私たちは歴史的な感染症の広がりに直面していますが、それは人類の歴史を振り返ると、定期的に起こってきたことでした。あまりその原因を探っても意味がありません。それよりも、これも神の御手の中にあって、私たちがここで何をするかが問われているということを覚えるべきでしょう。
たとえば、ルターの宗教改革から約百年後の1618年から1648年、ヨーロッパ全土が戦火に巻き込まれました。信仰の違いを理由にしていますが、領土争いが最大の原因です。それを通して、ドイツの多くの地域では人口が半減しました。剣で殺される人よりも、食料を軍隊に奪わて飢え死にする人、また不衛生な中で、ペストやチフス、コレラなどの感染症が起こり、集団ヒステリーとも言える現象が荒れ狂い、魔女狩りのようなことが各地で頻発しました。
しかし、実は、このときのドイツで、教会音楽が芽生えたのです。ルター以来、多くの讃美歌が生まれていますが、この時期、多くの人々が個人的な神との出会いを深めて次々と黙想的な讃美歌が生まれます。J.S.バッハなどはそれまであった讃美歌の数々をアレンジして様々な教会音楽を作り上げたということです。
その頃、よく読まれた詩篇の一つに詩篇130篇があります。これは暗闇の中で、主の救いを待つ代表的な歌です。明日の礼拝で交読します。
都上りの歌
深い淵からあなたを呼び求めます 主 (ヤハウェ) よ。
主 (アドナイ) よ 聞いてください 私の声を。
御耳を傾けてください
私の願いの声に。
もし 不義に目を留められるなら 主 (ヤハウェ) よ
主 (アドナイ) よ だれが御前に立てるでしょう。
しかし、御もとに 赦しがあるゆえに
あなたは 恐れられます
主 (ヤハウェ) を待ち望みます。
私のたましいは待ち望みます。
みことばに 望みを置きます。
このたましいは 私の主 (アドナイ) に。
夜回りが夜明けを待つのにまさって
夜回りが夜明けを慕うように。
イスラエルよ 主 (ヤハウェ) に望みを置け。
主 (ヤハウェ) のもとには 真実の愛 (ヘセド) があり
豊かな贖いがあるのだから。
この方は イスラエルを贖い出される
すべての不義から。
この詩篇はプロテスタント宗教改革の原点とも言えるもので、マルティン・ルターはこのみことばをもとに「Aus tiefer Not(深き悩みより)」という讃美歌を記し、そこから多くのオルガン音楽も生まれています。ルターはこの詩篇を信仰義認の教理の最重要テキストの一つと見ていました。
ルターはカトリックの修道院生活の中で、「神はどんな小さな罪も見逃さない厳しいお方で、神のあわれみを受けることができるために徹底的な服従の生活を全うしなければならない」と、恐怖に震えていました。しかし、この詩篇に描かれている神は、私たちが自分の罪に悩みながら、主のあわれみを求めるとき、「不義に目を留める」代わりに、豊かに「赦してくださる」方であると記されています。
中世の神学では、しばしば、「神の義」は、どんな小さな罪をも見逃すことができない厳しい基準で、何の罪もないイエス・キリストが初めてその神の義の基準を満足させることができたと説明されていました。そのうちにイエスの十字架の苦難に倣って初めて、イエスが獲得された豊かな義を受けさせていただけると教えられ、イエスでさえも恐怖の対象になり、イエスの母マリアにすがるしかなくなって行きました。
しかし、ルターはこの詩篇を思い巡らしながら、イエスの十字架は何よりも、神の側から私たちの罪を赦し、私たちとの「和解」を望んでおられることとしるしであると理解できました (Ⅱコリント5:20参照)。私たちに求められることは、神の義の基準に達するために善い行いに励む代わりに、私たちをそのままで赦し、神の子として受け入れたいと願っておられる神の圧倒的な恵みに自分の身を差し出すことだけだったのです。
その感動をルターは以下のように歌っています(私訳)。曲は讃美歌258番
- 深き悩みより 主よ われ叫ぶ
かえりみたまえや わが願いをば
主よ もし わが不義 目に留めたまわば
御前に立ち得じ - 御赦し受くるは ただ 恵みのみ
いかに善きわざも 誇ること得じ
御前にひれ伏し ただ主を恐れて
あわれみ乞うのみ - 主を待ち望みて わが義 頼まじ
われを義とせるは 主のまことのみ
くすしきみことば わがうちにせまり
慰めたまえり - いかなる罪にも まさる御恵み
主の恵みの御手 はばむものなし
われらの牧者は すべての不義から
あがない出したもう
メロディーは現代人には馴染みにくいものですが、何度も聞いていると本当に味わいが深くなります。友人から紹介されたルターのオリジナルバージョン
とバッハの編曲バージョンによるカンタータ38番を紹介します。
この4節には、「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます(御もとに 赦しがあるゆえに あなたは恐れられます)」と記されます。私たちの罪に対する「神の怒り」は「天から啓示されて」いますが、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と記されています (ローマ1:17、18)。
つまり、神の前に義とされる信仰とは、私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった方の圧倒的な愛を受け入れることです。
そして、何よりも大切なことは自分の罪を認め、「自分の罪を告白する」ことです (Ⅰヨハネ1:9)。私たちが「主を待ち望み」または「望むを置く」ことの内容は、「主には恵み(真実の愛:ヘセド)があり、豊かな贖いがある」こと、「すべての不義から……贖い出される」ことを信じ受け入れることなのです (7、8節)。
なお、誤解しないでいただきたいのですが、別に感染症の広がりの原因が、何らかの人間の具体的な罪であるというのではありません。私たちはすでにエデンの園の外に置かれているのですから、この世界で悲惨が起こるのはある意味で当然のことなのです。ただそこで、その原因に自分を神としたアダムの罪があることを覚え、神の前にへりくだり、神の哀れみにすがることが求められているのです。
そして、神との生きた交わりの中で、あなた自身が向き合うべき課題や使命が示されてくることでしょう。
祈り
主よ、あなたが私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった圧倒的な愛を、心から恐れるとともに、感謝して受け入れます。どうか、日々の生活の中で、自分の罪に悩む私たちにあなたの圧倒的な愛を体験させてください。