詩篇145篇「神のご支配を感謝しつつ生きる」

2019年6月2日 

(ヤハウェ) は王である」、「(ヤハウェ) は王座に着いておられる」という賛美のことばが詩篇には多数登場します。

この世界には多くの自然災害などがありますが、たとえば火山活動で生まれた日本列島にこれほど多くの人々が安心して暮らしていられるのは、主がこの地を守られているからです。この宇宙にこの不思議な地球が存在し、様々な生命体が存在していること自体が、宇宙の中での奇跡と言えましょう。

この詩篇は各節の最初の文字が、ヘブル語のアルファベットの順番になっています。1節の始まりは、アレフ (א) から始まる「(あが)めます」ということば、2節の始まりは、ベート (ב) で「日ごとに」の「」に相当する前置詞、3節の最初はギンメル (ג) で「偉大な」を意味することばから始まります。

ただ、21節で終わるということは、22のアルファベットのうちの一つが欠けているという意味で、それは13節と14節の間に「ヌン (נ)」から始まる文章があったとも解釈されます。ただ聖書のアルファベット歌は「不完全とも言えるもの」が多数ありますので、欠けた文章があるはずと考える必要もありません。

とにかくアルファベットの順番を生かした詩で、神が全世界の真の支配者であることが人々の心に焼き付くように構成されているとも言えましょう。

この世には様々な自然災害ばかりか不条理な犯罪が起きます。そのたびに、「神が全能なら、なぜこのようなことが起きることを神が許されるのか……」という疑問を覚えます。しかし、人間の歴史を見ると、様々なわざわいは起き続けているという現実が、変わることなく存在します。

それ以上に不思議なのは、そこで、神のご支配を信じて誠実を全うした人々が必ずいるということです。レビナスというユダヤ人哲学者は、「ヒトラーの民族絶滅計画-それは千五百年にわたって福音が宣布されたはずのヨーロッパに生まれたーを経験したあと、ユダヤ教はその原点に向かった……ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあったからだ。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のために、すべてを危険にさらしてくれたのである」と言って、ユダヤ人とキリスト教徒の間には、相互補完的な共通言語があることを再発見する必要を訴えています。

そしてこの詩篇こそ、「すべての肉なる者」(21節) を結びつける鍵の歌になるとも言えるように思われます。

1.「代は代へとあなたのみわざを ほめたたえ」

1,2節では「崇めます」「ほめたたえ(祝福し)ます」「賛美します」という神への賛美の類語が用いられます。「ほめたたえる」とは、英語ではbless(祝福する)と訳されることが多いことばです。

しかもここでは「私の神」と呼びかけながら、同時にその方を「(統治者)」とも呼びます。それこそ、この詩篇のテーマであり、主 (ヤハウェ) こそが、王たちの王として、この世界を「治めておられる」ということが示唆されています。

また、1,2節と21節の終わりでは「世々限りなく」ということばが繰り返され、主への賛美の永遠性が強調されます。

3節は、「偉大なるは主 (ヤハウェ)」ということばから始まり、この方を「大いに賛美されるべき方」と呼びながら、「偉大な」の名詞形で、主の「偉大さ」が「測り知ることができない」と描写されます。

4節では「ほめ歌う」(誇る)という、これまでとは違った賛美の類語が用いられ、それが「一つの世代」から「次の世代へ」と受け継がれると言われます。

さらにこの「世代」ということばを主語にして、主の「大能」の働きを「告げ知らせる」とも描かれます。「大能」とは、軍事的な力を指すことばで、11,12節では再びこのことばが用いられ、目に見えない「主の王国」が、この世の様々な王国を支配していると描かれます。

さらに5節では英語で majesty と訳される神の「威厳」の「栄光の輝き」が描かれ、その主の「奇しいみわざの数々を 私は思い巡らします」と記されます。

これは英語で meditate とも訳されることばで、この詩篇作者が、出エジプトなどの歴史に現わされた神のみわざの数々を思い巡らしていると描かれます。

6節では「人々は(三人称複数形の動詞形)」と「私は」という対比が見られます。多くの人々が「神の恐ろしいみわざの力を述べる」一方で、「私は」神の「偉大さ」を語るというのです。その「偉大さ」とは、3節で「測り知ることもできません」と述べられていました。

この詩篇では、「偉大」ということばが三度、また「大能」ということばも三度登場します。そこには神の測り知れないご性質と「が描かれています。

つまり、ここでは人々が神の数々の「恐ろしいみわざの力」を描写する中で、著者はそれを「神の本質」に結び付けて解説しているということかと思われます。著者は、世の「人々」の神への思いを導いているとも言えます。

その結果として7節では、彼らが神の「豊かないつくしみの思い出を溢れさせ」、神の「」を「高らかに歌う」ようになるというのです。「いつくしみ」と訳されたことばはヘブル語のトーブの訳で、最も一般的な「」を意味します。

つまり、人々は歴史上の神の「恐ろしいみわざの力」を神の豊かないつくしみの「思い出」へと変化させたというのです。それは、たとえば、神がイスラエルの民をエジプトの追手から守り、逃がすために、海を二つに分けて民を通らせ、その後でエジプト軍を海の中に沈めたようなものです。エジプト人にとっては恐怖の記憶ですが、それが世界中の人々にとっても、神の「いつくしみの思い出」へと変えられたのです。

そして、今や世界中の人々がイスラエルの神の「いつくしみ」と「(正しさ)」を歌うようになっています。ここでの「」とは審判者としての厳しさよりは「いつくしみ」と似た意味を持つと考えられます(並行法)。17節では再び「」の形容詞形が登場し、それが神の「誠実」という性質と並行されて描かれます。

とにかく、神の「」と「」を対照的な性質として描くような用い方は詩篇の中にはほとんど見られません。

1-7節では、「」から始まった主への賛美が世代を超えて人々に受け継がれ、全世界で神の「いつくしみ」(トーブ) と「」(ツダカー) が歌われるようになると描かれています。それは、神の御子がこの賛美をご自身の賛美とされ、ご自身の十字架と復活によって、世界中の人々の心を創造主への賛美へと導いたからです。

エペソ人への手紙1章9,10節では、「みこころの奥義」が実行に移された結果「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められる」と記されていました。これは英語で recapitulation(再統合)と呼ばれる大切な救いのみわざです。

イスラエルの神が全世界の民にとっての神となるというのが、旧約から新約へとつながる神の救いのみわざで、それはすでにこの詩篇にもまた様々な旧約の預言書にも記されています。イスラエルは本来、宣教師の民として選ばれていたからです。

2.「あなたの統治は 代々に及びます」

8節のみことばは出エジプト記33、34章の記事を背景にしたものです。(ヤハウェ) はイスラエルの民の頑なさを耐えがたく思われ、ご自身が彼らとともに歩み、約束の地に導くことはできないと言われます。

それに対しモーセは、「もしあなたのご臨在がともに行かないなら、私たちをここから導き上らないでください」とすがり、さらに「どうか、あなたの栄光を私に見させてください」と驚くべきことを願います (33:15,18)。

それに対する答えとして、主はモーセをシナイ山に上らせ、岩の裂け目に入れながら、「彼の前を通り過ぎ」ます。そのときに「(ヤハウェ) の名を宣言された」という意味で、ご自身のことを、「(ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵み (ヘセド) とまこと (エメット) に富み、恵み (ヘセド) を千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である」と紹介されます (34:6,7)。

そこには、ヘブル語でヘセドと表現される契約の愛が千代にまで及び、最終的にはイスラエルの子孫の「咎と背きと罪を赦し」て神の民として回復させると約束される一方で、短期的には、イスラエルの罪へのさばきとしてのバビロン捕囚が示唆されています。

これこそイスラエルの歴史の要約のような表現です。それを導く性質が「あわれみ」「情け深さ」「恵み(慈愛:ヘセド)」「まこと」です。

ここではその前半の若干の語順の違いや「まこと」ということばの省略などがあるのもの、そのまま引用され、「(ヤハウェ) は情け深く あわれみ深く 怒るのに遅く 慈愛 (ヘセド) に富んでおられます」と記されます。

なお、ヨハネ福音書の最初でイエスのことが、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た…この方は恵みまことに満ちておられた」(1:14) と紹介されたのも、その出エジプト記の神の栄光の現われを意識しての表現です。

さらに不思議なのは、この詩篇の続く9節で、「(ヤハウェ) すべてのものに いつくしみ深い(善であられる)。そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります」と記されていることです。

これは、主のイスラエルの民の対する「あわれみ」が「造られたすべてのものの上にある」と記されていることです。これも、イスラエルの神が全世界の神となるという流れです。

イエスの時代のユダヤ人が旧約の教えを「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」と理解していたことに対し、イエスは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われ、その理由として、主の「あわれみ」を、「天におられるあなたがたの父は……ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と描写します (マタイ5:43-45)。

その背後にはこの詩篇があったと思われます。なお9節の「いつくしみ深い」ということばは、7節と同じヘブル語のトーブ(善)の訳です。そこで「いつくしみの思い出」が語られましたが、それは「造られたすべてのもの」対する「あわれみ」として現わされ、それが「造られたすべてのものによる神への「感謝につながるというのです (10節)。

人間ばかりか、全被造物の「感謝」のようすが、(ヤハウェ) ……に造られたすべてのものが、(主に)感謝すると描かれていることは、詩篇96篇10節では、「(ヤハウェ) は王である。まことに 世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる」と記された後で、「天は喜び 地は小躍りし……野とそこに満ちているものは 喜び踊れ そのとき 森の木々もみな喜び歌う」(11,12節) と記されていました。

皮肉にも、主のご支配が明らかになるとき、人間以前に、「野の獣」の方が「喜び踊る」というのです。

そしてこの後半では「あなたに誠実な者たちは ほめたたえています」と記されますが、「誠実(敬虔)な者たち」と訳されたことばは、先のヘブル語のヘセド(恵み、慈愛)の形容詞形のハシドゥです。そしてその「誠実な者たち」は、「あなたの王国の栄光を 述べ あなたの大能を 語る」(11節) と記されます。

つまり、主の慈愛(恵み)を理解する者こそが「誠実な者」であり、主のご支配の現実を語ることができるというのです。しかも、その目的は「アダムの子らに」、主の「大能」と、主の「王国の輝かしい栄光」を「知らせるため」であると描かれます (12節)。「誠実な者」は、アダムの罪を受け継いで神を忘れる者たちに、「主の王国の輝かしい栄光」を「知らせる」ことができるというのです。

そして13節では、主が全世界を治めておられるという現実が「あなたの王国は 永遠にわたる王国 あなたの統治は 代々に及びます」と歌われます。11-13節で「王国」ということばが四度も繰り返されるということは異例のことです。

ダニエル書4章では、エルサレム神殿を滅ぼしたバビロンの王ネブカドネツァルが自分の王権の威光を誇っているときに、神のさばきを受け、牛のように草を食べる状態に身も心を落とされますが、再び神が彼の理性を戻したときに、イスラエルの神の主権を「永遠の主権、その国は代々限りなく続く」と告白したと記されます (34節)。

つまり、栄華を誇る異教徒の支配者に、世の王国の上に、真の神の王国の支配があると明らかになったのです。

讃美歌90番に「ここも神の御国なれば (This is my Father’s world)」という歌があります。そこでは、この目に見える世界全体が「神の国」であると歌われています。しかし、教会の伝統の中では、それに対し、「神の国」は既にあっても、神の民の領域、つまり、教会の支配領域の中にのみ実現しており、それが全世界に広がって、やがて「神の国」の完成、神の平和が全世界に満ちるシャロームの世界が実現すると言われます。

それはたしかにその通りなのですが、そのように明確に区別がつけられないのが聖書の表現とも言えます。

そしてその歌詞の3番では「よこしま暫しは、ときを得とも 主の御旨の ややに成りて 天(あめ)地(つち) 遂には 一つとならん」と歌われます。

これは、「この世界に神の支配の見えない不条理が支配しているように見えるときがあっても、神の支配を忘れさせないでください。神のご計画は進んでおり、天と地は最終的に、神の支配のもとに一つにまとまるのだから……」という希望を語った名曲です。

3.「主 (ヤハウェ) は近くあられます 主を呼び求める者すべてに」

14節では、(ヤハウェ) のご支配の現われが、「倒れる者を みな支え かがんでいる者を みな起こされます」と描かれます。これは、人間の王国の支配が、格差社会を生み出し、必然的に社会的弱者を生み出してしまうことと対照的です。

そして15節では「すべての目は あなたを待ち望んでいます」と記されながら、その根拠が「あなたこそは 時にかなって彼らに食物を与えられます」と描かれます。ここでは「あなた」ということばが強調されながら、世の権力者ではなく、創造主である神こそが、全世界の人々のいのちを支えている方であると告白されます。

そして16節では、「御手をあなたは開き」ということばからはじまり、主ご自身の御手が開かれることで、「生けるものすべての願いを満たされます」と告白されます。

私たちはあまりにも人間の知恵と力が達成したものに目が向かい過ぎてはいないでしょうか。この世界に空気が存在し、大地に太陽の光が届き、そこに適度な雨が降るという前提がなければ、人間の技術は何の豊かさも生み出せません。天空の城ラピュタが滅びるように、大地から離れた生活は空しいものです。

そして17節からは、「(ヤハウェ) はご自分のすべての道において義(ただ)しく そのすべてのみわざにおいて 誠実 (ハシドゥ) であられる」と、改めて神の「」と「誠実さ(ヘセドの形容詞形)」で神のご支配が信頼できるものであることが強調されます。

そして18節では「近くあられます 主 (ヤハウェ) 」という表現から始まり、主を呼び求める者すべてに」と描かれます。これは単純に、主 (ヤハウェ) を遠く感じる方は、主を「呼び求める」ことをしていない結果とも言えるかもしれません。ですから、「真実 (エメット) をもって主を呼び求める者すべてに」という解説が追加されます。

子供の賛美に「祈ってごらんよ わかるから」という楽しい歌があります。その歌詞は、「君は神さまにネ 話したことあるかい?心にあるままを うち明けて 天の神さまはネ 君のこと何でも わかっておられるんだ 何でもね だから空 仰いで 「神さま」と一言 祈ってごらんよ わかるから 小川のほとりでも 人ごみの中でも 広い世界の どこにいても 本当の神さまは いまも生きておられ お祈りに答えてくださる」というものです(新聖歌481番)。

ここには正直に真実に心を打ち明けて、神を呼び求められる自由が描かれています。確かに、「祈っても、何も変わらない……」と思える現実もありますが、そこではどこまで「真実をもって」という動機が問われています。

しかも、「呼び求める」ということばは「出会う」という意味も込められています。願いがかなうという以前に神との出会い自体に意味があるからです。社会と身近な人を恨みながら、自分の心を閉ざしてしまうことから、恐ろしい悲劇が生まれました。

ただし、私たちはそれ以前に、自分の「願い」が「かなえ」られ、不条理な苦しみの中から救い出されることを願っています。

それに対しての答えが19,20節で、「主を恐れる者の 願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救ってくださいます。 主 (ヤハウェ) は守られます すべて主を愛する者を」と記されます。

ここには「主を恐れる」こと、「主を愛する」ことの大切さも同時に記されています。神との人格的な出会いと、自分の「願い」が「かなえ」られ、「いのちが守られる」という体験は、車の両輪のように進むものです。

ただ同時に、「しかし、すべての悪しき者を 主は滅ぼされます」ということも知る必要があります。それは、主を呼び求めようとしない者、主を軽んじ、主を愛そうとしなかった者に対してのさばきは必ずあるからです。

21節では1,2節のように「」による主への賛美が、「(ヤハウェ) への賛歌を 私の口が語ります」と記されながら、同時にそれとともに期待されることが、「すべての肉なる者が 聖なる御名をほめたたえ(祝福し)ますように 世々限りなく」と記されます。

著者は、すべての造られたものばかりか、「すべての肉なる者」という全人類が、(ヤハウェ)の前にひざまずきほめたたえ(祝福する)ようになることを願っているのです。

ユダヤ人のタルムードには、「詩篇145篇を毎日三度唱える者は皆、来たる世の息子であると保証されるであろう」と記されています(BTベラ四b)。それは、「この詩篇を唱えることで、自分が神の慈しみに頼っていることを毎日三回認識するようになるからである」とのことです。

これは詩篇の最後の部分145-150篇をまとめるような意味があります。148篇では、「日よ 月よ 主をほめたたえよ 主をほめたたえよ すべての輝く星よ」(3節) などと、全宇宙に対する讃美への招きが記されています。

そして、全詩篇の結末は、「息のあるものはみな 主をほめたたえよ ハレルヤ」です。これはラテン語では「Omnis spiritus laudet Dominum ! Alleluja」で、これをもとに多くの歌が生まれています。それこそが歴史のゴールです。

主への個人的な賛美は、同時に、全被造物に対する宣教であり、賛美の呼びかけです。この世界が完成する時、全被造物が主を賛美します。その賛美の輪に、私たちの身近な人々をお招きする必要があります。

私たちは、しばしば、神の救いの物語を理論だって、人々に「説得するように」話そうとすることがありますが、神の存在は理屈で証明して通じるようなものではありません。理屈で神が分かるなら、神は知恵のある人々にとっての神となってしまいます。

神は、敢えてご自身をこの世の貧しい人、蔑まれている人、無力さを味わっている人々に現わされます。神はご自身のことを世界に、いのちをかけて主を愛し、状況に関係なく主を賛美する人を通して、証しし続けておられます。

この世に「なぜ不条理があるのか?」と問う以前に、神はこの不条理に満ちた世界で「私に何を期待しているのか?」をこそ問うべきでしょう。


詩篇145篇  翻訳交読文

ダビデの賛歌

あなたを崇(あが)めます 私の神 王よ。 (1)
御名をほめたたえ(祝福し)ます 世々限りなく。
日ごとにあなたをほめたたえ(祝福し)  (2)
御名を賛美します 世々限りなく。

偉大なるは主 (ヤハウェ) 大いに賛美されるべき方 (3)
その偉大さは 測り知ることもできません。

代は代へと あなたのみわざを ほめ歌い (4)
その大能を告げ知らせます。
あなたの威厳 (majesty) の栄光の輝き (5)
奇しいみわざの数々を 私は思い巡らします (meditate)。
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を述べ (6)
あなたの偉大さを私は語ります。
あなたの豊かないつくしみ(善)の思い出を彼らは溢れさせ (7)
あなたの義を 彼らは高らかに歌います。

主 (ヤハウェ) は情け深く あわれみ深く (8)
怒るのに遅く 慈愛 (ヘセド) に富んでおられます。
主 (ヤハウェ) はすべてのものに いつくしみ深い(善であられる)  (9)
そのあわれみは造られたすべてのものの上にあります。

主 (ヤハウェ) よ あなたに造られたすべてのものが 感謝し (10)
あなたに誠実な (ハシドゥ) 者たちは ほめたたえ(祝福し)ています。

あなたの王国の栄光を 彼らは述べ (11)
あなたの大能を 語ります。
それはアダムの子らに知らせるためです あなたの大能を (12)
主の王国の輝かしい栄光を。
あなたの王国は 永遠にわたる王国 (13)
あなたの統治は 代々に及びます。

主 (ヤハウェ) は 倒れる者を みな支え (14)
かがんでいる者を みな起こされます
すべての目は あなたを待ち望んでいます。  (15)
あなたこそは 時にかなって彼らに食物を与えられます。
御手をあなたは開き (16)
生けるものすべての願いを満たされます。

主 (ヤハウェ) はご自分のすべての道において義(ただ)しく (17)
そのすべてのみわざにおいて 誠実 (ハシドゥ) であられます。
主 (ヤハウェ) は近くあられます 主を呼び求める者すべてに (18)
真実 (エメット) をもって主を呼び求める者すべてに。
主を恐れる者の 願いをかなえ (19)
彼らの叫びを聞いて 救ってくださいます。
主 (ヤハウェ) は守られます すべて主を愛する者を。 (20)
しかし すべての悪しき者を 主は滅ぼされます。

主 (ヤハウェ) への賛歌を 私の口が語ります。 (21)
すべての肉なる者が 聖なる御名をほめたたえ(祝福し)ますように
世々限りなく。