本日は「救い主」の降誕を待ち望む待降節(アドベント)第一主日です。それは、旧約の民がどのような意味で救い主を待ち望んでいたのかを思い起こすときです。
そうすることによって、私たちに既に与えられた「救い」と、これからどのような「救い」が保証されているのかが分かり、希望が生まれます。
ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、聖書のみことばだけを何の解説もなしに歌いながら「救い主」の意味を伝えています。
その第一部では「救い主」の待望と誕生が描かれ、その最初にイザヤ書40章1-3節から「慰めよ、慰めよ、わたしの民を……Comfort Ye, comfort ye, my people」とテナーで歌われます。
第二部は十字架が悪の力への勝利として描かれてハレルヤ・コーラスで終わり、第三部はイエスの復活を私たちの復活につなげたもので、その最後は黙示録5章12節から「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です(Worthy is the Lamb that was slain……」で終わります。
これは1741年にチャールズ・ジェネンズという舞台作家がヘンデルの作曲を期待して編集したもので、それを見ると、旧約の預言を成就し、この世界を再創造する「救い主」の姿が理解できるようになります。
1.この地にシャロームを創造する救い主
イザヤ7章14節には有名な「救い主」預言が、「見よ、処女が身ごもっている。そして、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と記され、マタイ福音書ではヨセフに婚約者マリヤが神の子を宿していると告げる中で登場します。
ただ本来は、エルサレムの王アハズが北王国イスラエルとアラムの連合軍の攻撃に対抗するために大国アッシリアに助けを求めた政策を正す意味がありました。主はアハズに「しるしを求めよ」と招きますが、彼がそれを拒絶したので、常人には理解できない「しるし」がイスラエル全体に与えられたというのです。とにかく、「救い主」預言の背後に、アッシリア帝国の攻撃があります。
さらにマタイ2章では、「救い主」が「ベツレヘムに生まれる」と答えた律法学者たちは、ミカ書5章2節を引用しますが、その6節では、救い主の働きが、「彼は、私たちをアッシリアから救い出す」と描かれています。
今、どの世界に、イエスをアッシリア帝国の支配からの解放者と見る人がいるでしょうか。しかし、このアッシリアを、あなたの目の前の横暴な抑圧者と読み替えるなら、「救い」の意味がより現実的に聞こえることでしょう。
同じようにイザヤ書9章6、7節では、直接的にはアッシリア帝国からの解放者としての「救い主」預言という文脈の中で、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる……主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め」と記されます。
つまり、「救い主」は、ダビデ王国の平和と繁栄をこの地に再現し、広げる方として描かれているのです。この方は、私たちに「死後のいのちを保証する」という以前に、この「地に平和を」実現する方です。
「メサイア」では、この9章6節が合唱曲として歌われた後にパストラール・シンフォニーという弦楽中心合奏曲が演奏され、御使いが羊の夜番の最中の羊飼いたちに現れるという場面に向かいます。当教会の弦楽合奏でも何度も演奏していただいています。
その後のイザヤの書展開では、11章の初めで、「エッサイの根株から新芽が生え」と、ダビデの父の名を引用しつつ、「救い主」がさびれた王家から生まれると示唆されます。
さらにその働きが、「公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる」(4,5節)と、この地の不条理を正す力強い支配として預言されます。
そして、その方が実現する世界が、「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて小さな子供がこれを追って行く……獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる……主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」(11:6-9)と記されます。
そこには弱肉強食のない平和の完成(シャローム)が描かれていますが、それこそ救い主に期待された働きだったのです。そしてそれは今も変わりません。なぜなら、十字架にかけられて殺された方は、三日目に死人の中からよみがえり、天の御座に既に就いて、この地を支配しておられるからです。
「メサイア」第二部では、イエスの十字架がイザヤ53章3節の「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」という苦難のしもべの姿として描かれます。
さらにその意味が、「彼は私たちの病を負い……痛みを担った……彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、そのうち傷のゆえに私たちは癒された」(4,5節)というみことばの合唱で歌われます。
そのしばらく後で、詩篇2篇9節の「あなたは、鉄の杖で彼らを牧し 陶器師が器を砕くように粉々にする」というみことばが歌われ、ハレルヤ・コーラスに至ります。
そこでは、「ハレルヤ、全能の神である主が治めておられる。この地の王国は私たちの主とキリストのものとなった。キリストは永遠に治めておられる。この方は、王たちの王、主たちの主である」と歌われます。これは黙示録のいくつかの箇所を結び合わせたものですが、イエスは今既に、全世界の王として治めておられ、イエスの再臨の時にはそれがすべての人々の目に明らかにされるというのです。
あなたにとっての「救い主」は、聖書が預言してきた壮大な働きをする「救い主」の姿に比べてあまりにも小さすぎはしないでしょうか。
2.「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」
イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わります。ヒゼキヤは、アッシリア帝国によるエルサレム攻撃にも屈せず主に祈り続けたダビデ以来の最高の王ですが、その直前にバビロンの使者を安易にもてなし、エルサレムの豊かさを自慢げに見せてしまいました。
当時のバビロンは、アッシリア帝国の東で細々と生きながらえている小国に過ぎません。ところが、そのようにバビロンに気を許したヒゼキヤにイザヤは、「見よ。あなたの家にある物……父祖たちが今日まで蓄えてきた物がすべて、バビロンに運び去られる日が来る。何一つ残されることはない……また……あなた自身の息子たちの中には、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者がいる」(39:6,7)と、主のことばを伝えました。
この預言は、アッシリアのセンナケリブの攻撃を受けてエルサレムが絶体絶命の危機に陥る一年余り前のもので、それが成就するのは約百年後のことです。ヒゼキヤが、「自分が生きている間は平和と安定があるだろう、と思った」という気持ちもよくわかります。
なぜならここには、目の前の危機であるアッシリアに、エルサレムが滅ぼされることはないという意味も込められていたからです。彼にしてみれば、その後の心配をする余裕はなかったとも言えます。
そして、イザヤ40章のメッセージがバビロンに捕囚とされたイスラエルの民の心に響くのは、何とヒゼキヤから150年余りが経った時です。
イザヤ6章には、イザヤの預言者として召命が記されます。彼は「ここに私がおります。私を遣わしてください」と勇ましく応答しましたが(6:6)、主は不思議にも彼に、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ……立ち返って癒されることもないように」と、彼らの心を頑なにすることを命じられます(6:10)。
そして、彼の預言が人々の心を動かすのは、「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。主(ヤハウェ)が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増える」その時になって初めてであると言われていました(6:11,12)。
そして今、そのように国を失った民に向かってのメッセージがイザヤ40章1節で、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」と記されます。
神は、自業自得の罪で苦しむ人々を、「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことを「あなたがたの神」と紹介し、「慰め」に満ちたメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。
「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められています。
しかも続けて、「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ」(2節)と記されますが、これは原文では、「エルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」という不思議な表現になっています。
エルサレムが傷つきやすい女性にたとえられ、神が優しい夫として心の奥底から、心に語りかけています。神は、身勝手な浮気女の心の痛みに寄り添ってくださるのです。
そしてそこでは、三つの「慰め」が語られます。
第一は、「その苦役は終わり」で、これは戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したと、新しい時代の到来を告げるものです。
第二は、「咎は償われた」です。それを「咎」の「償い」として簡潔に描いているのがレビ記26章40-42節で、「彼らは、自分たちの咎と先祖の咎を、つまり、わたしの信頼を裏切って、わたしに逆らって歩んだことを告白するが、このわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国へ送り込むのである。もしそのとき、彼らの無割礼の心がへりくだるなら、そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。わたしは……アブラハムとの……契約を思い起こす。わたしはその地を思い起こす」と記されます。
第三は、「そのすべての罪に対し、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けたのだから」と訳すことができます。
以前の新改訳は、罪と引き換えに恵みを受けたという趣旨が前面出ていましたが、昨年版では、より中立的な解釈の余地を残す訳になっています。最も単純な解釈は、「苦役は終わり」「咎は償われ」という文脈からしても、二倍の刑罰を受けることですべての裁きが完了したという意味かと思われます。
申命記29章では、イスラエルの不従順への報いとしてのバビロン捕囚が、「主(ヤハウェ)は怒りと憤りと激怒をもって、彼らをこの地から根こそぎにし、ほかの地に彼らを投げ捨てられた」(28節)と言われるような状態として警告されていました。
ただその直後にモーセは、「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主(ヤハウェ)があなたをそこに追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り、あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返り……御声に聞き従うなら……」主(ヤハウェ)はあなた(の繁栄)を元どおりにし……再びあなたを集められる」という回復が約束されます(同30:1-3)。
主は後にホセア11章8,9節で、イスラエルをさばく際のお気持ちを、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは怒りを燃やして 再びエフライムを滅ぼすことはしない」と語っておられます。
さばきを下された神ご自身も、ともに苦しまれ、深く息を吐いているのです。イザヤの「慰めよ」とホセアの「あわれみ」とは同じヘブル語から生まれています。ご自身の契約とともに警告していた「さばき」を下しながら「あわれみで胸が熱くなる」神が、「慰め」を与えてくださいます。
3.三重の福音
そこから生まれる「慰め」が、「叫ぶ者の声」(3節)、「『叫べ』と言う者の声」(6節)、「シオンに良い知らせを伝える者」(9節)という三重の福音として語られます。
第一の「叫ぶ者の声」は、「荒野に主(ヤハウェ)の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ……」(3節私訳)と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。そのことが具体的に、「すべての谷は高くされ、すべての山や丘は低くなれ。起伏のある地は平地に、険しい地は平野とされよ」(4節私訳)と描かれます。
そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)としてその預言を成就したと紹介されます。ヘブル語では「荒野で(に)」ということばは、「叫ぶ者」と、「道を」のどちらを修飾しているかは明らかではありません(新改訳脚注参照)。少なくともこのイザヤの文脈では、整えられるべき道の状態が、「荒野……荒れ地」と強調されています。
ただバプテスマのヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を平らにすることにありましたが、彼自身が「叫ぶ」場は「荒野」にあったということでしょう。
私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。預言者たちはまず、それを「整え」るように、と呼びかけます。
あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。
ですからイエスは山上の説教の初めで、「心(霊)の貧しい者は幸いです」と言われました。そこに主を迎える「心の中に シオンへの大路」(詩篇84:5)が開かれているのです。
さらに、「このようにして主(ヤハウェ)の栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る」(5節)と言われますが、イエスこそ約束された「主(ヤハウェ)の栄光」の現れでした。それは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されているとおりです。
そしてイエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主(ヤハウェ)の栄光」を「現して」くださり、「すべての肉なる者」がそれを見たのです。実に、イエスのことばこそ、「まことに主(ヤハウェ)の御口が語られる」(5節)ことの成就でした。
第二の、「『叫べ』と言う者の声」に対し、イザヤは「何と呼ばわりましょう」と答えます。それは、荒野のような世界に住む私たちへのメッセージです。
そこではまず、「人(直訳『肉なる者』)はみな草のよう。その栄え(直訳『誠実《ヘセド》』)はみな野の花のようだ」(6節)と語られます。「その栄え」と訳された原文は「ヘセド」で、以前の新改訳脚注にあった「誠実」という訳が一般的とも言えます。
私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だ」と思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。
そのことが、「草は枯れ、花はしぼむ。主(ヤハウェ)のいぶきがその上に吹くから」(7節私訳)と記されます。主はご自身のいぶきの「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。
たとえば、共産主義運動に走る人には「誠実」な人がほとんどでしょうが、そこで路線の違いが明らかになると、悲惨な権力闘争が生まれ、隠されていた罪の性質が制御できなくなることがありましょう。しかし、詩篇には、自分の不安や怒りを赤裸々に神に訴え、神に取り扱っていただく祈りが満ちています。
ここでは人の「誠実」のはかなさを語った後ですぐに、「まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と記されます。
私たちには明日のことは分かりませんが、この世界が「神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを知るなら、自分たちの労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。
その新しい世界では、私たちの愛の交わりは完成するのです。今、分かり合えないことがあったとしても、新しい世界では、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。私たちはそれぞれ、キリストにつながっている限り、そのような愛の完成の世界に入れられることが約束されているのです。
第三に、「良い知らせ」の声は、「高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節私訳)と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。
その第一は。「見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。なお、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:9)。そしてイザヤは引き続き、「見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある」(10節)と告げます。
「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちは既に「祝福」の時代に入れられています。
そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。
それと同時に、「主は羊飼いのように、その群れを飼い」と表現されます(11節)。そこで「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」と感動的に描かれます。
「メサイア」ではこの部分が弦楽合奏と女性の独唱で美しく歌われます。当教会でも何度か演奏されたことがあります。それこそが新約で強調される「主(ヤハウェ)の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。
なお、旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」を求めていましたが、現された主の「御腕」とは、主の御前に立つことがとうていできないような者をも招き、内側から作り変えてくださるという「あわれみ(慰め)」でした。
私たちの「いのち」は既にキリストによって守られ、すべての労苦が無駄にならないという祝福の時代に移されています。ですから、もう目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決することが保障されています。その希望に満たされるなら、どんな中でも「勇気」が生まれます。
そして40章31節では、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得る」と記されます。これは食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語でChangeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。
そして、それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「鷲のように、翼を広げて上って行く」と表現されています。なお原文では、「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。
今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)」ご自身が入って来てくださいました。私たちのうちには既に、死に打ち勝った「キリストの力」が働いています。私たちは自分をちっぽけに感じることがあるかもしれませんが、主は天地万物の創造主であられると同時に私たち自身の中にも住んでおられます。そして、私たちは「鷲のように」この地上の様々な問題を、「天」の視点から見下ろすことができます。
ときにキリストにある「救い」が遠く感じられるようなことがあっても、私たちの「救い」には「既に実現している」(already)という部分と、「まだ実現していない」(not yet)という両面があります。
預言が一つひとつ成就してきたという歴史を振り返ることで、この世界が神にある平和(シャローム)の完成に向かっているということを確信できます。「慰めよ。慰めよ……」は、途中で疲れ、失望しがちな者への愛の語りかけです。
私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、どれだけ聖書を学んでも何も変わっていないように思える現実が目の前にあります。
黙示録17章では富と権力が結びついた「大バビロン」の支配が、今なお、この世界を支配して、神の民を苦しめる様子が描かれています。それは、この世界が今もなお、バビロン捕囚の「苦役」の中に置かれている現実を指します。
しかし今、私たちに向かっては、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とも言われます。これこそ、「新しい創造(New Creation)」です。
それを私たちは日々、「主を待ち望む」という中で、キリストにある「いのち」として体験できるのです。