エゼキエル36章16節〜37章「神のみわざに心を開く幸い」

2015年4月5日 イースター

“Um Gottes Willen, mach die Tür auf!“「頼むから、ドアを開けてくれ!」というコックピットから締め出された機長の言葉が、ネットで広がっています。Um Gottes Willenとは、スラングで、「お願いだから」「とんでもない」など、様々な意味に用いられます。でも、これは文字通りには、「神のご意志のために」という意味です。そして、今回ほど、この文字通りの意味が、心に響いたことはありません。

イエスご自身も、この副操縦士に向かって、「どうか、この扉を開くように」と語っておられたように思います。でも、人は、神の語りかけに、心を閉じることができます。イエスが十字架に架かる三日前、エルサレム神殿での最後の説教において、「ああ、エルサレム、エルサレム」とエルサレムの滅亡を警告されました(マタイ23:37,38)。しかし、イエスの招きを拒絶した人々は、多くの人々を道連れに無謀な独立戦争へと向かい、エルサレムを滅亡させました。

そして、今、イエスは自分の心の戸を閉じるすべての人に向かって、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示3:20)と語りかけておられます。イエスは副操縦士の心も、どんな闇を抱えている人の心も癒すことができます。だから心の戸を開くべきなのです。

旧約聖書を初めて通読した頃、私はいつも自分の不信仰に悩んでいました。しかし、エゼキエル36章26節の、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」というみことばに深く感動しました。

しかし、その後、信仰生活を続けながら、「新しい霊」を授けていただいたという実感がなかなか味わうことができなくて空しさを覚えました。しかし、「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ・・」という渇きを覚えている中で、37章には、神の救いのみわざは「干からびた骨」「いのち」を与えることにあると分かり安心しました。救いは今、既に始まっており、世の終わりに完成するという息の長い神のご計画が見えてきたからです。

しかし、それでも、この世の悪の勢力がいつまでも活発で、キリストの支配が見えないことがありました。しかし、38,39章に記されているゴグによる最終戦争の様子を見ながら、悪の勢力の断末魔の叫びのようなものが見えて、気が楽になりました。

私たちのまわりには、いつもいろんな期待外れのことが起きます。しかし、神ご自身がこの世界の歴史を、そして、私たちの人生の歴史を導いておられます。その中で、私たちに求められていることは、自分で自分の可能性を閉じる代わりに、神のみわざに心を開き、神から与えられた使命のためにいのちを燃やすことです。

イエスは、死者の中からよみがえりました。それ以来、世界の歴史は、平和の完成に向かって大きく動き出したのです。

1.「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」

主は、まずイスラエル王国を滅ぼされた理由を、「イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行いとわざとによって、その地を汚した」(36:17)と説明されます。彼らは、主が聖別された土地を汚してしまったのです。それで、主は「彼らを諸国の民の間に散らし」(36:19)ましたが、「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した」(36:20)というのです。つまり、イスラエルは、主(ヤハウェ)の土地と、主(ヤハウェ)の御名の両方を汚してしまいました。

目に見えない神は、目に見える人間を通してご自身を現されますが、神の民が世界中で嘲りを受けてしまうなら、同時に、ご自分の民を救うことができない無力な神として、ご自身の御名も嘲りの対象になってしまいます。主は、罪に応じて彼らをさばかなければならないのですが、そうすることによって、今度は、主ご自身の御名が世界中で嘲られてしまいます。

主はそのようなご自身の葛藤を、「わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ」(36:21)と言われます。主は彼らの悔い改めを確認した上で祝福を与えたいと願っておられたことでしょうが、彼らの悔い改めを待つ間に、ご自身の御名が世界中で汚されることになってしまいます。

それで、主は、イスラエルに祝福を回復して下さる理由を、「わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである」(36:22)と言われます。

つまり、主がイスラエルの民のために国を回復してくださるのは、イスラエルの民が謙遜になったからではなく、ご自身の「偉大な名を聖なるものとする」(36:23私訳)ためであられたのです。

私たちの場合も、敬虔さへの報酬として神のあわれみを受けたのではありません。主はご自身のあわれみと御名の栄光を現すために、不思議にも、「不敬虔な者を義と認めてくださる」、「キリストは・・不敬虔な者のために死んでくださいました」と記されています(ローマ4:5、5:6)。

私自身は信仰に導かれた時も、牧師への召命を受け時も、外面的には順風満帆と言える状況で、いわゆる「劇的な体験」とは無縁でした。神学校に入って、同級生の感動的な証しを聞いたとき、「僕のような生ぬるい信仰者が牧師になってよいのか・・・」と悩みました。でもそのとき、神の御わざは何よりも、不信仰な者に信仰を与えることであるということが上記のみことばから示されました。

主は不敬虔なイスラエルを敢えて救ってくださいます。そのことが、「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(36:24)と説明されます。その際、彼らが再び神が聖別された土地を汚すことがないために、それに先立って彼らの身体と心をきよめてくださいます。

「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる」(36:25)とは、自分の身を汚してしまった人が宿営に入るためのきよめの儀式です。これは現代の洗礼式に結びつきます。

その上で、多くの翻訳では、26節から新しい文章が始まります。そこで、主ご自身が、「わたしは、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と断言しておられます。ここで、「新しい心」に関しては、「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(36:27)と説明され、「新しい霊」に関しては、「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」と説明されます。

イスラエルの民は、モーセとその後継者の預言者たちを通して、神のみこころを聞き続けてきました。それは約束の地にエデンの園のようなすばらしい国を建てることができるためでした。ところが、彼らは、そのせっかくの尊い教えに感動することも、それを守ることもできませんでした。

それで主は、彼らに肉のような柔軟な「心」を与え、また、主の御教えを実行できるようにご自身の「霊」を授けてくださるというのです。聖霊は創造主ご自身です。主は私たちを上から指導する代わりに、何と私たちの内側に住んでくださるのです。

そして主が約束の地を回復させ、その真ん中に神が住まれるということが、「あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(36:28)と約束されます。

そして、彼らは、神がその地を祝福してくださる中で、「あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる」(36:31)というのです。

つまり、悔い改めの結果として祝福を受けるのではなく、祝福を受けた結果として悔い改めるようになるというのです。

そして、「このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と・・・・このとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(36:35、38)と神の救いが描かれています。

つまり、イスラエルに対する神の救いのご計画とは、約束の地をエデン園のような楽園にし、それによって、人々が、主(ヤハウェ)をあがめるようになるということなのです。まさに、歴史の究極とは、エデンの園にあった神と人との関係が回復されることにあるのです。

2.「干からびた骨よ・・・わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る」

37章には、「干からびた骨」に神の「息」が吹きかけられて、「生き返る」という興味深い不思議が描かれます。主は、まずエゼキエルをご自身の霊によって連れ出し、「谷間の真ん中に置かれ」ましたが、「そこには骨が満ち」、しかも、「その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた」というのです(37:1,2)。

そして、主は彼に、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか」(37:3)と尋ねました。彼は、「主、ヤハウェよ。あなたがご存じです」と答え、主は、「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主(ヤハウェ)のことばを聞け・・見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(37:4-7)と言われます。

彼が預言していると、「音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった・・・その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった」というのです(37:8)。

ただ、その時点では身体ができても、「その中に息はなかった」ので、主は引き続きエゼキエルに向かって、「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。主ヤハウェはこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」(37:9)と言われます。

そして、彼が命じられたとおり預言すると、何と「彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」というのです(37:10)。

主は、「これらの骨はイスラエルの全家である」と解説しつつ、彼らは「私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる」と絶望していると描きます。

しかし、主はその状況を決定的に変えてくださるというのです(37:11)。主は、彼らを「墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く」(37:12)、そして、「わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる」と保障してくださいました(37:14)。

神はご自身の民に聖霊を与え、約束の地をエデンの園のようにしてくださいます。そして、彼らは、「主(ヤハウェ)であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを」心から知るようになります。

パウロは、これを前提にしながら、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言いました(Ⅰコリント15:20)。私たちは自分で自分の心を閉ざして、「もう何をやってもだめだ・・・私の望みは消えうせた・・・」と言ってしまうことがあるかもしれません。

しかし、キルケゴールが、「絶望は死に至る病である・・それは永遠に死を体験することである・・・絶望は罪である・・・罪それ自身が善からの離脱である。しかし、罪についての絶望は再度の離脱である。

当然のことながら、これは・・・恩寵と呼ばれる一切のものを単に空虚で無意味なものと見なすばかりでなく、自分の敵と見なし・・・強力に抵抗しなければならないと考えるに至るのである」と述べているように、私たちは、絶望によって、神の恩寵を敵視し、抵抗するということがあり得ます。

しばしば、自殺が最大の罪であると呼ばれるのは、それが不可能を可能にしてくださる神の恩寵を軽蔑することにつながるからです。

神は、干からびた骨をつなげ、筋をつけ、肉をつけ、最後に、ご自身の息を与えて生き返らせてくださいます。そして、それが既に始まっています。

そのことをパウロは、「キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(ローマ8:10,11私訳)と言っています。

「永遠のいのち」とは、来るべき復活のいのちが、今、ここから始まっていることを意味します。私たちのうちに宿っておられる聖霊は、創造主ご自身であられます。あなたがどれほど罪深く、心が暗闇に満ちていても、また、あなたがどれほど「干からびた骨」のような者であっても、創造主なる御霊は、あなたを一瞬一瞬生かしてくださいます。

神に絶望してはなりません。ただし、主に向かって、「私のたましいは・・打ちしおれています(絶望しています)」(詩篇42:6)と告白することは、祈りの始まりになります。絶望感を味わうのは罪ではありません。それどころか、絶望できるということは、神のかたちに創造された人間であることの証しとも言えましょう。

ただ、それを自分で抱え込んで、神に心を閉ざしてしまうことが罪なのです。神に向かって、自分の絶望感を告白しましょう。そのとき、キリストを死者の中からよみがえられた方の御霊が、あなたの中に働き始めます。

3.「わたしが彼らを・・・一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる」

37章15節から28節までは、主が、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれ、滅びてしまった国を、新しいダビデによって統一し、約束の地において回復してくださるという預言です。

その核心が21,22節で、「見よ。わたしは、イスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。わたしが彼らをその地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、ひとりの王が彼ら全体の王となる」と記されます。

イエスは、ダビデの子としてこの地に現れ、イスラエル全土を巡り歩き、新しい「神の国」がご自身によって始まっていることを宣言されました。そのメッセージの中心は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)というものでした。

そのときイエスは、ご自身こそがこのエゼキエルが預言した新しいイスラエルの王であることを宣言しておられたのです。イエスこそはイスラエルの歴史を完成される王であったのです。

しかし、イスラエルの民は、この方を十字架にかけて殺しました。それによってこの預言は無に帰したかのように思えました。しかし、そこから神の新しい救いのご計画が始まりました。なぜなら、イエスはイスラエルの王として十字架において肉のイスラエルの歴史を完成し、新しい霊のイスラエルの歴史を始めてくださったのです。

イスラエルの民が召され、律法が与えられた目的を、主は、出エジプト記19章5,6節において、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と語っておられました。

イエスは死に至るまでの神への従順によってこの使命を全うされました。そして、三日目に死人の中からよみがえることによって、エゼキエル37章以降に記された新しい神の民としての歴史を始めてくださいました。

そして、今、私たちキリストに従う者こそが新しい神の民とされています。そのことをペテロ第一の手紙2章9節では、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と記しています。

私たちこそが新しいイスラエルの民であり、新しい「神の国」は、地上のイスラエルの領土ではなく、全世界に広がっています。私たちは新しいダビデのもとで、「新しい天と新しい地」が実現するのを待ち望んでいるのです。

なお、エゼキエル38,39章には、ゴグとマゴグという不思議な勢力による新しいイスラエル王国への攻撃が起きながら、それが神によって簡単に押しとどめられるという様子が描かれています。

黙示録では、「新しい天と新しい地」の実現に先立って、キリストとキリストに従う者たちによる千年間の平和の国の実現が約束されています(20章)。これは、短い三年半の大患難の時代に対比する長い地上の平和の時代を象徴的に描いたものです。

そして、この千年の平和の後に起きる戦いのことがエゼキエル書を背景に、「サタンは牢から解き放たれ、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴクを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海辺の砂のようである。

彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ」と絶体絶命の危機のように描かれますが、その結末は、「すると、天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」という驚くほどあっけないものでした(黙示20:7-10)。

私たちの周りにも、様々な悲劇が起きています。しかし、それは決して、私たちの神が無力だからではありません。神はご自身のご計画の中でそれらの不条理を一時的に許容しておられるのであり、時が来たら、すべての人が、私たちの主、イエスキリストこそが、「王の王、主の主」として、全世界を牧しておられたということがわかるのです。ですから私たちは、キリストの復活以降、どのような状況の中でも、ハレルヤコーラスを歌うことができます。

そして最後に、主は本日の箇所のまとめとして、「今わたしはヤコブの繁栄を元どおりにし、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による・・・わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さずわたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ」(39:25-29)と言われます。

イスラエルの民の回復は、決して、彼らの悔い改めの実ではなく、「主の聖なる名のための熱心による」のです。ヨシュア記からバビロン捕囚に至るイスラエルの歴史の解説した拙著の副題を、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心の記録」とさせていただきましたが、私たちは一見、不条理に満ちた歴史に中に、万軍の主の熱心の証しをいたるところに見ることができるのです。

そして、主は、この歴史を、ご自身の平和(シャローム)の完成へと導いておられます。私たちは、ときが来たら、世界の歴史の中に、また私たちの人生の歴史の中に、主の一方的なあわれみによる救いの歴史を見出すことができます。

パウロは、イスラエルの民の不従順に心を痛めながらも、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」と告白しています(ローマ11:36)。

多くの人々が、自分の信仰に後ろめたさを感じながら生きていますが、私たちの信仰は、自分で得たものではなく、神が「新しい霊」を授けてくださった結果です。どれほど成長が遅く、退歩しているように感じられることがあっても、神の息、神の霊は、干からびた骨にいのちを与えることができます。

干からびた骨に肉がつき、神の息が吹き込まれ生き返るというイメージを日々思い巡らしてみましょう。ただ、それでも、私たちの周りにある悪の勢力は、雲のようにこの世を覆っているように感じられることがあります。しかし、キリストはすでに「王の王、主の主」として、この地を支配しておられます。ハレルヤコーラスは既に天に響いています。

神の支配は、この世の終わりと思えるような中でこそ明らかにされます。パウロも、様々な失望を味わいながらも、「今のときの軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:17、18)と断言しています。

「見えないもの」とは、内住のキリスト、「復活のいのち」に他なりません。外面的には次から次と問題が尽きませんが、私たちは既に、神の救いのプロセスに招き入れられています。それに抵抗しながら生きるのではなく、それに身を任せながら、いつでもどこでも神にある自由と希望を体験させていただきましょう。