Dona Nobis Pacem〜詩篇85篇

最近、Dona Nobis Pacem(give us peace)という曲を聞いて深い慰めを受けました。これは当教会のゴスペル教室で歌われているもので、以下のサイトからお聞きいただくことができます

これは伝統的なラテン語の歌で、Dona(与えてください) Nobis(私たちに) Pacem(平和を)という歌詞がただ繰り返されます。

この背後には詩篇85篇の祈りがあります。

この詩では1-3節に描かれた神のあわれみへの賛美と、4-7節の切羽詰まった懇願の不安が対照的です。それを過去と現在の対比と見る翻訳も多くありますが、ヘブル語には英語のような時制の区別はなく、外側から見るか内側から体験するかの視点の違いとも解釈できます。ここでは、神の永遠のご性質とみわざを歌うことと、それに反しているように見える現実の内側からの民の心の叫びの対比が描かれていると思われます。

私たちの目の前にも、ときに何とも言えない争いや葛藤が現わされ、そこに神の怒りが感じられることがあるかもしれません。しかし、それでも、神の永遠のあわれみの原則を知っているからこそ、今の気持ちを大胆に訴えることが許されます。それこそ詩篇の祈りの最大の魅力と言えましょう。

その反対に、親の顔色をいつも窺っているような子供は、自分の願いを大胆に訴えることができません。自分の気持ちをダイレクトに訴えると、かえって親の反発を招くと恐れるからです。

それで真実の親子関係のように、この詩では、「あなたは 御民の咎を担い すべての罪を おおってくださいます……燃える御怒りから身を引かれます」(2、3節) と、人間の罪に対して神ご自身が解決を示してくださるという永遠のご計画がまず歌われます。これこそ、神がご自身の御子を私たちの咎を担わせるためにお送りくださった十字架の愛です。

詩篇作者はそれを知りながら、敢えて現在の悲惨な状況下から、「私たちへの御怒りをやめてください あなたは とこしえに 私たちに怒られるのですか」と、子供のように訴えます (4、5節)。著者は神の怒りの原因が民の罪にあること、また、神の怒りが「とこしえ」ではないことを理屈の上では分かっていますが、正直な今の気持ちとしては、神が「代々に至るまで 御怒りを引き延ばされる」(5節) ように感じられているからです。

ただ、それでなお、「あなたは帰って来て 私たちを生かしてくださらないのですか」(6節) と問いかけます。神はかつて、民の偶像礼拝の罪のために、エルサレム神殿を立ち去り、その結果、バビロン帝国が神殿を滅ぼしました。その因果関係を知っているからこそ、著者は、神の帰還の可能性を尋ねます。そればかりか、なお大胆に、「お示しください。あなたの恵みを。お与えください。あなたの救いを」(7節) と訴えかけています。

8節からは、民に対する励ましが記されます。その核心は「主は 御民に平和 (シャローム) を告げられる、その誠実な者に。彼らが再び愚かさに戻らないために。確かに御救いは主を恐れる者たちに近い」という主のご性質に希望を抱くからです。

その上で、「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」(10節) と印象的に歌われます。その意味は、11節に「まことは地から生え出で 義は天から見下ろし」とあるように、天からは「恵み」と「義」が「見下ろし」ます。「恵み」とはヘブル語のヘセド「変わらない愛」であり、「義」は神のご自身の契約に対する真実さで、このふたつは同じような意味があります。

それに対応するのが「まこと」と「平和」で、前者は「アーメン」と同根のことばで人に信頼を生み、後者の原語はシャーロムで「平和」と同時に繁栄を意味し、それらが地から「生え出で」成長し、天と地が一つになるように「ともに会い」「口づけ」するというのです。

祈りとは、主の永遠の愛を賛美しながらも、今感じて不安を、子供のように正直に、大胆に訴えることです。私たちはそのような神との対話を通して、主の「恵み(契約の愛)」と「義(真実)」に対応するこの地の「まこと」と「平和」の成長を期待できるのです。

しかも、Dona Nobis Pacem(私たちに平和を与えてください)とひたすら繰り返して祈るように、平和を作り出すのはあくまでも主ご自身のあわれみです。残念ながら、私たちは平和を拙速に作り出そうと動くことで、神の平和を遠ざけることがあります。平和運動が戦いに発展するという歴史がときに見られます。神の時を待つことの大切さを思わされます。

祈り

主よ、あなたの恵みと義のみわざに感謝します。しばしばそれを忘れて心が騒ぎますが、あなたがそれを受け入れ、この地に、まことと平和を成長させてくださいますように。