映画「赦しの力」〜詩篇98篇

先週金曜日、皆様にご紹介した映画「赦しの力」を洋子と見てきました。とってもとっても感動的でした。ぜひ一人でも多くの方々にご覧いただきたいと思います。もちろん、感染対策を確保した上での話ですが、あまりにもストレートな伝道映画なので観客はそれほど多くはありません。でも、妙な伝道臭さもなく、とっても見ごたえがあると思います。以下は予告編です。

:今週木曜日までは10時45分と20時35分の二回のみ、金曜日は18時00分からの一回のみ。来週見ていただけるかは分かりません。

英語の原題は Overcomer(克服者)です。何の希望も持てなかった人が、キリストにあっての Overcomer(勝利者、克服者)とされるという話です。

日本語題の「赦しの力」だと、何となく、人間的な努力がイメージされますが、イエスを救い主として受け入れる者に生まれる「新しいいのち」が描かれています。

様々な理由で映画に行けない方も、ぜひ下記の詩篇98篇と共に、キリストにある「新しい歌」を思い巡らしていただければ幸いです。

昨日、週報に記載したエレミヤ29章11節も鍵のことばでした。またエペソ人への手紙1、2章の適用もすばらしかったです。自分自身のアイデンティティを主に会って築きなおすということで、先日の You Say という曲の内容がぴったりです

新しい歌を 主 (ヤハウェ) に歌え

主は奇しいみわざを行われた

主の右の御手 聖なる御腕が

主に勝利をもたらしたのだ

……

地の果てのすべての者が

私たちの神の救いを見ている」(詩篇98:1、2)

この詩篇には96篇と重なる表現が多く見られます。ただ、3節で「地の果てのすべての者が 私たちの神の救いを見ている」とあるように、今、すでに成就している「救い」が強調されています。

クリスマスの有名な讃美歌では、「諸人こぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし 主は来ませリ……主は、主は来ませリ」と歌われます。一方、英語圏では同じメロディーにより、この詩篇をもとにした 作の歌詞が、「世界への喜び!主は来られた!地にその王を迎えさせよ すべての心に王のための部屋を用意させよ そして天も自然も歌え……天も、天も自然も歌え」と歌われています。

ただし、この詩篇が描いている「救い」は、何よりも出エジプト記14章に描かれたことで、イスラエルの民がエジプト軍の追撃から逃れる際、主が海を二つに分けて民を海の底の道を通すとともに、主が海をもとに戻してエジプト軍を滅ぼしたことを指しています。

その主の勝利が「主 (ヤハウェ) よ、あなたの右の手は力に輝き、主 (ヤハウェ) よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く……あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ」と歌われていました (出エジ15:6、12)。

これをもとに、この詩篇の1節の「主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ」と記されているのだと思われます。

現代の私たちにとっての「救い」は、この記事を基にして、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と記されています (Ⅰコリント10:1、13)。

つまり、出エジプトの救いは、目の前の道が閉ざされて、絶望しか見えないというときに、今も、「脱出の道」が主によって「備え」られることの根拠として理解できるのです。しかも、この世界を父なる神とともに創造された神の御子が、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担」うために人となり (イザヤ53:4)、ご自身の十字架で「死の力を持つ者」を「滅ぼして」くださいました (ヘブル2:14)。ですから、キリストのうちに生きる者にとっては、最終的な「勝利」は保証されていると断言できるのです。

4節では「全地よ 主 (ヤハウェ) に喜び叫べ」と歌われ、それが8節までの全被造物に対する賛美への呼びかけになっています。そして、9節で繰り返される「主のさばき」こそが、全地の被造物にとっての「喜び」の根拠とされています。しばしば、主の「救い」が、死んでも天国に行けることとして描かれます。それは決して誤ってはいませんが、聖書が描く救いは、より現実的なことです。それはこの地の権力者や金持ちたちの横暴が、現実に「さばかれ」ことによって「脱出の道」が開かれることかもしれません。

そして、神の「さばき」とは何より、最終的にこの世界をご自身の平和(シャローム)で満たすことを意味します。全被造物は、神のさばきを喜び歌います。しかし、「神のかたち」に創造された人間は、愚かにも自分を神として、神のさばきに反抗しようとします。だからこそ、アイザック・ウォッツが歌ったように「すべての心に、王(である主)のために、部屋を用意して」、主の救いを心に迎え入れさせる必要があるのです。私たちが自分の心の中に、「王である主」(6節) を迎え入れることから「救い」が始まるのです。

祈り

主よ、あまたは、海を二つに分けてイスラエルの民のために「脱出の道」を開いてくださいました。「神の救い」は、私たちの目に見える現実的なものであることを感謝します。王である主のあなたが、いつも私たちの心の中をご支配ください。