詩篇147篇「エデンの東の町(東京)から新しいエルサレムへ」

2019年7月7日 

世界で最初の都市を建てたのは、弟殺しのカインでした。彼は「さすらい人」となると神の宣告を受け、同時に、「(ヤハウェ) は、彼を見つけた人が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられ」、守ろとされました (創世記4:14、15)。しかし、彼は「エデンの東」に「町を建て」、定住します。それは神の宣告と神の守りを拒絶したことを意味します。

以来、すべての町は、基本的に神に敵対する文化の中心地となってゆきます。「バベルの塔」に見られるように、都市は人間の傲慢のシンボルとなります。そして、エデンの最も東に位置する地に、東京というが建てられています。

ところが、聖書は同時に、歴史のゴールを「新しいエルサレム」として描きます。それは、都市が神の礼拝の場として完成されるという希望です。神は罪に満ちた都市を破壊する代わりに、それを礼拝の場として造り変えてくださいます。そして歴史は、この東京が、「いのちの水が川」が流れる新しい都エルサレムへと取り込まれることで完成するのです。神は罪のシンボルの都市の中に礼拝の場を作ることから、都市を造り変え、ご自身のシャロームへと導いてくださいます。

1.「主 (ヤハウェ) は……無数の星を数えられ そのすべてに名を付けられる」

詩篇147篇は146篇から150篇まで続く「ハレルヤ詩篇」の二番目です。それらには詩篇全体の頌栄的な意味があります。この詩篇はギリシャ語七十人訳では1-11節と、12-20節の二つの異なった詩篇に分けられ、1節と12節の最初で「ハレルヤ、ハガイとゼカリヤによる」という標題が繰り返されます。

この二人の預言者は、バビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民に、目の前の自分の生活基盤よりも、エルサレム神殿の再建を優先すべきと励ましました。ですからこの詩篇の趣旨は、バビロン帝国によって廃墟とされたエルサレムを、主ご自身が再建してくださると歌うことにあると解釈できます。

その約五百年後にその神殿の大拡張工事をヘロデ大王が行いますが、イエスはその神殿もやがてローマ軍によって破壊されるということを預言し、神殿を冒涜する者として十字架で殺されます。ですから、この詩篇は現代的には、キリストの再臨の際に、主ご自身が新しいエルサレム」を天から地に降してくださるという希望として読むことができます。

新改訳で最初に「ハレルヤ」と訳されていることばは、日本語では「ほめたたえよ 主 (ヤハ) 」という意味になります。その上で、「まことに 我らの神をほめ歌うことは善い」と記されます。この「善い」とは、ヘブル語では「トーブ」で、「すばらしい」とも訳せます。

それがさらに、「まことに それは快(こころよ)(楽しく) 賛美は麗しい」と、主を賛美することの「快さ(楽しさ)」、「麗しさ」が描かれます。主 (ヤハウェ) を喜び、ほめたたえることは、最も大切な命令ですが、それは義務というより、私たちの心に何よりの満足を生み出す鍵でもあります。

2節の「(ヤハウェ) は エルサレムを建てられ イスラエルの散らされた者たちを集められる」とは、捕囚の民が、主によって再び約束の地に集められていることを感謝したことばです。

ただこの背後には、イザヤ56章7、8節があります。そこで主は、「異国の民」までをも、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる……なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ——イスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば——すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」と約束しておられます。

イエスは神殿の外庭から、両替人やいけにえを売る商売人を追い出されましたが、そこで主は、このイザヤ書を引用しながら、「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれると書いてあるではないか、それなのにおまえたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と非難しました (マルコ11:17)。それは彼らが、外国人のために開かれた神殿の外庭から礼拝の静寂さを奪ったからです。しかもその預言では、終わりの日に外国人ばかりか、男性機能を失った宦官までが、主の民に加えられると約束されていました。

なお、イザヤ56章以降は、終わりの日のエルサレムの完成と「新しい天と新しい地」の実現を預言していますが、その65章17、18節では、主ご自身が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する……だからわたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言われます。つまり、「新しい天と新しい地」と「新しいエルサレム」には切り離せない関係があるのです。

多くの人が思い描く天国(パラダイス)のイメージは、イスラム教の影響を受け、「砂漠の苦しみから逃れて私たちを憩わせてくれるような、木や花や鳥や泉のある庭園という概念」になっているのかもしれません。

しかし、聖書の描く「新しいエルサレム」は、「都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた」という都市の豊かさが描かれます (黙示21:18、19)。

同時にそこでは、「いのちの水の川が」が「神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れ……十二の実をならせるいのちの木があって、その木の葉は諸国の民を癒した」(同22:1、2) とも描かれます。

つまり「新しいエルサレム」は、都市の繁栄と、癒しの両面での完成として描かれるのです。

この3節の「心の砕かれた者を 癒され その傷を包まれる」とは、捕囚の苦しみから帰還した民、「心の砕かれた者」の「」を、主ご自身が愛の御手で「包まれ」、「癒される」というイメージの表現です。

彼らは申命記28章に預言されていたとおりに、神に逆らって、神のさばきを受け、エルサレムを廃墟とされました。彼らは自分たちの罪を深く認識して、「心の砕かれた者となっていました。彼らは、自分たちには神の民と呼ばれる資格がないということを知っていたため、かえって主の癒しを体験したのです。

イエスはそれを前提に、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) と言われました。

さらに4節では、主は「無数の星を数えられ そのすべてに名を付けられる」と記されます。創世記15章5節では、アブラハムが自分に後継ぎが生まれないことを主 (ヤハウェ) に訴えると、「主は彼を外に連れ出して」、「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい」と言われ、さらに「あなたの子孫は、このようになる」と約束されました。

人間の知恵は、星座を作り、それぞれの星に名をつけます。しかし、銀河系の中心を見ていることになる「天の川」の場合は、それはまるで雲のようにしか見えませんから、だれも数えることも、名をつけることもできません

しかし、主はそれらすべての星を区別し、それに名をつけておられるというのです。それと同じように、主はイスラエルの民の一人ひとりを固有の名で呼んでおられるのです。

そして、主の偉大さは、ちっぽけな一人ひとりのいのちを見分けるということに現わされています。そのことが5、6節でさらに、「偉大なのは我らの主 力に満ち その英知は測り知れない。貧しい者を 主 (ヤハウェ) 引き上げられ 悪しき者らを 地面に引き降ろされ」と描かれます。

私たちは人の働きの偉大さを、数的な成果で測りがちですが、主の偉大さは、多くの人々を誠実に見分けることで表現されます。主はこの世から見捨てられた貧しい」「虐げられた」人々を高く引き上げてくださいます。

6,000人のユダヤ人にいのちのビザを発給して助けた杉原千畝さんの働きは、多数の日本人がフォローして初めて有効になりました。彼らはロシアのウラジオストクから敦賀湾まで、さらに神戸から最終的な亡命地にたどり着くまでありとあらゆる援助をしました。それがユダヤ人の中に多くの親日家を生み出すことになります。

イスラエルのことわざに、「Whoever saves one life saves the world entire (一人の命を救うことは、全世界を救うことだ)(Mishnah Sanhedrin 4:5)」があります。それは映画「シンドラーのリスト」の最後の場面で語られていました。それは「あなたが一人の人生を変えるなら、それは全世界を変えることになる」とも言い換えられます。神の偉大さは数的な成果よりも、弱く、貧しい一人ひとりを救い、一人ひとりの人生を変えることで現わされるというのです。

2.「主 (ヤハウェ) が好まれるのは 主を恐れる者 その慈愛(ヘセド、契約の愛)を待ち望む者」

7節では、「(ヤハウェ) に歌え 感謝をもって 我らの神をほめ歌え 竪琴(たてごと)に合わせて」と命じられます。ここでは、主への賛美に「」や「竪琴」を用いるように訴えられています。

しかし本来は、詩篇の朗読こそが賛美の中心でした。そこには様々な交読の方法があります。ですから、私たちの礼拝での最初の詩篇交読こそが最高の賛美と言えましょう。

一方、音楽の起源は、聖書によると、弟殺しのカインから六代目の野蛮で残酷な人間の代名詞レメクの次男のユバルに始まります。「ユバルは竪琴と笛を奏でるすべての者の先祖となった」(創世記5:21) と記されています。ちなみにレメクの長男は牧畜業の先祖、三男は鍛冶屋または武器製造の先祖です。つまり、音楽は、神に反抗する都市文化から始まっているのです。

しかし、その竪琴を主への賛美の道具として確立したのがダビデと言えるかもしれません。ダビデはその晩年に、自分が造った楽器を4,000人の人々に持たせて、「(ヤハウェ) を賛美する者」とした (Ⅰ歴代誌23:5) と記されています。

8節では三行の詩で、「この方は 雲で天を覆われ 地のために雨を備え 山々に草を生えさる」と記されています。温暖なイスラエルの地では、定期的に雨が降りさえしたら、山々に草が生え、多くの家畜を養うことができましたが、ここでは、(ヤハウェ) こそが、水蒸気から、そしてという水の循環を導いておられる方だと表現されます。

その結果が9節で、「また 獣に食物を与えられる 鳴いているカラスの子らにさえ」と描かれます。カラスは、汚れた鳥の代名詞のような存在ですが、主はそのカラスの子の鳴き声にさえ耳を傾け、必要な食物を与え、養っていてくださるというのです。

イエスご自身も、「二羽の雀は一アサリオン(300円程度)で売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの神の毛さえも、すべて数えられています」(マタイ10:29、30) と言われました。カラスや雀を養ってくださる主ご自身が、あなたに目を留め、養っていてくださるのです。

さらに、10、11節では、「この方は 馬の力を喜ばれず 人の足(の速さ、強さ)をも 好まれない。主 (ヤハウェ) が好まれるのは 主を恐れる者 その慈愛(ヘセド、契約の愛)を待ち望む者」と記されます。

馬の力」とは戦車隊を、「人の足」とは歩兵力を指します。それらは人間の「王」の支配権の象徴です。主(ヤハウェ)はそのような人間の力を誇る者を「好まれないと言われながら、同時に、「(ヤハウェ) が好まれる」のは、「主を恐れる者であると記され、それが「その慈愛(ヘセド)を待ち望む者」と言い換えられます。

ヘブル語のヘセドは翻訳困難なことばで、英語では unfailinglove(無限の愛)・ lovingkindness(慈愛)・ steadfast love(不変の愛)などと訳されますが、その中心的な意味は、ご自身の契約を守りとおす「誠実さ」とも言えましょう。

つまり、主が好まれるのは、その主の誠実さに期待し、それを「待ち望む者であるというのです。それは、目の前の状況が自分の期待に反するような悲惨な状態であっても、主のご支配のあわれみと真実とに信頼し続けることなのです。

パウロは、福音のために驚くほどに苦しみながら、「苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し」(ローマ5:3、4) と記します。「練られた品性」とは、神の慈愛(ヘセド、誠実さ)を現わす生き方とも言えましょう。

それは自分の徹底的な無力さを知りながらも卑屈になることなく、人との協力関係を築くことができる品性とも言えましょう。多くの人は、あまりにも、勝つか負けるか、助ける側か、助けられる側かなどという優劣を気にしながら生きています。

しかし、主はすべての人を「神のかたち」として、「高価で尊い」存在として創造してくださいました。様々な苦難を通して、主の「慈愛(ヘセド)を待ち望む」ようにされた者は、同時に、周りの人の様々な生き難さを優しい眼差しで見られるようになるのです。

3.「主はみことばをヤコブに告げられる」

12節以降は、七十人訳では別の詩篇として扱われていますが、伝統的なヘブル語聖書では、先の詩篇からの連続性が認められています。

まず、「ほめよ 主 (ヤハウェ) を エルサレムよ。ほめたたえよ あなたの神を シオンよ」と、「エルサレム」と神殿が置かれた丘「シオン」に、主 (ヤハウェ) への賛美を呼びかけます。

そしてその理由が13節で、「あなたの門のかんぬきを 主が強くし あなたのうちにいる子らを祝福しておられるから」と描かれます。これも2、3節の趣旨と同じく、主 (ヤハウェ) ご自身がイスラエルの子らを「祝福しておられ」、エルサレムを内側から再建し、そこに神のシャローム(平和、平安、繁栄)を実現してくださるという意味です。

そのことがさらに14節で、「あなたの地境に 平和 (シャローム) 主が置き 最良の小麦であなたを満たされる」と記されます。このときのエルサレムは城壁も崩れたままで、周りの異教徒の攻撃に怯えていましたが、主ご自身がエルサレムに平和 (シャローム) を実現し、最高の食物で、彼らの必要を満たしてくださるというのです。

15-20節では、主の「みことば」にある創造の力が描かれています。まず、「主が仰せを地に送ると みことばは速やかに走る」と描かれますが、それは、国の王の命令が、伝令をとおして前線の軍隊を動かすようなイメージです。

そして、16、17節では、温暖なイスラエルでは珍しい「」、「」、「」という寒さの象徴のことばが用いられ、「雪を羊毛のように主が降らせ 灰のように霜をまかれる。氷をパン屑のように 主が投げられると 誰がその寒さの前に立ち得ようか」と描かれます。

先日、メキシコの中部で、大量の雹(ひょう)が降って、それが2メートルの深さにもなり、家や車を押し流し、何人もの人に低体温症をもたらしたということが報道されました。そのときの地上の温度は何と30度もありましたが、上空に強い寒気が押し寄せながら地上が暑いと、水蒸気を凍らせ、雹を降らせるとのことでした。それが2,500年前のイスラエルにも起きたのでしょうが、それは異常気象と同時に、主がイスラエルを恐怖で震えさせるという霊的な意味も含まれていたと思われます。

それらが、主のみことばによって起きるというのです。ただ18節では、それがすぐに、「みことばを主が送ると それらは溶け ご自身の息を吹かせると 水が流れる」と記されます。つまり、主ご自身が「みことば」で氷を溶かし、主ご自身の「」でそれを水に変えて流すというのです。「」とは「風」とも訳すことができますが、主の霊が、氷を溶かし麗しい水の流れへと変えるのです。

メキシコでは重機で雹を押し流しましたが、聖書の世界では、主のみことばが、氷を溶かし、水の流れを起こすというのです。

なおイザヤ55章では、主のことばこそが歴史を動かすと描かれ、10節以降で「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、目を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。まことに、あなたがたは喜びを持って出て行き、平安のうちに導かれて行く……茨の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(10-13節) と記されます。

まさに、主のみことばが歴史を動かし、この世界をのろいから「祝福へと変え、この地に神のシャロームを実現するというのです。そこでは主のみことばの働きが「雨や雪」にたとえられますが、この詩篇では反対にそれらの気候変動を支配するのが主のみことばであると描かれます。

19、20節では、「主はみことばをヤコブに告げられる その掟とさばきをイスラエルに。どのような国々にもこのようにはされなかった。そして さばきについて 彼らは知らない。ほめたたえよ 主 (ヤハ)」と記されます。

イスラエルの民に神のみことがば預けられていたことは、驚くべき特権であり、彼らこそが世界の祝福の基となるはずでした。しかし、彼らは、神が遣わした救い主を十字架にかけて殺し、自らに「のろい」を招きました。

ですからイエスは、「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。見よ、おまえたちの家は、見捨てられる」(ルカ13:34) と言われ、さらにご自身の十字架を悲しむ女性たちに、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」(同23:28) と述べ、エルサレムがローマ帝国に滅ぼされることを預言されました。

そしてエルサレムはその40年後に廃墟とされ、2000年後の今も神殿の跡地には異教の神殿が立っています。イスラエルの民は、主のみことばを預かりながら、救い主を拒絶してしまったことで、厳しく「のろい」を受けてしまいました。「さばきを知る」ことが災いの原因となったのです。

新約では、外見上のイスラエルではなく、キリストにつながる者こそが、「新しいイスラエル」と見られています (ローマ2:28、29)。

私たちに主のみことばが与えられているということは、私たちこそがキリストと共にこの世界を治める者とされることを意味します。私たちはあまりに自分を小さく見過ぎてはいないでしょうか。

人間の歴史は「エデンの園」に始まって、「新しいエルサレム」で完成します。ただ、人間が築いた最初の町は「エデンの東」にありました。今、東京こそがエデンの極東の都です。ここには様々な人間の傲慢と罪のシンボルがあります。

しかし、東京は日本で最もクリスチャンの多い町、もっとも礼拝の場が多い町でもあります。2016年度の文化庁の宗教統計調査によれば、全国民の中でのキリスト教信者比率は1.5%なのに対し、東京の比率は6.29%、長崎県4.8%、仏教県の富山や福井は0.3%以下となっています。しかし、私たちの感覚では、東京にそれほど多くのクリスチャンが住んでいるようには感じられません。それは毎週のように礼拝に来る信者が統計よりもずっと少ないからです。

特に、急速に人口が増えている中央区には、礼拝者の数が驚くほど少ない一方、潜在的な信者の数は東京の中でも特に多いことでしょう。それは国際化が進み、文化的な軋轢が少ないからです。

イザヤの預言によると、終わりに日に、世界中のすべての民が、エルサレムに礼拝に来るようになると記されています。しかし、それはこの地上のエルサレムではなく、天から降ってくる「新しいエルサレムです (黙示21:2)。私たちはそれに憧れながら、この東京の地に礼拝の場を広げようとしています。

エルサレムは救い主を拒絶して神の「のろい」を受けましたが、それはキリストにあって祝福に向かっています。そして、やがてこの東京も、その「新しいエルサレム」の中に取り込まれるのです。


詩篇147篇 (私訳交読文)

ほめたたえよ 主 (ヤハ) を (ハレルヤの和訳) (1)
まことに 我らの神をほめ歌うことは善い
まことにそれは快(こころよ)く 賛美は麗しい。
主 (ヤハウェ) は エルサレムを建てられ (2)
イスラエルの散らされた者たちを集められる。
心の砕かれた者を 癒され (3)
その傷を包まれる。
無数の星を数えられ (4)
そのすべてに名を付けられる。
偉大なのは我らの主 (5)
力に満ち その英知は測り知れない。
貧しい者を 主 (ヤハウェ) は引き上げられ (6)
悪しき者らを 地面に引き降ろされる。

主 (ヤハウェ) に歌え 感謝をもって (7)
我らの神をほめ歌え 竪琴(たてごと)に合わせて。
この方は 雲で天を覆われ (8)
地のために雨を備え
山々に草を生えさる。
また 獣に食物を与えられる (9)
鳴いているカラスの子らにさえ。
この方は 馬の力を喜ばれず (10)
人の足(の速さ、強さ)をも 好まれない
主 (ヤハウェ) が好まれるのは 主を恐れる者 (11)
その慈愛(ヘセド、契約の愛)を待ち望む者。

ほめよ 主 (ヤハウェ) を エルサレムよ (12)
ほめたたえよ あなたの神を シオンよ。
あなたの門のかんぬきを 主が強くし (13)
あなたのうちにいる子らを祝福しておられるから。
あなたの地境に 平和 (シャローム) を主が置き (14)
最良の小麦であなたを満たされる。
主が仰せを地に送ると (15)
みことばは速やかに走る。
雪を羊毛のように主が降らせ (16)
灰のように霜をまかれる。
氷をパン屑のように 主が投げられると (17)
誰がその寒さの前に立ち得ようか。
みことばを主が送ると それらは溶け (18)
ご自身の息を吹かせると 水が流れる。

主はみことばをヤコブに告げられる (19)
その掟とさばきをイスラエルに。
どのような国々にもこのようにはされなかった。 (20)
そして さばきについて 彼らは知らない
ほめたたえよ 主 (ヤハ) を (ハレルヤの和訳)