マタイ11章1〜15節「新しい創造の中に生かされる恵み」

2020年7月12日

バプテスマのヨハネはヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を授けていました。それはかつてモーセヨシュアに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入って「神の国」を建てるはずであったという原点に人々を立ち返らせるためでした。

ですから、ヨハネは厳しい神のさばきを警告し、人々に神の御教えに心から従うようにと訴えていました。そして、イエスは新しいヨシュアとして現れ、人々を「天の御国(神の国)」に招き入れていました。

イエスこそはモーセ、ヨシュアの後継者として、この地に「神の国」を実現する「救い主」でしたが、そこにはそれまでのあらゆる尺度を超えた途方もない「新しい創造」が始まっています。

1.「あなたは、おいでになるはずの方ですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」

11章は、「イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた」ということばから始まります。

これは9章35、36節に描かれていた「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである」と描かれたみわざの続きが行われるという文脈の中でのイエスのことばの紹介です。

イエスのみわざの核心は、「天の御国の到来」、つまり、天の神のご支配をこの地に実現するということにありました。しかしそれは、当時の人々が期待したようなローマ帝国から独立したダビデ王国の実現ではなく、「羊飼いのいない羊の群れ」となっているイスラエルの民に寄り添い、彼らに天の神のあわれみに満ちたご支配を告げ知らせ、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒す」ということで「天の御国」を現すことでした。

ところがそこで、「さて、ヨハネは牢獄でキリストのみわざを聞いたが、自分の弟子たちを遣わして、イエスにこう言い送った、『あなたは、おいでになるはずの方ですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか』と」と記されます (11:2、3)。

バプテスマのヨハネ」は、イエスの宣教のみわざが始まる直前に、当時のガリラヤ地方の支配者であるヘロデ・アンテパスによって捕らえられていました (4:12)。それは、ヨハネがヘロデとヘロディアの結婚問題を公然と批判したからです (14:3)。

なお、3章10-12節にはヨハネの厳しい警告が、まず「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて火に投げ込まれます」と発せられた上で、キリストによるさばきのみわざが、「彼の手には箕(み)があり、ご自分の脱穀場を掃き清められます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」と記されていました。確かに、旧約での救い主の到来には、神の敵に対するさばきが伴い、そこでは「永遠の火のさばき」が警告されていました。

ただし、「」には「精錬し、純粋にする」という働きもあります。マラキ3章2、3節では、救い主の到来に関して、だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことにこの方は精錬する者の火、布をさらす者の灰汁(あく)のようだ。この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる」と描かれていました。

つまり、旧約で預言された「救い主」は私たちの心の内側からのきよめを実現する方で、その「きよめ」のみわざには、激しい痛みが伴うと見られていました。ヨハネはそのような厳しい「救い主」を預言していました。

ところが、ヨハネの期待に反し、イエスは、によって罪人をきよめる代わりに、大勢の取税人や罪人たちとともに食卓に着いていたというのです (9:10)。そればかりか、パリサイ人からその曖昧な態度を非難されたとき、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです」(9:13) と言われました。イエスは罪人に優しすぎると、ヨハネには見えたことでしょう。

現代の教会でも似たようなことが起きます。教会では「聖さ」が大切にされます。ですから、米国の福音派の教会などでは、LGBTなどの問題を抱えている人に、それは聖書からすると「罪」ですと明言する傾向がありました。その結果、その問題で悩んでいる人々を教会から押しのけるようなことが起きてきました。

しかし、イエスは他の人の問題を指摘してそれを正してあげようとするような人に対し、「兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』とどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」(7:4、5) と言われました。

事実、創世記3章によると、人間の罪の基本とは、自分を神の立場に置くことです。LGBTを聖書から罪と言うことは間違ってはいませんが、それよりもLGBTの人を神に敵対する罪人とレッテルを貼る人の方が、はるかに罪深いのかもしれません。それこそイエスが指摘し続けていたパリサイ人の問題でした。

しかしイエスの姿勢は、罪人と呼ばれる人に徹底的に寄り添って、その人のうちに神とご自身への祈りを引き起こし、その愛の交わりの中で、その人の心を造り変えることでした。

ただし、ヨハネにとってのキリストとは、良い実を結ばない木を見つけ出して、火に投げ込むさばき主でもありました。そしてそれこそが、マラキ書に記されていた「おいでになるはずの方」の働きと思えました。

ですから、ヨハネは期待外れのイエスの優しすぎる行動に戸惑いを覚え、「別の方を待つべきでしょうか」という、イエスにバプテスマを授けたときとの比較では、あり得ないような質問をしてしまったのです。

2.「目の見えない者が見、足の不自由な者たちが歩き……」

ただ、イエスはヨハネのそのような誤解を正す代わりに、彼の弟子たちに単純に、「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい」と言われます (11:4)。

そしてその内容が、目の見えない者が見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられていますと描かれます (11:5)。

それはすべて、七百年前のイザヤが預言していた「天の御国」の成就を示すことばです。

代表的なのはイザヤ35章で、「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる」という神による「新しい創造」のことばから始まり、「神は来て、あなたがたを救われる」(4節) という宣言とともに、「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」と預言されていました。

なお、ツァラアトに冒された者たちのきよめ」に関しては、該当する箇所はありませんが、マタイ8章1-4節でイエスによる「ツァラアトのきよめ」の記述の後、17節でイザヤ書53章4節から「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った」という預言が引用されます。

これはイザヤ52章13節の「見よ、わたしのしもべは栄える」以降の「主のしもべの歌」の核心部分です。そこでは「主のしもべの姿」がまるでツァラアトに冒された人かのように、彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った」(イザヤ53:2-4) と描かれていました。

それはイエスが、他の人のツァラアトをご自身の身に引き受けられたかのような表現です。

また、死人たちが生き返る」ことに関しては、イザヤ26章でユダの地の希望の歌として「 (ヤハウェ) よ。あなたはこの国民を増し加えられました」(15節) ということばから始まり、「あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります……地は死者の霊を生き返らせます」(19節) という復活預言が記されていました。

また貧しい者たちに福音が伝えられる」とは、イザヤ61章1、2節に「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒すため、主 (ヤハウェ) はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主 (ヤハウェ) の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために」と記されていた預言を思い起こさせます。

なお、ルカ4章16節以降では、イエスの宣教のわざはナザレの会堂で、このイザヤ61章のみことばを朗読し、「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」という宣言から始まりました(21節)。

ただ不思議も、その際イエスは、「われらの神の復讐の日」ということばを省いて、この61章をお読みになられました。それは、キリストの初めの来臨(初臨)によってではなく、世の終わりの再臨のときに成就することだからです。

実は、旧約に預言された救い主は、神のさばきをも同時に実現する方のはずでしたが、イエスはクリスマスを指す初臨においては民の救いを実現し、再臨においてはさばきを実現するというように、旧約の預言を二回に分けて実現する方としてご自身を紹介しておられます。

ただ、それは当時の人々に理解し難かったので、イエスは「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(11:6) と念を押すように言われました。当時のユダヤの社会的弱者は「羊飼いのいない羊の群れ」として、主の御教え(トーラー、律法)を守ることが困難な状況に置かれていました。

たとえば安息日律法では、「あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジ20:10) と厳しく命じられていましたが、その解釈があまりにも人を束縛し、苦しみを固定化するものとなり、もはや「安息日を『喜びの日』と呼び、主 (ヤハウェ) の聖日を『栄えある日』と呼ぶ」(イザヤ58:13) ことができなくなっていました。イエスが敢えて安息日に多くの人々を癒されたのは、安息日の本来の喜びを回復させるためでした。

しかし、当時の律法学者たちには、イエスが安息日律法を軽んじ、取税人や遊女をあまやかす、堕落した指導者にしか見えませんでした。

イエスは「律法」の「文字」(Ⅱコリ3:6) を守りたくても守ることができない人々に徹底的に寄り添い、律法の本来の意味、神の恵みとあわれみを人々に指し示し、彼らの信仰を回復させてくださったのです。

しかも、イエスの癒しのみわざはすべてイザヤが預言していたことの成就でした。私たちはそれらをあり得ない奇跡物語かのように疑うことがありますが、その一つひとつが、「神の国」預言の成就だったのです。

3.「あなたがたが受け入れる意思があるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです」

11章7-10節は、「この人たち(バプテスマのヨハネの弟子たち)が行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められました」と記され、その内容が、何をあなたがたは荒野に出て行って見たのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなかれば、何を出て行って見たのですか。柔らかな衣をまとった人ですか?見なさい。柔らかな衣を着た人なら王宮にいます。そうでなければ、何を出て行って見たのですか。預言者ですか。そうです。あなたがたに言いますが、預言者よりもすぐれた者です。この人こそ、次のように書かれている人です。『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの顔の前に遣わす。その者はあなたに先立ってあなたの道を整える』と」と記されます。

そこでイエスは、ご自身が「救い主」であることを前提に、ヨハネがイエスの「顔の前に」遣わされる者であることを語りました。なおこれはマラキ3章1節の引用で、そのヘブル語訳では、「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの(顔の)前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る」と記されます。

つまり、ヨハネは神ご自身の到来の前に道を整える偉大な働きを担う者として描かれているのです。それは救い主の到来と、神の到来が同じような偉大な意味を持っていたからです。ヨハネは、救い主を知らせるという以前に、天地万物の創造主の到来を告げる偉大な人でした。

しかも、救い主の到来に関して、マラキ書では(ヤハウェ) ご自身の到来として、「あなたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る」と記されています。マタイ3章3節でもヨハネの働きが、イザヤ40章3節の(ヤハウェ) の道を用意せよ。荒地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」ということばから引用されて説明されます。

そこに描かれるのも、救い主の到来というより、神による「新しい創造」の道を開くことでした。だからこそイエスは、ヨハネを「預言者よりもすぐれた者」と紹介しながら、その姿が「風に揺れる葦」のように人の意見に左右される者でも、また「柔らかい着物を着た人」のように権力に取り入って「贅沢に暮らす」ような人ではないと描いているのです (11:7、8)。

なお、ヘロデ・アンテパスのコインには「風に揺らぐガリラヤの葦」が描かれていたとも言われます。ヨハネはユダヤの王を上回る存在なのです。

その上でイエスは、「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」と述べます (11:11)。これはヨハネが、アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤなどよりも勝っているという途方もない発言です。

しかも、さらに驚きなのが、「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」ということばです (11:11)。これはイエスが、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです」(5:3) と言われたように、キリストの弟子たちを指します。

それは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです(そこには新しい創造があります)。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(新しいものが到来しました)」と記されているように、キリストのうちにある私たちのうちには「新しい創造」があるからです。

旧約の民が憧れていた祝福の時代に私たちは入れられているのです。ですから、旧約の最高の人物より私たちは偉大な存在とされているのです。それは私たちの内に、創造主である聖霊ご自身が住んでおられるからです。

それをどれだけ私たちは理解しているでしょうか。パウロは、「この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているかどうかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:14、15) と記しています。私たちはもうこの世の価値観で、その価値を計られる必要がなくなったのです。

その上で、「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(11:12) と記されますが、この解釈は二つの極端があります。

ルカ16章16節では、「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています」と言われます。それはバプテスマのヨハネ以来、イエスのもとに取税人や遊女たちが押しかける様子を語ったもので、それと同じ意味とも理解できます。

しかし、ここは「天の御国」が反対者から力ずくの激しい攻撃を受けていると考えた方が良いと思われます。それはバプテスマのヨハネがヘロデ・アンテパスに捕らえられ処刑されたこと、またイエスが後に十字架に架けられて殺されることを指しているとも理解できます。

そこには、天の御国が力づくで奪い取られようとしながら、実は、それを通して神の不思議な計画が進んで行くことを示唆しているとも言えます。

そしてイエスは、「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。あなたがたが受け入れる意思があるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。耳のある者は聞きなさい」(11:13-15) と言われました。それは、バプテスマのヨハネこそが、旧約預言の最後に預言されている再臨のエリヤであるという意味です。

そしてそこでのエリヤの働きとは「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである」(4:6) とあるように、人々の心を神の愛に立ち返らせることにありました。

ヨハネの働きは、神の厳しいさばきへの備えとしての悔い改めを促すことで、世で言う最高の道徳教師とは、イエスではなくヨハネでした。

しかしイエスの場合は、神の厳しいさばきを身代わりに引き受けられました。それは過去のどの預言者も明確には語ることができなかったことでした。救い主がイスラエルの王として彼らの罪を負って十字架にかけられ、それによって天の御国が全世界に広がるなどということを。誰が預言できたでしょう。

その意味で「天の御国」は奇想天外なものでした。イエスこそは、世界を根本から造り変える「救い主」でした。

かつてヨハネは、自分のバプテスマとキリストのバプテスマを比較しながら、「この私はあなたがたにバプテスマを授けています。それは水による、回心のためのものです。しかし、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履物を脱がして差し上げる値打ちもありません。その方は、あなたがたにバプテスマを授けられます。それは聖霊と火によるものです」(3:11) と述べていました。

ヨハネのバプテスマは、心の方向転換を生み出す水によるバプテスマでしたが、救い主が私たちに授けるバプテスマは、「聖霊と火によるもの」だというのです。そこには先のマラキ書に記されているように、恐怖が伴います。

聖霊は私たちの心の内側に働き、神のみこころを行いたくなるように、私たちの意志を整えます (エゼキエル36:27)。また、「」には、私たちの心を「精錬する」力があります。たとえば、私たちは本質的に自己中心的で、「神のために働く!」と言いながらも、いつもそこに名誉心や、人に影響力を発揮したいという権力欲が伴いがちです。

精錬のための火」は、それらの不純な思いをきよめて「純粋にする」力があります。しかし、ほとんどの場合は、そこには大きな痛みが伴います。なぜなら、私たちは自分が傷つくことによってしか、「私は変わらなければならない!」と心の底から願うようにはならないからです。

映画「赦しの力」の主人公ハンナの父親は、若い時の麻薬中毒の中で彼女を誕生させ、逃亡しましたが、その後の絶望的な病の中で、視力を失うとともに、霊の目が開かれてイエスを救い主と信じ、「神の子」とされたことをアイデンティティーの核心としました。

そのような自業自得の絶望の中で人がイエスに出会うことができることこそが、十字架の福音の圧倒的な魅力です。そしてそれが次の絶望に打ちひしがれている人を希望で満たします。

バプテスマのヨハネは最も偉大な人間でしたが、私たちは彼にまさる存在です。それはキリストが聖霊によって私たちのうちに住んでおられるからです。すべての人間的な尺度を超えた「新しい創造」がここに始まっています。

しかも、それはキリストの苦難に預かることによって明らかにされる逆説でもあります。人は傷つくことを恐れますが、そこを通らなければ見えない世界があるのです。