申命記6章〜8章「自分自身から自由にされるために」

2016年9月18日

この箇所から11年前にメッセージを取り次がせていただいた日のことですが、主の不思議なみわざを見させていただきました。その二日前、重篤の癌患者をお見舞いし、主にどのように祈るかを導かせていただいたところ、彼女はその夜、入院して以来、初めて熟睡できたと感謝され、それまで教会に来られたこともないのに、礼拝にぜひ参加されたいと言われました。

御主人と娘さんに支えながらやっとのことで来られた方が、礼拝後にはご自分の足で立ち、喜びながら帰って行かれました。それから約四十日後に天に召されるまでの間、激痛に耐えながらも、その顔は喜びに満ち、「初めの愛」(黙示録2:4)に立ち返る感動に溢れました。

人の目には「小さな恵み」に、全身全霊で感謝を表わされたところ、そこに永遠に続く主との豊かな交わりが生まれたのです。それこそ真の意味でのたましいの癒しではないでしょうか。

それにしても、教会にしばらく通う中で、「もっと主を愛することができるなら、もっと自由と喜びを体験できるはずなのに・・・」と思う人が多いかもしれません。そればかりか、無意識にせよ、主を愛する競争を始める人さえいるかもしれません。

しかし、それは、「主を愛する」というより、自分に囚われた生き方の延長ではないでしょうか。では、自分を忘れて主を愛することができるためには、どのようにしたらよいのでしょう。それは、何よりもただ力を抜いて、主の愛の語りかけに「耳を傾ける」ことではないでしょうか。

1.「聞きなさい!」

「これは・・おきてと定めである」(6:1)と言われる基本は「十のことば」であり(参照5:1)、そこに、「聴け、イスラエルよ。行えるように注目しなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり・・・乳と蜜の流れる国で大いにふえよう」(6:3私訳)という約束が伴っています。

しかも、命令の内容は基本的に出エジプト記やレビ記の繰り返しで、強調点は新しい環境の中にそれを適用するということです。神は、イスラエルの民を偶像礼拝で退廃したカナンの地に遣わされましたが、同じように、私たちをも、「地の塩、世界の光」として、罪に満ちた世界に遣わされ、そのただ中でなお、真の自由と喜びを体験させたいと願っておられます。

「聞きなさい。イスラエル。主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとり(唯一)である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい」(6:4、5)は、ヘブル語で「シェマー・・」と発音され、現在も敬虔なユダヤ人は4-9節のことばを毎日繰り返します。

二世紀、ユダヤ独立のために戦ったラビ・アキバは、エルサレム神殿滅亡後のユダヤ教の基礎を作った学者ですが、ローマ軍の拷問を受けるただ中でこの日課祈祷の時刻を迎え、満面の笑みを浮かべつつ堂々とこれを朗唱しました。

ローマ帝国の役人が驚いてその理由を尋ねると、彼は、「私は毎日これを唱えながら、自分がいのちをかけて主を愛しているかの確信が持てなかった。しかし、今、それが分かった。こんな嬉しいことはない。どうして笑わずにいられよう」と答え、息を引き取ったとのことです。

この話は、今に至るまで語り継がれています。敬虔なユダヤ人は、このみことばを唱えるただ中に真のたましいの自由を味わうことを理想としています。

イエスも、「すべての命令の中でどれが一番大切ですか」と尋ねる律法学者に、敢えてこの冒頭のことばを入れつつ、「イスラエルよ。聞け(シェマー)。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と引用しながら、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と並べて、これこそ律法の核心であると答えられました(マルコ12:28-31)。

ところで、「主(ヤハウェ)は私たちの神。主(ヤハウェ)はただひとりである」において、「ひとりである」は、マルコの訳のように「唯一である」と訳した方が良いかもしれません。これはイエスや聖霊が神であるということと矛盾するものではなく、御父、御子、御霊の三者が完全に一致して、ひとつの意思のもとに私たちを愛してくださるという意味に解釈できるからです。

三位一体の説明は英語で、God Is One in Essence, Yet Distinguished in Three Persons (神は本質において唯一であるが、3人格に区別される)と説明されますから、one personを思い起こさせる「ひとり」という訳は誤解を生みやすいかと思われます。

とにかくこの意味は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(5:7)という「十のことば」の言い換えに過ぎないとも言えましょう。

実際パウロは、この箇所のことばを用いながら、「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。

また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」(Ⅰコリント8:5,6)と言い換えました。

ギリシャ語聖書では、神の固有名詞ヤハウェはキュリオス(主人)と読み替えられますから、申命記6章4節の「神」を「父なる唯一の神」と呼び換え、(ヤハウェ)を「唯一の主なるイエス・キリスト」と呼び換えたと解釈できます。

ヘブル語の神の固有名詞ウェに主イエスを当てはめるというのは、まさにイエスこそウェであるという告白で、当時のユダヤ人にとっては途方もない神への冒涜と思えたことでしょう。

これこそ、新約の時代における「シェマーの祈り」ということができますが、その革新性を私たちは認識する必要があります。

私たちの周りには余りにも多くの情報がありますが、「聞きなさい!」という主の呼びかけに応答して、ただ静かに力を抜いて心を開き、旧約と新約の「シェマー」が、私たちのからだ全体に染み渡り、広がるのをただ味わってみるべきでしょう。

私たちの神は、御父、御子、御霊の三人格において存在し、あなたをその三者の愛で取り囲み、あなたの地上の歩みを祝福してくださるのです。

2.「あなたの神、主(ヤハウェ)を愛しなさい・・あなたの心に刻みなさい」

続く命令は(6:5)、原文の語順では、「愛しなさい。主(ヤハウェ)を、あなたの神を。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」と、ひとりひとりに個人的に語られていることばです。

そしてその後、三回の「尽くして(すべての・・をもって)」ということばによって、その際の「愛し方」が教えられています。

第一の「心を尽くし(主を愛しなさい)」での「心」は、「心情」とも訳せる言葉で、「真心から・・」というばかりか、「腹の奥底から湧き出る情念全体で、主を愛せよ」との命令です。

第二の「精神を尽くし(主を愛しなさい)」での「精神」とは、「たましい」とも訳され、主が最初の人(アダム)の鼻にいのちの息を吹き込まれて「人は生きもの(たましい)となった」とあるように、人を人として成り立たせる根本を指します。つまり、「いのちがけで主を愛せよ」という意味です。

第三の「力を尽くし(主を愛しなさい)」は翻訳困難で、マタイは「知力を尽くし」(22:37)と訳し、マルコは「知性を尽くし、力を尽くし」(12:30)、ルカは「力を尽くし、知性を尽くし」(10:27)と訳しています。

このことばは、「それ(神の六日間の創造のわざ)は非常に良かった」(創1:31)での「非常に」、また申命記6章3節で「あなたは乳と蜜の流れる国で大いに増えよう」での「大いに」などと同じです。

つまり、これは「言い尽くせないほどに主を愛せよ」という意味なのです。あの優しいイエスでさえ、弟子に向って、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません」(マタイ10:37)と言われるほどに、ご自身への真実の愛を求められました。

神への愛は、いかなる恋愛の力にも、親子の情にも勝るべきものなのです。

続くことば、「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心(心情)に刻みなさい」(6:6)とは、「十のことば」が石の板に記されたように、この日モーセを通して語られることばすべてが彼らの「心情に」の中に常に在り続けるようにとの命令です。

人は理性よりも感情に動かされる傾向があります。ですから、みことばは、理性と心を超えた、腹の底に落ちる必要があります。

またそれは、「子供たちによく教え込み(刷り込み)なさい」(6:7)と命じられます。しばしば、子供時代の暗唱聖句が、ある日ふと心によみがえって自分を救ってくれたという証しを聞くことがあります。確かに、私たちは子供の主体性を大切にしなければなりませんが、みことばは、文字や九九のように心に刻み込むことが大切なのかもしれません。

さらに、「あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」(6:7,8)と命じられます。

ユダヤ人は後に、これを文字通りに解釈して、4-9節の「シェマーの祈り」を書いた紙を小箱に入れて持ち歩き、その頭文字を記章として額に置いたり、門柱に書き記したりしました。

テレビのコマーシャルは人の無意識に作用して消費行動を起こさせると言われます。同じように、私たちは知らないうちに「この世の常識?」に洗脳されているのではないでしょうか。

もちろん、みことばは文脈から理解されることが大切ですが、それと同時に、「これこそ教えの核心!」と言われるようなみことばが、あなたの無意識のレベルにまで降りて、あなたを神への愛に動かすようになる必要もあるのではないでしょうか。

3.「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように・・

イエスは公生涯の初めに四十日間、悪魔の試みに会われましたが、ご自身の心に刻み込んでいたみことばをもって悪魔に勝利しました(マタイ4:1-11)。その際のみことばがこの6章と8章にあります。

悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、「この世のすべての国々と栄華を見せて」、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と誘惑しました。

歴史上の独裁者は、みなこの誘惑に負けた人々と言えましょう。彼らは多くの場合、社会の様々な不条理に心を痛め、理想的な国と造りたいと熱い情熱に駆られて権力を握りましたが、そのとたん、そこに人間的な驕りが生まれます。

モーセはイスラエルの民が約束の地に入った時のことを心配し、「あなたの神、主(ヤハウェ)が・・・大きくて、すばらしい町々・・・ぶどう畑とオリーブ畑、これらを・・・与え、あなたが食べて、満ちたりるとき・・気をつけて・・・主を忘れないようにしなさい」(6:10-12)と命じられました。

そこには、国の繁栄と安全を守るためなら、手段を選ばないという誘惑が働きます。それこそ悪魔と手を結ぶことです。

しかし、その時こそ、イエスが引用されたように、「あなたの神、主を恐れ(拝ま)なければならない。主に(だけ)仕えなければならない」(6:12,13)という原点に立ち返る必要があります。

彼らに国と繁栄を与えたのは主ご自身であるのにそれを忘れるのです。この世のすべての権力は、創造主ご自身の支配下にありますが、それを忘れる時、恐怖政治が生まれます。

私たちも経済的な繁栄に浸りきる中で、富への執着が増し加わり、主(ヤハウェ)のご支配を忘れ、目的のために手段を選ばないような乱暴な生き方を正当化する可能性があります。

また悪魔がイエスを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら下に身を投げてみなさい」、「神は御使いたちに命じて・・あなたを支えさせ・・・」、「と書いてありますから」と誘惑しましたが、これも人間的に考えれば、私たちの信仰の力を世の人々にアピールする絶好の機会とも言えましょう。

そのときイエスが引用されたのは、6章16節のことばでしたが、そこには「マサで試みたように、あなたがたの神、主(ヤハウェ)を試みてはならない」と記されていました。

それは出エジプト記17章1-7節の出来事で、イスラエルの民は、「飲む水をくれ」とモーセと争い、「主(ヤハウェ)は私たちの中におられるか、おられないか」と言って、「主(ヤハウェ)を試みた」と非難されていました。これは、神がご自身の力を現さざるを得ない状況を自分で作って、神を操作することです。

そこにあるのは、神のみこころに従う代わりに、自分の願望を神に押し付けることでした。それに対しここでは続けて、「主(ヤハウェ)が正しい、また良いと思われることをしなさい。そうすればあなたはしあわせになり・・あなたの敵は・・追い払われる」(6:17-19)と約束されていました。

神を試みて、神を操作しようとする代わりに、主のみこころに従おうとすることが「しあわせ」の鍵なのです。

7章では、約束の地に入ってから異教の神々を拝む者たちを「聖絶しなければならない・・・彼らと何の契約も結んではならない・・・彼らの祭壇を打ちこわし…彫像を火で焼かなければならない」(7:2,5)と命じられていました。

それは彼らが簡単に現地の偶像礼拝の文化に飲み込まれてしまうことを、主は知っておられたからです。日本の文化も、私たちの信仰を飲み込む恐ろしい同調圧力を持っています。

そこで、モーセは彼らの使命が、この世界に真の神を証しすることにあるということを思い起こさせるために、「主(ヤハウェ)は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」(7:6)と言います。

そればかりか、「(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない・・・しかし、主(ヤハウェ)があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主(ヤハウェ)は、力強い御手をもって・・・あなたを贖い出された」(7:7-8)と驚くべきことを言います。

小生は、モーセ五書を要約した本のタイトルをこのみことばから取らせていただきましたが、これこそ私たちが選びだされた根拠です。異教の文化と混ざってしまうことは、この主の召しの原点を軽蔑することになってしまうのです。

しかも、それと、「全身全霊で主を愛する」こととは表裏一体のことですが、それは、私たちが誇れるような「働き」ではなく、神がまず私たちを「愛し」、「恋い慕って」くださったことを覚えることから生まれる当然の「応答」なのです。しかもそこから、その応答を神が喜んでくださり、神はなお豊かな恵みを注いでくださるという好循環が始まります。

そして8章には、パンの誘惑に関わる記事があります。イエスが「四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた」とき、悪魔は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」と誘惑しました。「パン」は生きる力を生み出す源で、現代は「お金」とも言えましょう。これこそ、イエスが神の子であることの最高の証明にもなり得るはずです。

それに対し主はこの8章3節から、「人はパンだけで生きるのではない、人は(ヤハウェ)の口から出るすべてのもので生きる」と引用されました。イエスが四十日間断食したことは、主がイスラエルの民を「四十年の間…荒野で…歩ませられた全行程を覚え」ることと重ねて理解する必要があります(8:2)。

彼らはその荒野の生活を通して、目に見えるパンよりも、「主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った」(民数記9:23)なかで、すべての必要が満たされるということを体験したのでした。

そこで主は、あえてイスラエルの民を「苦しめ、飢えさせて・・・マナを食べさせられた」のですが、それは、目に見えるパンよりも、主の口から出るみことばによって生きるということを体験させるために、「人がその子を訓練するように、あなたの神、主(ヤハウェ)が・・・訓練されることを、知る」ためでした(8:3、5)。

このことを振り返りながら、モーセは、「主は・・マナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった── あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい」(8:16,17)と警告します。

私たちも、苦しみの中で主に真剣に助けを求めながら、物事がうまく行った途端、自分の力を誇ってしまう傾向があります。「豊かさ」の中に罠があり、人生が一見順調と思われることの中に大きな危険が隠されています。

だからこそ、モーセはここで続けて、「あなたの神、(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」(8:18)と命じます。

「主(ヤハウェ)を心に据える」とは、主の真実をいつでもどこでも「思い起こし」続けることです。それは私たちが日々の生活の中で常に実践すべき第一のことでもあります。

「恩知らず」な生き方は、人間関係を壊すばかりか、神との関係にも障害を引き起こします。それでモーセは続けて、「あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる」(8:18、19)と警告します。

神の恵みを忘れるなら、すべてを失うのです。ですから、神はしばしば、私たちが恵みを自覚できるように、まず「苦しめ、試み」、その上で「しあわせにする」というプロセスを敢えてとられるのです。

人はだれしも、幸せになりたくて神を求めます。しかし、聖書は、「自分を忘れるほどに主を愛するなら、あなたは幸せになる」と語ります。

パリサイ人はそれを誤解し、神を愛する「自分」に目を向けてしまいました。私たちも、神の愛を「聞く」ことが足りないなら同じ過ちに陥ります。

パウロは、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)と言いましたが、それは、「神の律法を自分の力で守ろうとして自分を忘れられないなら、必ず行き詰まります。しかし、神のみわざに注目し、神の御霊にこころを明け渡すなら、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けます」(E.Peterson訳参照)と意訳できます。

また、昔の英語の賛美歌に、「not I,but Christ」(私ではなく、キリストが)という題名のものがありましたが、そこでは、「O to be saved from myself, dear Lord」(どうか私が自分自身から救われますように、いとしい主よ)と歌われています。つまり、主を愛するとは、自分自身から救われる道なのです。

イエスが受けた誘惑はすべての人が受ける誘惑の原点でもあると言われます。それは、権力、名声、富の誘惑であるとも言われます。私たちもみことばを暗唱し、心に刻むと同時に、それによってサタンの誘惑に打ち勝ったイエスご自身の聖霊に、私の人生を生きていただく必要があります。

それと同時に、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し・・御子を遣わされた。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)とあるように、神の愛を心の底から味わい、聖霊の働きによって律法を全うさせていただきましょう。