受難週の詩篇〜詩篇102篇

いかがお過ごしでしょうか。最近、僕は家から教会の往復を歩くようにしています(往復1時間10分)。春の日差しを浴びながら、この後で紹介する黙想の曲を口ずさんできました。ほんとうにお一人おひとりのことを覚えてお祈りしています。何かご様子でも最近の詩篇メールの感想でもお教えいただければ幸いです。

今回の詩篇102篇7節には、「私は屋根の上の はぐれた鳥のようになりました」という表現があります。これこそお一人で家に閉じこもらざるを得ない方のお気持ちかと思います。互いに、他の人々の痛みに思いを巡らし、祈り合うことができればと思います。今日は伝統的な教会歴では、「洗足の木曜日」と呼ばれ、イエス様が弟子の足を洗ってくださったように、互いの足を洗い合う気持ちで、互いに仕え合うことを覚える日です。

詩篇102篇の標題には、この詩篇の祈りの核心の意味が、「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主 (ヤハウェ) の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。私たちも、苦しみのただ中で「気落ち」するとき、どのように祈るべきかの導きがここにあります。

この祈りは、「主 (ヤハウェ) よ 私の祈りを聞いてください」という直球のことばから始まります。そして2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。

これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られたことに通じます。絶望感をまっすぐに告白できることのなかに希望が生まれるのです。

3-7節ではその状態が驚くほど繊細で詩的に描かれ、次のように訳すこともできます。

私の日々は煙のように失せ、
骨々は炉のように熱い。
心は青菜のように打たれてしおれ、
パンを食べることさえ忘れるほど。
嘆きの声のため、
私の骨々は皮にくっついてしまった。
まさに荒野のみみずくにも似て、
廃墟のふくろうのようになっている。
私は眠ることもできず、
屋根の上のはぐれ鳥のようになった

これを見て友人のシャンソン歌手は、「まるでシャンソンの歌詞のよう」と言ってくれましたが、「演歌のよう」と言っても良いかもしれません。私たちの心が深く傷つき、絶望的な状況にあるとき、それが詩的に描かれると、深い孤独感が癒される気になります。

続けて8、9節では自分の周りが敵だらけで、その誹謗のことばに、涙がとめどもなく流れる悲惨が描かれます。そして10節ではその原因が神にあることを、「あなたが 憤りと激しい怒りのゆえに 私を持ち上げ 私を投げ捨てられたから」と訴えられます。

ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主 (ヤハウェ) よ」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。

しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身に、神のみこころの変化の時が知らされたかのように歌われます。そして14-22節では、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、そこに神ある希望を見ているのです。

ただ、それでいながら、23節では再び、「主は 私の力を道の半ばで弱らせ 私の日数を短くされました」と、自分の絶望感が、主ご自身に由来すると率直に訴えられます。しかし、不思議なのは同時に、「私は申し上げます」という枕詞とともに、「私の神よ 私の日の半ばで 私を取り去らないでください」と明確に訴えられていることです (24節)。

「運命だと思って諦め、それを受け入れよう」というのは演歌の世界です。しかし、聖書の世界では、「この苦難をもたらしたのは神であられるからこそ、希望がある。だから、神がご自身のみこころを変えてくださるように祈ってみよう」ということになるのです。

祈り

主よ、あなたは、私が自分の絶望感を詩的に表現することを助けてくださることを感謝します。私はそれを通して、自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、同時に、あなたに向かってお祈りできるようになりました。絶望感を希望に変えてください。


以下にご紹介するのは英国で様々な祈りの曲を書いているMargaret
Rizzaさんの詩篇102篇の歌です。
歌詞はその1節のみを繰り返す単純なものです

O Lord listen to my prayer, my prayer as I call to You.
主よ、私の祈りを聞いてください、あなたを呼ぶ私の祈りを