創世記31章〜35章「押しのける人から祈りの人へ」

2014年11月9日

人は、失うことを恐れながら生きているのかも知れません。確かにそこに大きな痛みが伴います。しかし、自分の弱さを覚えさせられる中でこそ、神の御手にある安心を体験できるのではないでしょうか?

「ヤコブの格闘」は、イスラエルの物語の原点とも言える箇所です。敢えて説明が省かれて、象徴的な場面が簡潔に記されています。まさに心の底で何度も味わうべき箇所といえましょう。私も、何度も味わい、そのたびに新しい発見があります。

1.「私の父の神はわたしとともにおられ・・私の悩みとこの手の苦労とを顧みられ」

ヤコブは、「杖一本だけを持って」生まれ故郷を離れてハランに向かい、そこで母リベカの兄ラバンに騙されながらも「大いに富む」者となりました(30:43)。

しかし、それはラバンから受けた報酬を増やしたものでしたから、彼の家の者たちのねたみを買いました。また、ヤコブもラバンの態度の変化に気づきました。

そのとき主(ヤハウェ)はヤコブに、「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる」(31:3)と仰せられました。

それで彼は「ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ」、二十年の歩みを振り返りながら、「私はあなたがたの父に力を尽くして仕えた。それなのにあなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし、神は、彼が私に害を加えるようにされなかった・・こうして神が、あながたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ」(31:6-9)と述べました。

また御使いが夢の中で彼に、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれ故郷に帰りなさい」(31:12、13)と言われたと彼女たちに告げます。

それに対し彼女たちは、「私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから・・・さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください」(31:15,16)と答えます。

そればかりか、そのとき「ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出し」(31:19)ますが、それは家の守り神を奪うことを意味します。ラケルは父がそれを非常に大切にしていたことを知っていたからこそ、それを奪うことで、父に復讐しようと思ったのではないでしょうか。

自分の利益のために行動したラバンは不誠実さのゆえに娘から憎まれ、騙されても誠実を尽くしたヤコブは彼女たちの尊敬を得ることができました。

ヤコブは、「ラバンにないしょにして…自分の持ち物全部を持って逃げ」ました。ところが 「三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、彼は身内の者たちを率いて七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いつき」ました(31:22,23)。それは、何とカナンの一歩手前です。

しかし、神は前の夜にラバンに現れ「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」(31:24)と警告されます。それで、彼はヤコブに、「私はあなたがたに害を与える力は持っている」(31:29)と脅しつつ、テラフィムだけを取り戻そうとします。

ラケルはそれを「らくだの鞍の下に入れ、その上に座って」、「女の常のことがある」などと言いながら隠し通します。ヤコブはその件を知らなかったので、「怒って、ラバンをとがめ」、それまでの二十年間の不当な扱いを抗議し(31:38-41)、「もし私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさった」(31:42)と言いました。

ラバンはかつて、「私は占いによって、主(ヤハウェ)がお前のゆえに私を祝福してくださったことを知った」(30:27)と言っていたように、ヤコブの神の力を知っていましたから、主の警告におびえました。もし、主がラバンに現れなかったら、ラバンはヤコブからすべてを奪い去ったことでしょう。ヤコブはそれを知っているので、「神は・・・昨夜さばきをなさった」と言い、ラバンもそれを聞いて、ヤコブとの「契約を結び」(31:44)、互いがそこに立てた石塚を超えて侵入することのないことを誓います。それは、神がヤコブとともにおられたからでした。

そして今、ヤコブの神は、御子イエスにつながる者に対し、「わたしはあなたとともにいる」と語ってくださいます。ヤコブは騙されるたびに豊かにされました。一方、騙したラバンの側は、娘と孫たちに見放され、さみしく自分の家に帰りました。

ですから、私たちも人間的な策略を弄することなく、いつも神との交わりを親密に保つことに心を向けるべきでしょう。それこそが、真の意味での豊かな生活の基盤です。

2.「彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った」

そして、「ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れ」(32:1)、エサウとの出会いを恐れる彼を励まします。ヤコブは御使いたちを見て、「ここは神の陣営だ」と言って、その所の名を「マハナイム」と呼びます。

詩篇34篇4-8節には、「主(ヤハウェ)を呼び求めると、主は答えてくださり、すべての恐怖から救い出してくださった・・・主(ヤハウェ)の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる。味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさを」と記されていますが、主はここで、ヤコブが呼び求める前から、「神の陣営」を見せてくださったのです。

エサウは、二十年前には、ヤコブが自分を「二度までも・・押しのけ(アカブ)」(27:36)、長子の権利と祝福を騙し取ったと理解し、「ヤコブを殺してやろう」と思っていました(27:41)。そのため当時、ヤコブは父の家からたったひとりで離れる必要があったのですが、今は、約束の地に入る前に兄との和解を望み、使者を遣わします。

ヤコブは神が自分とともにいてくださることを味わっていたので、ある意味で、正々堂々とエサウに使いを送ることができたのです。ただそれに対し、エサウが「四百人を引き連れてやってくる」との知らせが届きます。すると、「ヤコブは非常に恐れ、心配し」、最悪の事態を想定して自分の群れを二つの宿営に分けます(32:6,7)。

その上でヤコブは必死に、「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主(ヤハウェ)よ」と呼びつつ、主から自分が賜った「すべての恵みとまこと」を思い起こしながら、「どうか私の兄エサウの手から私を救い出してください」と祈ります(32:9-12)。

そして彼は合計550頭にも及ぶ家畜を、「エサウへの贈り物」として選び、それを三つの群れに分けて先に行かせます。その際、ヤコブはしもべたちに、エサウに向かって、「あなたのしもべヤコブ」から「私のご主人エサウに贈る贈り物です」と言わせます(32:18)。これはかつて、父イサクがヤコブを祝福した後、エサウに向かって、「おまえは・・弟に仕える」と祈って、エサウを苛立たせたことを逆転させる意味がありました。

そればかりかヤコブは、「贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思った」と描かれています(32:20)。ヤコブは自分がエサウに対して咎を負っていると思っていたので、彼の怒りを「なだめ」ようと必死だったのです。ただ、このような人間的な計算では、心を落ち着かせることはできませんでした。

その後、彼は宿営地で夜を過ごしますが、どうしたわけか、その夜のうちに起き、「ふたりの妻と・・十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを・・自分の持ち物も渡らせ」(32:22)ます。

今や彼が獲得したすべての物を明け渡した上で、「ひとりだけ、あとに残り」ます。そして、このように裸になった彼は、自分が何者かが問われるのです。

するとこのとき、「ある人が夜明けまで彼と格闘し」(32:24)ました。ヤコブが求めた戦いではなく、ある人の側から彼に向き合ってくださったのです。

彼の人生は、自分の知恵と力で成功をつかみ取るようなものでした。今ここでも、目の前の人が誰であるか以前に、ふって湧いた格闘に勝つことだけに必死です。それは自分の内面の恐れとの戦いでもあります。しかし、もものつがいがはずされたとたん、その人に必死にすがりつき祝福を願います。

その際、彼は自分の名を尋ねられ、ヤコブと答えることによって、自分の生き方をも顕にします。そこには「押しのける」とか「つかみとる」という意味がありました。

それに対し、「その人」は、彼に新しい名を与えます。「イスラエル」とは、「戦う」と「神」とを合わせたものです。そして、その意味を、「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったから」と言います(32:28)。

なかなか理解しにくいですが、後にホセアは、ヤコブの生涯を、「彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力神と争った彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、そのところで神は彼に語りかけた」(12:3,4)とまとめています。

彼は生まれる時から兄のかかとをつかみ、兄を二度も押しのけ、祝福を父から騙し取りました。しかし、彼が最初から向き合うべき方は、神ご自身でした。

なお、ここでヤコブが、「あなたの名を教えてください」(32:29)と尋ねたのは、神をも自分の頭で把握したいという気持ちの現れとも言えましょう。しかし、彼に必要なのは、ただへりくだって神の祝福を受けることでした。

そしてヤコブはこのとき、必死に願った「祝福」を受けることができました。これこそが、神と戦って「勝った」と言われる意味ではないでしょうか。

私たちもときには、祝福」を受けるために、神との祈りの格闘が必要かもしれません。

彼はこの出会いを通して、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」(32:30)と言いました。そこには、恐れと同時に、喜びがありました。彼は「そのもものためにびっこをひいて」いましたが(32:31新改訳第二版)、「太陽は彼の上に上って」いました。

これは何と感動的な情景でしょうか。神との格闘は、夢の中で起こったことではなく現実でした。そのしるしが、「びっこひいて歩く」ということでした。そして、その痛みの中で、神の圧倒的な祝福を感じることができました。私たちも同じように、現実の痛みを通して「祝福」を体験することができます。

その後、ヤコブは家族の先頭に立って、「七回も地にひれ伏しておじぎをし」ながらエサウに近づきます。それに対し、「エサウは・・走ってきて、彼をいだき、首に抱きついて口づけを」しました(33:1-4)。つまり、イスラエルという名には、自分の力で戦う生き方から、神の御前にへりくだるという生き方の転換が込められていると思われます。

ヤコブの祝福が、「びっこをひく」ことの中で現わされたように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる」(Ⅱコリント12:9)のです。

そしてそのようなヤコブの生き方は、私自身を現わしているように思えます。自分の弱さを隠し、神も人も自分の頭の枠でとらえようとし、自分の不安と戦っていました。しかし、あるとき、不安を抱えたままの自分を支える神がおられることに気づかされました。私の歩みは、精神的にびっこをひいたような状態のままですが、その私の上に太陽が上り、神の愛に包まれているということが少しずつ分かってきました。

不動の心を持つことが目標ではありません。「キリストは・・大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」(ヘブル5:7)とあるように、自分の弱さ、不安や悲しみをそのまま訴える生き方こそが神に喜ばれるのです。

3.「ベテルに上り・・私の苦難の日に私に答え・・いつも私と共にいた神に祭壇を築こう」

エサウはヤコブを自分の居住地のセイルに迎えるために「あなたのすぐ前に先って行こう」(33:12)と提案しますが、ヤコブは自分の群れの弱さを理由に、やんわりとそれを退けます。彼はエサウとの適度な距離を保つことに必死だったのだと思います。

またそれが、「ゆっくり旅を続け・・セイルにまいります」(33:14)と言いながら、御使いと挌闘したペヌエルのすぐ近く、ヨルダン川東岸の「スコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った」理由と言えましょう(33:17)。

そればかりか、彼はエサウの住む南に向かう代わりに、そこからヨルダン川を渡って西に向かい、シェケムの町の手前で宿営し、その野の一部を購入し、そこに祭壇を築きます。

それにしても、主がヤコブに約束の地への帰還を命じたとき、「わたしはベテルの神」とご自分のことを呼んでおられました(31:13)。

主が最初にヤコブにご自身を現してくださったベテルは、シェケムから三十数キロ程度南に下った地ですから、ヤコブはその目的地にもっと早く行くことができたはずです。

しかし、進行を遅らしたことで、悲劇が起こります。ヤコブがラバンのもとに留まっていた終わりの時に生まれたはずのディナがその土地の族長の息子シェケムに犯されてしまったのです。

このときディナが十代後半だったとしたらヤコブはエサウとの和解から十年余り道草をしていたことになります。

シェケムの父はディナを嫁にしたいとヤコブに申し入れ、その他にも互いに縁を結ぶことを願います(34:8,9)。ヤコブの息子たちはそれを受け入れるふりをし、彼らに割礼を受けさせ、その傷が痛む時に、シメオンとレビが、その町の男子をすべて殺すという野蛮な行為に出ました。

神がアブラハムに与えてくださった約束を覚えるしるしとして割礼という儀式が生まれたのに、その背景を説明することもなく、ただ割礼だけを受けさせ、その傷の痛みにつけこんで町を攻撃するなどということは神の意図に真っ向から反します。

本来なら、ここから復讐の連鎖が起こり、ヤコブ一族は「根絶やしにされる」(34:30)可能性がありました。しかし、この時になって神はヤコブに現れ、「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに・・神のために祭壇を築きなさい」(35:1)と仰せられます。

そして、ヤコブも「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめなさい・・・私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」(35:2、3)と応答します。ラケルも父から盗んだテラフィムをヤコブに渡したことでしょう。

それにしても、これはもう十年早く行なわれるべきことでした。なぜなら、ヤコブは最初にベテルで、神の圧倒的な約束、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:15)を聞いたとき、自分が枕にした石を取って、その上に油をそそいで、「神がわたしとともにおられ・・・無事に父に家に帰らせてくださり、こうして主(ヤハウェ)が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」と応答していたからです。

エサウと和解できた後に、すぐにベテルに上りそれを実行すべきだったのです。

そして、「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった」(35:5)とありますが、これはヤコブが戦う前に、神ご自身がヤコブの側に立って戦ってくださったということです。イスラエルという名は、「神と戦う」というより「神が戦う」ことを意味するからです。

そして、彼はようやくベテルにつき「祭壇を築き」ます(35:7)。その上で、リベカに昔から寄り添っていた「うばデボラ」の死のことが述べられます(35:8)。

それはかつてリベカがヤコブに、「兄さんの憤りがおさまるまで・・ラバンのところにとどまっていなさい・・・あなたが兄さんにしたことを兄さんが忘れるようになったとき、私は使いをやりあなたをそこから呼び戻しましょう」(27:44,45)という約束をリベカが実行していたしるしだと思われます。

ヤコブはデボラの死を嘆き、彼女を葬った地を、「アロン・バクテ(嘆きの樫の木)」と呼びます。なお、リベカがいつどのように亡くなったかは記されていません。ただ、デボラへの言及によって、リベカがヤコブへの約束を果たしていたということが明らかにされていることで十分なのでしょう。

その上で、「こうしてヤコブがバダン・アラムから帰って来たとき、神は再びヤコブに現れ、彼を祝福された」(35:9)と描かれます。

そして主は再びヤコブに向かって「あなたの名はイスラエルでなければならない」(35:10)と新しい名を確認し、その上でアブラハムへの約束を更新するように、次のように言われます。

「わたしは全能の神(エル・シャダイ)である。生めよ、ふえよ。ひとつの国民、諸国民の民の集いが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る」(35:11)と約束を新たにされました。

ここでは、イスラエルの子孫が民族の枠を超えて、アブラハムという名の意味「多くの国民の父」となるという約束がヤコブを通して実現するということが確認されています。

つまり、イスラエルの子孫とは、民族の枠を超えた呼び名となることが確認されているのです。そして今、私たちは、キリストにあって、アブラハム、イスラエルの民とされています。

そうして、35章14節に至って、ヤコブがかつての約束、「石の柱を立て・・その上に油を注いだ」ということを実行したということが記されます。28章から始まった旅が、ここでようやく完結したと言えましょう。

ヤコブが神から特別に愛されたのは、彼にその資格があったからではありません。神は彼を一方的に選び、数々の恵みを施し、神を信頼することを教え、そして、最後に、何よりも「祈ること」を教えてくださいました。

しかし、彼はすぐに安易な生活に流れました。しかし、神は忍耐をもって彼を導き、彼が誓約したことを実行させてくださったのです。あなたの歩みにも、同じような神の導きがあります。

そして、それを象徴するような「新しい名」というのがあるのではないでしょうか。たとえば、私にとっては、神の御手に「抱擁」されているというイメージが迫ってきたことがありました。また、私は、いつも失敗を恐れながら生きているような面がありますが、その私が落ちてしまわないように、神によって「支えられている」というイメージが迫ってくることがありました。