ヨハネ8章39〜59節「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」

2015年6月21日

フランス革命からナポレオンの独裁と同時代に生きたドイツの思想家フリードリッヒ・ヘルダーリンは、「国家をこの世における地獄と絶えずしてきたのは、人々が国家をこの世における天国としようとして来た、あの努力以外のなにものでもない」と言っています。

実際、その後の、共産主義革命が世界にもたらした悲劇がそれを実証しています。スターリンも、毛沢東も、金日成も、理想的な国家を作ろうと献身した人々と見られていました。

それはイエスの時代の日々の生活に律法を生かそうとしたパリサイ人や、ローマ帝国からのすみやかな独立を勝ち取ろうとした熱心党にも当てはまります。残念ながら、それは現在の、「イスラム国」と自称する国家にも当てはまることでしょう。また、あなたの身近なところにも、熱い理想の実現を訴えながら、現状を否定し、まわりの人々を振り回す人々がいるかもしれません。

私たちの主、イエスは、そのような性急な理想を追求する人々によって、冒涜者として十字架にかけられました。しかし、不思議にも、あざけり、ののしりを受けながら死に向かい、その後に栄光の復活にあずかることこそが、イエスご自身が望まれた生き方でもあったのです。

私たちは根本的なことにおいて、自分で自分を律することができない弱く愚かな者であることをどれだけ自覚しているでしょうか。

イエスは、私たちが模範とすべき生き方を示されたという以前に、ご自分を創造主と等しい方として示されたのです。イエスは私たちと全く同じ肉体を持つ人間であるとともに神であられたからです。

1.「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」

イエスは、「もし、あなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24節)と言われましたが、これは永遠のさばきとともに、目の前の政治情勢の結末を示したことばでした。当時のユダヤでは、ローマ帝国へ対応を巡っての政治対立が激しくなりました。

そのような中で、激しい武闘派が権力を握り、ローマ皇帝の軍隊を招き寄せ、この時から約40年後の紀元70年にエルサレム神殿は廃墟とされます。イエスを救い主と信じなかったユダヤ人たちはこの闘争に巻き込まれて、まさに「罪の中で死んで」ゆきました。私たちも現代の政治対立の中で互いへの尊敬を忘れるなら、同じような破滅が待っています。

そればかりか、イエスはご自分を救い主と「信じたユダヤ人」たちに向かって、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」(31節)と、彼らは「まだ本物ではない」という趣旨のことを言われたばかりか、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします(the truth shall make you free)」と未来形で表願しました。しかし、彼らは「神の友」アブラハムの子孫であることを誇りにしていましたから、「私たちは・・決してだれの奴隷になったこともありません」(33節)と反発しました。

ただし、現実には、彼らはローマ帝国の支配下で半分奴隷状態でした。それにも関わらず自分を「すでに自由である」と呼ぶとは、現実を無視し、自分を神の立場に置くことです。しかし、信仰とは、「私は神のあわれみなしには、ローマ帝国の脅しに屈せざるを得ないひ弱な者です」と告白して、神にすがり続けることです。目の前の現実の矛盾の中でうめきながら、同時に、神ご自身による人知を超えた救いを期待できることです。

キング牧師は最終的勝利を確信しているからこそ非暴力を訴えました。そのとき、「We shall overcome(私たちは勝利する)」という歌が力を発揮しました。その一部では次のように記されています。

The truth will make us free, the truth will make us free, The truth will make us free someday, Oh, deep in my heart, I do believe, We shall overcome someday.(真理は私たちを自由にする。いつの日か。私は心の底から確信している。いつの日か勝利することを)

イエスが真っ向から非難した罪人とは、遊女や取税人ではなく、自分の正義を主張していたパリサイ人でした。彼らの人を人とも思わないような姿勢が、ユダヤ人同士のいがみ合いと、同士討ちと、ローマ帝国との戦争を引き起こし、国を滅亡させたのです。

ですから、イエスは続けて、真っ向から「奴隷」ということばを使って、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言われました(34節)。これは、もちろん、私たちが自分の肉の欲求の奴隷状態にあるということを指摘するものではありますが、ここではそれ以上に、自分の惨めさを認めずに、自分を神のようにする生き方の問題を指しているとも言えます。

ところで、イエスは、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(35、36節)と言いました。ここで、「真理は・・自由にする」とのことばが、「子が・・自由にする」と言い変えられています。

たとえば、地球の誕生とか、人生には苦しみと死が避け難いなどという科学的な「真理」を知っても、罪の支配から自由になることはできません。しかし、たとえば、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)と、心の底から味わったなら「自由」を体験できます。なぜなら、罪人のままの自分への愛を体験することから、神への愛が生まれるからです。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして・・・主(ヤハウェ)を愛し」ている人こそが、罪から自由にされています(申命記6:5)。一方、人は、責められる思いを味わうほど、神を愛せなくなります。

自由とは、このままの自分が愛されていることを確信し、大胆に神を愛して行けることです。イエスの勧めは、「もっと信心に励んで真理を会得しなさい」ではなく、「わたしのことばにとどまりなさい」でした。「自由」はその必然的な結果であり、イエスご自身から生まれるものなのです。

ローマ帝国による剣の脅しは、キリストに従う者には無力になりました。それどころか、殉教者の血を見た者たちは、脅しに屈する代わりに、死を超えたいのちの喜びを発見し、次から次へとキリスト信仰へと導かれました。迫害が益にされました。まさに、イエスの十字架と復活を信じる者は、罪と死の支配から解放され、自由にされたのです。

イエスは、続けて、「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです」(37,38節)と言われました。

「わたしの父」とは父なる神のことですが、「あなたがたの父」とは、罪に満ちた肉の父を指しています。それで彼らは、「私たちの父はアブラハムです」(39節)と答えました。

それに対し、イエスは彼らに、「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい」と言います。イエスが天の父なる神の話しをしているときに、彼らは、自分たちが血筋によってアブラハムの子孫であることを誇っていましたが、大切なのはアブラハムの生き方に習うことです。

それでイエスは、「今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています」と言われます。これはアブラハムの信仰が彼らの父を通しては伝わっていないことを明らかにすることによって血筋の無意味さを説いたのです。大切なのは、神の御霊に生かされることです。

自分の正義を徹底的に主張することこそ、あらゆる争いの原点です。政治は本当に大切ですが、恐ろしい魔力があります。それは、自分を神とする運動になり得ます。だからこそ、崇高な理念を掲げて権力を握った人々の多くが、権力の虜になってしまうのです。イエスはそれに対し、この世の権力機構を、ご自分が自ら十字架にかかることで覆されました。ローマ帝国への反逆罪で十字架にかけられたイエスが、その約三百年後に、ローマ帝国全域で神としてあがめられるようになったのです。

福音はこの世的な正義の主張によってではなく、互いに仕え合う愛によって広がりました。「真理はあなたがたを自由にします」が、その真理とは、「あれか、これか」のこの世の政策や智恵を超えたところにあります。イエスの「弟子」になることによって、今ここに、「神の国」を広げて行く「自由」をとも味わうことができるのです。

2.「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって・・・」

ところでイエスが目の前のユダヤ人たちに向かって、「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています」(41節)と、彼らが父の罪を受け継いだ生き方をしていることを指摘したところ、彼らは、「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」と不思議なことを言いました。これは、イエスの母がマリヤであっても、イエスの肉の父がヨセフではないことが、うわさになっていたためだと思われます。

それに続けて彼らは、「私たちにはひとりの父、神があります」と言いましたが、それは預言者マラキがその2章10節で、「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか」と言いながら、「外国の神の娘をめとった」ユダヤ人を非難し、ユダヤ人どうしの夫婦の契約を守るようにと命じたことを思い起こしたものだと思われます。

それに対し、イエスは、「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(42-44節)と途方もないことを言われました。

イエスはご自分が天の父なる神から遣わされ、父のことばを語っていると繰り返し言っておられます。それは、彼らには到底理解できないことでしたが、少なくとも、自分の罪深さを自覚しているスカルの町の井戸に水を汲みに来たサマリヤの女はすぐに、そのことを理解できました。つまり、自分の罪深さを理解している者はイエスが神の御子であることがわかる一方で、自分は聖書に記された神のみこころを理解していると誇っていたユダヤ人たちは悪魔の子であるというのです。

人類の父祖アダムは、神の愛に満ちた命令を聞きながら、悪魔の声に従って、神に背きました。そして、神の語りかけを聞いても、御前から逃亡し、罪を指摘されると、「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・(創世記3:12)と自己弁明しました。そして、最初の息子カインも、「罪は・・あなたを恋い慕っている」(創4:7)との警告を聞きながら、弟のアベルを殺しました。それは、神の語りかけを軽んじる生き方を、アダムから受け継いだからです。

彼らに共通するのは、自分の罪深さの自覚がまったくないということです。ここに不思議な逆説が見られます。自分の正当性を主張するのは、悪魔の子であるということです。

イエスはここで続けて、「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(44節)と言われます。

悪魔の偽りは、何よりも、蛇が女を最初に誘惑したことばに現れています。蛇は善悪の知識の木を指して、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け・・神のようになり、善悪を知るようになる」と言いました。それは半分の真理を含んだ偽りでした。

神のようになるとは、全知全能の神のようになるという意味ではなく、自分を世界の中心に置き、自分の善悪の基準で神と世界を評価するという生き方の始まりでした。神なしには生きていられない者が自分を神とするとは、生活能力のない子供が両親の家を飛び出して勝手気ままに生きることと同じです。

放蕩息子は皮肉にも、自由を求めながら、悪魔の奴隷になって破滅に向かいました。その意味で、「悪魔は初めから人殺しである」という通りなのです。

そして、アダムのようにユダヤ人たちも、悪魔の偽りの声に耳が慣らされ続け、真理が聞けなくなっていました。ですからイエスは、「このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません」(45節)と言われます。

そればかりか、「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです」(45-47節)と結論付けました。

これは乱暴な議論のように見えますが、イエスが神から遣わされ、神のことばを語っているということを前提にするなら、当然の結論になります。

問題は彼らが、自分たちの罪の奴隷状態を認めなかったために、神がユダヤ人たちをローマ帝国ではなく、罪の支配からの解放をもたらす救い主であることを認められなかったことにあります。イエスはそれで彼らが自分を神としたアダムの罪の奴隷であることを断言する必要がありました。

彼らに、何よりも先に、自分たちが奴隷状態にあることを認めさせない限り、彼らは「神によって生まれる」(1:13)とか「新しく生まれる」(3:3)ということを願うこともできないからです。

自分の努力で罪の支配から自由になれると思う人は、神のみことばを真に謙遜に聞くことができません。そして、傲慢になったり卑屈になったりしつつ、罪の泥沼にはまってしまいます。

ところで、イエスの表情は、ことばとは裏腹に、慈しみに満ちていたかもしれません。イエスは、しばしば、敢えて冷たい言い方をされます。母マリヤが「ぶどう酒がありません」と言うと、イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(2:4)と答え、また、教えを乞いに来たニコデモには「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」(3:10)と言い、息子のいやしを求めた王室の役人には「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(4:48)と答えました。

しかし、イエスはその後、それぞれの必要に驚くほど誠実に応えておられます。イエスの厳しいことばは、拒絶ではなく、あわれみに満ちた招きなのです。

3.「アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました」

ところが、ユダヤ人たちはイエスに向かって、「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか」と言いました(48節)。それは、サマリヤ人こそが、ユダヤ人が自分たちを唯一の神の子孫であると主張していると、最も激しく非難している者たちであったからです。

そればかりか、ユダヤ人の誇りを傷つけ、彼らを悪魔の子と呼ぶこと自体が、「悪霊につかれている」しるしであると見えたのです。

イエスはそれに対し簡潔に、「わたしは悪霊につかれてはいません」(49節)と答えながら、その理由を、「わたしは父を敬っています」と述べました。

そして続けて、「しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます」(50節)と言われます。イエスは彼らに罵倒されながら、ご自分はすべてのさばきを父なる神にゆだねておられると言われました。

そればかりか、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」(51節)と、極めて大胆なことを言われます。

「ことばを守る」とは目をそらさないことで、「ことばにとどまる」(31節)と基本的に同じ意味です。アブラハムも死に、預言者たちも死んだと言われるのに、イエスの弟子は「死を見ることがないというのです。これは「永遠のいのちを持つ」と同じ意味です。イエスの語りかけにとどまり続けるなら、神にあるいのちの喜びが消されることは決してないのです。

それを聞いたユダヤ人たちは、イエスに向かって、「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」と言いました(52,53節)。

残念ながら彼らは、イエスが語る「永遠のいのち」についての意味をまったく理解できませんでした。幸い彼らは、ギリシャ人とは異なり、肉体の死をたましいが肉体の束縛から解放される祝福のときかのようには理解していませんでした。彼らにとっての「死」はあくまでも、アダムの罪によって、すべての人が死の支配下に、不本意にも置かれているという理解でした。

そして、信仰の父アブラハムさえもそれから自由にはなることができませんでした。彼らはギリシャ人よりも、死を深刻に受け止めていました。それはそれでとっても良いことですが、神がどのように私たちを死の支配から解放してくださるか、それを知ろうとはしていませんでした

それでイエスは彼らに答えて、「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(54-56節)と言われました。

アブラハムは、どう考えても理不尽としか言いようのない神の命令に従うことによって、神に栄光を帰しました。それは百歳になって誕生した待望の跡取り息子であるイサクをモリヤの山で全焼のいけにえとしてささげることでした。理性では決して納得できない、途方もない不条理な命令です。

それに従うことができた理由を、ヘブル書の著者は、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました」(ヘブル11:19)と記しています。つまり、アブラハムがキリストの日を見たとは、神がご自分の「ひとり子」を罪のためのいけにえとし、そして、後に、その方を死者の中からよみがえらせることであったのです。

それにしてもイエスはここで、ご自身がアブラハム以上にアブラハムの神のことを知っており、アブラハムは「わたしの日を見ることを思った」と途方もないことを言われたのです。

それを聞いたユダヤ人たちはイエスをあざ笑うように、「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか」(57節)と言いました。

イエスの時代の人々にとってアブラハムとは、二千年前の信仰の父であり、ちょうと現在の多くの人々がイエスをキリスト教の開祖と見るように、アブラハムを尊敬していました。ですから、イエスご自分をアブラハムより偉大であるかのように言うことは、とんでもない冒涜と思えました。

それを聞かれたイエスは、彼らの誤解を正す代わりに、さらに大胆なことを、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(58節)と言われます。

最後のことばは、原文で、「エゴー・エイミー」で、神がご自身を、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)との表現を思い起こさせるもので、ご自身が永遠に存在する神と等しいものであると言ったことに他なりません。

それに対し、「すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした」(59節)というのは当時の人々にとっての当然の反応とも言えましょう。それは、石打ちに形によってイエスを殺すことを意味します。

そしてそれに対するイエスの反応が、「しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」と描かれます。イエスは彼らの殺意をひしひしと感じながら、ご自分のときがまだ来ていないのを知っておられたので、身を隠されたのです。

多くの人が、イエスはその高潔な生き方によって死後、神としてあがめられたと誤解し、「私も高潔に生きよう!」と頑張ります。しかし、イエスは世界の最初からおられた神であられ、私たちを自由にするために、人となってくださったのです。

奴隷は、自分の力で自由を勝ち取ることができない存在です。誰かの力によって解放してもらわなければ自由になることはできません。私たちはそのことをどれだけ心の底で味わっているでしょうか。私たちが頑張って天に上るのではなく、神が世に下って来られたのです。

そして、イエスは、「もし・・わたしのことばにとどまるなら・・」と言われました。主のことばこそが、あなたを、将来の不安や、人の目から自由にし、いのちの喜びを生み出すのです。イエスが真に救い主であることを心の底から味わってみましょう。

パウロはコロサイ1章16-18節で、「万物は御子にあって造られた…万物は御子によって、御子のために造られている・・万物は御子にあって成り立っています。御子はそのからだである教会のかしらです」としるしています。私たちが御子のからだである教会の一部とされているということも本当に途方もない大きなことです。