エルサレムの平和のために祈れ〜詩篇122篇

新型コロナウィルスの蔓延が世界中に途方もない不安をよびおこしています。そして、不安は同時に、身近なところに様々な問題を引き起こしています。

仕事を失う人、経済的な困窮に陥る人、そればかりか様々な心の弱さを抱えて生活保護などを受けておられる方々にも不安が広がっています。援助活動に携わっていられる方々の中に、電話等を通しての相談件数が急増しているとのことです。まさに、私たちの身近なところから日常の平和が失われています。

今、意外に、身近なところで本当に不安に駆り立てられている人、そのため仕事や奉仕活動が急増している方々がいます。その方々のためにお祈りするるとともに、その悩みを聞いてお祈りする奉仕が求められております。

フェイスブックの友人から、「エルサレムの平和のために祈れ」という詩篇122篇6ー9節を歌にした動画が紹介されました。 というイスラエルと日本の平和の懸け橋となろうというクリスチャンの伝道団体で作られた動画です。

エルサレム上空にドローンを飛ばし様々な撮影がなされています。また最近の町の様子が描かれています。そして、たまたまそこにあったピアノで収録をしていたら結婚式のカップルがそこに突然、入り込んできて、そこにいるユダヤ人とアラブ人によるお祝いがなされています。

この曲もすばらしいです。一つ一つの映像も素晴らしいです。いつ撮影されたのかは書かれていませんが、敵対する国々に取り囲まれながらそこに素晴らしい喜びの日常生活があります。

まもなく出版になる拙著、「職場と信仰”不当な要求”を受けたとき」の「休み」の大切さを描いたところに以下のように紹介させていただきました。

「現在のイスラエルは70年前に生まれた国でありながら、2014年に一人当たり国内総生産額で日本を抜き、今や、隠れ人工知能大国と呼ばれています。世界の最先端技術の研究所がひしめき合い、新しい会社が次々に生まれます。その一方で、人口の約12%が (Haredi) に属し、その男性の半数が世の生産活動から離れて聖書や の学びと宗教儀式に献身し、彼らは貧しい暮らしながらも社会で最高の生活満足度を得ていると言われます。

国連が発表している世界生活満足度調査2019年版ではイスラエルが、北欧諸国やカナダ、オーストラリアなどに続いて156か国中13番目でした。日本は社会的寛容度の低さが響いて58番目と驚くほど低い水準です。これは一人当たり国内総生産や平均寿命などの客観的データも尊重されながら、安心感などの主観的なものも大切にされて総合的に判断される指標です。

アラブ諸国に囲まれ、いつも戦争の危険にある国がこれほど高い生活満足度を得ているのは何とも不思議ですが、サピエンス全史などで世界的に注目されているイスラエルの歴史学者 は、貧しいながらも伝統的なコミュニティーを大切にしているユダヤ教超正統派の生活満足度が際立って高いのが原因ではないかと分析しています。

また、いかに以前書きました、詩篇122篇の解説を紹介させていただきます。お手持ちの聖書、聖書本文は簡単にネットで手に入りますからご覧の上で以下の解説をお読みいただければ幸いです。

「エルサレムの平和のために祈れ」

現在のエルサレム市はしばしば宗教対立のシンボルの町のように見えてしまいます。多くのユダヤ教徒ばかりかクリスチャンにとっても、昔のエルサレム神殿の跡地にイスラム教のモスクが建っていることに悲しみを覚え、その状況が平和裏に正されることを願って、「エルサレムの平和のために祈れ」(6節) という訴えがなされます。しかし、残念なのは、そこでしばしば、終末論の理解を巡って信仰者の間に争いが生まれることです。

6-8節に「平和(シャローム)」ということばが三度繰り返されますが、それに挟まれるように、「安らかであるように」「平穏であるように」と記されます。このふたつのことばとも平和(シャローム)と基本的な意味は同じです。

そこでは具体的な地上の都市としてのエルサレム以前に、エルサレムを愛する人々、エルサレムの城壁または城塞(宮殿)の中に住む人々、またダビデの兄弟や友、つまり、すべての神の民のための平和を祈ることが求められているのです。

つまり、神の民とされている人々のただ中にシャローム(平和、平安、繁栄)が実現することこそが、ここでの祈りの第一の趣旨です。イエスは弟子たちに向かって、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:34、35) と言われました。

ですから、神の民が互いに愛し合っている姿こそが、この世界、またエルサレムが変えられる鍵となるというのです。つまり、エルサレムの平和のために祈ることと、あなたが集っている礼拝の交わりの平和を祈ることは切り離すことができないのです。

そのことが9節で「私たちの神、主 (ヤハウェ) の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう」と記されます。

ところで、「さあ 主 (ヤハウェ) の家に行こう」(1節) という呼びかけは、たとえばナザレに住んでいたイエスの父ヨセフにとっては、往復に一週間もかかる距離でした。ですから遠隔地に住む人々は、年に三度の主の祭りにしかエルサレムに上って行くことができませんでした。しかし、それは彼らにとっての何よりの喜びの旅でした。

1-3節はその大きな犠牲を伴う巡礼の旅に向かう喜びと、エルサレムに到着したときの喜びが描かれています。使徒の働き8章26-40節には、はるか遠いエチオピアの女王に仕える高官である宦官が、エルサレム神殿に巡礼して、聖書を手にし、帰りの馬車で預言者イザヤの書を読んでいたようすが描かれています。彼は神殿の外庭までしか入れてもらえませんでしたが、エルサレムに巡礼できたこと自体を喜んでいました。

そこには4節に描かれた「主 (ヤハウェ) の部族」の幅が新約の時代に広げられる姿が描かれています。さらに5節には「さばきの座」という言葉が記されていますが、「さばき」とは最後の審判以前に、神のご支配の現実を指した表現です。つまりエチオピアの宦官が、ピリポに助けられて主のことばを理解でき、それに従ったこと自体が、主のさばきがエルサレムから全地に広がっている最大の証しになっていたのです。

そして、私たちもエルサレムから広がった「主 (ヤハウエ) の家」(1、9節) の一部である主の教会の交わりの中に招き入れられています。

主の家における礼拝は、私たち信仰者にとって、あらゆる犠牲を払ってでも守るべき責任であるとともに、喜びの源泉です。神の平和がそこから世界に広がるからです。

祈り

主よ、私たちは「エルサレムの平和のために」祈ります。それは終末預言の成就以前に、神の民の間に平和が実現し、その愛の交わりが、世界に広がって行くことの願いであることを覚えます。エルサレムから地の果てまで主の教えで満たされますように。