エペソ2章1〜10節「聖書が語る救いとは?」

2015年7月5日

レイ・シドニー兄 証し&賛美

「天は自ら助くるものを助く」(God helps those who help themselves)ということばは、古代ギリシャの有名な格言ですが、それがキリスト教会の中でも広まっています。これは、確かに一面の真理を表していますが、現実には、底なし沼のような「どん底」に追い込まれ、生きる気力さえ失っている人もいます。そんな人にとっては、「天は自ら助くるものを助く」というのは、強者の論理に聞こえることでしょう。

そんな矛盾に、本日の箇所は、すべてが神の一方的な恵みであると徹底的に強調した後に、「私たちは神の作品であって・・・神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった」(2:10)と語っています。聖書は、自助努力を否定する教えではありません。かえって、私たちのうちに、神の視点から見た「良い行いをする力」を生み出すものなのです。

1.「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」

最初の文章の中心は、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・(それらの中にあって)歩んでいました」(2:1)と記されています。これは、「死んでいたのに・・歩んでいた」ということ、つまり、「あなたがたは、生けるしかばねだった」という意味になります。

しばしば福音的な教会では、「救われた」ということばが多く用いられます。しかし、「どのような状態から救われた」かを、未信者の方にわかるように伝えられるでしょうか?

大学時代の国際交流のサークルの同窓会に参加したときのことですが、彼らの多くは、いわゆる一流商社や金融機関で忙しく働いてきながら、第一線からは外れつつあり、人生のむなしさを切々と感じています。そして、私の生きがいに満ちた様子を見て、その働きを評価してくれながらも、「俺ももっと落ちぶれたら、お前のところにやっかいになろうか・・・」などと言ってくれます。約30名集まった人々の中で、七割の人々が私の本を買ってくれましたが、敢えて、「今回の本は、みんなに読んでもらいたいと思って書きました・・」と熱く語ったところ、一部の先輩から冷ややかな視線を感じました。

教会は、落ちぶれた人々の集まる所と思っている人が少なからずいるのかもしれません。そして、自分が切羽詰った思いになって初めて聖書の教えを知りたいと思いますが、それ以前に、あまりにも熱く語られると、まるで自分が馬鹿にされたように感じるという人は、少なからずいることでしょう。

「罪過と罪の中に死んでいた」というのは不思議な表現です。ある方は、アメリカ留学中に、自分のステレオタイプなクリスチャン像がことごとく砕かれ、クリスチャンの友人の自由な生き様に非常に魅力を感じたとのことです。ただ、同時に、「罪とは何だろう・・、頼んでもいないのにイエスが十字架にかからなければならないほどの罪を自分は犯しているのだろうか・・・」と疑問に思いました。

ただ、そこで、聖書が語る「罪」とは、的外れな生き方をしていることを指していると教えられ、納得できました。確かに「罪」の語源は第一義的には「的を外す」という意味があり、また、「罪過」には「立っているべきところから落ちた状態」という意味があります。

つまり、これは見当違いの方向で必死に生きている人々、また、見当違いの確信に立っている人々を指しており、神を知らずに生きている人々すべてに当てはまることばです。実は、「神の救いを求めなければならないほどには自分は落ちぶれてはいない・・・」などと強がって生きているすべての人が、神の目からは「罪過と罪の中に死んでいる」人々なのです。

今の日本の多くのサラリーマンは、会社が存続できるかどうかという恐怖の中で、残業代を請求できないことも多くあります。それはドイツなどでは決して想像できないことです。過労死などということばが国際語になってしまうというのは、かつて、「兵隊は鉄砲よりも安い」と言った日本軍の発想と同じです。

最近は、「社畜」ということばが流行っています。それは会社の家畜のように、組織に従順に飼いならされた人のことを指します。これほど、個人の尊厳や自主性を軽視する先進国があるのでしょうか。「罪」とは、まさに、そのように、神が示しておられる目標を忘れて、人間的な目標を絶対化して、個人をその目標達成の手段としている価値観に他なりません。

旧約聖書では、「救い」ということですぐに思い起こされるのは、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主(ヤハウェ)である」(出エジ20:2)という表現です。これは、いわゆる「モーセの十戒」と呼ばれる教えにおいて最も大切なことばです。彼らは自分たちがエジプトでの奴隷状態から解放されたことを繰り返し思い起こすように命じられていました。

日本のサラリーマンも、エジプトで奴隷であったイスラエルの民と似ているかもしれません。彼らは会社の奴隷のような状態に置かれていないでしょうか。しかし、私たちは神の子とされ、自由人とされました。

私たちには、想像を絶する輝かしい未来が保証されています。多くの信仰者は、それを深く味わうことを忘れ、この世の期待に答えることで安心を得ようとしていないでしょうか。既に約束された救いを忘れて、目の前の不安に駆り立てられることは不信仰です。見当違いの方向に熱くなることこそ「罪」の本質です

イスラエルの民はかつて、信仰への熱心さのゆえにイエスを十字架にかけて殺してしまいました。彼らは、神のみこころを真剣に聞く前に、自分の正義の基準にいのちをかけました。

会社のために命をかける猛烈サラリーマンとイエスを十字架にかけることに正義を感じたユダヤ人には共通点があります。それは、神のみこころを知ろうとして静まる前に、世間の常識を鵜呑みにし、神の期待より世間の期待に答えるために身を粉にして働いているということです。一生懸命になればなるほど、互いの首を互いに絞めあっているなどという矛盾がないでしょうか・・・

2.「生まれながら御怒りを受けるべき子」とは?

そのころは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(2:2)とありますが、「この世の流れに従い」という生き方自身が、「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに従っているという意味を示します。

「空中の権威」とは、御使いの領域である「天」と、人間の領域である「地」との間という意味だと思われます。つまり、サタンは神と人との間に入り込んで、その関係を壊すことに生きがいを感じているのです。

ただし、キリストは「いっさいのものの上に立つかしら」(1:22)ですから、サタンは、神とキリストが許容した範囲でしか活躍はできないということを意味します。そして、サタンは、神を信じようとしない「不従順の子らの中に働いている霊」として、この世に悪を広めています。

ここで、「働いている」ということばは、「神のすぐれた力が私たち信じるものに働いている」(1:19)ということばと対比されて用いられています。つまり、信仰者のうちには神の働きがあり、不信仰者のうちにはサタンの働きがあるというのです。

ところで、サタンに従って歩んでいるとは、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」(2:3)とあるように、悪霊に取り付かれ、それに心と身体をコントロールされているという以前に、自分の生きたいように自由に生きるということにほかなりません。

最初の人間であるアダムとエバは、蛇の誘惑に耳を傾けた後に、善悪の知識の木を見たとき、「その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」ものとして映り、その結果として食べたと記されています(創世記3:6)。つまり、「肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」とは、酒やドラッグや性的誘惑に身を任せてしまうということ以前に、神の命令よりも自分の意思や気持ちを優先するということに他なりません。

そして、神を知らずに自分の狭い正義感に従って生きることが、「生まれながら御怒りを受けるべき子」として描かれています。つまり、「御怒りを受けるべき子」とは、何かとんでもない悪を行った者というよりは、自分の生きたいように生きているすべてのアダムの子孫を指すのです。

3.「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」

そのように生まれながら、アダムの生き方に習い、自分が神の怒りを受けるべき子であるとの自覚もない人々、神に救いを求めようともしない人々にもたらされた一方的な救いのことが、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(2:4-6)と描かれています。

ここで再び、私たちが、「罪過の中に死んでいた」状態にあったことが指摘されます。「死んでいた」とは、自分の力で生き返ることができない人ですから、その救いは、「あわれみにおいて豊か」な、「その大きな愛」を通して、一方的に「私たちを愛する」という神の主導権によるものでなければなりません。

その上で神のみわざが、三つの観点から描かれます。

第一は、「私たちをキリストとともに生かし」です。「救い」の本質とは、「死んでいた者」を「キリストとともに生きた者にする」という神の一方的なみわざです。そしてこのことが、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによる」と言い換えられます。多くの信仰者は、「救い」を、何か目の前の問題がなくなるとか、苦しみから解放されることとはとらえても、「キリストとともに生きた者になる」こととしては捉えてはいないのではないでしょうか?

しかも、これが第二、第三のみわざとして、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われます。これは復活と昇天をさします。これはまだ起こっていない未来を保障する表現です。

多くの福音的な教会では、イエスを救い主として信じた人のことを、「救われた」という完了形で表現します。ところが、人によっては、しばらくすると、「何も変わっていないではないか・・・」という気持ちになってきます。しかし、「救われた」という完了形は、まだ起きていない私たちの復活と昇天が保証されたという意味に他ならないのです。

1968年にマルティン・ルーサー・キング牧師はアメリカのメンフィスで暗殺されますが、その前日、「私は山の頂に立った」という有名な演説を行いました。彼は自分の死を予感していましたが、そこでまず、大恐慌の真っただ中の1933年の米国大統領ルーズベルトの演説、「私たちが唯一恐れるべきは、恐れそれ自体である」ということばを引用しながら、恐れに囚われて、なすべきことができなくなることを戒めたうえで、次のように語りました。

「過去何年もの間、人々は戦争と平和について語ってきた。だがもはや、ただそれを語っているだけでは済まされない。それはもはや、この世での暴力か、非暴力かの選択の問題ではなく、非暴力か、非存在かの問題なのである・・・早急に手を打たなければ世界は破滅する・・・この挑戦の時代に、アメリカを本来あるべき国にするために前進しようではないか・・・

私だって、ほかの人と同じように長生きはしたいと思う。長寿もそれなりの意味があるから。しかし、神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地を見た。私はみなさんと一緒にその地に到達することができないかもしれない。

しかし、今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということを・・・。だから、私は今夜、幸せだ。もう不安なことはない。私はだれをも恐れていない。この目で、主が来られる栄光を見たのだから」

キング牧師の演説が、人々の心を動かしたのは、神の救いのご計画の成就を目の当たりに見せたことにあります。救いの本質とは、まさに、この望みを確信することにあるのです。現実にはまだ「救われてはいない」のですが、救いが確定したという意味で、「救われた」と言われます。それは、私たちの救いとは、何よりも、キリストと結び付けられたということを指すからです。

キリストはすでに復活に、天の父なる神の右の座におられますが、私たちはキリストとすでに一体となっているからこそ、「ともによみがえり、ともに天の所に座っている」と言われるのです。救いには、「すでにAllready」という面と、「まだ(not yet)」との両面があるということを決して忘れてはなりません。

4.「あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを・・明らかにお示しになるため」

そして、続いて、私たちのために用意された恵みのすばらしさのことが、 「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした」(2:7)と記されています。私たちに保証された「望み」とは、キリストとともにあるすべての豊かさ、喜び、平安、ありとあらゆる良いものが、実現するということに他なりません。

しかも、「あとに来る世々において」とは、先の「この世の流れに従い」という表現と対比されます。私たちはすでにキリストとともに天のところにすわらされている者としての自覚を持って、つまり、日本人や韓国人であるという以前に、天国人としての自覚を持って、この世の人々とは異なった価値で生きるようにされたのです。価値観の変化こそが、「救い」の核心部分です。

キング牧師は亡くなる5年前に、「I have a dream」という有名な演説を行いました。彼は、白人と黒人との平和を、「狼は子羊とともに・・・」のレトリックを用いて表現しながら、

「私には夢がある。それは、いつの日か私の幼い4人の子供たちが、彼らの肌の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住めるようになることである。私は、今日、夢を持っている。

私には夢がある。それは悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られているアラバマ州で、いつの日か、幼い黒人の男の子と女の子が、白人の男の子と女の子と手をつなぎ、兄弟姉妹として歩けるようになることである・・・」

この夢がアメリカを動かし、キング牧師の死後40年で黒人の大統領が誕生します。

多くの人々が、ほんとうに余裕のない生き方をしています。しかし、「あとに来る世々に」用意されている「すぐれて豊かな御恵み」が、今ここで「明らかに示される」とき、ひとりひとりの行動は変わってくることでしょう。

そして、この不思議な救いがどのように実現したかについて、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(2:8、9)と記されます。

私たちプロテスタント教会は、マルティン・ルターの宗教改革から始まっていますが、彼は、やがて、自分たちの信仰を誇る熱狂主義者の運動に悩まされるようになりました。ここでは、「行いによるのではない」ということの説明として、「だれも誇ることのないためです」と記されていますが、自分たちの「信仰」を誇るような者の信仰は、聖書が語る信仰ではなく、「行い」の一部にされています。反対に、自分の信仰を卑下することも、優越感とコインの裏表の関係にある劣等感のようなものです。

実は、「信仰」とは、あくまでも、神の恵みを受け止める受信機のようなものに過ぎません。すべてが神の恵みであることを心のそこから味わうようになるということが、信仰の成長に他なりません。

自意識過剰な信仰ほど危険なものはありません。自分を忘れて神の恵みに心を向け、神の恵みに圧倒されるようになることを私たちは求めるべきでしょう。

5.「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」

その上で、パウロは、私たちが恵みに甘んじて怠惰な生活に居直ることがないようにと決定的なみことばを加えます。それが、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(2:10)という表現です。

パウロは先に、キリストを知らないときの「歩み」を、「死んだ者としての歩み」また、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う」という「歩み」として描きましたが、ここでは、「救い」の結果を、「良い行いに歩む」者となることとして描いています。そして、その前提として、「私たちは神の作品であって」と記されています。

私の場合は、自分の神経質な性格が嫌いでした。しかし、あるとき、「神経質を喜ぶことができる」という発想になったとき、気が楽になりました。そして、神経質な性格を生かすことによって、本が書けるようになりました。

ただし、このように自分に与えられている能力を生かすということは、誰でも言うことで、聖書を読まなければわからないような、目新しいことではありません。

しかし、パウロはここで、「良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた・・・良い行いをもあらかじめ備えてくださった」と記されています。それは、「良い行い」という概念が、人との比較から生まれることではなく、神の創造の目的、神のご計画を知ることから始まるという意味です。

先に述べたように、この世は、とにもかくにも、忙しい人で満ちています。忙しさ自体が、その人が人々から期待され、感謝されているしるしかのように見られています。確かに、仕事や奉仕の依頼が舞い込んでくることはうれしいことです。しかし、私たちの目標は常に、神の期待に向けられなければなりません。

世の人々が期待する「良い行い」ではなく、神が期待し、神が備えてくださった「良い行い」とは何かを常に考える必要があります。

そのことからしたら、神の前に静まる時間を忘れるほどに「良い行い」に励むことは、神が求める「良い行い」では決してありません。聖書の教えの最もユニークな点は、あらゆる生産活動から離れて、「休む」ということが、もっとも大切な戒めとされているということです。

「十のことば」の構成からしたら、最大の罪とは、安息日律法を破ること、つまり、「休み」を取らないことなのです。休みもなく働くことこそ、聖書が示す「罪」なのです。これは、別に、好きで滅私奉公をしているわけではないサラリーマンにつらいことばです。自分が休むと、現実に、困る同僚が出てくるような中で、そんなことは言ってはいられないような気がします。

しかし、人は、長期的な目で見ると、確かに、自分にとって本当に大切なことのためには時間を割く知恵をもっているものです。最も大切なのは、天国人の自覚を持って、この世が期待する「良い行い」と、神が期待する「良い行い」の区別をつけることではないでしょうか。

しかも、「良い行い」は、神と人との好意を勝ち取るためにすることではありません。それは、神の恵みを心の底から味わった結果として生まれるものです。恵みを忘れた「良い行い」は、どこかで、押し付けの親切になります。独善的な熱心になりえます。それは決して、あなたの隣人にとって恵みにはなりません。

しばしば、人の自立を阻害するような「良い行い」こそが、様々な依存症の最大の温床となっています。それは親の過保護に似ています。真の意味で、人を愛するとは、その人の自主性や自律心を刺激するようなものでなければなりません。

神は、何よりも、神の恵みを忘れる生き方、つまり、私たちの不信仰に対して厳しいお方です。信仰は、神の恵みとあわれみを思い起こすために、時間を聖別すること、神のみこころを聞くために時間を聖別することに始まります。

そして、主のみこころとは、神の国の完成です。私たちは世界のゴールに思いを向けながら、今の働きを評価する必要があります。

神は私たちが良い行いができるように、その良い行いをも備えてくださいました。しかし、それは見当違いの熱心さではなく、主の前に静まり、主の恵みに思いを浸すことから始まる行動であるべきです。