2018年5月13日
ソロモンは栄光に満ちた神の神殿を建てることができました。しかし、それは主がダビデに、「あなたの身から出る世継ぎの子……はわたしの名のためにひとつの家を建てる」(Ⅱサムエル7:13)と言われたことの成就でした。
しかも、ソロモンは、ダビデが忠実な家来のヒッタイト人ウリヤから奪い取ったバテ・シェバから生まれた第二番目の子です。ソロモンは神がダビデの罪を赦してくださったことの証しとも言えます。
しかも、神殿は、ダビデが全イスラエルの人口調査をした罪の罰からイスラエルを贖うためにエブス人アラウナから買い取った祭壇の場に建てられたものです。
つまり、神殿建設の物語の背後には、ダビデの功績ではなく、彼の罪の赦しが隠されているのです。神殿の基本は、徹頭徹尾、神の憐みにあります。
そして、新約は真の意味でのダビデ子はキリストであり、「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」(エペソ2:22)と語っています。
そしてパウロは、教会という信仰者の共同体を指して、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と言いました。
キリストの教会も、イエスの貴い犠牲の上に建てられています。私たちは目に見える王国の偉大さや神殿の豪華さに目を向けがちですが、聖書が描く神殿建設の物語では、人の功績や働きではなく、神の圧倒的な愛と憐みが基本になっています。
1.「神は、ソロモンに……海辺の砂浜のように広い心を与えられた」
「こうして、ソロモン王は全イスラエルの王となった」(4:1)と敢えて記されているのは、神ご自身が、ソロモンをダビデの後継者として立て、「神の知恵」(3:28)を特別に与えてくださったという過程を思い起こさせるためです。
これに続いて、ソロモンの高官の名が記されます。その第一は祭司アザルヤですが、彼はソロモンに王の任職の油を注いだツァドク(1:39)の子です。書記のエリホレフとアヒヤは、ダビデの書記だったシシャ(Ⅱサムエル20:5「シェワ」と同一人物)の子たちであり、史官(参議)のヨシャファテと軍団長ベナヤはダビデの高官であった者たちであり、またダビデを導いた預言者ナタンの子たちも政務長官や王の友として仕えました。つまり、これらの名には先代からの政治の継続性が描かれています。
そして、「ソロモンはイスラエル全土に十二人の守護をおいた。彼らは王とその一族に食料を納めた。一年に一か月分の食料を各自が納めることになっていたのである」(4:7)と記されます。
守護のリストは、原文で、領地の名以前に、「エフライムの山地にはフルの子」などと、人名が優先され、多くの場合、子の名前さえも記されないまま、ダビデ王家との結びつきが強調されます。また領地の分割も、部族の枠を超えている部分があり、ソロモンが属するユダは含まれていません。
つまり、これは彼が、ダビデでさえ苦労した北の十部族をまとめたばかりか、地中海岸のペリシテの地やヨルダン川東岸までを含むカナン全土を直轄統治したことを意味します。これはイスラエルが部族連合の共同体から絶対王政に移行したことを示すと思われます。
残念ながら、一年に一か月分の食料を納めさせるという絶対王政の強制力から、王制以前に定められていたシステムが壊されます。たとえば民数記18章21-24節では、各部族が自分たちの収入の十分の一をレビ人たちに分け与えるように命じられ、また申命記14章22,23節、28,29節には収穫の十分の一を主の宮の前で家族と食べること、また三年に一度は貧しい人の分かち合うことが命じられ、また七年に一度は同族の奴隷が解放され、借金が棒引きにされ、50年に一度はそれまでの土地の売買が帳消しにされ、もとの相続地に戻るという貧富の格差の是正策が命じられていました。
しかし、このように多額の貢物を王家に収めることを強制されることにより、そのような所得の再分配を実施することは困難になります。
しかし、当時の世界では、民族どうしの争いで国力が消耗し、民衆が苦しむのが常でしたから、ソロモン王のもとで国がまとまり近隣との戦争の危険もなくなっていたことは、一般民衆にとって何よりの幸いとなりました。
そのことが4章20節で、「ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、食べたり飲んだりして、楽しんでいた」と描かれます。これは神がイサクをささげたアブラハムに「あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えよう」(創世記22:17)と言われたことが成就したことを意味します。
しかも、アブラハムの子孫が星のように増え広がるという約束は、彼が約束の地に来てしばらくしても子供が与えられないときに既に創世記15章で約束されていたことでした。実はその約束こそ神の契約の基本です。
そして、「ソロモンは、あの大河からペリシテ人の地、さらにエジプトの国境に至る、すべての王国を支配した。これらの王国は、ソロモンの一生の間、貢ぎ物を持ってきて彼に仕えた」(4:21)とは、創世記15章18節で、神がアブラハムの子孫に約束された土地、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」を占領できたことを意味します。
ただしそれは、「主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(Ⅱサムエル8:6,14)とあるように、ソロモンの功績ではありませんが、彼はその勝利の報酬を受け継ぐことが許され、彼の国は空前の繁栄を享受することができました。
そして、繁栄の理由が、「これはソロモンが、あの大河の西側、ティフサフからガザまでの全土、すなわち大河の西側のすべての王たちを支配し、周辺のすべての地方に平和があったからである。ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバに至るまでのどこでも、それぞれ自分の……木の下で安心して暮らした」(4:24,25)と記されます。
また続けて、「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた……彼の名声は周辺のすべての国々に広がった」(4:29、31)と記されます。「広い」はカナンの地の「広さ」を表わすために用いられることばで(創世記26:22)、神はソロモンに、海辺の砂のように多い人々と土地とを支配するための「広い心」を与えられたというのです。
ダビデの時代には、多くの血を流しながら約束の地の占領を進める必要がありましたが、ソロモンは、神から与えられた知恵によって、委ねられた地を、その名の由来のごとく「平和」のうちに治めることができました。
なお、そればかりか、「彼は三千の箴言を語り……歌は一千五首もあった」(4:32)とありますが、その一部が箴言や雅歌として残され、また、彼は動植物全般に渡る知恵が驚くほど豊かでしたが、それはすべて神から与えられた知恵でした。
ソロモンは後に堕落しますが、彼が聖書の中に残した文書は、神に由来するということを忘れてはなりません。
2.「ツロの王ヒラムは……大いに喜んで言った。『今日、主(ヤハウェ)がほめたたえられますように』」
ツロ(ティルス)は現在のレバノン南部にあった繁栄を極めた貿易都市国家で、その王ヒラムは、ダビデがエルサレムを征服し王宮を建てたとき、「杉材、大工、石工を送っ」て工事を支援しました(Ⅱサムエル5:11)。
そして、ダビデは主(ヤハウェ)の契約の箱を喜び祝いつつ市内に運び入れますが、そのとき彼は、「この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています」(同7:2)と言って、神殿を建てることを願います。
それに対し、主はⅡサムエル7章11-13節で、主ご自身がダビデ王家を永遠に建てるというダビデ契約を明確にするとともに、ダビデの世継ぎの子が神の名のために一つの家を建てると言われました。それはダビデの子のソロモンが神殿を建てることを意味しました。
そしてダビデは晩年にイスラエルの軍務につくことができる人を数えるという罪を犯しましたが、その罪の贖いのために全焼のささげ物を祭壇に置くと、天からの火でそれが焼き尽くされるという不思議が起きました。
ダビデはその場所に神殿を建てることを決めて、まだ若いソロモンが神殿を建てることができるようにあらゆる備えをしました。そしてダビデはソロモンに神殿建設を命じるとともに、神殿建設の材料を大量にツロから輸入していました(Ⅰ歴代誌22:2-5)。
ヒラムはこの関係を続けようと使節を送りました。その際、ソロモンも丁重に応答し、「私の父ダビデは、周りからいつも戦いを挑まれていたため……私の父の神、主(ヤハウェ)の御名のために神殿を建てることができませんでした。しかし今や、私の神、主(ヤハウェ)は、周囲の者から私を守って安息を与えてくださり・・・今、私は、私の神、主(ヤハウェ)の御名のために神殿を建てようと思っています。
主(ヤハウェ)が私の父ダビデに、『わたしが……王座に就かせるあなたの子、彼がわたしの名のために家を建てる』と言われたとおりです」(5:3-5)と伝えます。
ここでソロモンは、「私の父の神」が「私の神」となった述べ、また、主の御許しの中で、息子ソロモンが父ダビデに与えられた神殿建設のビジョンを実行に移すという点が強調されています。
つまり、神の目からは、ダビデとソロモンはふたりで一つの働きをしているのであり、すべてが神の主権のもとになされるというのです。ソロモンはこのようなことを敢えてヒラムに説明することで、イスラエルが全能の主のご支配の中で安定していることを印象付けます。
ソロモンはその上で、ヒラムにレバノンから杉の木を切り出すために便宜を図って欲しいと願います。これを聞いたヒラムは、「きょう、主(ヤハウェ)がほめたたらえれますように。主は、この大いなる民を治める、知恵のある子をダビデにお与えになった」(5:7)と言って、ソロモンではなく、知恵ある子をダビデに授けられた主(ヤハウェ)をほめたたえます。
そしてヒラムはソロモンに木材と引き換えに食料の供給を依頼し、交渉が成立します。そしてここでも、「主(ヤハウェ)は約束どおり、ソロモンに知恵を授けられた。ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、二人は契約を結んだ」(5:12)と、すべてが主(ヤハウェ)のみわざであることが記されます。
その上で、「ソロモン王は全イスラエルから役務者を徴用した」(5:13)と、三万人が木を切り出すために、また、七万人が荷を運ぶため、また八万人が山で石を切り出すために徴用されたと記されます。これらの人々は、基本的に、イスラエル人ではなく彼らの中に住む在留異国人でした(9:21、Ⅱ歴代誌2:18)。
そして、神殿建設には、「ソロモンの建築者」ばかりか、「ヒラムの建築者」、およびツロとシドンのさらに北にある貿易都市ゲバル人の石切熟練工が協力した様子が描かれます。まさに、主(ヤハウェ)の宮は、主がこの地に平和を実現してくださり、外国人もイスラエルの神、主(ヤハウェ)に仕えるようになったということの象徴でした。
このときの多くの外国人は強制労働や賃金で働きましたが、終わりの日には、世界中の人々が、ささげ物を携えて主の宮に集まると預言されています(イザヤ66:18-23)。
私たちも教会堂建設に際しては、主のみわざを未信者を含む多くの方々にも証ししつつ、神の知恵によって彼らとの平和を保ち、彼らと協力関係を築くことができました。主の宮は、この会堂に集う主の民だけによって建てられたものではありませんでした。
3.「これによって歩むなら……、わたしはイスラエルの子らのただ中に住み……」
ソロモンが「主(ヤハウェ)の家」の建設に取りかかった時が、「イスラエル人がエジプトの地を出て四百八十年目」と記されます(6:1)。この年代から出エジプトの年代を計算して紀元前1446年とする場合もありますが、それは様々な歴史文書と不調和をもたらすという見解も多くあり、1270年ごろと考える学者が多数派です。
この数字には象徴的な意味を読み取ることもできます。イスラエルの十二部族はその不従順のために、エジプトを出て約束の地に入るまで四十年もかかりました。その十二倍が四百八十年です。彼らがヨシュア以来ずっと神に忠実だったとしたら、ずっと前にこの地に神の平和と繁栄が実現していたことでしょう。
神殿の大きさは、本体部分が長さ60キュビト(約26.4m)、幅20キュビト(約8.8m)、高さ30キュビト(約13.2m)と記され(6:2)、長さ幅とも幕屋の二倍です(出エジプト26章参照)。これに三階建ての脇屋をつけて、神殿の壁を梁で支えないで済むように補強しました(6:5-6)。
また、神殿を建てるときは、石切り場で完全に仕上げられた石で建てたので鉄の道具の音は神殿の中では聞かれませんでした(6:7)。これらはかつてダビデが主の御霊に示されて記した仕様書によるもので(Ⅰ歴代誌28:12)、この神殿自体が神の作品と言えます。
なお、現代はこれよりはるかに大きな教会堂があるかもしれませんが、これは決して集会所ではなく、祭司が奉仕のためだけに入ることが許される場所です。
そして、実際、ソロモンが神殿の奉献式の際に立ったのは、この神殿の外に設けられた祭壇の前です。それはいけにえを焼くために設けられた巨大なもので、幅と長さが二十キュビト(8.8m)と神の幕屋のときの四倍、高さも十キュビト(4.4m)と、もとの3キュビト(約1.3m)の三倍あまりもありました。
そのとき民の長老たちは神殿の前の内庭に入ったはずですが、それがどれだけの広さだったかは記されません(6:36)。幕屋のときの庭は、長さ44m、幅22mの広さでしたが、祭壇の大きさから見てもソロモン神殿の内庭は驚くほどの広さだったと思われます。
ただ、この建設の際、主(ヤハウェ)のことばがソロモンにあります。それは、「もし、あなたがわたしの掟に歩み、わたしの定めを行い、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしはあなたについてあなたの父ダビデに約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない」(6:12,13)というものです。
つまり、人が律法を守ることこそが、神が民のただ中に住み続けてくださるための条件であり続けるということで、神殿はその保証にはならないのです。
主(ヤハウェ)は、幕屋もいけにえもないところで、ダビデと共にいてくださったということを決して忘れてはなりません。神殿はソロモンの功績ではなく、神がダビデの願いを聞き届けてくださったことの結果なのです。
なお、神殿の内部は当時の最高級の杉の板で覆われ、模様が記されていました。そして、主の契約の箱が置かれる至聖所は長さ20キュビト(8.8m)の立方体になっており、その内側はすべて純金を着せました。
そして、その中には、ふたつの巨大なケルビム(人の顔と理性、ライオンの手足と大きな鷲の翼を持つ天的な生き物で契約の箱を守る存在)を作り、その翼は端から端まで10キュビト(4.4m)にも及びました(ふたつで20キュビト)。そして、これも金で覆われました。
その他、神殿の内部は金がふんだんに用いられています。これは神ご自身の住まいであって、人に見られません。至聖所などは大祭司が年に一度だけ、命がけで入る場所でした(レビ記16章)。
たとえば、イエスの時代のヘロデ大王の手によるエルサレム神殿は、異邦人の庭、婦人の庭、内庭が三重に大きな建物で仕切られ、その外側の豪華さに関して多くの記録が残っていますが、神殿内部には契約の箱すらありませんでした。
またソロモンの神殿の中には十個の燭台がありましたが(7:49)、ヘロデ神殿にはひとつしかありませんでした。つまり、ソロモンの神殿の最も豪華な部分は隠されていたのですが、イエスの時代の神殿は、皮肉にも、外見に何よりも多くの手がかかっていたのです。
ソロモンはこれらを七年半で完成しましたが(7:37,38、ジプの月とは第二の月)、それはダビデがすでにあらゆる準備をしていたことの上にあり、神がダビデの罪を赦されたことの証しでもありました。
私たちも、神にしか見えない心の内側、隠れた生活をこそ聖く美しく保つべきでしょう。神は神殿建設途中のソロモンに、何よりも大切なのは、神のみことばに注目しそれを守ることだと言われたことを忘れてはなりません。
ダビデは主のために神殿を建てたいと願いましたが、主から、「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた……わたしの前に多くの血を地に流してきたからである」(Ⅰ歴代22:8)と言われ、許されませんでした。しかし、その戦いなしにはソロモン時代の平和と繁栄もありませんでした。
現代の平和も先人たちの血の犠牲の上に、また私たちの信仰も初代教会以来の信仰の戦いの上に立っています。そして、現代の教会も、ソロモンの神殿建設と同様に、この世の人々との協力なしには立ち行きませんが、その中心は、見えない部分を美しく飾るということです。
もちろん、私たちの心の内側には様々な醜い思いが満ちています。しかも、それを自分の力で美しくしようとしてもかえって空回りを起こすだけです。自分の無力さを認め、イエスの御霊に心を明け渡し、イエスの血によってこのこころを内側からきよめていただきましょう。
使徒ペテロは、「みことばに従わない夫」に対しての妻の振舞い方を、「神を恐れる純粋な生き方」を貫くように勧め、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りつけを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです」(Ⅰペテロ3:3,4)と命じています。
多くの人が、自分の母への感謝を表すとき、外面的な美しさを言うことはほとんどありません。そこに出てくるのは、母のまっすぐな愛情であり、損得勘定を超えた誠実な生き方です。それは社会的には評価されにくいものです。しかし、そのようなまっすぐで純粋な愛こそが、この社会の基本になっています。
私たちも、キリストの霊を受けて、神を恐れる純粋な生き方、柔和で穏やかな霊とは何かを常に覚えて行きたいものです。
ソロモンが建てた神殿に主の契約の箱が運び入れられたとき、「主(ヤハウェ)の栄光が主(ヤハウェ)の宮に満ち」、「祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった」ほどでした(Ⅰ列王8:11)。
ヘロデの神殿はそのような栄光で包まれることはありませんでした。イエスはその神殿を指して、「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19)と言われました。
そしてイエスは今、ご自身が新しい神殿の「要の石」となられ、私たちがこのキリストにあって、建物を構成する部分として「組み合わされて成長し……ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです」(エペソ2:20-22)。私たちは何かの部品のようにではなく、母のようなパーソナルな人格的な出会いによって結び合わされているのです。