イザヤ40章「主を待ち望む者は新しく力を得る」

2017年元旦

2016年紅白歌合戦のテーマは「夢を歌おう」でした。その中でひと際、歪んだ夢が歌われていました。高橋真梨子さんの「ごめんね」です。そこでは、「好きだったのに、それなのに貴方を傷つけた。ごめんねのことば涙で言えないけど……世界中きっと、いちばん大切な恋を無くしたのね……連れて行って、別離(わかれ)のない国へ」と歌われています。自業自得で苦しみながら、永遠への夢が歌われています。

私たちにも、はるか前の祖先の世代から受け継がれた「のろい」の連鎖のようなものがあります。たとえば、虐待されて育った子供は、その辛さを分かっていながらも、親になると子供を虐待します。様々な依存症の問題も、形を変えながら親から子へと受け継がれます。残念ながら、どれだけ聖書を学んでも何も変わっていないように思える現実があります。黙示録17章では富と権力が結びついた「大バビロン」の支配が、今なお、この世界を支配して、神の民を苦しめる様子が描かれています。それは、この世界が今もなお、バビロン捕囚の「苦役」の中に置かれている現実を指します。しかし今、私たちに向かっては、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とも言われます。これこそ、「新しい創造(New Creation)」です。それを私たちは日々、「主を待ち望む」という中で、キリストにある「いのち」として体験できるのです。

1.「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」

イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、「あなたがたの神が仰せられる」(1節)と記されます。神は、自業自得の罪で苦しむ人々を、「わたしの民」と呼ばれ、またご自身のことを「あなたがたの神」と紹介し、「慰め」に満ちたメッセージが告げられます。これこそイザヤ40章以降の中心テーマです。「慰める」には本来、「深く呼吸する」という意味があり、それは「哀しみ」「あわれみ」とも訳され、「同情」というより「励まし」の意味が込められています。神の「深い息」から生まれる「慰め」には、人の呼吸を助け、新たな活力を生み出す力が込められています。

しかも、続けて「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ」(2節)と記されますが、これは原文では、「エルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ」という不思議な表現になっています。エルサレムが傷つきやすい女性にたとえられ、神が優しい夫であるかのように語りかけます。神は、身勝手な浮気女の心の痛みに寄り添ってくださるのです。そしてそこでは、三つの「慰め」が語られます。第一は、「その労苦は終わり」で、これは戦争捕虜としての「苦役」の期間が満了したという意味があります。第二は、「咎は償われた」です。バビロン捕囚は、申命記28章などで、主ご自身が警告しておられた「のろい」が成就したものです。そのため、その「咎が償われて」初めて、神の「慰め」の計画がスタートされると預言されていました。そして、第三は、「そのすべての罪に対し、二倍のものを主(ヤハウェ)の手から受けたのだから」と訳すことができます。現在の新改訳は、罪と引き換えに恵みを受けたという趣旨で訳されていますが、最も単純な解釈は、二倍の刑罰を受けることで、すべての裁きが完了したという意味かと思われます。申命記29章ではのろいの誓い」というイスラエルの不従順への報いとして、「主(ヤハウェ)は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた」(28節)と言われるようになると警告されていました。ただその直後にモーセは、「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、(ヤハウェ)があなたを追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返り……御声に聞き従うなら……主(ヤハウェ)はあなたの繁栄を元どおりにし……あなたを連れ戻す」という回復が約束されます(同30:1-3)。

主は後にホセア11章8,9節で、イスラエルをさばくときのお気持ちを、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない……わたしは怒りをもっては来ない」と記しておられます。私たちの罪に対して神は怒りを発しますが、私たちがそのさばきを受けながら苦しんでいるときに、神は決して、「わたしに逆らったことの刑罰を思い知ったか…すべて自業自得だ……」とあざ笑うことはありません。さばきを下す神ご自身も、ともに苦しまれ、深く息を吐きながら、「これからやり直そう!」と言ってくださるのです。「慰めよ」ということばと、ホセア書での「あわれみ」とは同じヘブル語から生まれています。ご自身の契約とともに警告していた「さばき」を下しながら「あわれみで胸が熱くなる」神が、「慰め」を与えてくださいます。

2.三重の福音

そしてそこから生まれる「慰め」のことが、「呼ばわる者の声」(3節)、「呼ばわれと言う者の声」(6節)、「シオンに良い知らせを伝える者」(9節)という三重の福音として語られます。

第一の「呼ばわる者の声」は、「荒野に主(ヤハウェ)の道を整えよ。荒地で私たちの神のために大路を平らにせよ……」(3節私訳)と語りかけます。これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。そのことが具体的に、「すべての谷は高くされ、すべての山や丘は低くなれ。起伏のある地は平地に、険しい地は平野とされよ」(4節私訳)と描かれます。そして、新約ではバプテスマのヨハネが、「荒野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)としてその預言を成就したと紹介されます。ヘブル語では「荒野に」ということばは、「呼ばわる(叫ぶ)」にも「道を」にも、どちらをも修飾するとも考えられますが、このイザヤの文脈では、整えられるべき道の状態が、「荒野……荒地」と強調されています。ヨハネの働きは、王であるキリストを迎える道の状態を平らにすることにありましたが、彼自身が「叫ぶ」場は「荒野」でした。

私たちの心は荒野の状態で、主が入ってこられるのを妨げる様々な障害があります。預言者たちはまず、それを「整え」るようにと呼びかけています。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません。ですからイエスは山上の説教の初めで、「心(霊)の貧しい者は幸いです」と言われました。そこに主を迎える「心の中にシオンへの大路」(詩篇84:5)が開かれているのです。

「そして、主(ヤハウェ)の栄光が現され、すべての者(直訳『肉なる者』)が共にこれを見る」(5節)と言われますが、イエスこそ約束された「主(ヤハウェ)の栄光」の現れでした。それは、「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)と記されているとおりです。そしてイエスは、まず誰よりも、社会の最下層にいる「心の貧しい者」「悲しむ者」に、ご自身による「主(ヤハウェ)の栄光」を「現して」くださり、「すべての肉なる者」がそれを見たのです。実に、イエスのことばこそ、「そのように、主(ヤハウェ)の御口が語られた」(5節)ことの成就でした。

第二の、「呼ばわれ」という者の声に対し、イザヤは「何と呼ばわりましょう」と答えます。それは、荒野のような世界に住む私たちへのメッセージです。そこではまず、「すべての人(直訳『肉なる者』)は草、その栄光(直訳『誠実《ヘセド》』)は、みな野の花のようだ」(6節)と語られます。「その栄光」と訳された原文は「ヘセッド」で、新改訳脚注にある「誠実」の方がふさわしいと思われます。私たちは様々な場面で人の「不誠実」に怒りを覚えますが、私たち自身の内側にも同じような醜い心が巣食っています。心に余裕があるとき「私は結構、誠実な人間だ」と思っていても、それらは「野の花」のようにはかないものです。そのことが、「草は枯れ、花はしぼむ。主(ヤハウェ)のいぶきがその上に吹くから」(7節私訳)と記されます。主はご自身のいぶきの「霊」によって愚かな誇りを砕かれ、私たちがちりにすぎないことを悟らせてくださいます。たとえば、共産主義運動に走る人には「誠実」な人がほとんどでしょうが、そこで路線の違いが明らかになると、悲惨な権力闘争が生まれ、隠されていた罪の性質が制御できなくなることがありましょう。しかし、詩篇には、自分の不安や怒りを赤裸々に神に訴え、神に取り扱っていただく祈りが満ちています。

ここでは人の「誠実」のはかなさを語った後ですぐに、「まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(8節)と記されます。私たちには明日のことは分かりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを知るなら、自分たちの労苦が無に帰するように見える中でも、堅く立ち続けることができます。その新しい世界では、私たちの愛の交わりは完成するのです。今、分かり合えないことがあったとしても、新しい世界では、すべての誤解が解け、互いを心から喜ぶことができるようになります。私たちはそれぞれ、キリストにつながっている限り、そのような愛の完成の世界に入れられることが約束されているのです。

第三に、「良い知らせ」の声は、「高い山に登れ。シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ」(9節)と繰り返され、その上で、「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え」と言われながら、「見よ」ということばが三回繰り返されます。その第一は。「見よ。あなたがたの神を」という呼びかけです。イエスは、「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」というピリポに対して、「わたしを見た者は、父を見たのです」と言われました(ヨハネ14:8,9)。そして、イザヤはここで引き続き、「見よ。主、ヤハウェは力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは御もとにあり、その報酬は御前にある」(10節)と告げられます。「のろい」の世界では、労苦が実を結びませんでしたが、キリストを信じる私たちはすでに「祝福」の時代に入れられています。そのことを使徒パウロは、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記しています。

それと同時に、「主は羊飼いのように群れを飼い」と表現されます(11節)。そこで、「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませている雌羊を優しく導く」と描かれます。それこそが新約で強調される「主(ヤハウェ)の栄光」で、罪人、取税人、遊女の仲間と呼ばれたイエスの姿に現されています。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力に満ちた「御腕」ばかりを求めていましたが、現された主の「御腕」とは、主の御前に立つことがとうていできないような者をも招き、内側から作り変えてくださるという「あわれみ(慰め)」でした。私たちの「いのち」はすでにキリストによって守られ、すべての労苦が無駄にならないという祝福の時代に移されています。ですから、もう目の前の問題を恐れる必要はありません。すべての問題は、時が来たらキリストにあって解決することが保障されています。その希望に満たされるなら、どんな中でも「勇気」が生まれます。

3.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

12節からは「だれ……」という問いが繰り返され(12,13,14,18,25,26節)、主(ヤハウェ)が私たちの想像をはるかに超えた方であることが強調されます。なお、21節では特に、「お前たちは、知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の始まりのことを悟らなかったのか」と記され、人間的な知恵を横に置き、神の「創造」の原点に立ち返ることが勧められています。多くの人々は、この世界は永遠に存在するかのような誤解をしていますが、「地」には「始まり」があるということは明らかです。

しかも、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22節)とあるように、神は全宇宙からも超越しておられる方です。「地の住民はいなごのようだ」とありますが、創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。しかし、「主は、天を薄絹のように延べ、住まう天幕のように広げ、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる」(22、23節)とあるように、神の偉大さは、人の想像をはるかに超えています。そして、今、私たちの救い主は、ご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介しながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。

そして、神の前における人の力の頼りなさが、「やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主が風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす」(24節)と描かれます。主のあわれみがなければ、私たちの労苦の果実は一瞬のうちに消え去ってしまいます。

また25節で、主は「だれに、わたしをなぞらえ、比べようとするのか」と問われ、その方が「聖なる方」と紹介されながら、その方の語りかけが、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)と記されます。これは大宇宙や壮大な山々に目を向けることの勧めです。しかも、創造主は、「万象を呼び出して数え、一つ一つその名をもって呼ばれる方」と描かれます。人は誰も天に輝く星の数を計算することはできませんが、神はすべてを数え、一つ一つの星を区別してそれに名をつけておられます。それと同時に、神はミクロの世界の創造主であり、どんなにちっぽけなものをも区別しておられるということが、「精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」と描かれます。ですから神は「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる方」であられます。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。

「なぜ、ヤコブよ、言うのか。イスラエルよ。言い張るのか」(27節)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、「私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、さばきの訴えは私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。私たちはそのとき、心が萎え気力を失います。しかし、主イエスもそのような神の不在を体験されました。そしてその御苦しみによって全世界の罪が贖われたのです。その不思議に思いをめぐらすことの大切さが、私たちへの問いかけとして、「知ってはいないのか。聞いてはいないのか。主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむ(弱る)ことなく、その英知は測り知れない」(28節)と描かれています。しかも、私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという復活の力の原点に立ち帰ることができます。

なお、「主は……疲れることなく、たゆむ(弱る)ことなく」という表現は、「若者も疲れ、たゆみ(弱り)」(30節)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走ってもたゆま(弱ら)ず、歩いても疲れない」(31節)というクライマックスに結びつきます。「弱る(たゆむ)」とは、気力が湧かなくなる状態です。それは肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心が弱った者、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です(29節)。私たちに求められていることは、外からの刺激に反応しながら時間を惜しむように動き回る代わりに、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。それは、すべての働きを、主のみ前で静まることから始めることです。この一年の初めに、日々の静まりの時間の確保を心に据えましょう。

しかも、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わって、より高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「鷲のように翼をかって上って行く」(31節)と表現されています。なお原文では、「できる」ということばは入っていません。それは、主を待ち望む者に起こる必然的な変化だからです。これは主の約束です。私たちは常に、何かをできている自分の方に目が向かいますが、「待ち望む」ことの中心は、自分の徹底的な無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことです。「できる」とか「できない」とかの人間的な枠を超えて、神のみわざに期待することです。それは一瞬一瞬問われている心の状態です。私たちはいつでもどこでも「疲れて、弱り」ます。しかし、そこで主を待ち望むやいなや、主の御霊の働きが私たちのうちに始まり、「走っても弱ら(たゆま)ず、歩いても疲れない」という超自然的な変化が生まれるのです。私たちがこの主のみわざを体験できないのは、自分が強すぎるからかもしれません。

今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)」ご自身が入って来てくださいました。私たちのうちにはすでに、死に打ち勝った「キリストの力」が働いています。私たちは自分を「いなご」のように、ちっぽけに感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たち自身の中にも住んでおられます。そして、私たちが「鷲のように翼をかって上ってゆく」ときに、私たちはこの地上の様々な問題を、「天におられる主」の視点から見下ろすことができるようになります。

クリスチャンになっても、何も変わっていないと思えることの方が多いかもしれません。私たちの「救い」には常に、「すでに実現している」alreadyという部分と、「まだ実現していない」not yet という両面があります。私たちは何よりも、「望みによって救われている」(ローマ8:24)ということを忘れてはなりません。私たち自身もこの世界も、神にある平和(シャローム)の完成に向かっており、それが保障されているのです。また、「慰めよ。慰めよ」という語りかけは、歩みの途中で疲れ失望しがちなすべての信仰者に対するメッセージです。「新しい創造」の中に入れられている者の歩みは、繰り返し、「目を高くあげて、だれがこれらを創造したかを見よ」という呼びかけに応答することから始まります。そして、「地をおおう天蓋の上に住まわれる主」が、「いなご」のような私たち一人一人に「力を与え、活気をつけ」てくださいます。