詩篇144篇「すべてのことを主に祈ることができる幸い」

2019年8月11日 

日本人にとってのキリスト教信仰はときに「武士道」にとって代わるような、無私で高潔な生き方を教えるものと見られてきた傾向があるかもしれません。「敬虔なクリスチャン」という表現には、勝つか負けるかというこの世の競争社会を超越した、聖なる生き方をする人というイメージがあるかもしれません。

クリスチャン生活は株価や為替レートの変動に一喜一憂するような生き方から遠いところにあると見られるかもしれませんが、意外に、そのような世界に生きる人には、福音が理解されやすいということも忘れてはなりません。キリスト教信仰の醍醐味は、実は、激しい競争社会の中でこそ味わうことができるものと言えます。

ギリシャ、ローマから始まる西洋文明の中には「ストア主義が、亡霊のように何度も登場する」と言われますが、その基本は「自分で自分の感情を制御できる」ことにあります。しかも、西洋化されたキリスト教が、日本ではさらに仏教の影響を受けます。そこでは自分の内側に生まれるあらゆる「欲求」を、心の平安を乱す「煩悩」と同一視します。

しかし、私たちの心の奥底にある「愛への渇き」は、創造主ご自身が与えてくださったものであり、真実な交わりへの「欲求」は、信仰の原点とも言えます。一方、人間の基礎的感情は「恐怖」であり、「欲求」はそれと表裏一体の関係にあります。ですから「欲求」を抑えると、恐怖感情からも解放されるので、そこにストア哲学や仏教が生まれる素地があります。

ただし、そのような人間としての自然な感情を否定すると、生かされている「喜び」も減退します。私たちは「感情」を自分で制御するのではなく、詩篇を用いて主に訴えることが許されています。信仰の基本とは、創造主との祈りの交わりです。

1.「ほめたたえられますように 主 (ヤハウェ) が……私の手に戦いを この指に戦闘を教える方が」

この詩の標題には、「ダビデによる」と記されますが、ギリシャ語七十人訳には「ゴリヤテに対して」ということばが追加されており、ダビデが生きるか死ぬかの戦いに直面していたときのことが描かれています。

ですから、食うか食われるかというビジネスの最前線で生きているような人にも身近な祈りの歌と言えます。

最初は、「ほめたたえられますように 主 (ヤハウェ) 」ということばから始まり、多くの英語訳では「Blessed be the LORD(祝福されますように 主が)」と記されます。さらにその方が「私の岩なる方」と呼ばれます。それは「(ヤハウェ) 」にこそ、私たちの安心の土台があるという意味です。

しかもその方のことが、「私の手に戦いを この指に戦闘を 教える方」として描かれます。ダビデがゴリヤテと戦うときのことが、「川から五つの滑らかな石を選んで……投石袋に入れ、石投げを手にして」、このペリシテ人に立ち向かって行き、「手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った」と描かれています (Ⅰサムエル17:40、49)。

まさにダビデは自分の「と「だけで、身長が286センチにも及ぶ巨人に勝ったのです。それは、主ご自身が「戦い」の仕方を「教え」てくださったからと示唆されているのです。

なお、新改訳では「戦い」という一つのことばで訳していますが、ここには異なったことばが用いられ、主は、私たちの「」に「戦い」を、「」に「戦闘」を「教える方」として描かれます。

イエスは確かに「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われましたが、それは第一義的にはローマ軍などとの無謀な戦いを避けさせるための教えであって、この世での様々な戦いの場面に安易に適用することは危険です。

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ5:11) と記されているところもあるように、私たちは主ご自身から「戦い」や「戦闘」の仕方を教え」ていただくべきときもあるのです。これは、この世で生きる私たちがいつも何らかの競争状態に置かれていることを考えれば、極めて現実的な祈りです。負けてはならない戦いが常に目の前にあるからです。

2節の最初は原文で、「この方は私の慈愛(恵み、ヘセド)」と記されますが、これは「私の慈愛(恵み)の神」(詩篇59:17) と「」を加えて解釈すべきでしょう。そこには、(ヤハウェ) が私たちとの契約を守り通してくださる神であるという意味が込められます。

さらにこの方が私たちを敵の攻撃から守る「私の砦」と描かれます。さらに「私の砦の塔(やぐら)」とあるのは、神が私たちを敵の矢が届かない高い所にかくまってくださるという意味です。

さらに、「私のための救い」と、主が私一人に目を留めてくださることが強調されます。

そして、「私の盾 この方のもとに私は身を避ける」と記されますが、これはモアブの女ルツに対してボアズが、「あなたはイスラエルの神、主 (ヤハウェ) の翼の下に身を避けようとして来た」と言ったこと (ルツ2:12) を思い起こさせます。私たちも、「この方のもとに私は身を避ける」という主体的な行動が問われています。

しかもダビデは続けて、「この方は 私の民を 私に従うようにさせてくださる」と、自分の指導力が自分の人徳から生まれているものというより、主ご自身のみわざに由来すると述べています。

これは私たちが指導的な立場に立たされるときに、主に願うべきことでしょう。この世での戦いは多くの場合、チームワークの良さが問われています。一人の指導者の下にまとまることができるグループには勝利が生まれます。

3節の、「(ヤハウェ) よ 人(アダム)とは何者でしょう これを知っておられるとは 人の子とは何者でしょう。あなたがこれを顧みられるとは」という表現は、詩篇8篇またはⅠ歴代誌17章16、17節にあるように、ダビデ王家がとこしえに立つと言われたときに、彼が「神、主 (ヤハウェ) よ、私は何者でしょうか……あなたは私をすぐれた者として見てくださいます」と感謝したことばを思い起こさせます。

私たちの価値は、全宇宙の創造主ご自身が私たちを「知り」「顧みられる」ことから生まれるのです。あなたが「神の子」とされたのは、神ご自身があなた一人に目を留め、ご自身の働きに用いるために選んでくださったからです。

4節で、「(アダム) は 息に似て、その日々は過ぎ去る影のよう」とありますが、アダムが神に逆らってエデンの園から追い出されるとき、主はアダム(人)がアダマ―(土)から作られたことを思い起こさせながら、「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記3:19) と言われました。

私たちの人生は「顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る」というはかないものです。それに「神のかたち」としての意味を産み出してくださるのは、創造主ご自身に他なりません。その霊的事実をいつも思い起こすべきでしょう。

2.「私を解き放ってください。 救い出してください 異国の子らの手から」

5-7節の表現は詩篇18篇7-19節の要約とも言えます。それはⅡサムエル22章で、ダビデが自分の人生を振り返って歌ったことばとほとんど同じです。

そこでは、ダビデを助けるために、「主は 天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして……主 (ヤハウェ) は天に雷鳴を響かせ……ご自分の矢を放って 彼ら(ダビデの敵)を散らし すさまじい稲妻を放って かき乱された……主は いと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ 大水から私を引き上げられました」と描かれます (詩篇18:9、13、14、16)。

そして、その理由が「彼らが私より強かったから…主が私を喜びとされたからです」と記されます (同17、19節)。私たちは「ダビデの子のイエス」の兄弟姉妹とされている同じ「神の子」です。つまり、天を押し曲げて降りて」ダビデを助けられた神は、あなたのためにも地に降りて戦ってくださる方です。

それを前提に、後にパウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) と告白しています。

この5節で、「(ヤハウェ) よ……山々に触れて 噴煙を上げさせてください」と祈られますが、詩篇18篇7、8節では、「地は揺るぎ 動いた。山々の基も 震え 揺れた」と記され、その理由が「主がお怒りになったからだ」と記されます。つまり、主の怒りは、私たちの敵に向けられているのです。

私たちはときに、神を喜怒哀楽から無縁な、冷静な審判者かのように、また、遠い天から私たちを見下ろし、その行いを評価し、最後にさばきを下すだけの方かのように見てはいないでしょうか。しかし、聖書の神は、愛する子を守るために感情を露わになさる方です。

しかも、神の愛は、多くの場合、親子の関係の愛にたとえられます。親が自分の愛する子を守るために、社会的な立場を犠牲にすることさえあるように、神はご自身の御子を天から地に送り、私たちのために戦ってくださいました。

そして、そのような神の助けを求める祈りが6、7節では、「稲妻を放って 彼ら(私の敵)を散らし 矢を放って……かき乱してください。御手をいと高き所から伸ばして 私を解き放ってください……救い出してください 大水から 異国の子らの手から」と描かれます。

そして改めてダビデは、敵の生き方を、「彼らの口は 空しいことを語る その右手は 欺きの右手」と描きながら、彼らが主のさばきを受けて当然であると訴えています。「右手」ということばが繰り返されるのは、それが力の象徴だからです。

彼らは口で「空しいことを語って」自分を正当化するか、「嘘を言って」私たちの立場を無くし、右手による攻撃の意志を隠して私たちを「欺き」、不意に攻めて来るからです。

9節では、神がそのように強く卑劣な敵の手から自分を守ってくださるという確信のもとに、「神よ あなたに新しい歌を 私は歌い 十弦の琴に合わせて ほめ歌を歌います」と、主をたたえます。

さらに10節ではダビデは自分の子孫のことをも覚えながら、「この方は王たちに救いを与え そのしもべダビデを悪の剣から解き放たれます」と告白します。

この詩篇の最初で、ダビデは自分の手や指に戦いや戦闘を教えてくださる方として主を描きましたが、ここでは、主ご自身が彼を、「悪の剣から解き放たれる」と描かれています。それは、長期的には、戦いの勝敗は、私たちの知恵や力ではなく、主ご自身が私たちのために戦ってくださるかどうかにあるからです。主の視点から自分の戦いを見直すことが大切です。

そして11節では改めて、7、8節の表現を繰り返しながら、「私を解き放ってください。 救い出してください 異国の子らの手から 彼らの口は 空しいことを語る その右手は 欺きの右手」と祈られます。私たちはこの解放と救出を願うことばの繰り返しを心から味わうべきです。

ヘブル人への手紙では、「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10:36) とか、「霊の父は私たちの益のために……ご自身の聖さにあずからせようとして訓練される」(12:10) と、「目の前の困難から逃げ出さないように……」と、繰り返し勧められます。

そのように考えると、「この困難に耐えられるように、私に忍耐心をお与えください」とか、「この試練を、神の愛の鞭として受け止めさせてください」などと祈る方がみこころにかなっているのかとも思います。しかし、それらは決して矛盾するものではありません。

詩篇の祈りの魅力は、私たちの切羽詰まった気持ちを正直に表現できることにあります。「目の前の状況を、すぐ変えてください!」と祈りたいのは人情です。そして、そのように祈った結果として、「祈っても願い通りにならないのは、これが神の訓練だから……」と思えるようになります。自分の心を自分で納得させるのではなく、大胆に祈ることを通して、神のみこころを知るのです。

使徒パウロも、「私は肉体に一つのとげを与えられました。それは、私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました」と記していますが (Ⅱコリント12:7、8)、彼もそのように祈るとき、詩篇のことばを用いて、主に大胆に願ったことでしょう。

しかし、その願いがかなえられなかったときに、同時に主ご自身から、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われます (同9節)。

私たちは、この結論部分のみを自分に言い聞かせようとしますが、パウロはその前に、肉体のとげが取り去られることを、必死に願っているのです。

私たちも自分にとっての不本意な仕事や交わりの中に置かれることがあります。そのときに、そこから早く解放されるように願いたいのは、当然のことです。そのようなときにあまりにも短絡的に、「置かれた所で咲きなさい!」などと叱咤激励されると、自分の気持ちの持って行きどころがなくなります。

詩篇の祈りはそのようなとき、「置かれた所」の不条理を大胆に訴えることを教えてくれます。「異教徒たちの空しいことばと欺きの右手から、早く救い出してください!」と、真っ向から祈ってよいのです。

その結果として「この厳しい現場は、神が私の訓練のために置いてくださったのだ」と納得できることがあるかもしれません。そこで初めて、「神が置かれた所ならば、 私はここで花を咲かせることができるのかな……」と思えるようになるのです。このような神との対話のプロセスを飛び越えて、結論だけ言うのは、心の暴力になります。

3.幸いなことよ 主 (ヤハウェ) を自らの神とする民は

12-14節は、日本的に言えば、「家内安全、商売繁盛」を祈るようなことばです。しかし、そのような自分の正直な気持ちを訴えることができることも詩篇の祈りの魅力です。

ただし、1-11節までは「」個人の必要を訴えていた祈りが、12-14節では「私たち」という共同体の必要を訴える祈りに発展します。

そして最後の15節では、「神の民」全体の「幸い」が語られてゆきます。私たちの祈りも、そのように自分一人の必要を訴える祈りから、身近な家族や友人、全世界の教会の必要にまで広がって行くべきでしょう。

12節の「私たちの息子らが 若いうちから良く育てられた植木のようになり」とは、息子たちがすくすくたくましく育つことを願った祈りです。

続くことばは、「娘らが 宮殿を飾るために刻まれた 柱のようになりますように」と訳すことができますが、これは女性としての美しさや、人が集まる場に喜びと感動を生み出すような資質の成長を願ったことばとして解釈できます。

詩篇128篇3節には、「あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき まるでオリーブの若木のようだ」という表現もありました。

いろんな描き方がありますが、多くの子どもたちが生まれ、それぞれの子どもたちの上に、主 (ヤハウェ) からの祝福があるようにと願うことは、人間として当然のことと言えましょう。

13、14節での「私たちの倉が もろもろの産物で満ちますように 羊の群れは 幾千幾万となりますように 私たちの野に。 私たちの牛が子牛をよくはらみ 早産もなく 流産もありませんように」という願いは、現代の私たちにとっては、財産が増えることと、仕事が祝福されることを願ったものです。

神がヤコブの歩みを祝福したという事実は、創世記30章43節で、「このようにして、この人は大いに冨み、多くの(羊とやぎの)群れと男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった」と描かれます。

また、ダビデ、ソロモンの時代の驚くべき国の繁栄は、主の祝福の現れです。祝福は家族と財産の増加として表現されます。

14節の後半では、「また 哀れな叫び声がありませんように 私たちの広場に」という祈りが記されます。これは13節の最後の「私たちの野に」ということばとセットで、「私たちの野」と「広場」への祝福が願われます。

申命記28章では、主 (ヤハウェ) の御声を真剣に「聴く」者への祝福が、「(ヤハウェ) はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる……その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え……すべてのわざを祝福される」(11、12節) と描かれていました。

それと対照的に、主 (ヤハウェ) の御声を「聴こうとしない者」たちへの「のろい」が驚くほど詳細に、疫病と遠い国から攻撃で「哀れな叫び声が 町に」満ちる様子が、「(ヤハウェ) は……あらゆる病気、あらゆる災害までもあなたの上に臨ませ、ついにあなたは根絶やしにされる」(61節) と描かれます。

ダビデはそのような「のろい」がイスラエルの上に降る可能性が高いことをモーセの書を通して知らされていたからこそ、このような願いを書いたのでしょう。

そして最後に、主 (ヤハウェ) の祝福のうちに生かされる幸いが、「幸いなことよ このようになる民は 幸いなことよ 主 (ヤハウェ) を自らの神とする民は」と記されます。

ここで強調されているのは、人間の知恵や力が、私たちに「幸い」を産み出すのではなく、主ご自身からの「祝福」こそが、すべての豊かさと平和の基礎であるということです。

私たちはときに、主 (ヤハウェ) への信仰すら人間の功績と捉え、「私たちの信仰心のゆえにこのような祝福が与えられた……」と誇ることがあります。それと反対に、「彼らが貧しく、苦しんでいるのは、不信仰の結果だ……」などと、人の不幸をすべて自己責任に帰することがあります。

しかし、イスラエルの民が国を失ったとき、「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか」(哀歌3:38) と告白したように、人間の信仰以前に、すべてが神のみわざであることを認め、主の前にへりくだることが何よりも大切です。

事実、私たちは自分の責任ではないことで「わざわい」に会うこともありますし、主が私たちの訓練のために苦しみを与えることもあります。大切なのは、「神からの祝福は、私たちの心がけしだいで変わる」などと考えるのではなく、いつでもどこでも「主こそがすべての祝福の源である」ということを認め、自分の信仰を計ることすら止め、主のあわれみに心の目を向け続けることです。

この詩篇の最初にあったように、「ほめたたえられ(祝福され)ますように 私の岩なる主 (ヤハウェ) 」と、自分を忘れて祈ることが大切です。私たちの信仰すらも、「(ヤハウェ)」が私たちを「知っておられ」「顧みられ」た結果なのですから (3節)。

ギリシャ、ローマ文明下に育った哲学でも、東洋の仏教でも、私たちが心の渇望 (the Heart’s Desire) から自由になることで、心の平安を保つことができると教えられてきました。そして、キリスト教もそれに影響されて解釈される傾向が見られます。

しかし、詩篇の祈りでは、この世の戦いでの勝利や、自分が置かれる環境を変えてもらうこと、また家族の健康や財産の祝福などが、大胆に、直接的に創造主に訴えられています。自分で自分の心を律することができるぐらいなら、詩篇の祈りは不要です。

私たちは知らないうちに、神ご自身の祝福すら、自分の心で左右できるように考えてはいないでしょうか。それこそ、「自分の心ばかりに目が向かう宗教」、絶対的な創造主との関係が説かれることのない汎神論的な心の宗教の落とし穴です。

しかし私たちは、主 (ヤハウェ) との交わりに生きることの幸い、「神との友情」という交わりの中で、自分自身から自由にされ、すべてのことを主の視点から見られるように変えられて行くのです。


詩篇148篇ダビデによる(私訳交読文)

ほめたたえられ(祝福され)ますように 私の岩なる主 (ヤハウェ) が  (1)
私の手に戦いを この指に戦闘を 教える方が……。

この方は私の慈愛(ヘセド)の神 私の砦  (2)
私の砦の塔 私のための救い

私の盾 この方のもとに私は身を避ける
この方は私の民を 私に従うようにさせてくださる。

主 (ヤハウェ) よ 人(アダム)とは何者でしょう これを知っておられるとは  (3)
人の子とは何者でしょう あなたがこれを顧みられるとは。

人(アダム)は 息に似て  (4)
その日々は過ぎ去る影のよう

主 (ヤハウェ) よ 天を押し曲げて降りてきてください。  (5)
山々に触れて 噴煙を上げさせてください。

稲妻を放って 彼らを散らし  (6)
矢を放って 彼らをかき乱してください。

御手をいと高き所から伸ばして 私を解き放ってください  (7)
私を救い出してください 大水から 異国の子らの手から……。

彼らの口は 空しいことを語る  (8)
その右手は 欺きの右手。

神よ あなたに 新しい歌を 私は歌い  (9)
十弦の琴に合わせて ほめ歌を歌います。

この方は王たちに 救いを与え  (10)
そのしもべダビデを 悪の剣から解き放たれます。

私を解き放ってください。  (11)
救い出してください 異国の子らの手から。

彼らの口は 空しいことを語る
その右手は 欺きの右手。

私たちの息子らが 若いうちから良く育てられた植木のようになり  (12)
娘らが 宮殿を飾るために刻まれた 柱のようになりますように。

私たちの倉が もろもろの産物で満ちますように  (13)
羊の群れは 幾千幾万となりますように 私たちの野に。

私たちの牛が子牛をよくはらみ 早産もなく 流産もありませんように  (14)
また 哀れな叫び声がありませんように 私たちの広場に。

幸いなことよ このようになる民は  (15)
幸いなことよ 主 (ヤハウェ) を自らの神とする民は。