受難週の詩篇〜詩篇143篇

いよいよ週末ばかりではなく、平日も外出を自粛するようにという要請が出るようです。すでに礼拝に集まることを自粛し始めていた私たちにとっては全く意外なことではないとも言えます。ただ、この状況がしばらく続くことを考えると、気が重くなりますね。互いに安否を気遣い合いながら過ごしたいと思います。

今週はイエス様の十字架への歩みを覚える受難週です。
これからも毎日、配信しますので、味わっていただければ幸いです。

詩篇143篇抜粋 「主 (ヤハウェ) よ、私を生かしてください」

ダビデの賛歌

主 (ヤハウェ) よ 聞いてください 私の祈りを。
 耳を傾けてください 私の願いに。
  あなたの真実によって私に答えてください あなたの義によって。
さばきにかけないでください あなたのしもべを。
 あなたの前で 生ける者は誰一人 義(正しい)とは言えないからです。
  ……
それで 衰え果てています 私の霊は私のうちで
 私の中で 怯えています この心は。
 
私は思い起こしています 昔の日々を。
 思い巡らしています あなたのすべてのみわざを。
  御手のわざを黙想しています。
私は両手を広げます あなたに向かって。
 このたましいは 渇いた地のようです あなたを慕って。 セラ
  ……
あなたの御名のゆえに 主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください。
 あなたの義によって このたましいを苦しみから引き出してください

最初の三行でダビデは、「聞いてください」「耳を傾けてください」「私に答えてください」と畳みかけるように訴えています。しかも、三番目の祈りは原文の順番で「あなたの真実によって私に答えてください」と言った後で、「あなたの義によって」と付け加えられ、続く2節では、「さばきにかけないでください あなたのしもべを。 あなたの前で 生ける者は誰一人 義(正しい)とは言えないからです」と記されます。

教会の歴史の中では、「最後の審判」が大きなテーマでしたが、ダビデは自分が神の「しもべ」であるという理由で、さばきを自分に適用しないようにと、図々しく訴えています。私たちの中には神に主張できる(正しさ)は少なく、神が自分を守り通してくださると言われた約束に信頼することしかできません。使徒パウロは人生の最後の手紙でテモテに向かって、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」と記しています (Ⅱテモテ2:13)。「神の真実」「神の義」とは、神の約束に関わることばなのです。

なお、ダビデは自分の心がまだ思い乱れているときの状態を4節では二行詩の形で、「それで 衰え果てています 私の霊は私のうちで。 私の中で 怯えています この心は」と表現しています。ここでは「私の霊」の状態を「衰え果てています」と素直に描いています。これは「祈る気にもなれない!」という状態が「私のうち」にあることを認めた表現です。しかも、「私の中で 怯えています」「私の心は」と自分の「心」の状態をさらに正直に描いています。「怯えた心」を認めるというのも大きな転換点になります。

そのような中で5節では三つの黙想の類語を用いながら、「私は思い起こしています 昔の日々を。 思い巡らしています あなたのすべてのみわざを。 御手のわざを黙想しています」と描きます。そしてその結果が6節では、「私は両手を広げます あなたに向かって。 このたましいは 渇いた(乾いた)地のようです あなたを慕って」と表現されます。

ある方は自分の歩みを振り返って、「私は平気だ!」と強がって生きてきた自分が両手を広げて「助けて!」と言えるようになったと感謝していました。そして、たましいの渇きを素直に認めるようになると、周りの人も心を安心して開くようになってきました。

そして11節では、「あなたの御名のゆえに 主 (ヤハウェ) よ 私を生かしてください」と祈られますが、主の御名ヤハウェには、「わたしは、ある(生きる)」といういのちの源としての意味があります。アダム(人間)は、土地(アダマ―)から造られながら、主の「いのちの息」を受けて「生きるもの」となりました (創世記2:7)。

つまり、困難のただ中で「私の霊は滅びます」と死を身近に感じながら、自分を生かすことができるのは、主 (ヤハウェ) ご自身のみであるという信頼が表明されているのです。主の御名から生きる力が生まれるのです。

そして、さらに「あなたの義によって このたましいを苦しみから引き出してください」と祈られます。ここでの「義」も、1節にあったように主 (ヤハウェ) の「真実」とほとんど同じ意味で、主がご自身の約束を守り通してくださるという「義(正しさ)」を意味します。実は、それこそが、主が自分の「たましいを苦しみから引き出して」くださる理由なのです。

宗教改革は、「神の義」を、神の厳しいさばきとして理解し、それに怯えて生きていたマルティン・ルターが、「福音は……救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり、信仰に進ませる……『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:16、17) というみことばによって人生を変えられたことから始まっています。

それは、「神の義」の理解が、罪人を厳しくさばいて地獄に落とす審判者の正義から、罪人に信仰を生み出して、「生きる者」とさせる神の真実へと、神学的理解が根本から変えられたことを意味します。

ヘンデル作「メサイア」第二部はヨハネ福音書1章29節を歌にしたものですが、次のように歌われています。

Behold the Lamb of God, that taketh away the sin of the world.
見よ、神の子羊を。この方は世界の罪を取り除いてくださる

イエス様は私たちを罪と死の支配から解放してくださるために十字架にかかってくださいました。私たちのすべての罪が赦されて、私たちはこのままで、かけがえのない「神の子」とされています。そして、それは私たちをご自身の働きのために用いるためでした。この受難節の時期、その意味を思い巡らしてみましょう。

祈り

主よ、私はあなたのしもべです。あなたは私を、ご自身のみわざを現わすために選んでくださいました。確かに私は何度もあなたの御名を汚すような過ちを犯しますが、それでも、あなたは私をあわれみ、新たな使命のために生かしてくださることを感謝します