ヨハネ11章1〜27節「わたしは、よみがえりです。いのちです」

2015年11月1日

2015年10月21日は、30年前に公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の日として話題になりました。映画の中では、過去を変えてその未来に戻り、変えられた現代を喜ぶという話しですが、この発想と違ったback to the futureがあるように思います。それは、「新しい天と新しい地」が、すでに実現したかのように、つまり、未来の視点から現代を見直すということです。

それは、「取り返しのつかないことが起こってしまった・・・もう、すべてが終わった」というようなことがあっても、新しい明日を創ることができる神に信頼して歩むということです。

今年の夏に関西の福音自由の高校生キャンプに招かれました。そのテーマはこの映画のタイトルをもじったback to the bibleでした。私は四千年前のヤコブの物語を必死に解き明かしながら、それをアナと雪の女王のLet it goに結びつけて、神にある未来の確かさを確信して、自分の狭い世界から飛び出す冒険に歩み出すようにと訴えました。

「神が私たちとともにいてくださる」という霊的な現実は、未来も過去も超えた永遠の現実です。back to the bible から真のback to the future未来の夢を、今この時から生きるということができます。まだ見ていない神の平和(シャローム)を、既に実現したかのように受けとめることで、実際の毎日の生活が、結果的に目に見える形で変ってくるからです。

未来の私たちの復活は、今、ここに既に始まっているのを覚えたいと思います。その鍵は、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われるイエスとの今ここでの交わりにあります。

1.「この病気は死に向かうものではなく、神の栄光のためのものです」

ユダヤ人はイエスを、神を冒涜する者として殺そうとしました。それで彼と弟子たちは、一時ヨルダン川の東側に避難していました(10:40)。そこにベタニヤに住むマルタとマリヤから、その兄弟ラザロが病気であるとの知らせが届きました。その村はエルサレムの東側約3㎞のオリーブ山東側の斜面にあり、イエスはその家に何度か滞在したことがあり(ルカ10:38-42)、特に親しい関係にありました。

ここでも後に12章で詳しく描かれる、主に高価な香油を塗ったマリヤの記事のことが簡単に述べられ、イエスとの親密な関係が示唆されています。

それにしても、「ベタニヤ」という村の名のヘブル語には、「ベイト・アニア(house of depression or misery、貧しい者の家)」という意味があります。イエスはしばしば、その村に滞在し、病んでいる人、虐げられ絶望している人を助けたことでしょう。そしてマルタの家は、その働きの中心基地となっていたのだと思われます。

そこで彼女たちは、「主よ。ご覧ください。あなたが愛して(フィレオー)おられる者が病気です」との伝言を、伝えさせました。そこには必死の思いが込められていましたが、イエスはあわてるどころか、不思議にも、「この病気は死に向かうものではなく、神の栄光のためのものです。それは、神の子がそれを通して栄光を受けるためです」(4節私訳)と言われました。それは逆説的に、主がこの病を人間の目には、死に向かうものであることを認識していたことを示唆します。

続く文章は、原文の語順では、「イエスは愛しておられた(アガパオー)。マルタとその姉妹とラザロとを」(5節)と記されています。ところが、その後のことが、「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」(6節)と記されます。彼らをそれほどに愛しておられたのなら、すぐに行くべきとも思われますが、なお、二日も待っていたというのです。それは、イエスの行動が人間的な感情ではなく「神の時」に基づいておられたからです。

私たちは不安に駆りたてられるようにして動くことがあります。そんな時、「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります』」(詩篇31:14)と告白させていただきたいものです。

イエスはその後、「もう一度ユダヤに行こう」(7節)と弟子たちに言われましたが、弟子たちは、「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」(8節)と、その危険を訴えました。つまり、弟子の目には、ラザロがどれほど重篤な病でも、イエスがすぐに行なかったことの方が、合理的な判断と思えたのでした。

それに対し、イエスはなお不思議なことに、「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」(9節)と言われました。これは、ベタニヤに行くことが危険極まりない一方で、ラザロを見捨てるわけにもゆかず、この世的には、暗中模索の状況だったからです。しかし、だからこそ、不安な現実の代わりに「この世の光」であるイエスを「見る」歩みが必要です。

またそれは、イエスを離れては、その人の中には光がなく、光を持たずに夜に歩いて「つまずく」ようなものであるという意味です。私たちも友を助けたくても、それでは自分の身が持たないことが明らかと思え、どうしてよいか分からないということがあるかもしれません。そのときに、人間的な知恵だけに頼って判断することは、「夜歩く」ことと同じだというのです。

この書の初めでイエスは、「すべての人を照らすそのまことの光」(1:9)として紹介されましたが、彼は今、「光」として弟子たちの前におられます。彼は父なる神のみこころの時に十字架にかかる覚悟を決めておられましたが、その時まで、闇の力は、「光」であるイエスに危害を加えることはできません。

私たちも不安に圧倒されて立ちすくむことがあるかも知れません。しかし、恐れの中で、目の前の現実に翻弄される前に、「この世の光」であられるイエスを見上げさせていただくなら、目の前の情景がまったく違って見えるのではないでしょうか。

どのような災いや苦しみの中でも、『あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります』と告白することができます。すべてのことは、神の御許しの中で、私たちの訓練と成長のために起こっているのですから。

2.「私たちの友、ラザロは眠っています」

イエスはラザロが既に死んでいることを超自然的に悟られ、弟子たちに「私たちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」(11節)と言われました。そこで弟子たちはイエスに、「主よ、眠っているのなら、彼は助かるでしょう」と応答します。

なぜ、このようなことをイエスに向かって語る必要があるのかとさえ思えますが、ここで、もしイエスが最初から、「ラザロは既に死んでいます」と明確に言ったとしたなら、弟子たちは、「それでは、生命の危険を冒してまで、エルサレム近郊の村にまで行く必要はなくなりました」と言って、改めてヨルダン川東側の地に留まり続けるように強く主張したことでしょう。

しかし、もしラザロが眠っているだけなら、危険を冒すだけの理由があるとも思えます。彼らはそのような気持ちを込めていたとも思われます。

そこで、この状況に対する解説として、「しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った」(13節)と記されます。それは、弟子たちを安心させ、希望を持たせようとしたという以前に、ラザロのように、イエスに愛され、イエスを愛するという交わりにある者にとって、肉体的な「死」は、人生の終わりではなく、「眠った状態」と同じだからです。

同じように、パウロも、再臨を待ち望みながら先に死んだ人のことについて、「眠った人々のことについては・・・知らないでいてもらいたくはありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです・・・神は・・イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れてこられるはずです」(Ⅰテサロニケ4:13、14)と表現しています。

英語の「墓」を意味するcemeteryは、このギリシャ語の「眠り」(koimesis)から生まれており(ギリシャ語の墓はkoimeterion、ラテン語ではcoemeterium)、復活の希望があります。

事実、日本のお墓とは異なった明るさが欧米の墓にはあります。私たちの希望は、極楽浄土の教えのように、死んだ後でたましいだけが天国に引き上げら、それで終わるというものではありません。キリスト者にとっての「死」は、目覚めを待つ希望に満ちた「眠り」なのです。私たちの死は、「イエスにあって眠る」状態です。それは、「死」と言うより「生」の連続と見られます。

ただし、イエスはここで、彼らの誤解を解くために今度ははっきりと、「ラザロは死んだのです」と言われます。その上で原文の語順では、「わたしは喜んでいます。あなたがため、あなたがたが信じるために、わたしがその場に居合わせなかったことを」と記されます。ラザロの死を明確に告げながら、すぐにご自身の「喜び」を表現しておられます。人間的には主がその場にいなかったことは悲劇と思われましたが、それは弟子たちにとっては信仰の飛躍の機会とされるというかのようです。

そしてイエスは、短く、「さあ彼のところに行きましょう」(15節)と言いました。それは、ユダヤ人の迫害を恐れていた弟子たちの勇気を鼓舞するようにも聞こえたことでしょう。

そこでデドモ(ふたご)と呼ばれるトマスが、弟子の仲間に向かって、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(16節)と応答しました。彼の二百年前の独立運動の指導者ユダ・マカベオスとその兄弟たちは、死を恐れることなく、神殿を異邦人の冒涜からきよめるために戦いましたが、それを思い越したのかもしれません。

彼らに先立つ七人兄弟の殉教の記事が当時の人々に愛読されていました。旧約外典Ⅱマカベア7章9節には、豚肉を食べるようにシリアの王から強制され、拷問に耐えながら言った言葉が、「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消そうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」と記されています。

「主といっしょに死のう」と簡潔に言ったトマスの心には、このような当時の物語があったことでしょう。彼は終わりの日の復活を信じ、大義のために死ぬ覚悟ができていました。しかし、しばしば、「真理のために生命を賭ける」という人には、何とも言えない独りよがりの、危なさが付きまといます。

ところが、そこで衝撃的な事実が、「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、15スタデイオンのところにあった」と記されます。

当時のユダヤ人たちは、死者のたましいは三日間、死体の周りをうろついた後に、四日目には立ち去り、それとともに肉体の腐敗が激しくなると理解していたとも言われます。とにかく、墓に入って「四日」というのは、完全に手遅れとなったという意味です。

一方、ベタニヤがエルサレムから15スタデイオンの距離に過ぎないというのは、エルサレムの宗教指導者の目と鼻の先で、生命の危険が果てしなく高いという意味があります。

なお、英語の競技場を意味するスダデイアムは短距離走の距離スタデ(約185m、複数形でスタデイオン)から生まれています。この距離を敢えて、エルサレムから30分の距離と訳す場合もあるほどに、距離の近さがイメージされます。

そしてここでは、その場の状況が、「大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった」(19節)と描かれます。ここにマルタの家が多くのユダヤ人から大切に思われていた様子が見られます。

そして、この大勢のユダヤ人たちがラザロの復活の目撃者となるとともに、そこから生まれる絶大な人気が、宗教指導者の不安を駆り立てることに向かいます。多くの人が集まるところには危険も伴うという示唆があるのかもしれません。

とにかくそこで、「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた」(20節)と記されます。ここに行動的なマルタと静かなマリヤの対照が描かれています。

そして、そこでマルタは、率直に、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」と言います。そこには言外に、「今となってはもう手遅れです・・」という悲しみや、若干の不満の思いが込められていたのかもしれません。

それで、敢えて続けて、「今でも、私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(22節)と言ったのかもしれません。それにしても、「今でも」という言葉に、手遅れと言う嘆きを読み取ることもできます。

ただ同時に、それでも、イエスの来訪を心から喜び、主にあって何か新しいことを期待するという姿勢も見られます。私たちも、「もう、終わってしまった・・・これからは、何も期待しようがない・・・」と思えるような中で、なおも、何か、新しい神のみわざを期待することができます。

3.「わたしはよみがえりです。いのちです」

ところが、それに対し、イエスは、「あなたの兄弟はよみがえります」(23節)と言われました。それは、マルタの期待をはるかに超える解決でした。この時、マルタは「私は、終りの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています」(24節)と応答しました。

彼女がイメージしたのは、殉教を覚悟したトマスとは違い、より一般的な聖典であるダニエル12章2、3節のようなみことばかと思われます。そこでは、「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」と記されています。

またイザヤ書65章13節以降では、「見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う・・・わたしは新しい天と新しい地を創造する・・・だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」(14,17,18節)と終わりの日の祝福が述べられます。

それと同時に66章では、「シオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ・・・あなたがたの骨は若草のように生き返る」(8,14節)と、終わりの日の復活が示唆されています。その意味で、マルタの応答は、現代の多くのクリスチャンたちにも共通する内容だったとも言えましょう。

それにしても、私たちにとって「終りの日のよみがえり」は、あまりにもかけ離れたことに思え、それを知的に理解できても、現実の生活とは無縁のことのように思えます。

マルタも同じ気持ちだったでしょう。彼女にとっては、イエスの来訪は遅すぎたのです。目の前にある「死の力」は、あまりにも強力です。もう話しができないばかりか、肉体が腐敗して行くのです。終りの日の希望だけではそれに立ち向かうことができないのが現実でしょう。

ですからイエスは、「わたしは、終りの日のラザロをよみがえらせて、新しいいのちを再び与えます」と言われずに、「わたしは、よみがえりです。いのちです」(25節)と、今この時にイエスご自身に、よみがえりといのちがあることを強調されました。

イエスにとっての復活とは、信じるべき教理であるとか、未来の希望であるとかという以前に、ご自身の存在そのものであったのです。絶望しているマルタの目の前の方が「復活のいのち」そのものでした。

すべてのキリスト者には、すでに「復活のいのち」が宿っており、「死からいのちに移っている」(5:24)のです。実は、「永遠のいのち」の中心的な意味は、死んでもたましいが生き続けるということではなく、「新しい天と新しい地」での「復活のいのち」を、今、既に、このときから生き始めるという意味なのです。ですから、それは来たるべき世のいのちとも訳すことができます。

私たちの「いのち」は、父なる神と御子イエスの愛の交わりの中に包まれ、しっかりと守られています。この平安に包まれるなら、右の頬を打たれても余裕を持って左の頬を出すことができますし、気持ちに余裕が生まれて、財産や地位や名誉への執着から自由になることができます。

その上でイエスは、なおも、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して(永遠には)死ぬことがありません」(25,26節)と言われました。

「決して」ということばは厳密には「永遠に向かっては」と訳すことができ、肉体的な死を否定するというより、死の支配に永遠に服することはないという意味が込められています。それは、キリストにあるいのちが、死の力に打ち勝っていることを宣言するためです。

イエスはそれでさらにマルタに向かって、「このことを信じますか」と問われます。それに対しマルタは、「はい、主よ。私は信じています。あなたこそがキリスト(救い主)であること、神の御子であること、この世に来られることになっている方であることを」と、三重の観点からイエスへの信仰告白、旧約の預言を成就する方であることを告白しました。

それは、イエスにおいて、「新しい天と新しい地」が実現し始めているという告白です。

その後イエスは、そのことが生きた現実であることを証しするために、イエスは、ラザロを死の眠りから目覚めさせられました。復活の「いのち」は、遠い将来の話しではなく、今既に始まっている「いのちだからです。

イエスのことばを、繰り返し心の奥底で味わって見ましょう。イエスご自身、「復活のいのち」を目の前に見ながら十字架の苦しみに向かって行かれました。今、主は既によみがえっておられます。その「復活のいのち」が、今、あなたのうちに宿っています。

私たちは、「死んだ後で、遠い将来のときに復活があるらしい」といった感覚から自由になって、肉体の死を飛び越えた歩みを始めることができます。もう、死の脅しに屈する必要はないのです。

私たちはこの世界に生きる限り、様々な問題に直面し、「こんなはずではなかった・・・。聖書を読んでいても、いざとなったら何の役にも立たなかった・・・」と思うことがあるでしょう。

私も長らく、「どうして自分はいつまでたっても迷いから抜け出せないのか・・・」と悩んでいました。しかし、科学者が宇宙の広がりや極小の原子構造の発見において、一つの発見の後にすぐに別の疑問が生まれるのと同じように、信仰も、その時その時に新しい発見があることこそが健全なのだと分かりました。なぜなら、すべての「迷い」は、振り返ってみると、必ず、「新しい平安」の始まりになっていたからです。

神の無限さは、宇宙や原子の無限さにまさりますが、神を知る歩みは、「もっともっと」という駆り立てではなく、ひとつの喜びから次の喜び、ある種の平安から次の平安と、まさに「栄光から栄光へと」、成長を続けるものです。

無限の神との交わりは、「もうこれですべてわかった!」ということはあり得ません。それは生きた信仰ではありません。

そのことを使徒パウロは、「私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(ピリピ3:13)と告白しています。

「ひたむきに・・進み」とは「身を差し出して行く」「自らを超出(エペクタシス)させてゆく」とも訳すことができます。それは、スキーのジャンプの前傾姿勢のようなもので、人間の目には不安定に見えます。しかし、「復活のいのち」に支えられているので墜落することはありません。

それは、「人生は♪紙飛行機♪愛を乗せて飛んでいるよ♪」とも言える、聖霊の働きに生かされる自由な人生です。

多くの人々は動じない心を求めていますが、それで、どうして復活のいのちを体験できるのでしょう。いや、それ以上に私たちは、イエスに習って、人間的には危険極まりない状況にも身を差し出すことさえ、ときに求められているのです。しかし、そこでこそ、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われるイエスの宣言が心の底に響いて来ます。

人間にあっては「いのち」は「死」を介して、「正義」は「罪」を介して、「祝福」は「のろい」を介して、「力」は「弱さ」を介して輝き出るのです。何かの困難や不安に直面するたびに、back to the futureならぬ、キリストの復活から始まった「新しい天と新しい地」の約束へと立ち返るきっかけとさせていただきましょう。

10月31日は、ハロウィンの日というより、宗教改革記念日です。ハロウィンはカトリックの「諸聖人の日」の前夜(イヴ)に、ケルト文化の死者の霊との交流の祭りが重なったようですが、1517年10月31日に、マルティン・ルターは、迷信に包まれた「諸聖人の日」を意識し、イエスの救いのみわざ自体に人々の目を向けさせました。