられている働きを、イエスから委ねられたものとしてとらえなおすことが大切ではないでしょうか。
聖書を現代的に意訳した The Message の著者ユージン・ピーターソンはこの箇所を当時の文脈を生かして次のように訳します。「あなたは疲れ、消耗していないだろうか?宗教に燃え尽きていないだろうか?わたしのもとに来なさい。わたしとともに脱出しなさい。それによってあなたは、自分の人生を回復できるのです。わたしはあなたに、どのようにしたら真の休みを得られるかを見せてあげよう。わたしとともに歩み、わたしとともに働きなさい。わたしがどうするかを見ていなさい。強制されることのない恵みのリズムを学びなさい。わたしはあなたに重すぎる重荷やあなたに合わない重荷を負わせはしない。わたしとの交わりのうちに歩みなさい。そうするとあなたは自由に楽に生きられることを学ぶことができます」
ある講演会で、ある母親が「私の息子は偏差値教育の犠牲者です」と訴えたところ、講師は逆に、「お母さんはどんな尺度でお子さんを見てきましたか?」と問い返しました。それは、彼女自身がイエスの基準にしっかり立たなければ息子の回復は期待できないからです。私たちには、この世のくびきか、イエスのくびきかの選択が迫られているのです。中途半端な立場を保ち、ふたまたをかけていると、ふたつの「くびき」で首がまわらなくなります。働きに評価はつきものです。それを否定するのではなく、それを超えた神の基準に常に思いを向けましょう。イエスは取税人や遊女という当時の社会の落ちこぼれに寄り添うことで、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」(19節) と非難されました。しかし、このように当時の宗教指導者から非難された生き方にこそ、イエスにある自由を発見できるとも言えましょう。あなたがそのままで、イエスの妹、弟としての「神の子」とされています。そこにある真の自由を喜びましょう。