現代のコロナウィルスの悲劇の中で私たちは、「さあ、主 (ヤハウェ) に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる (After two days he will revive us; on the third day he will raise us up, that we may live before him)」(ホセア6:1) と告白することができます。
これは「彼は三日目に私たちを復活させる」とも訳すことができます。これは聖書で最も古い復活預言であると言われ、イザヤやダニエルの記述に影響を与えているとも言われます。パウロが、「キリストは……聖書の示すとおりに、三日目によみがえられた」(Ⅰコリント15:4) と告白したとき、このホセアのことばを思い起こしていたという解釈もできます。
そしてそこでは、「私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主 (ヤハウェ) を知ることを切に追い求めよう」と、イスラエルの民が主を知ることを熱心に求めるようになる様子が描かれます。
私たちにとってすべてのわざわいは、より深く主を知る契機として用いられるものです。悲惨の中で主を仰ぎ見ましょう。
1.「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に言われた、『あなたの罪は赦された』と」
イエスはガリラヤ湖の東側の異邦人の地で悪霊に憑かれた二人を劇的に癒されましたが、その地の人々は、多くの豚が湖に向かってなだれ込み、死んでしまったという経済的な損失に心を奪われ、イエスにその地から立ち去ってほしいと懇願しました。彼らは二人の癒しよりも、豚を惜しんだという悲劇です。
そして9章1節ではその後のことが、「イエスは舟に乗って渡られた、そして、ご自分の町に来られた」と描かれます。これはガリラヤ湖を横断して、その西側の中心都市のカペナウムに到着したことを意味します。そしてイエスが入って行かれたのは、ペテロの家である可能性が高いと思われます (8:14、15参照)。
そこで「すると見よ。人々が中風の人を床に寝せたまま、みもとに運んで来た」 (9:2) と簡潔に記されます。この平行記事のマルコ2章3、4節では、「彼は四人の人に担がれ……彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした」(2:3、4) と描かれています。
この訳では、この四人が家を破壊したかのような印象を与えますが、当時の家には、玄関からの入り口と、屋上からの入り口の両方があったと言われます。
実際、たとえばペテロが百人隊長コルネリオを訪ねる前、使いの者たちがヨッパの町の近くに来た頃、「ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった」と記され、彼らがペテロの泊まっている家の戸口に立っていると、彼は「その人たちのところに降りて行って……」と記されます (使徒10:9、21)。
これは、屋上にいたペテロが屋上の入り口から家の中に入って、彼らを迎えたというのが最も自然な解釈です。
とにかく、このときイエスがおられた家には、隙間もないほどに多くの人々が集まっていました (マルコ2:2)。そこで屋上は閉じられ、屋上の入り口の階段ははずしてあったことでしょう。しかし、中風の人を床に乗せたまま運んできた四人は、イエスに近づくことを諦めることなく、屋上に上り、その屋上の入り口を開いて、彼を床に乗せたまま吊り下ろそうとしたのだと思われます。
とにかく、イエスが話している最中に、屋根を破壊する音が聞こえ、様々なものが落下し、そのような中で、この中風の人が下ろされてきたというイメージを持ってしまっては興ざめです。たぶんそのときの情景は、人々が静かにイエスのお話に耳を傾けていたとき、突然、静かに、上から一人の人が床に寝かされたまま下ろされてきたという感じなのでしょう。
すべては静かに起こったのではないでしょうか。ここでは異様な光景以前に、彼らが必死にこの中風の人をイエスのみもとに運ぼうとしたという彼らの熱い思いこそが、そこにいる人々にも伝わったはずです。
そこで不思議にも、「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に言われた、『しっかりしなさい、子よ。あなたの罪は赦された』と」(2節) と記されます。イエスはこの中風の人を運んできた四人の人の熱く真剣な思いを評価してくださったのです。私たちも、イエスの恵みを知ることができるようになった背後に、どれだけ多くの人々の祈りが積まれていたかを知ると驚きます。
そればかりか「彼らの信仰」の中に、この中風の人の信仰も含まれていたことでしょう。なぜなら、この四人の友人は彼の意思に反して運ぶことはできなかったはずだからです。
ですからイエスは、「中風の人」に向かって、まず、「しっかりしなさい、子よ」と優しく語りかけられたのです。私たちもそのように助けてもらいやすい信仰を持っているなら幸いです。
ただし、イエスが「あなたの罪は赦された」と言われた理由を、彼らの信仰の熱心だけに求めてもなりません。なぜなら、「罪の赦し」は、人間の悔い改めの真剣さによって獲得されるものではなく、神の一方的な恵みだからです。実際、悔い改めても赦してもらえなかった例が聖書には数多く出てきます。
しかも、これは別に、この中風の人が特別に罪深く、それが原因で病気になったので、「罪の赦し」を必要としていたという意味ではありません。基本的に、すべての病は、人類の父祖アダムが神に逆らってエデンの園から追い出されたことに始まっているからです。
しかしながら、しばしば、人は自分が大きなわざわいに会ったとき、自分の罪深さに対して特別な神のさばきが下ったと思いがちです。その意味でこの人は、三重の意味で苦しんでいたことでしょう。その第一は、病から生まれる苦しみです。第二は、病は天罰だという人々の冷たい視線です。そして、第三は、神の怒りを受けて病になってしまったという絶望感です。
しかし、イエスの「あなたの罪は赦されました」という宣言は、これらすべてを逆転させる「希望」のことばです。彼はこれによって、病の中でも、神が自分に微笑みかけているという愛の眼差しを感じることができます。私たちの信仰の核心こそ「希望」です。
実に、神の御子は全ての人間の罪を背負うために人となり、十字架にかかって死なれましたが、神はこの方を三日目に死人の中からよみがえらせました。それは、苦しみには必ず出口があることを示します。その根拠を与えるのが「罪の赦し」です。
イザヤ43章25節で、主 (ヤハウェ) は、「わたし、わたしがそれだ。あなたのそむきを拭い去る者。それはわたし自身のためだ。もうあなたの罪を思い出さない (I, I am he who blots out your transgressions for my own sake, and I will not remember your sins.)」と語っておられます。
これは、主がイスラエルと全世界を新しく再創造するため、彼らの不信仰の罪を赦すご計画を始めるという意味です。それが「主のしもべ」というキリスト預言につながります。
とにかくここには、罪を赦すことは主 (ヤハウェ) ご自身にしかできないということと、罪の赦しの理由は人間の側の悔い改めの真実さ以前に、ご自身の栄光のための深遠なご計画とご意思に基づくと記されています。多くの人は、「罪の赦し」を人間の信仰の結果と考えますが、すべては神のあわれみに基づきます。信仰とは、その神のあわれみに対する私たちの側の応答に過ぎません。
2.「人の子が地上で罪を赦す権威を持っているということをあなたがたが知るために」
イエスによる罪の赦しの宣言に対して、「すると、見よ、何人かの律法学者が心の中で言った、『こいつは冒涜している』」(3節) という反応が描かれます。マルコ2章7節では彼らが心の中で、「この人は、なぜ、このようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」(2:7) と思い巡らしていたと記されます。
そのように思うのは当然の聖書的結論とも言えます。ただ、もし彼らが真剣に神の栄光を願っているなら、そこにいる人々の信仰を正すためにも、イエスのことばを真正面から否定するべきでした。それこそ律法学者の責任でした。
しかし、彼らはイエスの評判があまりにも良すぎるため、人々の手前、それを口に出さずに、心の中で思いを巡らしただけで終わったのです。
そこで「イエスは彼らの思いを知って、『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか』と言われ」ました (4節)。主は彼らの心の中を見抜き、それを口に出そうとしない中に彼らの悪意があるということを指摘します。
ただそこでイエスは、ご自分が人の罪を赦す権威を父なる神から与えられているということを正面から弁明する代わりに、不思議な質問をします。その内容が、「どちらが易しいか、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、歩け』と言うのと」という問いかけです (5節)。
人間的に考えるなら、「あなたの罪は赦された」という方が「易しい」ことに思えますが、それは罪を赦すという神の権威を人間のものとするという冒涜になりますから、決して「易しい」ことではありません。
それに比べて「起きて、歩け」というのは人間的には不可能を言っているようにも思えますが、預言者エリヤやエリシャが行った様々な不思議なわざの数々からしたら、真の預言者であればできても不思議はない奇跡の一つに過ぎません。つまり、神の視点からは「起きて歩け」と言う方がはるかに「易しい」ことです。
ですから、ここで主は、人の目には不可能に見えた癒しを行うことで、罪の赦しの権威を神から授かっていることを証明しようとしているのです。
そしてイエスのことばが、「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っているということをあなたがたが知るために」と記されます。これこそ癒しの目的です。
そしてその後のことが「それから中風の人に言われた、『起きて寝床を担ぎなさい。家に帰りなさい』と。すると彼は起き上がり、家に帰った」と描かれます (6、7節)。これは神が「光、あれ」と仰せられると、「すると光があった」という天地創造の神のみことばの「権威」を思い起こさせる出来事です。
ここで普通なら、「この中風の人はイエスのことばに信頼して……」とか記して欲しい所ですが、彼の身体がイエスのことばに自動的に身体が反応したかのように描かれます。これは、イエス命令が、そのとおりすぐに、病の人に現実の行動を生み出したということを示しています。
そしてその結果が、「群衆はそれを見て恐ろしくなった。そしてこのような権威を人々に与えた神をあがめた」と描かれます (8節)。マルコ2章12節では、人々が「『こんなことは、いまだかつて見たことがない』と言って神をあがめた」と記されます。
しかし、ここでは神がイエスに「このような権威を与えた」こと自体を人々が「恐ろしく」思い、「神をあがめた」かのように描かれます。それはイエスが先にこの癒しの目的を「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを……知らせるため」と、「権威」について何よりも語っておられたからです。
つまり、イエスがことば一つで病の人を癒す「権威」を持っていることを見せることで、彼らは、神がイエスに、罪の赦しの権威を授けておられるということが分かったと描かれているのです。
それにしてもイエスは、罪を赦す権威をお持ちの方なのに、ご自分で人間すべての罪をその身に負って十字架にかかってくださいました。それは、罪の赦しが、神にとっても本来は簡単なことではなく、どれだけ大きな犠牲が伴うかを私たちに示すためです。
しかも、イエスは、ご自分を十字架にかけたユダヤ人指導者のために、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。罪を赦す権威をお持ちの方が、ご自分の権威を否定する者のために祈ってくださったのです。この現在の新型コロナウィルスの蔓延の悲惨のただ中で、すべてを支配しておられるはずの神の「権威」に疑問を持つ方が多くおられることでしょう。
しかし、神の御子イエスは、悲惨に出会っておられる方々とともにいてくださいます。そして、そこに不思議な愛を生み出してくださいます。残念ながら、人間は、苦しみに会わない限り、恵みを理解できないというところがあります。私たちが普通に教会に集まって、互いを喜び合い。ともに食事をできることがどれだけ有り難いことなのかは、それができなくなって初めて見えてくるものです。
ただし、それ以前に「神の赦し」と、「互いの赦し合い」がなければ、誰も真の意味での交わりを築くことはできません。神の御子イエスが与えてくださった「罪の赦し」こそ、すべての「希望」の源です。私たちは、罪を赦された者として互いを赦し合い、愛し合うことができます。悲惨の中でも、「愛」が生まれさえしたら、日本は変わります。
3.「真実の愛(誠実、あわれみ)をわたしが望む、いけにえではない」
9節ではイエスがマタイを弟子として召し出した様子が、「イエスはそこから進んで行き、ご覧になった、マタイという人が収税所に座っているのを。そして彼に言われた、『わたしについて来なさい』と。すると、彼は立ち上がって、イエスについて来た」(9節)と驚くほど簡潔に描かれます。
彼は取税人で、集めていたのは通関税だと思われます。カペナウムはエジプト、シリア、イスラエル、ギリシャを結ぶ交通の要衝で、多くの取税人が商品の運搬にかける通関税を集めていました。当時の税金集めは請負制で、ローマ政府に代わって税金を集め、年に何回かに分けて総督府に税金を納めていました。取税人の収入は、現在の税務署員のように固定給があるわけではなく、集めた額と納めた額の差額から生まれました。そのような制度であったため、彼らはローマ帝国の権威を傘に着て、かなり乱暴に税を取り立てていました。
ですから、取税人の仕事は、通常の感覚の人間にはできないことでした。たぶん、「人の愛など、信頼できない。お金こそが幸せの鍵なんだ……」など自分に言い聞かせながら、心を鬼にして働いていたことでしょう。
そればかりか、多くのユダヤ人はローマ帝国からの独立を望んでいましたから、取税人はユダヤ人から特別に嫌われ、宗教指導者が彼らと口をきくことは決してありませんでした。また、彼らはユダヤ人の会堂でみんなといっしょに礼拝をすることもできませんでした。取税人とは罪人の代名詞的存在で、売春婦や強盗と同じレベルで見られ、彼らに娘を嫁がせることは野獣に娘を与えることだと言われました。
ところが、イエスは収税所で働いている最中のマタイをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われました。これは、ペテロやヨハネを漁の仕事の真っ最中に召し出したのとまったく同じです。
それにしても、取税人を弟子として招くなど、当時の人々には奇想天外なことでした。この招きに対して、「すると彼は立ち上がってイエスについて来た」と描かれますが、ここにマタイの信仰は記されていません。ペテロやヨハネを招いた際も、彼らの信仰以前に、イエスのことばの権威が彼らを従えたと言いましたが、ここでも同じです。
イエスのことばには王としての権威がありますから、彼は従わざるを得なかったのです。
10節では、「それから、イエスは家の中で食事の席に着くことになった」と記されますが、これはマタイの家でのことです (マルコ2:15参照)。そしてそこでの情景が、「見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、いっしょに食卓に着いていた、イエスや弟子たちとともに」と描かれます。
イエスがマタイの客になってくださったことは、彼にとっては天にも昇る気持ちだったことでしょう。それで彼は他の人々も招いたのでしょう。なお彼はユダヤ人から人間とは見られていませんから、家に招くことができるのは同じような取税人を初めとする社会の落ちこぼれ、またははみ出し者ばかりだったことでしょう。
「聖さ」の中には、汚れとの断絶という意味もありますから、イエスの行為は当時の「聖さ」の観念を揺るがす一大事であったのです。
パリサイ人はそれに驚き、イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、取税人や罪人たちといっしょに、あなたがたの先生(ラビ)は食事をするのですか」と言いました (11節)。イエスは人々から律法の教師(ラビ)として見られていたのですから、これは当時の感覚からしたら明確なルール違反と思われました。
これは現代で言えば、警察官とやくざがいっしょに食事をすること以上のスキャンダルでした。当時の道徳基準では、取税人はまず自分の財産すべてを貧しい人に分け与え、悔い改めの明確な実を結んではじめて仲間に入れることができたはずなのです。
まだ取税人を生業(なりわい)としている人と食事を共にするということは、彼らの職業を是認したことになり、社会の道徳秩序を根底から揺るがす一大事と思われました。
ところがそのとき「イエスはこれを聞いて言われた」、「医者を必要とするのは、丈夫な者ではありません、病を持つ人です。だから行って、これを学びなさい、『真実の愛(誠実、あわれみ)をわたしが望む(わたしが喜びとするのは真実の愛)、いけにえではない』とは何かを。わたしが来たのは、正しい人を招くためではない、罪人を招くためなのだ」と (12、13節)。
ここで引用されたみことばは、ホセア6章6節で、そこでは「真実の愛(誠実、ヘセド)をわたしは喜ぶ、いけにえではない。神を知ることを(わたしは喜ぶ)、全焼のささげ物よりも」と記されています。
ここでは「真実の愛(誠実)」と「神を知ること」が並行して記されています。「いけにえ」は人間が神に対してできる最高の善行と思われていましたが、神はそのような大きな犠牲を伴う愛の行為よりも、神の愛を「知ること」、そして神の愛に応答する生き方を求めておられるのです。
これは現代も多くの人々をイエスのもとに招く感動的なみことばです。ただし、これはイエスが当時の宗教指導者を「丈夫な者」とか「正しい人」と見ていたという意味ではありません。これは彼ら自身が自分たちを「丈夫な者」「正しい人」と自負していたことへの「皮肉」と言えましょう。
彼らは自分が健康で正しいと思うからこそ、自分たちのためには救い主を必要としていませんでした。それに対して、取税人や罪人たちは、自分たちが病んでおり、汚れているということを自覚していました。彼らはイエスの救いを切実に求めていました。イエスは誰もよりも、そのような渇きを持っている人をご自身のみもとに集めたのです。
日本ではしばしば、「敬虔なクリスチャン」とは、この世の基準よりもはるかに高い道徳基準を守る人であるかのように見られます。
しかし、クリスチャンであるとは、立派な行いができるということ以前に自分が病んでおり、罪びとの頭であることを自覚している人に他ならないのです。人々に信頼していただけることは、確かに何よりもすばらしいことですが、決して、人の期待に沿った生き方ができることが信仰者であるなどと誤解しないでください。人から、「あなたは、なぜ教会に行くのですか……」と聞かれたら、「私の心はとっても貧しく、病んでいるので、イエス様なしには生きてゆけないのです。私は自分の心の醜さや弱さを知っているからこそ、イエスの十字架にすがっているのです……」と言うのが、聖書的な答えです。
もしあなたの証しが、「教会に行ったら、私のように元気に、堂々と、すべてがうまく行く人生を歩むことができます……」などと自慢するようなものだったら、あなたは偽善者への息苦しい歩みに入っています。
人の評価を気にして生きることは、あなたを息苦しくするだけです。キリストがあなたのうちにおられることのすばらしさは、おのずと明らかになることであって、決して、ことばで宣伝すべきことではありません。