Ⅱ歴代誌31章1節~34章7節「右往左往せずに神を求める」

2020年6月7日

1904年の日露戦争で日本がロシアに勝ったことは、当時の世界では奇跡と見られました。なにしろロシア陸軍はその約100年前にヨーロッパを支配したナポレオンを打ち負かした世界最強の軍隊でした。当時の国内総生産比較ではロシアは日本の八倍の国力がありました。

それよりもはるかに不思議なのが、当時、世界最初の民族を超えた大帝国を築いたアッシリアが、エルサレム攻撃に失敗したことです。詩篇46篇はその勝利を導いた讃美とも言えます。

ヒゼキヤはこれを聖歌隊に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、すぐそこにある助け……」と歌わせたことでしょう。すると文字通り「神は夜明け前に、これを助けられる……主は地上に驚異を置かれた。主は地の果てまで戦いをやめさせ、弓を折り、槍を砕き、戦車を焼かれた」という救いが実現します。

その10節は、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(または「静まれ。そして知れ」)、『わたしこそ神、国々の上におり、地のはるか上にある』」(私訳) と、右往左往するのをやめ、主の前に静まり、主のご支配が全地覆っていることを知るようにと訴えます。万軍の主がともにおられるなら、どのような敵も恐れる必要はありません。

ところで、ロシア帝国が日本に敗北した12年後にロシア革命で滅びたと同じように、アッシリア帝国の王もエルサレム包囲から帰還後に息子によって殺され、エルサム包囲から90年後に忽然と歴史から消えました。ロシア帝国の内部はバラバラで貧しい一般民衆を軍事力で抑え込んでいましたが、アッシリア帝国もその野蛮さのゆえに自滅したと言われます。暴力支配の危うさを覚えさせられます。

しかし、アッシリア軍を退けたエルサレムはそれから約100年後に滅び、ロシアに勝利した大日本帝国もその40年後に大敗北を喫します。その原因は、二つともその高慢の故でした。

実は、三千年の歴史は、現代の私たちにとっても大きな意味があります。人間は変わっていないからです。

1.「主 (ヤハウェ) が御民を祝福されたので……」

30章には、ヒゼキヤが単独の王として支配を始めた紀元前716年「第二の月に過越しの祭り」を盛大に祝ったようすが描かれていました。その際、彼はアッシリア帝国に滅ぼされた北王国の全域に使者を遣わし、エルサレム神殿に来て「 (ヤハウェ) に仕えなさい」(8節) と訴えました。

その際、「そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう」(9節) と述べました。それに応じて、「アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、へりくだってエルサレムに上って来た。また、ユダには神の御手が臨んで、人々の心を一つにし、主 (ヤハウェ) のことばどおり……命令が実行された」という感動が描かれます (30:11、12)。

そして30章21節では、「エルサレムにいたイスラエルの子らは、七日の間、大きな喜びをもって種なしパンの祭りを行った。レビ人と祭司たちは、毎日主 (ヤハウェ) に向かって力強い調べの楽器を奏でて、(ヤハウェ) をほめたたえた」という、エルサレムの信仰復興の様子が描かれます。

さらに、「エルサレムには大きな喜びがあった……ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。レビ人の祭司たち……の祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた(30:26、27) と描かれていました。

そして「これらすべてのことが終わると、そこにいた全イスラエルはユダの町に出て行き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、ユダ全土とベニヤミン」ばかりか、何とアッシリアの支配下にあったはずの「エフライムとマナセの中にある高き所と祭壇を徹底的に壊した」と描かれます (31:1)。

ヒゼキヤの父アハズは、「 (ヤハウェ) の宮の戸を閉じ、エルサレムの街角のいたるところに祭壇を造った」という、主の怒りを引き起こすようなことをしました。しかし、その子のヒゼキヤは、父が作った祭壇を壊したばかりか、その破壊の手を北王国の中心部のかつてのエフライムとマナセの地で、偶像礼拝の場を破壊したのです。

その上で「ヒゼキヤは祭司とレビ人の組を定め……」(31:2) と記されますが、これは主への礼拝の形を整えたダビデの原点に立ち返ったということです (Ⅰ歴代23:2-5、25:1-8参照)。

さらにヒゼキヤは、「エルサレムに住む民に対して、祭司とレビ人の受ける分を与えるように命じた。祭司とレビ人が主 (ヤハウェ) の律法に専念するためであった」(31:4) と記されます。これは民が自分の収入の「十分の一」をレビ人たちに献げることであり (民数18:21-24)、これは同時に、主の律法がきちんと成文化されていたことを示しています。

そして、ここで感動的に記されていることは、「この命令が広まるとともに、イスラエルの子らは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、畑のすべての収穫の初物をたくさん持ってきた。彼らはすべての物の十分の一を豊富に携えて来た……牛や羊の十分の一と……聖なるささげ物の十分の一を携えて来て、いくつもの山に積み上げた」(31:5、6) ということです。

この「十分の一」というのはヘブル語でマ・アシェルという一つの単語で、あまり頻繁に登場することばではありません。しかし、ヒゼキヤがこの原則を前面に出すと、人々はそれを喜んで実行し、主に聖別した「十分の一」が「いくつもの山」になったというのです。

それを見た「ヒゼキヤと高官たち」は、「 (ヤハウェ) とその民イスラエルをほめたたえた」と描かれます (31:8)。これは、ヒゼキヤが熱心に主に仕え、また、北王国の残りの民までも招いて盛大な過越しの祭りを祝ったことに対して、人々の心が同じように動かされたことを意味します。

ここに、指導者の主への愛が、一般の人々に影響を与え、それがまた「十分の一」のささげ物として、レビ人や祭司たちが礼拝奉仕に専念できるようになり、またそれが民を祝福するという好循環が見られます。そのことを、祭司の長アザルヤは、ヒゼキヤに「人々が奉納物を主 (ヤハウェ) の宮に携えて来ることを始めてから、食べて満ち足り、たくさん残るようになりました。(ヤハウェ) が御民を祝福されたので、その残りがこんなにたくさんあるのです」(31:10) と報告します。

その後のことが、ヒゼキヤは「 (ヤハウェ) の宮の脇部屋を整えるように命じたので、彼らは整えて、その奉納物と十分の一の聖なるささげ物を忠実に運び入れた」と描かれます (31:11、12)。

この情景は、後に (ヤハウェ) が預言者マラキを通して、「十分の一」を惜しむ民に向かって、「十分の一をことごとく、宝物蔵に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよー万軍の主 (ヤハウェ) は言われるーわたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたにそそぐかどうか」(3:10) と言われたことばの真実が、すでにヒゼキヤの時代に実現していたことを示しています。

31章14-19節には、主の家の食物」として献げられたものが、祭司やレビ人たちの家族に公平に分配されたようすが丁寧に描かれます。これは極めて現実的な記述です。主 (ヤハウェ) に対して献げられたものが「 (ヤハウェ) の律法に専念する」祭司とレビ人の家族に分配されて彼らの生活を支えることになるのです。

これは、現代的に言えば、(ヤハウェ) に対して献げられた十分の一が、教会の働きや牧師、宣教師たちの生活のために分配されることを意味します。それは、主の教えが全世界に広げられ、また、主の民の共同体がみことばによって養われ、豊かにされることとして現わされます。

31章21節にはヒゼキヤの働きが「彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕において、律法において、命令において、彼は神を求め(るためのことを)、心を尽くして行い、これを成し遂げた」と描かれます。

彼は「すべてのわざにおいて」「神を求め」ました。その結果としてユダ王国に平和と繁栄を実現しましたが、それは何よりも、主への礼拝をより豊かにするということにおいて現わされました。

2.「彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださる」

これらの真実なことが行われた後、アッシリアの王 センナケリブ が来てユダに入り、城壁のある町々に対して陣を敷いた」(32:1) と記されます。これは紀元前701年のことで、北王国がアッシリア帝国によって滅ぼされてから約21年、ヒゼキヤの宗教改革から15年間が経過してのことだと思われます。

センナケリブ(ニネヴェにある彼の宮殿のレリーフ)

このような時間的な猶予が与えられていたのは、主 (ヤハウェ) がヒゼキヤによる信仰復興を、国際情勢を支配しながら守っていてくださったという意味だと思われます。

アッシリア帝国はこの間、北のアルメニアの占領政策に忙しくしていたようですが、紀元前705年に即位したセンナケリブはオリエント統一を目指して、ユダ王国のヒゼキヤに攻撃の照準を合わせました。32章2節の原文は「ヒゼキヤは見た。センナケリブが来て、その顔をエルサレムに対しての戦いに向けているのを」と記されています。

そしてここに、有名な「ヒゼキヤ水道トンネル)」の建設の背景が描かれます(Ⅱ列王記20:20では「彼が貯水池と水道を造り、都に水を引いた」としか記されていない)。ダビデの町の北西部の城壁の外に、エルサレムの水源であるギホンの泉がありました。もう一つのエン・ロゲルは城壁の最南端からさらに300m南にありました。ヒゼキヤはそれらを敵に利用されないようにと覆いました (32:4、5)。

ヒゼキヤ水道(「コンサイス聖書歴史地図」より)

そしてギホンの泉に関してはそこにまで城壁を広げたばかりか、そこから南に533mものトンネルを固い岩盤を削って掘り進め、南端のシロアムの池にまで水路を引きました。そのことが32章30節では、「このヒゼキヤこそ、上方にあるギホンの水源をふさぎ、ダビデの町の西側に向かってまっすぐに流した人である」と記されます。

ヒゼキヤ水道

1880年になって、このトンネルと、両側から掘り進んでトンネルをつなげた感動を記した シロアム碑文 が発見されました。そこにヒゼキヤがアッシリアの大軍の攻略に対し、断固たる意志を持って対処したことが証しされます。

シロアム碑文

さらにヒゼキヤは民を励まし、「アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主 (ヤハウェ) であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる」(32:7、8) と記されています。

このときセンナケリブの本陣は、エルサレムの南西約50㎞の地にあるラキシュにありましたが、彼は使いをエルサレムの住民に送り、人々の心にヒゼキヤへの不信を起こさせようと、二つのことを中心に語ります。

その第一は、ヒゼキヤが「高き所と祭壇を取り除いて」「ただ一つの祭壇の前で拝み、その前で香をたかなくてはならない」と言って神々の怒りを買っているという説明です (32:12)。第二は、「諸国の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか」という問いかけです (32:13)。

さらにセンナケリブ自身もイスラエルの神、主 (ヤハウェ) を侮辱し」、自分の民を私の手から救い出せなかった国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出すことはできないと書いて来ました(32:17)。

また彼の使者は「城壁の上にいたエルサレムの民にユダのことばで大声で呼びかけ、民を恐れさせ、おじけさせて、この町を取ろうとした」(32:18) と描かれます。

それに対し、「ヒゼキヤ王と……預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた」(32:20) とここで突然イザヤが登場します。これは読者にⅡ列王記19章20-34節の預言を思い起こさせているのかもしれません。

とにかく、ここで興味深いのは、主のさばきが驚くほど簡潔に、「 (ヤハウェ) 御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国に帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した(32:21) と記されます。

Ⅱ列王記の記述によれば、「その夜、主の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した……アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り」(19:35、36) と神の不思議な救いが描かれます。

ヒゼキヤは屈服することも、無謀な戦いに出る必要もなく、驚くべき (ヤハウェ) の救いを体験できたのです。それは主がヒゼキヤの祈りを「聞いた」(同19:20) と言われたことが「その夜」(同19:35) 実現したということです。

ただし、センナケリブが息子たちに殺されるのはこれから約20年後のことです。ただ、主のことばの実現には、私たちの予想を超えた期間があります。大切なのは、成就したという歴史的事実です。

これらの経緯はイザヤ36,37章にもほぼ同じく記されます。同じことが三度も記録されるのは極めて異例です。これは主が紅海を分けてイスラエルの民を救い出したことに匹敵します。

さらに32章24-26節のことはⅡ列王記20章1-19節に詳しく描かれています。ただ、それはセンナケリブの攻撃の数年前の出来事と思われます。この歴代誌では、ヒゼキヤの高ぶりに、すぐに御怒りが下って、「ヒゼキヤがその心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼もエルサレムの住民もそうしたので、主 (ヤハウェ) の御怒りは、ヒゼキヤの時代には彼の上に臨まなかった」(26節) と記されていることです。

これを時間的に見ると、主の怒りがセンナケリブの攻撃として現れ、ヒゼキヤや民の悔い改めがそれに対する対応と見るなら、この経緯がよく理解できます。

歴代誌では、ヒゼキヤがバビロン捕囚への道を開いたというニュアンスを見させないようにして、27-33節では再びヒゼキヤの功績が描かれ、その最後は「ユダのすべての人々とエルサレムの住民は、彼の死に際し、彼に栄誉を与えた」という名誉ある記述で終えられます。

3.最悪の王マナセの回心、アモンの悲劇、ヨシヤによる信仰復興

33章では最悪の王マナセが登場します。彼はヒゼキヤの存命中の12歳のとき(紀元前696頃)に即位し、55年間も王座に留まります。これは二つの王国を通して最長です。ただ、ヒゼキヤの死は紀元前687年頃で、最初の約10年間は共同支配だったと思われます。

とにかくマナセの時代にアッシリア帝国は最盛期を迎え、紀元前669年にはエジプトを征服します。マナセにはヒゼキヤの外交政策があまりにも非現実的に見えたのかもしれません。当時のアッシリアは歴史上初めての民族を超えた世界帝国を築き、その支配は現代のトルコ、シリア、イラク、イランからのエジプトにまで及んでいました。その中でエルサレムだけが独立を保つというのは不可能と思うのが当然です。

彼は敬虔な父に反発するかのように、祖父のアハズに倣い、アッシリアの宗教に同化することで、王権を保持しようと考えたのでしょう。彼は「父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像 を造った」(33:3) と記されます。

その上、「 (ヤハウェ) の宮に、いくつもの祭壇を築いた」ばかりか、「その二つの庭には、天の万象のための祭壇を築いた」(33:4、5) というのです。また、祖父アハズに倣って、「自分の子どもたちに火の中を通らせ」るという モレク礼拝 まで行い、「霊媒や口寄せ」などを行いました (33:6)。

そればかりか33章7節では「彼はまた、自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置した」と記されます。神はかつて、「わたしは、この宮に……わたしの名をとこしえに置く」と約束されましたが、神がエルサレム神殿にご自身の名を置いておられたからこそ、アッシリア帝国の攻撃から奇跡的に守られていたということを、彼は全く理解していませんでした。

そしてその結論が、「マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、(ヤハウェ) イスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせた」(33:9) と描かれます。

主がイスラエルの民を約束の地に導きいれたのは、カナンの国々があまりにも堕落し、その「咎が……満ち」るという状態になっていたからでした (創世記15:16、申命記9:5)。神は癌細胞を除去するためにイスラエルを用いたのに、イスラエル自身が世界の癌細胞になってしまったというのです。

そこで、「 (ヤハウェ) はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった」(33:10) と記されます。神はあくまでマナセの回心を促しましたが、彼は聞き入れようとしませんでした。「そこで主 (ヤハウェ) は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを……連れて来られ……マナセを鉤(かぎ)で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行」かせたというのです。

しかしそこで、「彼は苦しみの中で、彼の神、主 (ヤハウェ) に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、神に祈った」(33:12、13) という大転換が起きます。それに対し、「神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻され」(33:13) るという驚くべき神のあわれみのみわざが記されます。

その結果「マナセは、主 (ヤハウェ) こそ神であることを知った」と描かれ、彼は再びエルサレムとユダの町々の防備を固め直し、アッシリア帝国に対抗する姿勢を明確にしたばかりか、「 (ヤハウェ) の宮から異国の神々と偶像……エルサレムに自分が築いたすべての祭壇を取り除き、町の外に投げ捨てた。そして、主 (ヤハウェ) の祭壇を築き直し……ユダに命じて、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) に仕えさせた」というのです (33:14-16)。

これはヒゼキヤの政治に立ち返ったことを意味します。これらのことはここにしか記されていません。マナセはエルサレムを滅亡に導いた最悪の王で、預言者イザヤをのこ引きの刑で惨殺したと言われますが、神はその極悪非道の王をも悔い改めに導いたというのです。

歴代誌は、バビロン捕囚後エルサレムに帰還した民に、神のあわれみとイスラエル王国再建の希望を語るのが目的ですから、このような悪王への神のさばきと、回心の記録を復活させたのでしょう。

マナセの後継者アモンに関しても、「彼はその父マナセが行ったように、主 (ヤハウェ) の目に悪であることを行った……しかし、その父マナセがへりくだったようには、(ヤハウェ) の前にへりくだらず、かえって、このアモンは罪過を増し加えた」(33:22、23) と描かれます。

そして、彼は何と、王位に就いた二年後に家来たちによって殺されます。それは、かつての悪女アタルヤの後に立てられたヨアシュとアマツヤという二代続いた最初は敬虔なユダの王たちと同じ悲劇ですが、宮殿内で殺されるというのは初めてです。

その理由は分かりませんが、以前の場合と同様に、外交政策の対立である可能性が高いと思われます。このときはアッシリアがエジプトへの影響力を失った直後で、外交政策の転換を迫られていたときだからです。

ところがこのときは民衆がすぐに蜂起し、王に謀反を起こした者たちをみな打ち殺し、まだ八歳のアモンの子ヨシヤを王に立てます。

ヨシヤは31年間王位に留まりますが、彼は曽祖父のヒゼキヤにまさる敬虔な王で、「彼は主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった」(34:2) と描かれます。

さらに「彼の治世の第八年、まだ若いころに、彼は父祖ダビデの神を求めることを始めた」(34:3) と画期的なことが描かれます。彼は8歳で王に立てられ、家臣たちに守られて育ちましたが、15歳になったとき、自分の意志でダビデの神との交わりを求め始めたというのです。

そして、彼が19歳になったときでしょうか、ユダとエルサレムをきよめ始めた」(34:3) と描かれます。それは具体的に偶像や彫像を破壊し、バアルの神々の祭壇を壊すことでした。そればかりか彼は、かつての北王国の支配地のマナセエフライムから北のナフタリに至る町々にまで足を延ばし、イスラエル全地で祭壇を打ち壊し、アシェラ像と刻んだ像を粉々に砕き……エルサレムに帰った」(34:6、7) と描かれ、ヒゼキヤと同じように、人々を徹底的に神に立ち返らせる働きをしました。再び最悪の父から最高の王が育ったのです。

ヒゼキヤもヨシヤも「神を求める(探す、尋ねる)」ことを大切にしました (31:21、34:3)。イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい(探しなさい)……明日のことまで心配しなくて良いのです」(マタイ6:33、34) と言われました。

マナセは父ヒゼキヤの政策を非現実的なものと評価したようですが、神は国際情勢を支配しておられます。私たちにいつでもどこでも求められていることは、主のご支配に信頼し、誠実を尽くすことです。