しばしば、預言というと、未来のことが予め神から知らされることとして理解されがちですが、預言書全体には、「イスラエルの死と復活」という一貫したメッセージがあります。
神は、ご自身の救いのご計画を理解した新しい神の民を起こそうとしておられます。そこには神の平和(シャローム)を全地に満たすという究極の目的があります。
私たちの中には、失敗を避けることで自分を神の前に肯定しようとする誘惑が働きます。みなどこかで、良い人間と見られることが、信仰者の証しだと思い込んでいるからです。しかし、そのように人生に臆病になり、世界の問題から目を背けてしまうことこそが、聖書が語る「罪」の根本なのではないでしょうか。
ニーチェは、「神とは、『あなたは考えてはならない!』とわれわれに向けて発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎない」などと言って、信仰者の臆病な姿勢を批判しました。失敗を恐れる信仰、自分の頭で考え、責任を取ろうとしないような信仰には、「いのちの喜び」がありません。
信仰の醍醐味とは、主にあって大胆にチャレンジし、失敗するたびに主に問いかけ、再び主の力を受け、大胆に出て行くことではないでしょうか。主が創造的であるように私たちも創造的な生き方ができます。「信仰とは、いのちの喜び」です。主はその喜びを繰り返し復活させてくださいます。
1.「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」
ホセア書では主が、預言者ホセアに敢えて、ふしだらな浮気女と結婚するように命じながら、神がご自身の民の浮気に耐える痛みを体験させようとされます。それは預言者が、神の気持ちになって、イスラエルの民に回心を迫ることができるためでした。
神は彼らの霊的浮気に対するさばきを本書で繰り返し宣告されますが、そこでその中心部族エフライムをさばくときのお気持ちが、11章8節の終わりで、「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」と描かれます。
これと似た表現でエレミヤ31章20節では、「エフライムはわたしの大事な子なのだろうか・・・わたしは彼のことを語るたびに、いつも彼のことを思い出す。それゆえわたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」と描かれています。この箇所を北森嘉蔵は、「わがはらわたかれのために痛む」と訳し、そこから世界的に有名になった「神の痛みの神学」を記しました。
神はエフライムの罪を、怒りや憎しみの感情に駆り立てられて罰するのではありません。そのことが、「わたしは燃える怒りで罰しない・・・わたしは神であって、人ではなく」(11:9)と言われます。
しかもご自身を、「あなたのうちにいる聖なる者」と紹介しておられます。人の想像を超えた「聖なる」方が、ご自身の聖さから生まれる葛藤を抑えながら、罪人のただ中に住んでおられるというのです。主はエフライムに対して、「はらわたをわななかせ」ながら、さばきを下しているのです。
そしてそれが、ご自身にとって耐え難い痛みであるからこそ、さばきのあとには慰めが期待できます。それは、親が子の罪を厳しく諌めながら、子が反省した時に、その子を優しく抱擁するような姿です。
神の燃えるような怒りの背後には、「哀れみに胸を熱くする神」の燃えるような愛が隠されています。つまり、神の愛は、何よりも自分の愛する人の帰還を待つ恋人の思いに似ているのです。そこにホセア書のテーマがあります。
13章1節は、「エフライムが語ったとき、そこにはおののきがあった。彼はイスラエルの中であがめられた。しかし、彼はバアルにより罪を犯して死んだ」と訳すことができます。つまり、エフライムはかつて民の中で尊敬されていながら、バアルを礼拝することで自滅したというのです。
そして、その後も自分の手で神々を造り続けた愚かさが「今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り」(13:2)と指摘されています。なお、2節最後で堕落した人々によって語られる言葉は、「人間のいけにえをささげる者は、子牛に口づけせよ」と訳すことができます。バアル礼拝には人間の子供をいけにえとしてささげるおぞましい習慣があり、人々はそれを要求する「金の子牛」をくちづけして礼拝していました。
その結果が、「それゆえ、彼らは・・朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる」(13:3)と、存在価値がどんどん軽くなると描かれます。
ところがそのような中で、主(ヤハウェ)はエフライムに向かって、「わたしはヤハウェ、あなたの神、主(ヤハウェ)である・・・あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。このわたしは・・かわいた地で、あなたを知っていた」(13:4私訳)と、「わたし」を重ねながらご自身の主導権を強調しています。
彼らは自分の力で豊かになったように誤解していますが、主ご自身がエジプトで苦しめられていたエフライムに目を留め、彼らの神、救い主になり、彼らをエジプトから連れ出し、荒野の旅路で、パンや水を与えながら、養い育ててくださったのです(4-6節)。
なお「知る」とは、知的な認識というより親密な交わりを意味します。この6章6節で主は、「わたしは誠実を喜ぶ…全焼のいけにえよりも、むしろ神を知ることを喜ぶ」と言われましたが、主はご自分の方から私たちを「知って」いてくださいました。私たちが「神を知る」のは、そのような主の恵みを味わうことから生まれるのです。
ところが、「しかし、彼らは・・食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:6,8:14参照)と記されます。
申命記8章11-18節では、彼らが約束の地に招き入れられて満足するときに起こる誘惑のことが、「あなたの心が高ぶり、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れる、そういうことがないように・・・あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい」と警告すると同時に、主のご自身の契約に対する真実さを「主があなたに富を築き上げる力を与えられたのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」と強調されています。
彼らが「祝福」を体験できたのは、ひとえに神がご自身の契約に忠実であられたからであり、彼らが誇れる理由はありませんでした。
7、8節では、神の愛を忘れた者に対するさばきに関して、アッシリヤ帝国を三種類の野獣にたとえながら、その背後に主ご自身がおられることを、「わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる・・子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く」と記されます。
エフライムをこの残虐な野獣の手から救い出せるのは主ご自身しかいないはずなのですが、主ご自身が野獣のようになってしまうなら、誰も彼らを救い出すことはできません。そのことが、「イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう」(13:9)と描かれます。
10、11節は、初代イスラエルの王サウルが立てられたときの、神とイスラエルの民との会話を思い起こさせるもので(Ⅰサムエル8章)、主は、「あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか・・・あなたがかつて、『私に王と首長たちを与えよ』と言った者たちは。わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る」と言われます。
かつて主は、サムエルに向かって、「それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのである」と、周辺諸国と同じような王制を望むことは主ご自身がイスラエルの王であるという前提を退けることであると、「怒って・・王を与え」ましたが、同時に、「ただし彼らに厳しく警告せよ」と言いながら、これからは王の気まぐれと自己中心性によって、民自身が苦しむことになると警告しました(Ⅰサムエル8:7-9)。
そして、今ここでは、主が「憤って」彼らから王を「奪い取る」ことが、王国自体が滅亡することであると記されます。
私たちは人々の期待に沿った行いができないことを「罪」と思ってしまいがちです。しかし、聖書の語る罪とは、何よりも、神の恵みを忘れて、自分の能力と力によって成功できたと傲慢になることなのです。
主はエフライムの問題を「彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(13:6)と指摘しています。忘却こそが罪なのです。何かの大きな働きを成し遂げて、人々から称賛されることよりも、主の恵みの一つ一つを忘れないことこそが信仰の基本です。
私たちの目は、神との交わりよりも、自分自身に向けられがちです。しかし、それこそが罪の始まりなのではないでしょうか。
2.「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」
13章12,13節では、エフライムの再生が、子供の誕生にたとえられながら、「エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない」と描かれます。
本来なら、人が自分の不義や罪に向き合うことで、その結果の様々な痛みの中で、主への祈りが起きるはずなのですが、そうならないため、問題がますます複雑に絡み合い、「脱出の道」という「新しい誕生」への備えをすることができなくなっているのです(Ⅰコリント10:13)。
主は後に預言者エレミヤを通してユダの宗教指導者の問題を、「彼らは、わたしの民の傷を手軽に癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」と指摘していますが(6:14)、その同じ状態がエフライムにも見られたというのです。
14節のことばは、多くの訳では、「わたしはよみの力から、彼らを解き放つだろうか。彼らを死から贖うだろうか」という反語的な問いかけと理解されています。これはエフライムの民が、「よみの力」や「死」の支配に対して主が無力だと思い込んでいたからです。
それで主はご自身の救いを、「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか」と、死とよみの力に対する勝利を宣言されます。ただ同時に、主は、「あわれみはわたしの目から隠されている」と、彼らが主に立ち帰ろうとしないので、あわれみようがないと嘆いておられます。
後に、使徒パウロはこの箇所を思い巡らしながら自由に引用し、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と宣言しています(Ⅰコリント15:55-57) 。これはホセアのことばを基本的な意味を変えることなく読み替えたものです。
それは、コリント書の前の節で、イザヤ25章8節を聖霊の導きで自由に引用しつつ、「『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」と記されていることとの連続性を明らかにするためです。
初代教会時代から迫害の中で福音が広がったのは、信仰者がキリストにあってすでに死の脅しに打ち勝っている姿が明らかになっていたからです。
なお、ことばの用法からすれば、死人の復活については、日本語での「よみ」から「帰る」という「よみがえり」とは違います。
福音の奥義に関してパウロは、コリント書の先のみことばに先立って、「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです」(同15:52,53)と述べています。
ヘンデル作曲のメサイアでは、第二部の終わりにハレルヤ・コーラスが歌われますが、第三部の中心ではこの復活賛美が美しいトランペットの音色と共に歌われます。これこそ、私たちの真の希望です。
キリストは私たちを死の支配から解放してくださいました。ですから、復活は、私たちが日々の生活で体験することでもあります。様々なプレッシャーのなかで、とんでもない間違いを犯し、また、言ってはならない言葉を吐いてしまったとしても、自分の過ちに気づき、それを主に告白し、主の助けを求める者は、日々新しくなることができます。
それを使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)と記しました。
また彼は、同じ書で、それに先立ち、苦難の中で復活のいのちが既に始まっていることを、「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(同4:10)と記しています。
そして、最終的な復活に至るプロセスが、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、主の栄光を鏡に映すように見ながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18別訳)と記されます。
3.「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得る」
13章15,16節では、主の招きを拒絶したエフライムに対するさばきが、「だが、東風が吹いて来、主(ヤハウェ)の息が荒野から立ち上り・・すべての尊い器の宝物倉を略奪する。サマリヤは自分の神に逆らったので・・・剣に倒れ、幼子たちは八つ裂きにされ、妊婦たちは切り裂かれる」と描かれます。
これはかつて栄えたエフライムの首都サマリヤが「東風」にたとえられるアッシリヤの攻撃によって滅亡し、想像を絶する悲惨を味わうという警告です。
ただ同時にホセアは、「イスラエルよ。あなたの神、主(ヤハウェ)に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ」(14:1)と、率直に、また単純に、「主に立ち返る」ことを勧めます。これこそこの書の核心です。
なお、「回心」とは、自分の悪い行いや習慣を変えること以前に、人生の方向を変えることです。神はあなたを赦したいと願っておられます。最悪の不義とは、何よりも、自分たちの創造主以外の神々を拝んだり、金の小牛のような偶像を作って拝むことです。
神は私たちがご自身のふところに飛び込んでくるのを待っておられます。
その上で、彼らのなすべき応答が、「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます」(14:2)と描かれます。
バアル礼拝では、幼児をいけにえとしてささげるような途方もない犠牲が求められましたが、私たちが主にささげられる最高のものとは、賛美のいけにえ、すなわち、「くちびるの果実」です。それを前提に、ヘブル書の著者は、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(13:15)と訴えています。
そして、3節にあるように、彼らがささげるべき「くちびるの果実」の内容は、第一に、アッシリヤに救いを求めることを止めること、第二は「馬に乗る」というかたちでの軍事行動による解決を諦めること、第三は、偶像を造ってそれを自分たちの神として拝むことを止めることを告白することです。
そして最後に、主は「みなしご」をはじめとする社会的弱者の味方であると告白することです。これらは何も難しい事ではありません。何らかの犠牲を支払って、主の愛を勝ち取るのではなく、自分の罪を認め、主の赦しを受け入れ、主の真実により頼むことなのです。
使徒パウロはそれを前提に、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と述べました。
神が罪人である私たちとの交わりを懇願しておられるというのです。私たちはそれへの応答として「くちびるの果実をささげる」のです。
14章4-7節は、主がイスラエルを一時的に懲らしめることによってもたらそうとしておられる救いのみわざが、「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」と約束しておられます。
主の怒りが離れ去ったあとの、主の救いの豊かさが、生命力に満ちた植物として描かれています。そこで、主が、「わたしはイスラエルには露のようになる」と言われるのは、雨の少ないイスラエルでは「露」こそが、植物を育てる力になっていたからです。
また、イスラエルは、「ゆりのように花咲き」と記されますが、「ゆり」は、ガリラヤ湖畔などに群生する「あねもね」のように鮮やかな色に咲く小さな花々を指し、当地では美しさの代名詞でした。
「ポプラ」はレバノンの木とも訳され、根を深く張るために高く伸びる木の代名詞です。「オリーブの木」とは力と繁栄のシンボルです(詩篇52:8)。
また、「そのかおりはレバノンのようになる」と記されますが、雅歌では、これが男女を引き寄せる魅力として描かれます(1:3、7:8)。
また「彼らは帰ってきて・・・生き返り・・・芽を吹き・・・ぶどう酒のようになる」(14:7)とは、イスラエルの民が約束の地に帰り、エデンの園のような豊かさを享受できることを示します。
バアル礼拝には、忌まわしいいけにえと性的な堕落や酒に溺れる享楽がありましたが、神が与えようとしておられる喜びは、身体全体で生きている喜びを味わうようなことであり、信仰の実は、何よりも生命力に満ちた繁栄として描かれます。
14章8節は、主の優しい語りかけとして、「エフライムよ。わたしは偶像と何のかかわりがあろうか」と訳すことができます。そして、そこでは主ご自身が愛に満ちた関わり方が、「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」と描かれます。
主がご自身を「緑のもみの木」として描くのは珍しいことです。これは、主こそが私たちにとってのいのちと力のみなもとになってくださるからです。
9節は、ホセアが結論としてひとりひとりに訴えたいことです。「知恵ある者」「悟りある者」とは、この世で何かの偉大な成功を修めるとか、人々から称賛される者であるとかではなく、単に、日々の生活で、「主(ヤハウェ)の道を歩む」ことに他なりません。
しかし、主に背く者は、主の道を歩むことを退屈で窮屈なことととらえ、「つまずく」というのです。真理は決して難しい事ではありません。いつでもどこでも主の恵みを思い起こし、感謝をささげ、主を喜びながら生きることです。
いのちの喜びは、主を真心から礼拝することによって生まれます。この世のすべての喜びは退屈に変わりますが、無限であられる主との交わりには、飽きることのない、日々新たな、無限の喜びが生まれます。
律法を守ることに熱心だったパウロが、復活の希望を語るときにホセア書を引用したということに驚きを感じます。主が私たちに求めておられることの核心は、主に繰り返し立ち返ることです。
主がしばしば苦難を与えられるのは、「私は自分の知恵や力によって道を切り開いてきました!」などと言って、主の恵みを忘れて傲慢にならないようにという愛の鞭です。
ただし、謙遜になるとは、委縮することとはまったく違います。すべてが主の恵みによると認めることは、復活の力が自分のうちに働くのに身を任せることです。キリストはその死によって、死の力を打ち滅ぼしてくださいました。キリストが私たちのうちに住むとは、復活の力が私たちを内側から生かしてくださるということです。
その復活の力とは、植物の成長に似ています。主にあっていのちがはち切れるような生き方を求めましょう。
メッセージをネットでお聞きになっている方が、「ホセア書を読み続け、神様の誠実と真実を思い巡らしました。神さまが、私たちを『恋い慕って』くださっていることを受けとめていく時、『神様、ありがとうございます』という応答がでてきます。この応答にも浅いもの、深いもの、思いがけないあふれ出る気持ち、・・いろいろです。その『愛』というものは、感情だけでなく、行動というか、歩み方にも変化が訪れてきます」と書いてきてくださいました。
ホセア書は、神の愛を、妻に裏切られながらなお、その妻を愛し続ける夫にたとえています。私たちは知らないうちに、信仰の核心とは、この神の愛に応答するということだということを忘れてはいないでしょうか。
良い行いに努めることは、人間として、とっても素晴らしいことです。でも私たちはそうできない自分に失望して神のもとにやって来たのです。
私のすべてを知って、私の帰りを待ってくださる神の愛を味わうことから、すべてが始まるべきです。神との愛の交わりに渇きを覚えながら、いつでもどこでも、自分に既に示された神の恵みを思い起こしましょう。