マタイ10章24〜42節「神の真実に信頼する真実な歩み」

2020年6月28日

日本最古の道徳規範として西暦604年に聖徳太子が作ったと言われる十七条の憲法があります。その第一条は「和を以って貴しと爲し、忤(さから)ふこと無きを宗と爲す」です。そして第十七条は、「それ事は独り断(さだ)むべからず、必ず衆とともに宜しく論(あげつら)ふべし」と記されています。

それ以来、日本では、何ごとでも「みんなで決めた、そこに一致がある」ということが正しさの論拠とされてきました。それが悲惨な太平洋戦争を生み、また、原発事故を生み、また、最近はコロナ対策でのアベノマスク配布に至っています。

ある村社会の中で反対論が述べにくいという空気感はときにキリスト教世界にも生まれます。しかし、信仰者の歩みとは、ときに周りの人々に反対されてでも、神の御前での良心のゆえにそうせざるを得ないという道に従うことです。そして、神はそのような誠実さに正しく報いてくださいます。

1.「そんな雀の一羽でさえ」「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられている」

10章24、25節は、「弟子は師以上の者ではなく、しもべは主人以上の者ではありません。それで十分です、弟子が師のように、しもべが主人のようになれるなら。もし、家の主人がベルゼベルと呼ばれるのであれば、ましてその家の者たちはどうでしょう」と記されています。

現実の世界では、弟子が師匠の能力や成果を超えることは、全く珍しいことでなく、それでこそ社会が発展すると言えますが、ここでは師匠であるイエスが悪魔の親分のように言われていることを前提に、弟子が社会からひどい評価を受けることの必然性を語っています。

私たちは、この世的には、十字架に架けられた犯罪人の弟子となっているのです。ですから、社会の人々から誤解され、中傷されることを恥じる必要はありません。

続けて、「ですから、彼らを恐れてはなりません。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られないものはありません」(26節) と記されます。

ここの「ですから」という接続詞を省くと、「あなたが陰でこそこそ隠れてやっている悪事や、内側の醜い思いが露わにされる」という恐怖に捉えられます。

しかしこの文脈では、「人から悪口雑言を言われることを恐れる必要はありません。あなたが人々から反対されたり誤解されたりしながらも、誠実に行っていることは、やがて露わにされて人々に分かってもらえる時が来きます。ですから、現在の人の評価など気にせず、誠実を尽くすべきなのですよ」という語りかけになります。

そのことがさらに、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい(27節) と展開されます。これは、イエスのことばの正しさがやがてすべての人に明らかになるという前提で、人の誤解や中傷を恐れずに、イエスのことばを大胆に言い広めることの勧めです。

イエスの説教には、山上の垂訓のように一般民衆に分かりやすく語られたこともあれば、弟子たちにだけひっそりと語られたこともありますが、イエスが隠れたところで当たられたこともそのまま成就するということを前提に、「語ることを恐れる必要はない」と言われたのです。

さらにイエスは、恐れてはなりません、からだを殺しても、たましいを殺すことができない者たちなどを。むしろ、恐れなさい、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方のことを」(28節) と言われました。ここでは「恐れてはならない」と「恐れなさい」ということばが矛盾することなく記されています。

これはこの前後の文脈では、神がやがてイエスに敵対する勢力の「たましいもからだも」、ともに「滅ぼすことができる方」が最終的にさばいてくださるので、目先の迫害者などを恐れる必要はないという意味です。

実は、「恐れてはならない」という命令形は聖書に最も頻繁に登場するものです。ただここでは「神を恐れなさい」ということばとセットになっているのが興味深いことです。私たちは、真に恐れるべき方を恐れることによって初めて、この世の権力者やその背後のサタンへの恐れから解放されることができます。

そのことを説明することばが、「二羽の雀は一アサリオンで売られていないでしょうか。その一羽でさえも、地に落ちることはありません、あなたがたの父から離れて。また、あなたがたの頭の髪の毛さえも、すべて数えられています」(29、30節) と記されます。

一アサリオンとは一デナリの十六分の一の金額です。一デナリは当時の労働者の一日分の給与です。それを仮に5,000円と考えると一アサリオンは300円あまりに相当しますが、ここでは一羽単位で売られることさえない雀のような安っぽい「いけにえ」でも、「あなたがたの父」と呼ばれる神の御許しなしには地に落ちることがないという、神の愛に満ちたご支配の現実を指しています。

また通常は、「あなたの頭の髪の毛」を数えることができる人はいないと思いますが、その髪の毛の数さえも神によって一本一本が見分けられているということです。現代の問題に適用して語るなら、神の御許しなしにあなたは新型コロナウィルスに感染することはないという意味になります。

私たちはあまりにもいろんなことを自然現象として説明しますが、自然にしても Nature にしても創造主の存在を前提としない概念で、そのような概念はヘブル語にはありません。聖書的に見ると、台風も火山活動も地震も津波もまたコロナウィルスの蔓延も、自然現象と呼んではならないことです。

しかし、同時に、それに神のみことばを超えた解釈を加えて、「これは神のさばきだ……」などと安易に断定してもなりません。ただ、すベてが神のご支配の中にあることなので、そこにも希望を見出すことができるということは言えます。それは、すべての苦しみは、神にあっては無駄にはならないという確信にもつながります。

それでこの結論は、「ですから、恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです(多くの雀とは異なっているのです)」(31節) と記されています。神は二羽の雀にさえも区別をつけて見ておられ、頭の髪の毛さえも数えておられます。

同じように神は、あなたを集団の一部とは見ていません。一人ひとりに区別をつけて、そのユニークな価値を認めておられるということになります。神はあなたを十把一絡げに扱うことはなさいません。あなたの存在には、特別な固有の価値があるのです。

2.「わたしが来たのは、平和をもたらすためではありません、剣です」

10章32、33節では、「ですから、だれでも人々の前でわたしを認める(告白する)なら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認め(告白し)ます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う(否定する)者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言い(否定し)ます」と記されます。

ここでも、「ですから」という接続詞があるように、これは「恐れ」に囚われずに自分を十字架に架けられたイエスの仲間と認めるかどうかが、天の父との関係に直結することを語ったものです。

イエスを「認める(告白する)」とは、「私はイエスのものです(イエスに属します)」と公に「告白する」ことです。これはローマ帝国での迫害下では、命がけの告白になりました。それは、ときにクリスチャンの愛の交わりに居心地の良さを感じて、「私はイエスを主と告白します」と仲間入りしていながら、信仰のゆえに迫害を受けるようになると、「私はイエスの弟子の仲間ではありません」と自分の信仰を否定するような者への警告です。

自分の立場が危うくなったとたん、人々の前でイエスが救い主であることを否認するような者は、天の御国の民として認められることはできません。その人に「永遠のいのち」は存在しません。

とにかく、信仰告白とは、神と人との前で同じであるべきで、人の顔色を見て自分の信仰的立場を否定することなどあり得ないのです。自分をクリスチャンと自称しながら、父なる神の前でイエスから「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち。わたしから離れて行け」(7:23) と言われるなら、何という悲劇でしょう。

ただ、それでも何よりの慰めになるのは、イエスの一番弟子と自認していたペテロは、イエスが捕らえられた時、「あなたもあの人たちの仲間だ」と指摘されながら、三度も「そんな人は知らない」と言ったばかりか、三度目は「嘘ならのろわれてもよいと誓い」ながら、自分はイエスの仲間ではないと言い張りました (26:69-74)。

そして、キリスト教会はそのような軟弱なペテロの信仰告白の上に成り立っています (16:18)。それは、私たちの信仰告白は人間の意志の力によるのではなく、創造主なる聖霊の働きによるからです。

それをパウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということはできません」(Ⅰコリント12:3) と記しています。ペテロは、「イエスを私の主」とするという信仰告白が、イエスの祈りと聖霊のみわざによるということを明らかにするために、自分の最大の恥を世の人々に明らかにしたのです。

34節では、「思ってはなりません」という驚くべき宣言から始まり、人々の常識を覆します。それは、イエスが、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしが来たのは、平和をもたらすためではありません、剣ですと言われたという驚くべき逆説です。

平和(シャローム)」は、神の救いのご計画の目的地です。イエスはこの地に神の平和(シャローム)を実現するために来られたというのは、信仰告白の核心です。ところがイエスはその真逆を言われました。

それはかつて預言者エレミヤが、滅亡寸前のエルサレムに向かっての偽預言者たちのことばを、「彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安(シャローム)がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(エレミヤ8:11) と描いたのと同じです。これはかつての大日本帝国が中国大陸に押し入りつつ、同時にアメリカとの全面戦争に突入し、その中で、「神国日本は不滅である」と言ったようなものです。

実はエルサレムが滅亡に向かっていたときの偽りの平安感と、当時の日本人の気持ちは似ています。昭和15年10月に青山学院グランドに集まったクリスチャンたち は、「神武天皇国を肇め給いしより二千六百年皇統連綿として……新たに大東亜の新秩序の建設に邁進しつつあり、我ら基督信徒もこれに即応し教団教派の別を捨て合同一致をもって国民精神指導の大業に参加し……」と告白しながら、日本的な一致の中に平安(平和:シャローム)を見出そうとしました。

これは、日本国内での見せかけの信徒の平安を優先して、より大きな災いに向かった例とも言えます。

そして35、36節では、さらに恐ろしいことをイエスは、「それは、わたしが来たからです、人をその父に敵対させるために、娘をその母に、嫁をその姑に。そのようにして、家の者たちがその人の敵となるのです」と言われました。

これはミカ書7章6節の預言の引用で、そこでは、終わりに日に起きる家族間の敵対関係が、「子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする」と描かれていました。

ただそこでは続けて、預言者ミカは、「しかし、私は主 (ヤハウェ) を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる」(ミカ7:7) と記しています。これは家族を敵に回してでも、神との交わりを第一にし、神に期待し続けるという信仰告白です。

それと同じことをイエスは、ここで続けて、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者はわたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのち(たましい)を得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのち(たましい)を失う者は、それを得るのです」(37-39節) と言われます。

これは、イエスによって始まった天の御国に入ろうとする者は、それまでの生活習慣から抜け出て、主の招きに応じるため、ときにそれまでの親子関係すら捨てる必要があることを意味します。それはこの世的には周りの人々すべてを敵に回して、社会的な死を、または肉体的な死を迎えることかもしれません。

なお、「自分の十字架を負ってイエスに従う」とは、決して重い課題を担って苦しむというようなことではなく、この社会で十字架刑にふさわしい犯罪人と見られることを意味します。

これは、自分としてはイエスに従っているつもりなのですが、周りの全ての人から悪口雑言を言われながら歩むことです。これほど損な生き方はありません。しかし、そこでこそ、キリストにあるいのちの喜びを体験できるというのです。

(ヤハウェ) はアブラハムを当時の繁栄の中心地カルデヤのウルから召し出したとき、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民(くにたみ)とし、あなたを祝福し……あなたは祝福の基となる(創世記12:1、2、最後は共同訳)と言われました。

たといクリスチャンホームで育ったとしても、私たちは親の信仰から離れて、自分自身の決断で、神の導きに従うという決心がなければ「祝福の基となる」ことはできないのです。

3.「預言者を受け入れる人は、預言者の報いを受けます」

10章40節でイエスは、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」と言われました。これはイエスの弟子たちが、イエスの弟子であるという理由で迫害を受けているときに、その人々を匿うようなことを指します。

たとえば、第二次大戦下、多くのユダヤ人が強制収容所に送られましたが、オランダのヴィクトール・クーフレルは「アンネの日記」で有名なフランク一家8人を書棚の後ろの狭い部屋に二年間匿い続けました。残念ながら、その後、みんなドイツの秘密警察に逮捕され、強制収容所に送られて死んでしまいます。ただその中で、父親のオットー・フランクだけが生き残り、娘のアンネの日記を出版し世界中に知られるようになります。

今も、彼らの隠れ家はアムステルダムの観光名所の一つです。彼らを匿ったクーフレルは、後にイスラエルから「諸国民の中の正義の人」の称号を贈られます。日本では杉浦千畝ただ一人ですが、世界中にはこの称号を贈られた人が27,362人もいます(ポーランドに6,992人、オランダに5,778人)。

彼らはどこにいても、配偶者と共に一生涯その生活が保障され、最高の医療を受ける保証も与えられています。これは、ユダヤ人を守った人の場合ですが、その同じ精神が聖書の中に流れています。

イエスもそれに沿って、イエスの弟子を受け入れる者は、イエスを受け入れていると言われました。ですから、私たちは自分の信仰のゆえに周りの未信者の方にご迷惑をおかけすることがあったとしても、イエスはその未信者の愛の行為を、ご自身への愛の行為として受け止め、さらに、イエスの父なる神がその愛に報いてくださるということです。

信仰とは、人と人との結びつきで表現されます。たとえば、誰かに短時間でインスタントに信仰告白に導かれた人がいても、その信仰告白が真実かどうかは、他の信仰者を受け入れるかどうかで判断されます。

一方、明確な信仰告白に導かれていなくても、キリストの弟子を受け入れるという行為自体が、その人がイエスと父なる神によって受け入れられている証しとなります。

そのことが預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また義人を義人だからということで(義人の名によって)受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます」(41節) と記されます。

これは途方もない約束です。預言者のいのちを保護する者は、神から預言者と同じ功績者として認められるというのです。これはたとえば預言者エリヤの生活を一握りの粉と壺の油で支えたシドンツァレファテの女や (Ⅰ列王記17章)、預言者エリシャを支えた「シュネムの女」(Ⅱ列王記4章) に適用できます。

ですから、私たちの信仰は、口先の信仰告白よりも、その生活においてどちらの側に就くか、誰を守ろうとするかということに現わされるのです。私たちは自分が「義人」であると認識することには注意深くあるべきですが、「義人を受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます」という保証に、希望を見出すことができます。

パウロはローマ人への手紙10章9節で、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」と記しています。しばしば、これが信仰告白による救いの保証と見られますが、実は、この告白はときに、いのちがけのことでした。イエスを主と告白することが死刑の理由になっても告白し続けることを意味するからです。

それは、「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じる復活信仰とセットになっています。私たちは、神が私を栄光の姿へとよみがえらせてくださると信じるからこそ、肉体的な命さえ犠牲にして信仰を全うすることができるのです。復活信仰こそ、試練や迫害に耐えるカギとなっています。

さらにイエスは、「この小さい者が、わたしの弟子であるからというので、たった一杯の冷たい水でも飲ませる人は、まことにあなたがたに言います、その人は決して報いを失うことはありません」(42節) と言われます。

私たちの周りには、福音を理解しようとしなくても、私たちの信仰を何らかの意味で応援してくれている人が意外に多くいます。日本的には、自分自身の信仰を守るために周りの人に迷惑をかけることは悪いことのように感じられますが、私たちはこのイエスの約束に慰めを見出すことができます。

まわりの多くの人々は、あなたの信仰生活を応援するために、「たった一杯の冷たい水を与える」こと以上のことをしてくれてはいないでしょうか。イエスはその愛の行為をご自身に対する愛の表現として受け止め、その人は決して報いを失うことはない」と保証してくださいました。

これがいわゆる聖書に約束されている最終的な「救い」を意味するとは言えません。ですから、周りの方々が明確な信仰告白に導かれるように祈り、そのため最善を尽くすことは大切です。

しかしこの文脈では、「預言者を受け入れる者は預言者の受ける報いを受ける」、「義人を受け入れる者は義人の受ける報いを受ける」と記されているのですから、その「報い」は、その人が自分の罪のゆえに燃えるゲヘナに落とされながら、生前の水一杯への報いとして、冷たい水をもらえるというような小さなものではありません。

私たちはこの約束を信じることで、自分の信仰のゆえに周りの人に迷惑をかけることの負い目から解放されます。私たちは周りの未信者に、キリストの弟子を助ける機会を与えることで、その人にイエスからの報いを保証していることになります。ですから、人の迷惑などを気にせずに、イエスに従うという生き方を堂々と全うできます。

私たちはシャローム(平和、平安、繁栄)の完成を待ち望んでいます。 ただイエスは、それに至る道として、平和ではなく、家族の敵対関係が生まれると言われました。ただ、それは一羽の雀にさえ目を留める全知全能の神のご支配の中で起きることです。

そして、私たちの信仰とはときに、村社会の中ではみ出し者とされた人にどのように接するかに現わされます。この日本社会は、予定調和の中に納まらない人に驚くほど冷たい面があります。しかし、イエスは最も小さい者の一人に誠実を尽くす人に、豊かな報いを約束してくださいました。

私たちは義人になれなくても義人を助けることで義人と同じ報いを保証されています。私たちは他の人の評価ではなく、神の眼差しを意識して人に誠実を尽くすべきです。