今日は、イエス様が十字架にかかられたことを覚える聖金曜日です。毎年行っている音楽礼を開くことができませんでしたが、それぞれが黙想の時をもっていただければ幸いです。
マタイもマルコも、イエスの十字架上のことばを一つしか記していません。それが詩篇22篇の冒頭の「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。以前、福音書だけを読んで、これに出会った時、愚かにも、「何と往生際の悪いことか……」と失望してしまいました。しかし、この詩篇22篇全体からこの叫びを思い巡らすときに、今は、「神の御子が私たちと同じ気持ちを味わってくださった……」と、心から感謝できます。私はずっと、人から見捨てられることを恐れて生きて来ましたが、それは全ての人間の根本的な恐れでもありました。そこで多くの人々は、この世と調子を合わせながら、創造主から離れて生きてしまいます。
イエスは十字架で、確かに私たち全人類の罪を負って、神から見捨てられた者となられたのですが、そのどん底の苦しみの中で、「わたしの神」と呼びかけています。父なる神が沈黙しておられてもあきらめてはいません。
6-8、11-18節では、イエスが十字架で人々から嘲られ、見捨てられた様子が生々しく描かれています。(以下は抜粋私訳)
見る者はみな、私をあざけり、
口をとがらせ、頭をふります。
「主 (ヤハウェ) にまかせ、助けてもらえ。
救ってもらえ。お気に入りなのだから。」
……
私は自分の骨をみな、数えることができるほどです。
彼らは私をながめ、ただ見ています。
私の上着を互いに分け合い、
この衣のために、くじを引きます。
この苦しみはイエスの千年も前にダビデが描いたものですが、それは全人類が心の底で恐れているものでもあります。そしてイエスは、その人間の根源的な不安をともに味わいながら、「遠く離れないでください……私を救ってください」(19-21節) と、主を呼び求め続けます。
そして、21節三行目から、主が「答えてくださる」様子が描かれます。22節は、イエスの復活の後の告白としてヘブル人への手紙2章12節で引用されます。そして、主への賛美が初代教会から現代の「地の果て」まで伝わる様子が22節以降に描かれます。
24節では、「主は……御顔を隠されもしなかった」と、冒頭のことばと正反対のことが記されています。つまり、主が遠く離れておられるように思える主の沈黙は、主の圧倒的な救いを体験するための舞台であったのです。
これを心から味わう時、私たちはどんなときにも、人の顔色を見る代わりに、主に信頼し続けることができます。
祈り
主よ、私たちは人から見捨てられることばかりを恐れて、あなたの眼差しを忘れることがあります。あなたの沈黙を、祈りを深める機会とさせてください。
聖金曜日の讃美歌と言えば以下の曲ですが、もともと10番までの歌詞があります。以下のように訳して歌うことができます。イエス様の十字架の苦しみを思い巡らすことが、私たちに不安や苦難の中での生きる力となるという逆説が歌われています。
バッハのマタイ受難曲の中でゆっくりと歌われているユーチューブの曲もご紹介します。お聞きいただきながら、以下の歌詞に目を通していただければ感謝です
O Haupt voll Blut und Wunden 主の御頭
Paul Gerhardt 1656 曲は讃美歌136番参照
- 聖き御頭 血潮に満つ
いばらかぶされ さげすまれぬ
こよなき誉れ ふさわしきを
今は あざけり ののしり受く - 貴き御顔 ああいたわし
つばきかけられ 打ちたたかる
この世のすべて 造りし主の
栄え奪うは 誰のわざぞ - 今は 隠れし 主のほほ笑み
死の闇やどす 主のくちびる
人の姿で 現われしは
この苦しみを 受くるためぞ - 主の負われしは わが罪とが
怒り受くるは われなるべき
こころ痛めて 悔ゆる者に
愛のまなざし 注ぎたまえ - わが飼い主よ 見つめたまえ
きみはすべての みなもとなり
きみが糧もて この身ささえ
きみが霊もて 活かしたまえ - きみが苦しみ 仰ぎ続け
われ御前より のがれまさじ
息引き取りし 主の御頭
我が腕をもて 抱かせたまえ - われに幸い もたらすため
尊きイエスは 苦しみたもう
生くる限りは この身ささげ
十字架の愛に われは応えん - 愛しきイエスよ 感謝あふる
きみがあわれみ とわの望み
この身冷たく 死せるときも
愛の御手もて つつみたまえ - きみが愛なお 忘れしとき
わが手をとりて 戻したまえ
恐れ惑える 暗きときも
きみが苦しみ 力なれば - 主の十字架こそ わが盾なり
いまわのときも 見させたまえ
きみが御姿 心深く
かたく据えなば やすけくあらん