もしある人が、「信仰をもって、傘を持たずに出かけよう!」と言って、雨でずぶぬれになったとしたら、そんな風に「信仰」ということばを使うのは愚かだと誰もがわかります。ところが意外にも、「信仰」という名のもとに根拠のない楽観主義が正当化されることがあります。
しかし、聖書の「信仰」は、常に神の約束に結びついています。神の明確な約束のないところに「信仰」という概念は生まれません。そして、信仰の核心とは、神の約束の実現を「待ち望む」ことです。
ただし、多くの人にとって最大のストレスは待たされることです。待たされると不安が募ります。その不安定な状況を打開し、自分で積極的に状況を支配しようと無謀な戦いを始めることさえあります。しかし、そこで何よりも大切なのは全能の神に向かって「祈る」ことです。
そしてこの書の5章7節では、キリストの模範が、「この方は、ご自身の肉体の日々において、祈りと願いとを、ご自分を死(の支配領域)から救い出す方に向かって、大きな叫び声と涙をもって ささげられ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と描かれます。
つまり、信仰とは、物事に動じなくなるとか、いつも心が平安で満たされているということとは違い、不安の中に留まり、祈り続けることを意味するのです。
1.「思い起こしなさい……苦難との厳しい戦いに耐えた頃のことを」
10章32節では、「しかし、思い起こしなさい、初めの日々を、あなたがたが光に照らされて後で苦難との厳しい戦いに耐えた頃のことを」と記されています。イエスはユダヤ人から偽預言者と断罪されて十字架にかけられましたが、その弟子となるということは異端の教えに従う「異端者」と見られることを意味しました。ですからユダヤ人クリスチャンは誰よりも同胞のユダヤ人から激しく迫害されていました。
そして、彼らの中には苦しみに耐えられなくなってもとの信仰生活に戻ろうとする者が出てきました。著者はそのように忍耐が限界になりそうな人に向かって、回心直後の忍耐を思い起こすように勧めています。「耐える」とは「忍耐」と同じことばです。そして、「忍耐」とは不安定な中に身を置き続けることを意味します。
そして、当時の信仰者たちが置かれた状況が、「嘲られ、苦しめられる見せ物とされたこともあれば、このようなめにあった人々の仲間とされたこともありました。あなたがたは捕らえられている人々と苦しみをともに、自分の財産が奪われることさえ喜んで受け入れました。それは、自分たちがもっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたからです」(10:33,34) と描かれます。
彼らは様々な迫害を受ける中で、互いの間の愛を成長させることができたばかりか、豊かな希望に満たされていました。
イエスの時代には、ローマ軍を力で打ち滅ぼして「神の国」を実現しようという運動が盛んで、この手紙が記された頃には、ユダヤ人の過激派の武力闘争が最盛期を迎え、その攻撃の矛先がクリスチャンにも向けられていたとも思われます。そのような中で彼らは、イエスのことばを思い起こしていました。
それは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」(マタイ5:39,40) というものです。それは非暴力、無抵抗というより、神ご自身が「神の国」を完成してくださるときを「待ち望み」ながら、日々を誠実に生きることの勧めでした。
事実、彼らが自分の財産が奪われることすら喜んで受け入れられたのは、「もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので」と説明されます。これこそが信仰の核心と言えましょう。彼らは目の前に神の豊かな報酬を見ていたからこそ、苦しみを受け止めることができたのです。
これはたとえば、豪勢な夕食を前に、空腹を我慢することに似ています。「信仰」とは、不条理のただ中でも、霊の目をもって神の約束が実現しつつあるということを「見る」ことです。
私たちがいつも、自分の身を守ることに夢中になり、ときには過剰防衛さえしてしまうのは、将来への不安があるからです。神が私たちのために祝福に満ちた世界を用意しておられるという「確信」が強くなればなるほど、苦しみに耐える力が生まれてくるのです。
人々が不安に耐えられるなら、世の中から戦いは格段に減ることでしょう。
それを前提に、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。それ(その確信)には大きな報いがあります」(10:35) と記されます。「確信」は19節では「大胆さ」と訳され、キリストのために不当な苦しみを引き受ける「大胆さ」を意味し、そこには豊かな「報い」が約束されています。
しかもそれに続いて、「忍耐こそがあなたがたに必要なものだからです。それは、神のみこころを行い、約束のものを手に入れるためです」(10:36) と記されます。これこそこの書の中心的な勧めと言えましょう。ただしそこには、神のみこころを行っていても、すぐに報酬が与えられるわけではないという前提があります。
「忍耐」とは、もともと軍隊用語だったようで、敵の最前線に留まり続けるというようなニュアンスで使われたと思われます。この反対の意味が、38節に記されている「恐れ退く」ことです。
たとえば、最前線の砦に立てこもった軍隊は、援軍の到着を今か今かと待っています。しかし、前線から退却してしまえば今までの苦労が一瞬のうちに水の泡になります。援軍の約束を待ちながら、前線に留まるのには何よりも「忍耐」が問われています。
2.「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」
10章37,38節では、「義人は信仰によって生きる」という福音の核心が、ハバクク2章4節から引用されます。このみことばは、パウロがローマ人への手紙1章17節、またガラテヤ人への手紙3章11節でも引用している「信仰義認」の教えの中心テキストです。
ただここではまず、イザヤ26章20節のギリシャ語七十人訳の「ほんのしばらく身を隠せ、主の憤りが過ぎ去るまで。それは、見よ、主が聖なる所からの怒りを地に住み人々にもたらされるから」から、「ほんのしばらく」というみことばのみが引用されます。それは29,30節に記されていた神のさばきを思い起こさせるみことばです。
そしてさらに、ハバクク2章3b節の七十人訳から、「来たるべき方が来られる。遅れることはない」から引用され、この箇所が合わさって、「なぜなら、ほんのしばらくすると、来たるべき方が来られ、遅れることはないのだから」と記されます。
つまり、ここではまず、背教者に対する厳しいさばきが示唆されながら、その間、信仰者はただ「身を隠して」、キリストの現われを待ち望むことが勧められているのです。それは25節で、「その日が近づいていることを見ている(分かっている)のですから、いっしょに集まるように励まし合いましょう」と記されていたことと同じです。
不思議なのはそれに続くハバクク2章4節の七十人訳では、「もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。義人は、わたしの真実(信仰)によって生きるのだから」と記されていることばが、ここでは「わたしの義人は信仰によって生きる、もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない」と変えられていることです。
つまり、元の七十人訳では、キリストの現われが「遅れることはない」ことの理由として、キリストは「恐れ退く」ことなく、神の真実に拠り頼んで生きると記されていたことが、このヘブル書では、キリストに倣うクリスチャンが、神にとっての「わたしの義人」と呼ばれ、その者に「恐れ退く」ことのないようにという警告が発せられているという形になっていることです。
それは、続く39節で、「しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と記されることとの関係で語順が変えられたと理解できます。
38,39節は、「信仰によって生きる」「恐れ退く」「恐れ退いて滅びる」「信じていのちを保つ」という交叉の形が用いられています。
実は、「信仰によって生きた」方とは、キリストご自身なのです。私たちは聖霊の力によってこの方の御跡を歩むことで、「滅びる」代わりに、「いのちを保つ」ことができるのです。
私などはすぐに自分の信仰の不安定さに目が向かいますが、10章5-9節では、キリストこそが「神のみこころ」を生きるために私たちと同じからだになられたことが強調されていました。私がキリストに倣う以前に、キリストが私たちと同じ弱い「からだ」となられ、私たちの歩むべき道を開いてくださったのです。
私たちは自分を見る代わりに、キリストの歩みを見続けることが何よりも大切です。37節でイザヤ書26章20節が最初に引用されたのは、そのためとも言えましょう。その直前の19節では、「あなたの死人は生き返り、私の屍は、よみがえります。覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ」と明確な復活預言が記されています。その文脈では、死人の復活とは、神のさばきが世界の人々に明らかにされることとして描かれています。
そして、キリストの復活こそが私たちの中に、目の前の苦難に立ち向かう「生きる」力を生み出すのです。
預言者ハバククの時代、エルサレムの中では、権力者や宗教指導者たちが弱い民に向かって暴虐と不法を行い、神の支配が見えなくなっていました。
ハバククはそれを深く悲しみながらこの書の冒頭で、「いつまでですか、主 (ヤハウェ) よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは……なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか」(1:2,3) と訴えています。
そのような中で、神は「終わりの日の幻」を彼に与えてくださいました。ただそれは、神がまずバビロン帝国を用いてイスラエルの支配者たちをさばき、その上で、自分の力を誇るバビロンをさばくという、期待はずれの、遠回りの救いのご計画でした。
これはたとえば今から75年前に、「大日本帝国が敗北して初めて、新しい日本が生まれる……」と語るようなものです。さしあたりは理解してもらえませんが、実際に悲劇が起きたときに、そのことばが生きて、人々に勇気を与えます。
つまり、神は預言者ハバククを通して、今、エルサレムが滅びようとしているけれども、その苦しみを通して神の民は生まれ変わることができるという希望を語ったのです。
「信仰によって生きる」の「信仰」とは、「真実」とも訳すことができます(ヘブル語の「アーメン」と同じ語源のことば)。聖書のテーマは、「神の真実」です。目の前にどれほどの苦しみや不条理があっても、神は必ず、ご自身に頼る者を救い出してくださいます。
しかもそれは、しばしば、悲劇を通して、また、何度も死ぬような目にあいながら、生かされているということを通して現されます。その意味で、一人ひとりが、人生のどこかでそのような「神の真実」を体験させていただいているのではないでしょうか。そして自分の人生に現された神の真実の原点に立ち返ることから、あきらめそうになったときの「忍耐」が生まれます。
私の中には、いつも漠然とした不安があります。それは幼児体験から来る神経症的な不安とも言えます。イエスを救い主として信じた後は、「信仰によって不安を克服しよう!」などと思い、かえって自分の不信仰に悩まされてきました。
しかし、あるときから、自分の不安定さの原因をさかのぼるよりも、神がそのような苦しみのただ中で現していてくださった「真実」を見るようにと目が開かれました。苦しんだと同じ分だけ神によって守れていたのです。それは、苦しんだと同じ分だけ「忍耐」が養われたとも言えます。
このヘブル書では、「信仰」とは、不動の心を持つというようなことではなく、何よりも「忍耐する」こととして描かれています。そして、不信仰とは、心が揺れることではなく、「恐れ退く」こととして描かれています。
多くの人は「怖がりな心」を「不信仰な心」と混同しがちです。しかし、不信仰とは、目の前の危険を見て、持ち場を放棄し「恐れ退く」ことです。怖がりながらも、「神様、助けてください!」と叫び、逃げずに留まるという姿こそ、信仰の本質です。
私は自分の心の不安定さをもてあます事があります。しかし、神は、「不安」と「忍耐」をセットに与えていてくださいました。あなたの人生にも同じような恵みがあるのではないでしょうか。
3.「信仰がなければ神に喜ばれることはできません」
11章1節は、「信仰は望んでいることの実体であり、目に見えない事実の証明である」とも訳すことができます。「信仰」とは、「実体」も見えない夢の実現が可能だと「信じ込む」ことではなく、聖書で「証明」もされない架空の「事実」を前提に、向こう見ずな冒険ができるようになることではありません。
それは、目に見える現実が、神の約束とあまりにも異なるように見える中でなお、神の約束が実現することを待ち望むことができる力です。また、目に見える悲惨な現実の背後に「神の真実」を認めることができることです。
そして2節は、「これ(信仰)によって、長老(先祖)たちは証しを得たのです」と記され、その後11章全体で「信仰によって」という、旧約の時代の信仰の先輩の模範としての「証し」が次々と描かれて行きます。
第一は、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟ります。すなわち、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを」と描かれます。たとえば、科学は「見えるもの」の成り立ちを分析しますが、この世界がなぜ存在し、どのような方向に向かっているかを説明することはできません。
かつて小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワから宇宙の塵のようなものを採取してきました。それは人間の身体を構成する原子と何らかの関連があることでしょうが、それで人間の心やたましいの成り立ちを理解することはできません。
人間が宇宙の塵に過ぎなかったら、どこにその尊厳の根拠があるのでしょう。ですから、20世紀最高の科学者アインシュタインは、「Science without religion is lame, religion without science is blind(宗教なき科学は不具《びっこ》であり、科学なき宗教は盲目である)」と語りました。
信仰とは目に見える現実の背後にある霊的現実を見ることなのです。なお、神のことばと聖霊による世界の創造に関しては、詩篇33篇6節において「主 (ヤハウェ) のことばによって 天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」と記されています。それこそ三位一体の神の創造のみわざです。
第二に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげました。それによって、彼が正しい人であることが証しされました。彼のささげ物の良さが神に証しされたからです。彼は死にましたが、それによって今も語っています」(11:4) と言われます。
神は、目に見えるささげ物の背後にあるアベルの「信仰」または「真実」を喜ばれたのです。カインの不真実はその後の行動に現れています。信仰とは、神の真実に対する私たちの真実な応答です。そして、アベルの真実は今も私たちの模範です。
第三に、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。彼は見えなくなったのです。それは神が彼を移されたからです。移される前から、彼のことは証しされていました、彼が神に喜ばれていたことが」(11:5) と記されます。
「移される」ということばが三度も繰り返されますが、エノクがそのような特別な恵みを受けることができたのは、「神に喜ばれていた」ことの結果であったというのです。
そして6節ではそれを受けて、「信仰がなくては、(神に)喜ばれることはできません。それは信じる必要があるからです、神に近づく者は、神がおられることと、神を探し求める者には報いてくださる方であることとを」と描かれます。
私たちはみな心のどこかで、「神に喜ばれること」を願ってはいないでしょうか。そのためには、神の存在を信じることと、日々の生活の中に神のご支配を捜し求めることが必要です。
イエスは、「自分のいのちのことで心配したり……からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われながら、「まず、神の国と神の義を探しなさい(求めなさい)。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます……探しなさい。そうすれば見出します」と約束してくださいました。
「神の国と神の義」は、空の鳥を見ることや、野の花がどうして育つかをよく考えることから発見できるというのです。
ハバクク書の最後は、不思議にも、イスラエルの畑に「実り」が見えなくなり、羊や牛が「いなくなる」という悲劇の中で、「私は主 (ヤハウェ) にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう」と告白するという逆説が記されます。
つまり、神に喜ばれる信仰とは、現実が人間的な期待に反すると思える中に神のご支配を認めることなのです。それはナチスドイツの強制収容所の中で、ユダヤ人たちが互いに ”Trotzdem Ja zum Leben sagen”(それでも人生に「イエス(はい)」と言おう)と励まし合って歌ったことにも現わされます。
またアウシュビッツのガス室に送られるユダヤ人はとっさに「ハティクバ」(希望)を皆で歌いだし、ナチスの親衛隊に鞭打たれても歌い続けます。それは19世紀のウクライナで作られ、ユダヤ人が約束の地で自由に暮らすという「希望」を歌い、現代のイスラエル国歌になります。
それはエゼキエル37章11,12節で、イスラエルの民が「私たちの骨は干からび、望み(希望)は消え失せた」ということに対し、主 (ヤハウェ) が、「わたしの民よ、見よ。わたしはあなたの墓を開き……イスラエルの地に連れて行く」と約束されたことを基に、「私たちの希望は消え失せない」と歌ったものです。
彼らは神の民の復活預言に信頼しながら、想像を絶する苦難の中で互いに希望を告白し、二千年ぶりに新しい国を誕生させました。
現在のアラブ難民との関係を見ると複雑な気持ちを味わう人も多くいることでしょうが、キリスト者にとっての真の「希望」は、全世界が神の平和 (シャローム) で満たされることです。
それが当教会のヴィジョン、New Creation:hope for the Shalom の意味です。キリストにある「新しい創造」によって、世界は平和の完成に向かっているのです。
信仰とは、多くの人々が思うように、期待通りに物事が進むという確信ではなく、不条理に満ちた目に見える現実に振り回されることなく、神の真実に信頼し、神の真実に応答して生きる、私たちの真実なのです。
私たちの目には、「神がおられるならどうしてこんな悲惨が……」と思うようなことが起きますが、神の御子は、人生の悲惨と不条理とを身をもって味わうために人となり、この世の不条理を正す前に、不条理な死を引き受けられたということを忘れてはなりません。それは不条理のただ中に身を置きながら、神を「待ち望む」という中でこそ理解できるものです。
それを通して私たちは自分の願望から自由になることができ、自分の願望を押しと通そうとして戦う必要がなくなります。そこに平和 (シャローム) が生まれます。
そればかりか、日々の生活の中に、神が与えてくださっている様々な恵みを天国の前味として発見することができるようになります。このように、「忍耐」して神の救いを「待ち望む」ことは、「今を生きる」ことでもあります。