「戦後七十年を迎えるに当たって」 — 剣を鋤に、槍をかまに打ち直す社会を待ち望みつつ

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2015年夏号より

東日本大震災と福島原発事故の後、「これは第二の敗戦である」という論調が数多く見られました。人々は、「想定外」ということばの欺瞞に気づき、「安全神話」という「神話」が作られる日本的な「和」の精神を反省しました。ところがそれから4年も経たないうちに、その反省は風化しているような気がします。つい七十年前の大日本帝国の世界に住んでいた人々は、「神国日本は、最後には必ず勝つ!」という「神話」を守ろうとする「和」の中で、自分の正直な気持ちを押し殺して生きていました。ですから、米国が日本を占領し、その神話を崩してくれたときに、解放された気持ちを味わった人々が驚くほど多くいたように思います。日本のマスコミの論調は一夜にして百八十度変わりました。今、私たちは「体制派」「反体制派」という政治的な枠組みを超えて、日本社会が持つ独特の問題に目を向ける必要があります。決して、過度に卑下することなく、アダムの子孫としての限界に目を開くのです。

私自身も、証券会社の営業の世界に身を置いていたときに、「一週間前の見通しが、大昔の話し」と思える現実に翻弄されていました。「こうなるはず!」と固く信じてお客さんに勧めたシナリオがあまりにも脆く崩れ、善意の確信が、大損を生み出すということが何度もありました。また、反対に、あまりにも慎重になりすぎて、せっかくの利益の機会をお客さんに提供できないこともしばしばでした。

そのような中で、私は、永遠に変わることのない聖書のことばを分ち合う働きにつきたいと願うようになりました。ただ、実際に、日本のキリスト教世界の中に身を置いてみると、そのときどきの世の中の雰囲気に流された論調が多いことに気づかされました。しばしば、そこにも別の「和」の空気が生まれ、正直な疑問を言えなくなる雰囲気さえ、ときに感じられたことさえありました。

ところで、現実の政治の世界では、お互いが自分の正義を主張しながら、徹底的に相手の政策の矛盾を指摘し論破できる人が力を持つことがあります。しかし、現実には、批判能力のある人が政治の実権を握って政治がうまく機能することは稀です。私たちは、そのような評論家になるのではなく、「あちらを立てれば、こちらが立たず」という現実の矛盾の中に身を置いて、そこで「うめき」ながら、神がもたらす平和を待ち望んで、今ここでできることを、一歩一歩成し遂げながら、この地に平和を広げることが求められています。現実には、残念ながら、しばしば、「平和」を実現するための政治論争に熱くなりすぎること自体が、着地点の見えない「争い」を生み出すという皮肉があります。

預言者ミカの書が記された時代と現代の日本には共通点があります。それは、国際的には非常に不安定な政治状況の中で、富と力を誇る者たちが権力を牛耳り、多くの宗教家たちは豊かな者にさらなる平安の約束をしながら、見せかけの宗教儀式を守ることで国の安泰が保てると約束します。宗教家は幻想を説き、政治家は大国のご機嫌を取り、裏で彼らを手玉に取るような、その場しのぎの外交手腕で自国の安全を守ることができると思っています。どちらも、自分たちの存在は、天地万物の創造主なる神のあわれみなしには立ち行かないということを忘れています。ミカ4章1-5節の預言では、当時の権力者たちへの批判から一転して、「終わり(のち)の日」のエルサレムの回復の希望が記されています。「その日」には、世界中の人々が、エルサレム神殿に引き寄せられてくるというのです。それは、主の家の山が世界中の人々にとっての憧れとなるからです。

そのとき世界中の人々が、「さあ、主(ヤハウェ)の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を……教えてくださる。私たちはその小道を歩もう」と言い合うようになります (2節)。つまり、人々を惹きつけるのは、神殿の荘厳さや輝きというよりも、主が教えてくださる道、主が示してくださる小道(生き方)を歩みたいと願うからだというのです。そして、その理由が再び、「それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主(ヤハウェ)のことばが出るからだ」と描かれます。まさに、主の御教えを世界中の人々が聞きたいと切望して、エルサレムに集まって来ます。また3節には、「主は多くの国々の民の間をさばき(治め)」と記されますが、これは主が正義を持って世界を「治める」ことです。また「遠く離れた強い国々に、判決を下す」とは、アッシリヤやバビロンのような超大国の国々を従えることを意味します。

その結果、平和が実現する様子が、「彼らはその剣を鋤(すき)に、その槍(やり)をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と描かれます。つまり、「その日」には、神のご支配が明らかになるので、「剣」や「槍」という戦いの道具が、「鋤」や「かま」という農耕具に打ち直されるのです。それは、世界中から戦争の恐怖が無くなり、戦いの訓練もなくなるからです。

残念ながら、私たちは今、たとい戦争がなくても、この世の富と権力を巡っての争いの中で、自分の身や権利を守るために、「戦いのことを習う」必要がありますが、主の公正なさばきが全地を満たすとき、「戦う」という概念自体を忘れることができるのです。それが引き続き、「彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない」(4節) と描かれます。彼らは財産を守る必要さえも感じなくなります。そして、それを保証するかのように、「なぜなら、万軍の主(ヤハウェ)の御口が告げられるから」(私訳) と記されます。この世界では互いの支配権を巡って強さを競い合いますが、「万軍の主」のご支配が目に見える形で明らかになると、争う必要がなくなります。

なお、5節は「たとい、すべての国々の民が、おのおの自分の神の名によって歩むことがあっても」と訳した方が良いと思われます。つまり、今、多くの人々が偶像の神々を拝んでいたとしても、「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主(ヤハウェ)の御名によって歩もう」と告白するのです。それは私たちが、主の約束が必ず実現することを信じているからです。

つまり、「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直す」という武力の放棄が起こるのは、世界中の人々が聖書の神のご支配に信頼し、自分の身が危険にさらされるという恐怖から解放された結果なのです。しかも、人々が主のご支配を信じるのは、主の御教え自体の魅力に人々が引き寄せられるからです。

そして、ミカ6章8節では私たちが主のご支配を証しできる道が、極めて簡潔に、「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主(ヤハウェ)は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と告げられます。「公義を行なう」とは、神の基準に従ってこの世界を治めることです。また、「誠実(原文「へセド」)を愛する」とは、真実な変わらない愛(ヘセド)を愛するという不思議な表現です。それは周りの反応に左右されずに神の眼差しを意識しながら神と人とに誠実を尽くすことです。さらに、「へりくだってあなたの神とともに歩む」とは、神との対話の中で神の意志を自分の意志としながら日々を過ごすことです。

平和を達成するための政策を真剣に考えることは大切ですが、真の平和をもたらすのは、主のご支配が全地に明らかにされ、人々の心から恐怖が除かれる結果だということを忘れてはなりません。私たち自身が、今ここにある神のご支配を信じられず、異なった政治見解を持つ人を全面否定して、自分の正義を主張するのは、イエスに敵対したパリサイ人の道を歩むことになりかねません。イエスは彼らが、「私たちは目が見える」と主張していること自体を非難しました (ヨハネ9:41)。大切なのは、今、ここで、自分の知識の限界を真正面から認めて、神の前にへりくだって神とともに歩むことです。

なお、エレミヤ26章17-19節には、ミカの激しい預言がエルサレムの王ヒゼキヤの心に主(ヤハウェ)への恐れを起こし、ユダ王国をアッシリヤの攻撃から奇跡的に守ることに貢献した様子が記されています。ミカは、ときの政治を変えるほどの稀有な影響力を発揮したのです。ただ、当時のエルサレムは名目的には、神政国家で、現代の日本とは全く異なります。ただでさえ、「クリスチャンは独善的に自分たちの正義をただ主張する」という見方が蔓延している社会の中では知恵が求められています。

私たちが預言者ミカに習えるとしたら、ただ、神のご支配を信じて、個人的な損得勘定を超えて、日々、「誠実を愛し、へりくだって、神とともに歩む」ことではないでしょうか。個人の責任をあいまいにしたまま、「その場の空気」で不敗神話や安全神話が作られ、それに逆らう者が排除されるような社会風土の中で、イエスに従う者には、反対勢力という別の「和」に頼ることなく、神の眼差しのみを意識して、自分の意見を優しく表現する勇気が求められています。しかも、そこで、人間の知恵の限界を認め、反対者の意見に耳を傾け、ただ、平和の神のご支配がこの地に現されることを信じて、今、置かれている場で、日本的な「和」を超えた「神の平和」(シャローム)のために生きることが求められています。

神の御教えに従って生きる信仰者の「心の自由」こそが、人々の心を、主(ヤハウェ)の御教えに引き寄せるのです。人間の知恵が作る平和ではなく、主(ヤハウェ)がもたらす平和(シャローム)を待ち望むのです。