ヘブル3章1〜19節「今日、もし御声を聞くなら」

2018年11月11日

私たちの教会のヴィジョンは、「新しい創造をここで喜び、シャロームを待ち望む」とされています。そして英語のロゴマークが「New Creation : hope for the Shalom」と記されています。Creationの真ん中のが♰と、十字架を示唆しますが、イエスの十字架と復活によって「新しい創造」がすでに始まっています。それはたとえば日本のカレンダーが七日のリズムで一日の休日が明らかになっているとか、一夫一婦制や女性の立場の尊重、基本的人権条項などに現わされています。

私たちは既に「新しい創造」の中に入れられています。そこで問われているのは、すでに与えられている恵みの時代を感謝して受け止めているかということです。私たちは旧約の民が憧れていた「明日」の時代に、すでに「今日」、入れられているのです。

ただ同時に、この地での生活は「荒野」の旅路のようなものです。「救われた!」と言われながら、救われていない現実に圧倒されています。しかし、キリストにあって新しい時代を開いてくださった神は、すでに私たちに最終的な「安息」、何の欠けもないシャロームの世界を保証してくださっています。

私たちは「今日、御声を聞く」ことができる幸いを忘れてはなりません。それによって私たちは、様々な問題や葛藤の中で、なおイエスの御跡に従って歩み、この世界に神の平和を広げて行くことができるのです。

1.「神の家とは、私たち……希望のゆえの大胆さと誇りを保ちさえするなら」

3章1節は、「ですから、兄弟たち、聖なる者たちよ、あなたがたは天からの召しにあずかっています。それゆえ、イエスのことを考えなさい。この方は、遣わされた方、私たちが告白する大祭司である方です」と訳することができます。

兄弟たち」ということばは、「イエスは彼ら(弟子たち)を兄弟と呼ぶことを恥とせずに」という表現が、また、「聖なる者たち」とは、「聖とする方」(イエス)と「聖とされる者たち」(私たち)という表現が思い起こされます(2:11)。2章3節では、「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう」と記されていましたが、私たちは今すでに、「大いなる方の右の座に着かれた」神の御子の「兄弟」と呼ばれ、また大祭司であるイエスによって「罪が贖われ」て(2:17)、「聖なる者」とされているのです。

そのように私たちは、「イエスと一体の者」とすでに認められているのですから、いつでもどこでも「イエスのことを考える」必要があるのです。そしてイエスは「使徒」というよりも、神から「遣わされた方」と訳す方が良いでしょう。ヨハネの福音書では、イエスは「わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げる」(4:34)と語っておられました。私たちは今、イエスの弟、妹として、その道に従うのです。

そして「私たちが告白する大祭司」とは、「そのためにイエスはすべての点で兄弟たちと同じにされなければなりませんでした。それは神の御前への、あわれみ深い、忠実な大祭司となるためであり、民の罪を贖うためでした。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(2:17,18)という大祭司の姿と働きを思い起こさせます。

その上で、「この方はご自分を立てた方に忠実でした。それは、モーセが神の家全体に対してそうであったのと同じです」(3:2)と記されますが、モーセに関しては、主ご自身がアロンとミリヤムに向かって「彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主(ヤハウェ)の姿を仰ぎ見ている」(民数12:7,8)と、人間の中で最高の存在として神によって扱われていることが証しされています。

ヘブル書の著者は、モーセの「忠実」との比較で、イエスの「忠実」を証ししています。それはユダヤ人にとって、モーセが神に最も近い人間として特別な尊敬を受けていたからです。

続けて、「確かに、この方はモーセよりも大いなる栄光を受けるのにふさわしい方とされました。それは、家よりも家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じです。家はそれぞれ誰かによって建てられるのですが、すべてのものを建てられた方は神です。モーセは神の家全体の中で忠実でした。それはしもべとして、語られようとしていることを証しするためでした」(3:3-5)と記されます。

ここでイエスは「家を建てる人」として紹介されます。それは、神がダビデに「あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と言われたことを思い起こさせます(Ⅱサムエル7:12,13)。そこでは、まず主ご自身がダビデのために王国としての「一つの家を造(建て)と約束します(同7:11)。同時に、「ダビデの子が神の家を建てる」ようになると言われ、イエスがダビデの子として「神の家を建てる」ことが示唆されていました。それを前提にここでは、「すべてのもの建てられた方は神です」と言われているのです。

ただし、モーセが神に家に忠実ではあったものの、イエスは神の家を建てられる方として、モーセに優っています。同時に、モーセは神の「しもべ」として、このイエスについて「語られようとしていること」を、自分の存在の限界を通して、「証し」していたというのです。それは「神の家全体に忠実」な者こそが、来たるべき「」の必要を実感できるからです。

モーセは確かに「神の幕屋」を神の指示に従って建てましたが、その幕屋は神の臨在のシンボルに過ぎず、神の真の「住まい」ではありえないということを誰よりも理解していたからです。

その上で、3章6節は、「しかし、キリストは御子として神の家の上にありました。その家とは何でしょう。それは私たちです。もし、希望のゆえの大胆さ誇りを保ち続けさえしたらですが……」と訳すことができます。御子こそ真の意味で神の家を建てる方なのですが、その方は神の家全体の「管理者」というよりも、それを「支配する方」であるというのです。

しかもここではさらに、「神の家」とは、目に見える建物というよりも、私たち聖徒の共同体であると言われます。それは、「教会(エクレシア)はキリストのからだです……キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに立てられることになります」(エペソ1:23,4:16)と使徒パウロが記していたことと同じです。

ただ、そのために私たちに求められていることは、「(キリストのうちある)希望のゆえの大胆さと誇りを保ち続ける」ことです。「大胆さ」とは「確信」または「自由な喜び」とも訳すことができる言葉です。また「誇り」とは、イエスの「兄弟」、「聖なる者」とされ、天から召されている者としての喜びに生きることです。

この二つの組み合わせの言葉に、今置かれている困難のただ中で味わう「自由な喜び」と、この世の評価を超えたキリスト者としての「誇り」に満ちた生き方が現わされています。

2.「わたしはその世代に憤っていた……彼らがわたしの安息に入ることはあり得ない」

7節での「ですから、聖霊が次のように言われるとおりです」という表現とともに、それ以降11節まで続くことばは、詩篇95篇7c-11節からの引用です。

なおこの詩篇の冒頭は、「さあ、喜び歌おう……喜び叫ぼう」という呼びかけから始まり、「(ヤハウェ)」が「私たちの救いの岩」として描かれます。それは「ホレブの岩から……水が出て、民はそれを飲む」(出エジ17:6)と言われた主のみわざを思い起こさせるためです。

続けて「御前に進もう」との招きに、「感謝をもって」と付加されます(95篇2節私訳)。それは、「主の御前に近づく恐怖」とは、正反対の表現です。そこに「賛美をもって  主に喜び叫ぼう」と、最初の呼びかけが繰り返されます。

主を恐れる」ことは「信仰の基本」ですが、それは大胆に喜び歌い、喜び叫びながら主に近づくことと矛盾はしません。自分の罪深さを反省する以前に、そのような姿勢が必要ではないでしょうか。

そして詩篇95篇3節では「大いなる神」「大いなる王」と繰り返され、主の偉大なご支配が賛美されます。4,5節ではさらにその偉大さが、「地の深み」「山々の頂」「」「陸地」のそれぞれが、「御手のうちにあり」、「主のもの」として「造られ」「形造られた」と描かれます。

そして、6節の原文の語順では、先の御前への大胆さと対照的に、「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう。主(ヤハウェ)の御前にひざまずこう 私たちを造られた方に」と呼びかけられます。

そして7節は、「なぜなら、主は私たちの神、私たちは その牧場の民 その御手の羊 なのだから」と、主を恐れるべき理由が描かれている意味に訳すことができます。

それを受けて、95篇7節の3行目から新しい展開が始まります。そこでは、「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように 荒野のマサでの日のように」と記されています。

その後半部分がヘブル書では、「荒野での試みの日に神に逆らったように」という七十人訳から引用されます。「メリバ」とは「争い」、「マサ」とは「試み」を意味するので同じ意味です。それは先に記した出エジプト記17章の出来事を引用したものです。

神は、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、海を二つに分けてエジプト軍の追撃を退け、荒野でマナを天から降らせることによって民を養ってくださいました。ところが彼らがシナイ山のふもとの手前のレフィディムに宿営したとき、「民はモーセと争い、『われわれに飲む水を与えよ』と言った。モーセは彼らに『あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主(ヤハウェ)試みるのか』と言った」というのです(出エジ17:2)。その際、神はモーセを通して岩から水を出してくださいました。

ただ、彼らは主を「試み」「争う」代わりに、主に信頼して、静かに祈ることが求められていたのです。

続けてこのヘブル3章9,10節では、「あなたがたの先祖はそこでわたしを試みた、わたしを試験するかのように。そして、わたしのわざを見た、40年間にわたって。それで、わたしはその世代に憤っていた。そして『彼らは常に心が迷っている。彼らはわたしの道を知らない』と言った。それは、わたしの怒りのうちに、彼らがわたしの安息に入ることはあり得ないと、誓うことによってであった」と引用されます。

詩篇95篇10節で「四十年の間、わたしはその世代を退け」と訳されることばは、「四十年の間、わたしはその世代を嫌悪して」とも訳することができることばです。彼らは神への不従順のゆえに、「四十年」もの間、「荒野をさまよい」ました。ただ神は、ご自身の様々な不思議なみわざを見せ続けていながら、同時に、彼らの態度に嫌悪感を抱き続けておられたというのです。そのようなお気持ちの中で、「その世代」の成人をだれも「約束の地に入らせない」と誓い続けておられたという意味かと思われます。

ここに神ご自身の愛と葛藤を見ることができます。それは彼らの「心の頑なさ」、神を「試み」る「心の迷った」状態から生まれた神ご自身のお気持ちです。ただし、神はそれでもイスラエルの民を捨て去りはしませんでした。神は、モーセに導かれて約束の地に向かった第一世代の者たちをみな荒野で滅ぼしましたが、神はその世代の中で例外的に従順であったヨシュアとカレブを用いて、第二世代の者たちを約束の地に導いてくださいました。

そこには、神が、民の心の頑なさ、逆らう姿勢に、忍耐の限りを尽くしておられる姿が見られます。聖なる神が、汚れた民の真ん中に住み続けて、彼らを約束の地に導き入れてくださったのです。

3.「彼らが入ることができなかったのは、不信仰のゆえである」

12、13節では、「それゆえ兄弟たちよ、よく見なさい。あなたがたのうちに、だれも悪い不信仰な心になることがないように、それによって生ける神から離れてしまうことがないように……。そればかりか、互いに日々励まし合いなさい。『今日』と言われている間に、あなたがたのうち誰も、罪に惑わされて頑なになることがないようにと……」(私訳)と記されます。

最初の命令は、迫る危険に対して「目を見張るように」という勧めですが、そこに再び「兄弟たち」という呼びかけがあります。著者は、誘惑にさらされている信仰者たちにあくまでもキリストの兄弟としての「誇り」を思い起こさせます。

そしてここで警告されている状態は「悪い不信仰な心になることがないように」と記されます。「悪い心」とは神の善意を疑う心であり、「不信仰な心」とは神の真実を疑う心です。それはアダムが禁断の木の実を取って食べたという行為に現わされ、その心を私たちは受け継いでいます。私たちはキリストの血によって贖われ、「聖なる者」とされているのですから、そのアダムの心に留まっていてはならないのです。

また「罪に惑わされて」と、「」が擬人化されています。アダムとエバは蛇に惑わされましたが、その背後にはサタンがいました。その「罪の力」がアダムの子孫を支配し続けているのですが、「キリストのうちにある者」にとっては、すでに「悪魔の力」は滅ぼされています。

私たちは明日を夢見て生きているのではなく、「今日」という新しい時代に入れられています。そこで必要な励ましとは、たとえば、2章14,15節の言葉を互いに暗唱し合うことかもしれません。

14節では、「私たちはキリストにあずかる者(キリストの仲間)となっているのです。もし最初の確信を終わりまで保ちさえするならばのことですが……」と記されています。

先に「互いに日々励まし合いなさい」と言われましたが、それは、すでに「キリストの仲間の交わり」に入れられ、キリストの弟、妹とされているという自覚を深め合うこととも言えます。その際、「確信を終わりまで保ちさえすれば……」とは、「確信を保つこと」の難しさを示唆するものではなく、キリストにある希望を互いに告白し合うことで可能になるという前提の上での表現です。

それは具体的には、この礼拝共同体に留まるということです。後に10章25節では「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう」と命じられています。

続く15節は、「それで、次のように言われています」ということばから始まり、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と記されます。

ここで命じられていることも、難しいことではありません。「今日、御声を聞く」そのときに、イスラエルの民が神に逆らったときのように「心を頑なにして」不平を言う代わりに、神のこれまでの「あわれみのみわざ」を思い起こし、心を広く開いて、神のみことばが自分の心に染みわたるようにすることです。

その際に何よりも大切なのは、自分の計画や願望を、「まず横に置く」ということです。私たちは「信仰」ということばで、「疑いを排除しよう」「信じ切ろう」などという積極的な心の作用を思い浮かべますが、大切なのは、「力を抜く」ことなのです。

16-18節の三つの文章の冒頭では、「誰だったでしょう」「誰に対して」「誰に対して」という言葉が記され、三つの問いかけがなされます。

その第一は、「というのは、誰だったでしょう、聞いていながら逆らったのは……。それはすべての者たちではありませんか、モーセに率いられてエジプトを出た者たちの」(16節)という問いかけです。

ここにある「問い」とは、神がエジプトに十の災いを下し、海を真っ二つに分け、エジプトの軍隊を海に沈めるという圧倒的なみわざを見た、まさにその目撃者たちが、「飲む水を与えよ」と迫って「争い」、また「ああ、肉が食べたい……」と「激しく不平を言う」姿です。人間はどれほどの神の憐みを見ても、目の前の必要が満たされないと不満を述べます。それは幼児に見られる姿と同じです。

第二には、「誰に対して憤っておられたのでしょう、四十年の間。それは罪を犯した者たちではありませんか。彼らは荒野に屍をさらしました」(17節)と記されます。

イスラエルの民がエジプトを出ながら、「四十年の間」、荒野をさまようきっかけになった事件があります。モーセが約束の地の手前の「パランの荒野」から十二人の偵察隊を遣わして約束の地を調べさせたところ、そこが「乳と蜜の流れる」豊かな地であると同時に、恐ろしいほどの巨人が住む地で、その民にイスラエルが勝てる見込みはないと報告されました。

彼らはそれを聞いて「エジプトに帰ろう!」と言い出しました(民数13:3,27,14:4)。それに対して主は、「わたしの栄光と、わたしがエジプトで行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない」(同14:22,23)と言われ、それが実現しました。

そして、そのことを前提に、第三には、「誰に対して誓われたのでしょう、ご自身の安息に入らせはしないと。それは、従わなかった者たちに対してではないですか」(18節)と記されます。

そこには、神に信頼したヨシュアとカレブは含まれていません。二人は民に向かって、「ただ、主(ヤハウェ)に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない……主(ヤハウェ)が私たちとともにおられるのだ」と必死に説得しましたが、「全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した」と描かれています(民数14:9、10)。

ヨシュアとカレブは約束の地に入ることができましたが、他の二十歳以上の男性は全員、荒野に「屍をさらし」ました(同14:29)。

そしてこれらをまとめて、「私たちは良く見ています。彼らが入ることができなかったのは、不信仰のゆえであるということを」(3:19)と記されます。

なお、ここで「不信仰」とは、何か悲観的な態度だとか、チャレンジ精神の不足というようなことではなく、主が行った「しるし」を見ながら「十度も主を試みた」こと、また、「主の御声に聞こうとしなかった」こと、主ご自身を「侮った(拒絶した)」という態度を指します。

これは自分の不信仰を嘆くような態度とは決定的に異なります。ある父親がイエスのもとに、「口をきけなくする霊」に取りつかれて苦しんでいる息子を連れてきて、「おできになるなら、私たちをあわれんで助けてください」と言ったとき、イエスは「できるなら、と言うのですか。信じる者にはどんなことでもできるのです」とその不信仰をたしなめます。

それに対してこの父親は、すぐに「叫んで」、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言いました(マルコ9:17-24)。そしてイエスはこの子から悪霊を追い出し癒してくださいました。ですから、自分の不信仰を嘆きながら、なお主にすがろうとする者は、「不信仰」の中に含まれてはいません。

主は私たちをご自身の「牧場の民 その御手の羊」と呼んでくださっています。私たちの信仰は、神が私たちを養い育て、語りかけ続けてきた結果に過ぎません。

確かに出エジプトを体験したイスラエルの民の第一世代は、「不信仰のゆえ」に約束の地に入ることはできませんでした。私たちにも彼らのような不平不満が湧いてくることがありますが、私たちにはすでに、聖霊が与えられています。聖霊がみことばを用いて私たちに語りかけてくださいます。

そこで求められる姿勢は、ただ力を抜いて、神のみことばが自分の中に根を張ることに「身を任せる」ことです。主の御声こそが、私たちのうちに信仰を生み出すのです。

「不信仰な者に信仰を生み出す」神のみわざに目を留めましょう。もし、自分の道が閉ざされていると絶望するときには、ただ、「信じます。不信仰な私をお助けください」とすがりさえしたら良いのです。