民数記15章〜18章「父は真の礼拝者を求めておられる」

2016年4月10日

「ストレス」に関する研究が盛んになっていますが、ついこの前までは、「ストレスは健康に悪いから、なるべく避けたり減らしたりして管理したりする必要がある」という見方が多くありました。しかし最近は、「ストレスは役に立つから、なるべく受け入れて利用し、うまく付き合って行く必要がある」と言われるようになっています。それをテーマにした、「スタンフォードのストレスを力に変える教科書」が多くの書店で売れています。その著者ケリー・マグゴニガルは、「ストレスは健康に悪い」と力説し過ぎたことで人々をかえって病気にしてしまったのではないかと反省し、本書を執筆したとのことです。

しかし、それは目新しいことではなく、今から40年近く前からユダヤ人の学者アーロン・アントノフスキーなどが主張し続けたことでもあります。彼はナチスの強制収容所の生き残りの方々が意外なほどに情緒的な健康が守られていることに驚き、鍵はストレスの大きさよりも、自分の人生をどのように見ているかという「首尾一貫感覚(SOC)」にあると言いました。

そして、これは聖書のストーリーと一致します。イスラエルの民は本来、エジプトを出た翌年には約束の地に入れるはずでした。それは、万軍の主がともにいて、どんな強い敵にも勝利を与えてくださると約束されていたからです。しかし、彼らはそれを信じようとはしませんでした。それで主は、イスラエルの民を荒野で四十年間近く訓練することにしました。

彼らは荒野の四十年を通して、人間的には、逃亡奴隷の集団から最強の民族へと成長しました。ただ、神は軍事訓練を施したのではありません。あくまでも、主(ヤハウェ)だけを真心から礼拝する民へと造り変えようとされたのでした。そこには真の礼拝への希望がありました。

1.約束の地に入った後のささげものの命令

イスラエル人はシナイの荒野で、神の幕屋を完成し、驚くほど多くのいけにえをささげることができ、神の栄光を拝しました。そして、荒野で最初の「過越の祭り」を祝い、約束の地に向かい進軍しました。しかし、カデシュ・バルネアで、約束の地の住民の強さを知って怖気づいて神に逆らい、さばきを受けてしまいます。

この後、彼らは、四十年後にヨルダン川を渡るまで、男子に割礼を施すことも、過ぎ越しの祭りを祝うこともできなくなります(ヨシュア5章)。つまり、神の民としての特権が一時停止されたのです。彼らはせっかく完成した幕屋で礼拝しようにも、何もない荒野で、ささげるべきものがほとんどない貧困に陥るのです。

そんな絶望の中、主(ヤハウェ)はモーセに「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り・・火によるささげ物を主(ヤハウェ)にささげるときは・・」と、約束の地に入ってからの礼拝を指示されました(15:1-3)。パンも水もない荒野で、そのような多量のささげ物を伴う礼拝を命じることは、主がご自身の民を守り通し、豊かな富を与えるとの確かな保証です。

約束の地では、全焼や和解等のいけにえの方法に応じ、また、子羊や牛等の動物の種類に応じた多様なささげものを、彼らの間の在留異国人さえも隔てなく、同じように豊かにささげることができるというのです(15:3-16)。

それは、ヨハネの黙示録で、主が迫害に苦しむ聖徒たちに、天上の礼拝の様子を垣間見させることにも通じます。

その際、ささげ物の意味が、「主(ヤハウェ)へのなだめのかおり」(3,7,10,13,14節)と繰り返されます。これは厳密には、「安息のかおり」(英訳 NKJではa sweet aroma、ESVではa pleasing aroma)と記されています。つまり、主はそこで、主ご自身にお献げしようとする私たちの心自体を喜び受け入れてくださるというのです。

そのことが、詩篇50編13、14節では、主ご自身が、「わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」と命じられています。

ここでは特に、それぞれのいけにえに沿える穀物や油、ぶどう酒のささげ物のことが指定されますが、それぞれいけにえの高価さによって量が増えて行きます。

「若い牛」を全焼のいけにえにする場合は、穀物が十分の三エパ(約6.9リットル)、油二分の一ヒン(1.9リットル)、ぶどう酒二分のヒン(1.9リットル)が指定されましたが、これをささげるのに余りあるだけの収穫が約束されていると理解すべきでしょう。

私たちの人生のゴールも、主(ヤハウェ)の御顔を仰ぎ見、全身全霊をもって主を賛美するという礼拝の完成にあります。そして、この地上での礼拝はすべて、新しいエルサレムでの喜びに満ちた礼拝の予行演習のような意味があります。

今たとえ音痴であっても心配ありません。復活の朝には、神はそれぞれを驚くほど豊かな賛美の賜物で飾ってくださるからです。しかし、誰も自分の「信仰深さ」によってそこに達するのではありません。イエスご自身が私たちのうちに信仰を生み出し、暗やみの中で信仰の火が消えそうなときにも信仰の光を灯し、試練に耐える力を与えてくださるのです。

信仰は賜物であり、それは完成に向って成長します。それは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と告白されるとおりです。

2.約束の地に入った後に、「もしあやまって罪をおかすときは・・」

主(ヤハウェ)はまたモーセに、「わたしがあなたがたを導いてゆく地に・・はいり、その地のパンを食べるとき・・・初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として・・供えなければならない」(15:19、20)と言います。

不思議なのはその文脈の中で、「もしあやまって罪をおかし、主がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも・・行わないときは・・・いけにえとして・・ささげなければならない・・・祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される」(15:22-25)と言われ、何と約束の地に入るはるか前から、神がどのように罪の赦しを与えるかを示されたのです。

ただし、それは「過失の罪」に限られていました。27-29節では個人があやまって罪を犯した場合のことが記され、在留異国人と「同一の教え」であると強調されます。

そして30、31節では血筋に関係なく、「故意に罪を犯す者は、主(ヤハウェ)を冒涜する者であって、その者は民の間から絶たれなければならない。主(ヤハウェ)のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う」(15:30,31)と厳しく命じられます。

ところがその直後、「安息日に、たきぎを集めている男」が発見されます。彼には安息日に煮炊きをしようとの明確な意図が見られました。ただ、イスラエルの民はまだ約束の地に入ってはいませんから、神の赦しもさばきも行われないという解釈もあったのかもしれません。

それを払拭するかのように主は、「全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない」(15:35)と命じられました。これは子供のしつけと同じで、最初に安易に赦すと、教えられた善悪の基準が無意味になるからでしょう。これを通してイスラエルは安息日の教えの厳しさを覚えることができました。

その上でイスラエルの民の衣服のことが指示されます。それは「着物のすその四隅にふさを作り・・青いひもをつける」(15:38)ことでした。「青」は至聖所の幕や祭司の服に使われるような尊厳を現す色で、イスラエルの民が「祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:6)というしるしです。

ですからここではその目的が、「あなたがたが・・神の聖なるものとなるため」(15:40)と記されます。それこそ律法が与えられた目的であり、彼らはそれを日々思い起すことで、「みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないように」守られるはずでした。

今も、ユダヤ人は礼拝時にタリスという四隅に青いひものふさのついた衣を着ますが、その起源がここに記されます。「長血の女」が触れたイエスの衣の「ふさ」は、この聖なるしるしのことです。

神はイスラエルの民を、子供を育てるように具体的なさばき示し、衣服にまで気を配って彼らを導いてくださいました。しかし、彼らはアダム以来の罪の性質を受け継いでいたため、この愛に満ちた教えを守ることができませんでした。

それに対しイエスの十字架の救いは、どんな意識的な罪をも赦してくださるばかりか、聖霊によって人の意思自体を聖めようとするものでした。それでイエスは、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません」(マタイ12:31)と言われたのです。

たとえば、「私はイエスを救い主と信じていますが、人との交わりが怖くて礼拝に出られません」というような質問に、あなたならどう答えるでしょう?たしかに、生きた信仰は行いの変化を生み出すはずですが(ヤコブ2:17)、その原則を説いてもかえって落ち込ませるだけでしょう。

人は心の底で、自分の行動パターンを変えること自体を恐れているからです。しかし彼らも、詩篇の祈りの中に、自分が味わう不安、孤独や怒りの気持ちが赤裸々に表現されているのがわかると表情が変わります。

実は、キリスト者であることを「教えに従って自分の意思を変えること」と信じている人は、まだ旧約時代やイスラム教的な信仰に生きているのです。しかし、私たちには、罪人のために死んでくださったイエスの御名によって、解決の方向も見えない心の葛藤を隠すことなく正直にイエスの父なる神に祈るという特権が与えられています。

祈りこそ聖霊の息吹の中で呼吸する原点です。そのような中でふと気づくと、自分の意思自体が聖霊によって導かれ、本来願うことができなかったことを望むように変えられているのがわかるのではないでしょうか。

3.主(ヤハウェ)の前から激しい怒りが出てきて、神罰が始まり

16章では、レビ族のコラがヤコブの長子ルベン族の者たちと共謀し、会衆の上に立つ250人のイスラエル人とともにモーセとアロンとに逆らい、「全会衆残らず聖なるものであって、主(ヤハウェ)がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主(ヤハウェ)の集会の上に立つのか」(3節)と非難したことが描かれます。

これは先の、イスラエル全体が、「神の聖なるもののなるため」(15:40)という神のご計画を聞いてのことばとも言えますが、その動機はねたみに過ぎません。

コラは、ケハテ族の者で、幕屋の中の聖なる器具を運ぶ特権に預かっていました。しかし、彼らは、祭司に服従するばかりで、聖具を見ることさえ許されないので不満を持ったのでしょう。それを聞いたモーセは、まず「ひれ伏し」ますが(4節)、それはさばきを主に委ねるという姿勢だと思われます。

その上でモーセは、コラとその仲間たちに、「火皿を取り、あす、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい」と命じます(6,7節)。これはレビ記10章でアロンのふたりの息子が「異なった火」をささげ、「主の前から火が出て、彼らを焼き尽く」されたことを思い起こさせることでした。彼らは、主に召された祭司たちが「命がけで主に近づく」必要があることを理解する必要があったのです。

12-14節では、モーセがルベン族のダタンとアビラムを呼び寄せようとしたところ、彼らが何とエジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼んで、モーセが無能で横暴であるかのように非難した様子が描かれています。そして、コラが全会衆を集めてモーセとアロンに逆らわせようとしたときになって初めて、「主(ヤハウェ)の栄光が全会衆に現れ」ます(19節)。主は、全会衆を絶滅すると言われ、モーセの執り成しでそれを思いとどまります。

その上でモーセは会衆をコラとダタンとアビラムの一族から引き離し、主が立てた権威を否定した罪が、「主(ヤハウェ)を侮ったこと」(30節)になると警告します。その後、「地はその口をあけて、彼らとその家族・・をのみこんだ・・生きながら、よみにくだり・・」という厳しい裁きが下されました(16:31-33)。

そればかりか、「主(ヤハウェ)のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした」(35節)というのです。主はさらにモーセに命じて炎の中から焼き殺された者たちの火皿を取り出させて打ち延ばさせ、祭壇のための被金として残すように命じます。

それは「アロンの子孫でないほかの者が、主(ヤハウェ)の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため…コラやその仲間のようなめに会わないため」(40節)と説明されます。

ただ、それを見た全会衆はまた、モーセとアロンに、「あなたがたは主(ヤハウェ)の民を殺した」(41節)とつぶやきました。それに対し、「主(ヤハウェ)の前から激しい怒りが出てきて、神罰が始まり」(46節)ます。

しかし、アロンが「香をたいて、民の贖いをした」ときに、「神罰はやんだ」というのです(47,48節)。つまり、コラの仲間が火皿を取ると焼き殺された一方で、アロンが火皿を取ると「民の贖い」が実現したのです。

17章では、主ご自身がアロンを祭司として立てたということを、十二部族すべての族長の杖を出させることで示します。そのときアロンの杖だけが一晩のうちに「芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた」(17:8)からです。

ただこのような不思議を見て、イスラエルの民は「ああ、私たちは死んでしまう・・主の幕屋に近づく者は誰でも死ななければならないとは・・」(17:12,13)とおびえます。

4.祭司たちが聖所と祭壇の任務を果たすなら・・再び激しい怒りが下ることはない

18章で、主は、例外的にアロンに直接語りかけます。そこで主はまず、レビ族全体が「聖所にかかわる咎を負わなければならない」、またアロンとその子たちが「祭司職に関わる咎を負わなければならない」と務めに対するさばきの可能性を示唆しつつ、彼らの責任を明確にします。

そして、他のレビ族はアロンの子孫である祭司に仕えるという立場の違いを明確にし、他のレビ族は「聖所の器具と祭壇とに近づいてはならない」(18:3)と警告します。そして、祭司たちが「聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない」(18:5)という保証します。

それらをまとめるように、主はアロンに「わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない」(18:7)と言われます。その上で、「イスラエル人のすべての聖なるささげ物について」、祭司たちにとっての「永遠の分け前とする」と言われます(18:8)。

穀物のささげ物やいけにえの肉に関しては、「ただ、男子だけが、それを食べることができる」(18:10)と言われます。一方、「イスラエル人の贈り物である奉納物」に関しては祭司の娘たちにも与えて「永遠の分け前とする」(18:11)と言われながらそのリストが12-19節まで詳しく記されます。

それらは、収穫の初物、聖絶のもの、初子の贖い金などです。そして、それらをまとめて「永遠の塩の契約」(18:19)と呼びつつ、祭司の家族への「永遠の分け前」を保証します。その目的は、祭司たちが約束の地に入っても相続地を持つことなく、主の幕屋の奉仕に専念できるためです(18:20)。

21節からはレビ族が会見の天幕の奉仕に専念できるために「イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える」と約束します。そして改めて、「レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる・・彼らは相続地を持ってはならない・・・イスラエル人が、奉納物として主(ヤハウェ)に供える十分の一を・・相続財産としてレビ人に与える」(18:23、24)と命じられます。

そして、25節~31節まではレビ人たちに、イスラエルの民から受け取った十分の一の中の最上の十分の一を祭司たちに与えるように命じられます。

このようにイスラエルの民が十分の一のささげ物の命令を守ることによって、祭司やレビ人は、主への奉仕に専念することができるようになります。ただし、彼らが約束の地に入ってからこの命令をごく短期間しか守ることができなかったと思われます。

士師記17,18章にはレビ族のひとりが生活に困ってエフライムのミカが勝手に作った神の宮とその家の彫像と鋳像に仕え、後にそれを奪ったダン族をも堕落させる様子が描かれます。イスラエルの民の信仰の堕落は、レビ人たちが生活に困る所から生まれたのです。

現在も、教会によっては十分の一献金を誠実にささげられないために、牧師家族が生活に困り、教会奉仕に専念できなくなることがあります。ストレスは確かに人間の成長に役立ちますが、過度になると別の問題を起こします。

ある研究によると調査対象となった米国の金融機関に努めた人の全員が10年以内に何らかの燃え尽き症候群と関連する症状を最低一つは発症していたとのことです。それよりもストレスが多いのが牧師のようです。

牧師の場合は、その20%が燃え尽き症候群自体を体験し、神学校を卒業した者がミニストリーから離れる割合は5年で5割に上るというのです。それでいて貧困にあえいでいる牧師家族がいかに多いことでしょう。

旧約の祭司やレビ人と現代の牧師職を直接に結びつけることは危険ですが、主ご自身が任命し、その働きを聖別されたという原則は同じです。主が立てた権威を敬い、その働きを尊重し支えることは、今、ここで、私たちの礼拝をより豊かにするために何よりも大切です。

それにしても、今、荒野にいて明日の生活の見通しも立たない民にささげ物のことを語るのは、無一文の人に献金の恵みを語ることにも似ています。しかし、「幻がなければ、民は欲しいままにふるまう」(箴言29:18)とあるように、まだ見ていない約束の地での礼拝生活を指し示すことで、彼らは苦しみの中で信仰の民として守られて行くはずだったのです。

かつてヤコブ(イスラエル)は、石を枕に一夜を過ごす中で神の約束を聞いたとき、「神が・・この旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り・・主(ヤハウェ)が私の神となられるなら・・この石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と誓願を立て(創世記28:20-22)、旅のゴールを、主を礼拝し、主に献げることに定めました。

たとえば、仕事の成功や幸せな結婚のために祈るのは当然ですが、それは礼拝の民として整えられ、主を礼拝するための手段に過ぎません。「幸せは持つものではなく、感じるものである」と言われますが、キリスト者の幸せとは、主を礼拝するそのただなかにあるのです。

それはダビデが、「一つのことを私は主に願った。それを私は慕い求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で思いにふける、そのために」(詩篇27:4)と告白したとおりです。

「もし仕事に余裕が生まれたら礼拝を第一にしよう・・・もしお金に余裕が生まれたら献金しよう・・」などと計画するなら、いつまでたっても余裕は生まれないのかもしれません。

私たちひとりひとりに、将来の計画ではなく、今の決断が問われています。しかも、あなたの状況が、今がまさに荒野の生活で、日々の食べ物にも事欠くというなら、ヤコブに習って大胆に約束することも可能ではないでしょうか。

人生の目標が主への礼拝に定められるなら、主はその道を開いてくださいます。しかし、人生の目標が自分自身の栄光や幸せにある人は、自分の欲望の奴隷となってしまうのではないでしょうか。

イエスは、人の愛に渇いてむなしい生活をしていたサマリヤの女に、何よりも真の礼拝について語られたのです。イエスは、「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです」(ヨハネ4:23)と、今も私たちを招いておられます。