Ⅱ列王記11章〜13章「主(ヤハウェ)の真実に信頼せよ」

2018年10月14日

今、ディボーション誌Mannaで詩篇の解説を書き続けています。ちょうど115篇まで書いてきてそれに感動しています。

「主(ヤハウェ)に信頼せよ」(115:9)ということばは、「主(ヤハウェ)に期待せよ」と訳すこともできます。詩篇全体を通して、神が私たちの歩みを真実に導いていてくださることが歌われています。

旧約聖書に描かれた残酷な物語に私たちは眉をひそめます。しかし、それは今から三千年前の民族と民族の殺し合いが当たり前だった時代の物語です。私たちはそこに、神の民として選ばれながら、自分の身勝手な願望に囚われて神に反抗する者に対し、神が忍耐に忍耐を重ねてご自身の真実を守り通される葛藤を見ることができます。

聖書は「神の真実」の物語です。私たちはそれに信頼し、神に期待し続けるか、自分の目先の願望から生まれた計画に身を任せるかの選択が問われています。私たちの人生は、神の真実に信頼するか、自分の願望から生まれた偶像に頼るかの選択の連続です。

1. 「主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束された」

北王国イスラエルにバアル礼拝を持ち込んだアハブ王とその妻イゼベルの影響力は南王国ユダにも及びます。それはユダの王ヨシャファテが「主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」(Ⅰ列王22:43)と高く評価される一方で、「アハブと姻戚関係に入り」(Ⅱ歴代18:1)、息子ヨラムの妻に彼らの娘アタルヤを迎えたからです。

神は先見者を彼に遣わしその外交政策を責め、「悪者を助け、(ヤハウェ)を憎む者を愛するというのですか。このことのゆえに、あなたの上に、(ヤハウェ)の前から怒りが下ります」と警告しました(同19:2)。

その後ユダの王ヨラムについての記述が、皮肉にも、「彼はアハブの家の者がしたように、(北王国)イスラエルの王たちの道に歩んだ、アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主(ヤハウェ)の目に悪であることを行った」(8:18)と描かれます。

そして、ヨラムの子アハズヤは、北王国を訪問中に将軍エフーに殺されました。エフーはアハブ家を滅ぼすために神に立てられた器でした。それを聞いたアハズヤの母アタルヤは、何と、ユダの王族をことごとく滅ぼします(11:1)。それは北で息絶えたアハブ家を南王国ユダに復興するためだったかと思われます。つまり、ユダ王国をイゼベルの娘アタルヤが乗っ取ったのです。

このような例は歴史上しばしば起きています。その約二千年後の日本でも、源頼朝の妻、北条政子は鎌倉幕府を乗っ取ったと言われることがあります。歴史上、多くの英雄が女性の影響力を軽んじて後世に問題を残しています。

それゆえ、箴言の結論は、「しっかりした妻をだれが見つけられるだろう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い……麗しさは偽り、美しさは空しい。しかし、(ヤハウェ)を恐れる女はほめたたえられる」(31:10,30)となっています。女性の信仰こそ、家の霊的基礎となるからです。

しかし、悪女アタルヤの圧制の中で、たった一人のアハズヤの息子ヨアシュが、ヨラム王の娘エホシェバによって助け出され、六年間もの間、主(ヤハウェ)の宮の中に匿われます。これは幼子モーセのいのちがエジプトの王パロの娘によって守られたことに似ています。そこに神の御手が働いています。

なお歴代誌によるとエホシェバの夫は祭司エホヤダで(Ⅱ歴代22:11)、七年目にユダ全土からレビ人を集め(参照Ⅱ歴代23:1-11)、主の宮での奉仕ばかりか、王の護衛の任務につかせました。そして祭司エホヤダは、「王の子を連れ出し、王冠をかぶらせ、さとしの書を渡し……彼に油をそそぎ」(11:12)ました。王冠とモーセの律法がセットにされたのです。それは王の第一の使命が、主の御教えに従うことにあるということを示すためです。その際、「人々は……手をたたいて『王様万歳』と叫んだ」と描かれ、人々の心は一気にアタルヤからヨアシュに移り、アタルヤは王宮で殺されました。

その後、祭司エホヤダは、「主(ヤハウェ)と、王および民との間で、彼らが(ヤハウェ)の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた」(11:17)というのです。これは主の律法をもって国を治めるという神の民の原点に立ち返ることでした。そして、人々はバアルの祭壇と像を徹底的に壊しました。このとき王に立てられたヨアシュは七歳でした。

以前、ヨラムがアタルヤを娶ってユダ王国にバアル礼拝を持ち込んだとき、「主(ヤハウェ)は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである」(8:19)と記されていました。ダビデの血筋の者がアタルヤによって皆殺しにされたと思われたとき、人々は主の真実を疑ってしまったことでしょう。しかし、主は、人の手を通して、たった一人のダビデの血筋を保っておられ、ご自身のときに彼を王として立てられました。まさに幼子が横暴な権力者を打ち破ったのです。

イエスの誕生も、ときの権力者ヘロデによる幼児虐殺と結びついています。私たちは、「神がおられるなら、なぜ、このような不条理が起きるのか……」と思うことがあるかもしれません。しかし、神のご支配の現実は、悪が完全な勝利を治めることはないということの中にこそ見られます。神はどのようなときにも、小さな「ともしび」を残しておられます。そして、神の大逆転は必ず起きるのです。

2.「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」

ヨアシュの王位は、ダビデやソロモンと同じ四十年間も続きました。しかし、彼の権力は極めて限られたものでもありました。それは、「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主(ヤハウェ)の目にかなうことを行った」(12:2)という表現の中にあります。

人々の目は祭司エホヤダの方に向けられていたのだと思われます。そのため、王が主の宮の修理を祭司たちに命じても、それはほとんど無視されました。エホヤダもヨアシュを王として厳しく指導しながら、身内に対しては甘くなっていたのかもしれません。

それで、ヨアシュは在位23年目の三十歳のとき、王権を発揮して祭司エホヤダに迫り、祭司たちが、民からささげられたお金を自分のためではなく、主の宮の修理のために使うようにさせました。集められたお金の計算を大祭司と並んで「王の書記」が行う仕組みに変え(12:10)、お金も主の宮の工事の監督者に直接に渡るようにしました。

日本で言えば、郵政民営化によって、郵便局を通して集められたお金が財政投融資資金として政治家の裁量に任せられるような仕組みを廃止し、透明化したようなものです。

ただし、「祭司たちは……神殿の破損の修理に責任を持たない」(12:8)というシステムを確立することは、別の問題を生みます。それは郵政の民営化が別の問題を起こしたのと同じです。

本来、彼らは自分の身を削ってでも、主の神殿の修理のために金銀を拠出することが期待されていました。主の宮の破損修理のためのお金が公正に扱われたのはよいことですが(12:15)、主(ヤハウェ)の宮の金や銀の用具が新たにされるということにまではなりませんでした(12:13)。

それは本来、祭司たちが自主的になすべきことだったのだと思われますが、祭司たちは、主の宮のささげものからの正当なものを受け取って生活するだけになります。つまり、かつてダビデ家を守るためにいのちをかけた祭司たちが、与えられた責任だけを果たすという官僚化の道をたどることになったのです。

つまり、ヨアシュの改革運動は、真の意味での神殿復興につながりませんでした。それは祭司たちの意識改革を生まず、彼らをかえって保守化しただけになりました。この世での一つの問題解決が、必ず別の問題を引き起こすことの良い例とも言えましょう。

ここに政治権力と祭司たちの働きの軋轢を見ることができます。ヨアシュとエホヤダの間に緊張関係が生まれたのは当然の流れと言えましょう。ヨアシュの信仰はエホヤダによって育まれましたが、彼が成長するにつれ、王である自分よりも祭司エホヤダが権威を発揮していることに不快感を持ったことでしょう。

ですから、彼が主の宮の工事に熱心だったのはエホヤダへの対抗意識だったかもしれません。なぜなら、エホヤダの死後、あれほど神に熱心だったはずのヨアシュが神に反抗するようになるからです。

今も、信仰が、親への対抗意識として現れることがあるかもしれません。そのような場合、非常に信仰に熱心だった人が、状況が変わると驚くほど簡単に、神に背くというようなことになりかねません。

パウロは、コリント教会の人々の高慢な姿勢をたしなめて、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント10:12)と記していますが、ヨアシュはすべてが順調に進む中で、自分が神の一方的なあわれみによって立たせていただいているという原点を忘れてしまったのかもしれません。

私たちの信仰は、神からの賜物です。信仰の熱心さが、隠された劣等感の現われという場合があります。しかし、本来の自分の心の中には神に喜ばれる信仰などないことを心から認めるとき、そこに神のみわざが現されます。

祭司エホヤダは百三十歳まで生きましたが、歴代誌によると、彼の死後、悲劇がユダ王国を襲います。何と、「ユダの首長たちが来て」が、王に進言し、「彼らは父祖の神、主(ヤハウェ)の宮を捨て、アシュラと偶像に仕えた・・預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった」という背教がおきてしまいました(Ⅱ歴代24:17-19)。

そればかりか、ヨアシュエホヤダの息子ゼカリヤを主の宮の庭で殺してしまいます(同24:22)。彼は、自分を王に立てたのが、人間ではなく、主ご自身であったことを忘れてしまいました。これはサウルが王位から退けられた経緯と基本的に同じです。

ダビデは生涯、自分を立てた方が「主(ヤハウェ)」ご自身であることを覚えていましたが、ヨアシュはサウルのように「人」を見てしまいました。

「そのとき、アラムの王ハザエルが上って来て……エルサレムを目指して攻め上った」(12:17)と描かれていますが、それはこのような背景の中で、主が下したさばきでした。

ところが、このときになってもヨアシュは、主の前にへりくだる前に、人間的な解決に走りました。彼は自身がかつて熱心に集め、整えた「主(ヤハウェ)と王宮の宝物蔵にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った」(12:18)というのです。

ハザエルも主ご自身がエリシャを通して立てた敵の王でした。ヨアシュは、そのような主のご支配の現実を見ていませんでした。

しかし、人間的な力に頼る者は、同じ人間の力によって裏切られます。「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし……ヨアシュを……打ち殺した」というのです(12:20)。彼らはヨアシュが王のままでは国が持たないと思ったのでしょう。ヨアシュを殺して、彼の息子を王に立てました。

神のあわれみによって奇跡的に立てられた王が、家来の謀反によってあっけなく息絶えました。幼い頃の彼を見た者は神のみわざを心からあがめたことでしょうが、その最後は悲惨です。何ともやりきれない気持ちになります。必死に自分の力で道を開こうとした結果、その無力さが軽蔑されたのです。

残念ながら、王を王とも思わない心がアタルヤのクーデター以来、人々の心に蔓延してしまったのでしょう。

ダビデは、サウルがどんな理不尽な理由で彼を追い詰めても、また彼にサウルを殺すチャンスが来たときも、「主(ヤハウェ)に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(Ⅰサムエル26:9)と家来を諌めていました。しかし、ヨアシュは自分を立ててくださった主ご自身を忘れることによって「神の国」をこの世の国と同じ支配構造に変えてしまったのです。

この世では、力のない者は軽く見られます。それが人を権力闘争に駆り立てます。しかし、私たちはダビデのように、愛と信頼の種を蒔き続けるべきでしょう。

力に頼る者は、力によって裏切られます。しかし、「私たちの主……は、幼子たち 乳飲み子たちの口を通して……御力を打ち立てられました」(詩篇8:1,2)と言われる方です。この方に信頼する者は、この世的な意味での力をどんなに失っても、たとえ幼子のように無力になっても、主ご自身によって守られ続けます。

3.「あなたは五回も六回も打つべきだった」

ヨアシュの在位23年のときに、北王国ではエフーの子エホアハズが王となります。そこで、「彼は主(ヤハウェ)の目の前に悪であることを行い……(ヤハウェ)の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主(ヤハウェ)は彼らをアラムの王アザエル……と子ベン・ハダトの手に絶えず渡しておられた」と描かれます(13:2,3)。

ただ、そのような中で、「エホアハズが(ヤハウェ)に願ったので、主(ヤハウェ)はこれを聞き入れられた……イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである」と記されます(13:4)。

なおここでは「主(ヤハウェ)がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した」と描かれます(13:5)。この「救う者」が誰かは諸説ありますが、アラムの北のアッシリアの王が北から迫って来ていたので、アラムに南のイスラエルを攻める余裕がなくなったという解釈が魅力的に思えます。

これらの構図は、士師記にあったもので、「主の燃える怒り」は、人を悔い改めと祈りに導くための「主の愛の招き」でもありました。これは親が子を愛するがゆえに厳しく叱ることに似ています。

しかし、一息つかせてくれたアッシリアがイスラエルを滅ぼすことになるのですから、そこに警告も含まれています。

それにしても、主のさばきによって容赦なく死ぬ人もいる中で、主はエフーの子に特別に寛大に思えます。それは、主がかつてエフーに、「あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く」(10:30)と約束されたことの結果でした。ですから、これはエホアアズの悔い改めを主が喜ばれたというより、主ご自身が彼に祈りを起こさせようと熱く迫っているとも解釈できます。

ところが、彼らはそれまでの偶像礼拝から離れようとしませんでした。それで、主はアラムを通してイスラエルを苦しめ続け、「エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった」という状態にまで落ちぶれました(13:7)。

エホアハズの王位は17年間でした(13:1)。そしてユダの王ヨアシュの第37年に、エホアハズの子が王になりますが、彼の名もヨアシュでした(13:10)。彼も「主(ヤハウェ)の目に悪であることを行い」、主のさばきとしてのアラムの攻撃に悩みましたが、苦しみの中でエリシャの助けを求め、「死の病をわずらっていた」彼のもとを訪ね、「泣き伏して」、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました(13:14)。

それは、かつて、主の軍隊がエリシャを取り囲んで、アラムの軍隊を盲目にしたことを思い起こさせることばのように思えます。それにしても、彼は苦しみの中で、真心から主に立ち返ったのでしょうか?彼のことばを見る限り、彼は主ご自身よりも、エリシャの不思議な力のほうに気が引かれたように思われます。

ヨアシュはエリシャの指示に従い、東側の窓を開けて矢を放ちます。それに対してエリシャは、「(ヤハウェ)の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」と言いました(13:17)。エリシャは、「主(ヤハウェ)の勝利」ということばを強調して、王の心を主に向けさせようとしています。

その上で、彼は王に矢をとらせ、「それで地面を打ちなさい」と命じます。しかし、王が三度しか打たなかったとき、「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを打つことになる」と言いました(13:19)。

これは、「これを絶ち滅ぼす」と約束されたことばが、ヨアシュの信仰の不徹底によって弱められたことを意味します。

この北王国イスラエルのヨアシュも、エフーの孫であり、主がエフーに約束したことのゆえに主のあわれみを受けているのです。彼はその「主のあわれみ」にもっと徹底してすがるべきだったのです。

その後に、「こうして、エリシャは死んで葬られた」という記事とともに、死んで葬られたはずの人が「エリシャの骨に触れるや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がった」という不思議が記されます(13:20,21)。これは、滅びに向かっていたイスラエルの民全体が、エリシャの死に臨んで、「生き返り……立ち上がるべき」だったことを示唆していたというべきでしょう。

これは、イエスが十字架で息絶えたとき、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた」(27:52)という不思議に通じます。これは、エリシャがイエスの先駆けとして、その死に至っても、神のいのちで満たされていたというしるしとも言えます。

その上で、イスラエルがなおも、主によって立てられたアラムの王ハザエルから苦しめられる様子が描かれます。しかし、そこで、「(ヤハウェ)は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、彼らを滅ぼし尽くすことは望まず、今日まで、御顔を背けて彼らを捨て去ることはなされなかった」(13:23)と記されます。

そして、その後のことが、エリシャが語ったように、「ヨアシュは三度彼(アラムの王)を打ち破って、イスラエルの町々を取り返した」と描かれます(13:25)。つまり、主が、滅ぼすに値する民になお忍耐深くあわれまれるのは、ご自身の契約への真実さのゆえということができます。

それにしてもヤロブアムがベテルとダンに据えた「金の子牛」(Ⅰ列王12:28)を拝み続けたイスラエルの民を、ここで「主(ヤハウェ)は恵み(偏愛し)、あわれみ、顧みた」と描かれていることは感動的です。彼らは自分で主(ヤハウェ)の民であることを捨ててしまっていたからです。

そして特別に愛する理由が「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに」と記されています。それこそが聖書全体を貫く神の真実の物語です。

旧約の歴史は、まさに神の真実の現れです。それは、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)と記されている通りです。

ダビデ王家が断ち滅ぼされそうなとき、主はヨアシュを守り抜きました。それは、主(ヤハウェ)がダビデに、「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16)と約束されたからでした。それが後のダビデの子のイエスによる「救い」のみわざにつながります。

コリント書では続いて、「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい」(同14節)と記されます。「偶像礼拝」とは、誰が責任者なのかを誤って認識することであると言われます。

それは「神の真実」を忘れ、自分の不安や願望から生まれた計画を絶対化することでもあります。そうすることによって、「立っていると思う者が、倒れてしまう」のです。

私たちは自業自得の罪で、様々な試練に会います。しかし、神は救いようのないほどに堕落した北王国イスラエルに真実を尽くすことによって、ご自身の愛を現わし続けられました。それは神の民を最後の瞬間まで真の悔い改めに導こうとする神のあわれみでした。

私たちにも「神の真実」が示され続けており、それに応答して生きるか、無視して生きるかが問われています。