2017年6月4日
サムソンの身体は驚くほど強いのに、心はどうしてこうも弱いのかと思われます。しかし、それにまさって不思議なのは、彼がイスラエルの民から完全に浮いていたことです。神の御霊に動かされながら、これほど孤独だった人がいるでしょうか。彼がこれほど女性の誘惑に弱い原因は、孤独かもしれません。
孤独はアダムの原罪の結果です。しかし神は、ヤコブの孤独の中に現れ、彼をイスラエルとされました。サムソンの物語の中に、神の民の物語を、そして、キリストの苦悩を読むことができないでしょうか。
1.「主(ヤハウェ)の霊は……彼を揺り動かし始めた」
サムソンはダン族の出身です。彼らに本来、割当てられた地は、現在のエルサレムからテルアビブに下る方面でしたが、地中海沿岸に侵入してきたペリシテ人が勢力を広げたため、彼らの多くは、カナンの地の最北部に移住しました。サムソンは、その不遇な部族の、しかもその残された氏族の中に生まれたのです。
ただ、その誕生のプロセスは、イサクやヤコブの場合のように奇跡的なものでした(参照:創世記17、18、25章)。ただし、イサクの誕生は信仰の父アブラハムの、ヤコブの誕生は父イサクの必死の願いに応じてのことでした。ところがサムソンの誕生は、「マノアの妻、不妊の女」としか記されていない一人の女に、主の御使いが突然現れて告げられたことでした。そこにはマノアとその妻が信仰を持って願ったというようなことは一切記されていません。
「主(ヤハウェ)の使い」はただ一方的に、マノアの妻に向かって、「見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」(13:5)と言われました。そして、これは夫のマノアに対しても告げられます(13:13,14)。
「不妊の女」が、自分や夫の期待を越えて、御使いの御告げを受けて男子を生むというのは、救い主の到来を告げたバプテスマのヨハネの誕生に似ています。ヨハネの誕生に際し、御使いは祭司ザカリヤに、「彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます」(ルカ1:15,16)と語ったことは、本来、ナジル人であるサムソンにもそのまま期待されていたことのはずです。
そしてヨハネの母エリサベツは聖霊に満たされて、訪ねてきたイエスの母マリアを「私の主の母」と呼びました(ルカ1:43)。
つまり、サムソンの奇跡的な誕生には、神が新しい時代を開くという意味が込められていました。そしてペリシテ人との戦いを描いたサムソンの記事は、イスラエル全体に平和をもたらしたサムエルの誕生につながります。サムエルの誕生は、その母ハンナの必死の願いに基づくものでしたが、「不妊の女」からの誕生という点では同じです。
「ナジル」の語源は「分離」で、一般の民が一定期間、自主的に主への奉仕に身を献げる誓願をすることです。その間は、ぶどう酒を飲まない、死体に近づかないことと合わせて、髪の毛を伸ばすままにする必要がありました。
ただサムソンは、母の胎内から死ぬまでナジル人であり続けることが定められており、彼の不思議な力は、神の一方的な選びに由来します。神に選ばれ、愛されながら、その愛を忘れ、自分の肉の衝動のままに生き、誘惑に負け、ナジル人のおきての全てを破り、苦しみを受けるという彼の姿は、イスラエルの民の歴史の要約とも言えます。彼の歩みは、神の民のサンプルのようなものです。
不思議なのは、神の幕屋もレビ記の規定もあるこの時代に、祭司でもないマノアが自分の畑で、「全焼のいけにえを……主(ヤハウェ)にささげる」(13:16)ことが許されたことです。これはイスラエルの信仰共同体としての機能が麻痺し、ヤコブの時代の原点からやり直す必要があったことを示します。
その後、生まれた子は大きくなり、「主は彼を祝福され……主(ヤハウェ)の霊は……彼を揺り動かし始めた」(13:24、25)と記されます。これらすべては、主がイスラエルをあわれまれた故ですが、彼らはそれにまったく気づきません。
なお、ギデオンの場合は、「主(ヤハウェ)の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まってきて彼に従った」(6:34)とギデオンの戦いの始まりが告げられていました。
エフタの場合も、「主(ヤハウェ)の霊がエフタの上に下った時……ギルアデのミツパからアモン人のところに進んで行った」(11:29)という戦いの始まりが告げられます。ただ、エフタはその直後に、愚かな誓願を主に立てたことが記されますから、主の霊が下ることと、主のみこころに添った生き方をすることとは、意外にも密接な関係がないことが分かります。
ギデオンの場合もエフタの場合も聖霊が臨んだという記事は一度しか記されません。しかし、サムソンの場合はここを含め、14章6節、19節、15章14節と四回続きます。まさにサムソンは、士師記において、「主(ヤハウェ)の霊」に動かされた人の代表であったとも言えましょう。
サムソンはナジル人でありながら、ペリシテ人の妻を娶ろうとします。それはモーセもヨシュアもイスラエルの民全体に厳しく諌めていた恐ろしい罪です。それを奇跡的に誕生し、神に選ばれたナジル人が行なおうというのです。サムソンの父も母もそれに真っ向から反対しながら、ついには彼に同行してペリシテの町「ティムナに下って行き」ます(14:5)。
ところが、主はそれを、「ペリシテ人と事を起こす機会」とされたというのです(14:4)。これは、主の霊が、私たちの信仰と無関係に働くことのしるしとも言えます。
そしてこのペリシテ人の支配地で、一頭の若い獅子が彼を襲ったとき、「主(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下って」(14:6)、彼は素手のままそれを打ち殺します。これは、主(ヤハウェ)の民が、主以外の誰をも恐れる必要がないことを象徴的に現した記事です。
ただし、その後しばらくして、彼はナジル人でありながらその死体に近づき、その中に「蜜蜂の群れと蜜」を見つけ、死体で汚れた物を食べます(14:8,9)。
その後、ナジル人でありながら、ペリシテ人の習慣に合わせた婚礼の祝宴を催し、ぶどう酒をたくさん飲んだことでしょう。
彼に付き添った30人はペリシテ人ばかりでした(14:10)。これは本来、「花婿に付き添う友だち」(マタイ9:15)であるはずですが、サムソンに付き添うイスラエルの民はいませんでした。そこにいたのは、たぶんペリシテ人が乱暴なサムソンを抑えるために付き添わせた屈強な男たちでしょう。
サムソンは彼らが自分に敵対する者たちだからこそ、敢えて戦いのきっかけになりそうな「一つのなぞをかけ」(14:12)、それで賭けをします。それは、「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た」(14:14)というもので、サムソンがライオンの死体から蜂蜜を集めたことを歌った詩でした。
当時の婚礼の祝いは七日間続きましたが、ペリシテ人たちはなぞを解き明かすことができず、サムソンに晴れ着30着などを与えざるを得なくなくなるのではないかと焦り出しました。彼らはサムソンの妻に「あなたの父の家を焼き払う」(14:15)と脅しながら、彼女を通して解き明かしを知ろうとします。
彼女は泣いてサムソンに懇願し、彼は妻の懇願に負けて秘密をあかします。その結果彼らへの支払いが必要になります。
ところがここで再び、「主(ヤハウェ)の霊が激しくサムソンの上に下った」(14:19)と記されます。彼に主の霊が下ったことによって、別のペリシテの地のアシュケロンの住民30人から力ずくで晴れ着30着などを奪い取って、この賭けの支払いを済ませたと記されます。
彼の行為は、ナジル人の掟に反しますが、主はそれをも用いて、「最強の野の獣も、ペリシテ人も、恐れる必要はない!」と語っておられるようです。
神は、恐れに囚われて自滅に向っているご自身の民を救おうとされました。主の霊は、敬虔な人に授けられるという以前に、野蛮で不敬虔な人をも生かして用いる、神の御手の現われなのです。
2.「ひとりだけで千人を追う」という預言の成就と、主の前に静まること
その後サムソンは、「怒りを燃やして、父の家に帰った」(14:19)と記されますが、サムソンの妻の父は、彼女がサムソンから捨てられたものと思って、彼女をサムソンの婚礼に付き添った30人のペリシテ人うちのひとりの妻にしてしまいました。しかし、サムソンはなおも彼女への愛情を保っており、子やぎをおみやげに再び彼女の家を尋ねて来ました。
そこで彼は、自分の妻が別のペリシテ人に嫁がされたことを知ります。彼にしてみたら、自分の妻はペリシテ人に脅されてサムソンのなぞかけの解き明かしを伝えたことで、彼はペリシテ人に晴れ着などを贈らざるを得なくなったばかりか、今度は自分の妻まで奪われてしまったと思えたでしょうから、怒り心頭に発しました。
それで彼は、ジャッカル(「きつね」と訳す場合が多い)三百匹を捕らえ、尾と尾を結んで、その真ん中に松明を取り付け、それに火をつけて、ペリシテ人の麦畑に放ち、麦の刈り束の山から立ち穂、ぶどう畑からオリーブの木に至るまでを焼きました(15:5)。
それに対し、ペリシテ人はサムソンの妻だった女とその父を焼き殺します(15:6)。またそれに対し、サムソンはペリシテ人に徹底的に報復し、彼らを殺し、敵から自分の身を守りやすいエタムの岩の裂け目に住みます。その地が何処かは定かではありませんが、父の家の近くだったと思われます。
それに対し、ペリシテは復讐としてユダ族に対して陣を敷き、レヒを攻撃します(15:9)。そこはエルサレムの西20㎞余りにある村だったと思われますが、「レヒ」とは「あご骨」という意味ですから、この後のサムソンの戦いにちなんであとで命名されたのだと思われます。
ペリシテ人がユダの町を攻撃したのは、サムソンが属するダン族がほとんどいなくなっていたためだと思われます。その際、ユダ族は。自分たちが攻撃を受けているのはサムソンのせいだと分かると、ユダは三千人でひとりのサムソンをとらえ、ペリシテ人に引き渡そうとします。
そのときユダの人々はサムソンに向かって、「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか……」(15:11)と言いますが、これこそ神の民の堕落の象徴的なことばです。しかしサムソンは、同じ神の民との争いは避けて、縛られるままになります。彼の心の激しい痛みが察せられます。
しかし、サムソンがレヒに縛られて来たときに、「主(ヤハウェ)の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕を縛っていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から落ちた」(15:14)と四度目の聖霊の働きが描かれます。
その結果、彼は「ろばのあご骨で、千人を打ち殺した」というのです。これは、主がともに戦ってくださるなら「あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる」(ヨシュア23:10)と預言されていたとおりのことでした。
一方、その反対に預言者イザヤは、イスラエルが敗北して行く姿を、「ひとりのおどしによって千人が逃げ」(30:17)と描いています。神の民にはこの地を治めるという使命が与えられています。この世の力に決して屈してはならない時があるのです。
イザヤではその直前に、「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』しかし、あなたがたは、これを望まなかった」と描かれます(30:15)。
ここでサムソンは、「ひどく渇きを覚え、主(ヤハウェ)に呼び求め」、「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました」と告白しつつ、「今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています」と訴えます(15:18)。
人は、しばしば、大きな勝利の後、疲れを覚え、急に弱気になることがありますが、それは主との個人的な出会いの機会になります。そしてこの直後に、「すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った」と描かれます(15:19)。
サムソンは、まさに、「主に立ち返る」ことによって、「生き返った」のでした。
しかし、他のイスラエル人は、「これを望まなかった」のでした。そんな中で、「こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。」(15:20)という記事が空しく響きます。
彼は士師として立てられながら、イスラエルを治めることはなかったからです。彼は孤独な戦いを続けただけでした。
3.愛するデリラによって売り渡されたサムソン
サムソンはペリシテ人の南の町ガザを訪ね、「ひとりの遊女」と一夜を共にします。ペリシテ人はこの機会にサムソンを捕えようと潜んでいましたが、彼は真夜中に目覚めて、町の門の扉と二本の門柱を引き抜いて、「ヘブロンに面する山の頂に運んで行った」(16:3)と描かれます。ヘブロンはガザから東に約70㎞も離れた場所ですからそんな遠くまで運ぶ理由は分かりません。これはヘブロンの近くの山というよりも、ヘブロンに面する、ガザに近い山とも理解することができます。
とにかく、ここにはサムソンが女性の性的な魅力に驚くほど弱いことと、その不思議なほどの怪力の対比が象徴的に描かれています。
サムソンはその後、デリラという「ひとりの女」を愛します。彼女はペリシテの女です。ペリシテ人の領主たちは五人いたはずですが、彼らはそれぞれが銀1,100枚を支払うと約束しながら、彼女を通してサムソンの力の秘密を探り出そうとします。これは各30ポンド、総計150ポンド(67.5㎏)で現代の銀価格からすれば約500万円に相当します。
サムソンは、三度に渡って嘘の情報を教えながら、彼女が自分を縛るのに身を任せてしまいます。何とも不思議です。普通ならこの女の悪意に気づくはずですが、「恋は盲目」ということばのとおりになります。しかも彼は、過去の成功によって、自分の力を過信していました。
デリラは彼に、「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう」と言いながら、愛の証を求めます(16:15)。本来、これは主(ヤハウェ)ご自身が彼に言いたい言葉でしょう……。
孤独なサムソンは「死ぬほどつらく」(16:16)なって、彼女を自分の神として、秘密を明かします。それは、髪の毛がそり落とされたらナジル人ではなくなり、不思議な力を失うということでした(16:17)。
デリラは、ペリシテ人の領主たちを呼びますが、そこで「彼らはその手に銀を持って上ってきた」と敢えて記されます(16:18)。それは、彼女が愛したのは、サムソンではなくお金であったことを示すためです。デリラという名には「礼拝者」という意味がありますが、彼女こそはお金の礼拝者で、平気でサムソンに偽りの愛を告白して、彼の心を惑わしました。今や、デリラという名は妖婦(誘惑女)の代名詞です。
そして、「彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ……彼の髪の毛七ふさをそり落とさせます」(16:19)。何という不気味な表現でしょう。私たちもサタンの誘惑の中で安眠を貪り、自分の身を滅ぼす恐れがあります。
それにしても、サムソンは、かつて同胞によって、今度は最愛の人によって、売り渡されました。彼の孤独は、まさに後にイエスが味わうものと同じではないでしょうか。サムソンも孤独の中で、主との出会いを体験しましたが、それを生かすことができませんでした。彼には、さらなる孤独と挫折が必要でした。
力を失ったサムソンはペリシテ人にとらえられ、「目をえぐり出され」、青銅の足かせをつけられ、牢の中で臼を引く者にまで落ちぶれます(16:21)。しかし、次第に彼の頭の毛は伸びだします。不思議にもここに彼の心理描写は何もありません。ただ、髪が伸び始めるときが、神との交わりの回復のときとなったことは確かだと思われます。
彼は、やがて、ダゴンの祭りで見世物にされ、その神殿に連れ出されますが、そこで自分から願って、宮を支える柱のもとに立たせてもらいます。そこで彼は、再び、「主(ヤハウェ)に呼ばわり」ます(16:28)。彼は三種の御名を用いて、「主(アドナイ)、ヤハウェよ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神(エロヒム)よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください」(16:28)と祈ります。
そしてここでは、「主の霊が激しくくだり……」という表現なしに、彼が宮を支える柱を動かした様子が描かれます。これは、主の霊が彼を動かしたというより、主が、彼の切なる祈りに耳を傾けられたことを強調するためです。
その宮には、屋上だけでも三千人がいましたが、このとき「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった」(16:30)のでした。
そして、このときになって初めて、「彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下ってきて、彼を引き取り……父の墓に葬った」と、彼の仲間が登場します。
彼は、自分の命を死に明け渡すことで、神の民の敵に決定的に勝利し、交わりを回復しました。不思議に、イエスとは似ても似つかない野蛮人サムソンに、イエスの十字架と埋葬が示唆されています。
新約でも、パウロはナジル人としての誓願を立ててそれを全うしたことが示唆されています(使徒18:18、21:24)。そして、彼は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:2)と命じました。
私たちは無力でも、神は偉大な方です。しかも、神は罪人の頭のようなサムソンさえご自身のみわざのために用い、最後には信仰の勇士の仲間入りをさせてくださいました(ヘブル11:32)。
できるなら、彼のように、孤独のゆえに誘惑に負けて、死ぬときになって初めて目覚めるような生き方ではなく、今、このときから、孤独の中で、主との交わりを深める者とさせていただきましょう。
讃美歌333番の原歌詞は、Make me a captive Lord,(私を捕われ人としてください)という逆説的な祈りから始まり、「そのとき初めて、私は、自由になることでしょう」と応答されます。
続けて、「私が剣を捨てるように強いてください」と願いが歌われ、「すると私は、勝利者になることでしょう」と応答されます。
さらに、「私は、自分ひとりで立っているときに、人生の危機の中に沈んでしまいます。私をあなたの御腕の中に捕えていてください。すると私の手は強くなっていることでしょう」と閉じられて行きます。
当時のイスラエルの不信仰のゆえにサムソンは孤独に追いやられ、誘惑に負けました。しかし彼は捕らわれ人とされた中で、主の御名を真剣に呼び求め、イスラエルに希望を残すことができました。それは私たちにも起きることです。
サムソンの強さの秘訣は、主の霊の働きにあります。それはギデオンやエフタに勝ります。しかし、サムソンほど不信仰でふしだらな人もいませんでした。主の霊は敬虔な人に働くというよりも、主が選んだ人に内に働くものです。
そしてサムソンは決定的な挫折を通して、主に祈る者とされました。私たちも御霊の働きでイエスを知り、そして砕かれることを通して祈りの人とされて行きます。
旧約と新約の違いは、何よりも聖霊の働きにあります。今は、サムソンの上に働いた聖霊が、すべての信仰者の上に働いています。それはサムソンの場合と同じように神の選びから始まります。
彼は様々な弱さを抱えていましたが、御霊の働きによってこの世の富と力には屈することがありませんでした。