多くの人は信仰生活を、何かの教えを守ることだと誤解しています。しかし、それでは、「クリスチャンになったせいで、かえって生きにくくなった」と思うことになりかねません。
信仰はキリストにある「いのち」です。それは、この世の厳しい現実の中でこそ輝くものです。この世の困難を避けようとする人には、キリストにあるいのちの豊かさを味わうことができません。信仰とは、何よりも困難に向かう力として現されて行きます。
1.真の安息を与えるためのイエスのいやし
「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた」(5:1)とありますが、この「祭り」が何なのかは記されていません。当時のガリラヤに住む敬虔なユダヤ人は、年に最低三度は、片道最低三日ぐらいの道のりをかけてエルサレムに上りました。
そしてイエスはこの時、エルサレム神殿の北東に位置する「羊の門」の近くの「ベテスダと呼ばれる池」を訪ねました(5:2)。「ベテスダ」とは、哀れみの家という意味のことばで、そこには「五つの回廊」があって、「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた」(5:3)というのです。
この場所からすると、そこにあったのは、決して清潔とは言えない「たまり水」です。なぜなら新鮮な水は、城壁の東のギホンの泉から水路を通して町の南端のシロアムの池に引かれた水しかなかったからです。
新改訳の脚注に記されていることばは、最も古い写本にはない後代の追加です。そこでは「彼らは水の動くのを待っていた。主の使いが時々、この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされた後に最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」と記されています。
いろんな見解がありますが、たぶん、これは当時のベテスダの池に伝わっていた迷信のようなものだと思います。最初に入った者だけが癒されるというのが事実であれば、そこには、人を押しのけてでも真っ先に池に入るという過当競争が肯定されるわけで、明らかに聖書のテーマに反するからです。
ただ、この直後にイエスによって癒された人のことばからして、そのような迷信がこの池にあったせいで、多くの病人が集まっていたのだと思われます。
イエスは、そこで迷信に囚われて人生を無駄にしている人の中から、最も悲惨な人を見つけました。それが、「そこに、38年もの間、病気にかかっている人がいた」(5:5)という記述です。
「38年間」とは、イスラエルの民が、せっかくエジプトでの奴隷のくびきから解放されながら、約束の地には、自分たちよりもはるかに強い民族が住んでいるということが分かると、臆病風に吹かれて、まっすぐに約束の地に上って行くことを拒絶して、神のさばきを受け、荒野をただぐるぐる回り続け、二十才以上の男性がすべて死に絶えた期間を指します(申命記2:14)。
彼らは安息の地へと招かれながら、安息に入ることができませんでした。ここに伏せっていた人も、どのような理由かはわかりませんが、人生を無駄に過ごしてきました。
彼はただ、そこに食料を運んできてくれる人のあわれみにすがって、いつ起こるか分からない奇跡を待ち望んで、そこにただ横たわり続けていました。
そして、イエスは、彼が伏せっているのを見ただけで、それがもう長い間のことなのを知りました(5:6)。そして、イエスは彼に、「よくなりたいか」という世にも不思議な質問をします。
「よくなりたい」と思わなければ、そこにはとどまっていないはずですが、イエスは彼の心の奥底の声を知っていました。少なくともこの人は、「38年間」、飢え死にすることはありませんでした。誰かが支え続けてくれたからです。彼の身体がよくなると、もう助けてもらう理由がなくなります。
彼が自分の足で歩き、自分の手で稼いで生きようとすると、たぶん、これから、「ぐず」「のろま」「何度言ったらわかるんだ・・」などという罵声を浴びながら、それに耐えて生きる必要があります。自分の人生の責任を負うということは、競争社会の中にひとりで放り出されることに他なりません。
この病人の答えは、イエスの率直なご質問をはぐらかすものでした。彼は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」と答えました。
残念ながら、人は、無理な目標を掲げることによって、自分が自分の人生に責任を負わなくても良い言い訳を作って生きることがあります。主の使いが水をかき回したときなのかどうかは分かりませんが、水が動いたとき、この人が一番先に水の中に降りるというのは、正常な感覚からすると、この人には無理であることが明らかです。
それとも彼は、誰かが、彼のために、必死に水に入ろうとする人を押しのけ、彼を一番にしてくれる助け手を待っているのでしょうか。自分のために人の救いを邪魔する人を求めるなどと言うこと自体、何と自己中心なことでしょう。
彼は自分で自分の人生の責任を負わなくて良い言い訳を言っているとしか思えません。
イエスは、彼の信仰的な応答を聞くこともないまま、彼に、「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じられました。これは、「光があれ」というたった一言で、「光」を創造された創造主としての権威に満ちた言葉で、彼を瞬時に立ち上がらせました。
神のことばは、私たちの信仰を飛び越えて、変化を生み出すことができます。ですからここではその反応が、「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」(5:9)と記されます。
ところがここに、意外な展開が起きます。「ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に」向かって、「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない」と言ったというのです(5:9,10)。安息日に労働することは、死に値する律法違反だったからです。
民数記には、安息日にたきぎを集めていた男が、宿営の外に連れ出され、石で打ち殺されたと記されています(15:32-36)。ユダヤ人の指導者たちは、イエスが彼を癒したことも、この男が床を取り上げて歩き出したことも、これに匹敵する違反行為だと見たのでした。
不思議なのは、ユダヤ人たちが、38年間も病気だった人のいやしを喜べなかったことです。信仰に熱心であるはずの人に、人への共感能力が決定的に欠けていたというのは何という皮肉でしょう。
しかも、彼らは、ベテスダの池にははびこっていた迷信を放置したままでした。そこでは、病人たちが、われ先に池の水に入ろうと互いを押し退け合って生きていました。
この男は、病に加えて、「誰も助けてくれない。他の人に先を越される」という孤独と敗北意識を味わい続けていました。癒しの奇跡の名のもとに、この世の地獄が放置されていたのです。
イエスは敢えて、安息日の中でも大切なユダヤ人の祭りの日を選んでこの病人を癒されました。申命記によると「安息日」は、エジプトでの奴隷状態からの解放を覚える日でした。
この男は、38年間、誤った教えに惑わされサタンの奴隷状態にありました。その彼を、イエスは真の安息に入れるために癒されたのです。聖書の教えは、私たちに新しい義務を与え束縛するためではなく、真の安息、真の喜びを与えるためのものです。
2.ご自身を神と等しくされた方
ところで、この癒された人は、自分の病が癒された感動で、神をほめたたえ、その喜びを分かち合ったのでしょうか?確かにそれを味わう間もなく、ユダヤ人たちから、安息日に床を取り上げたという労働行為を安息日律法違反として責められ、それに答えるのに必死だったのでしょうが、もっと別の言い方があったかもしれません。
彼はとにかく、自分が律法違反をしたわけではなく、「私を直してくださった方」という途方もないことをした方が、「床を取り上げて歩け」と言われたことに従ったに過ぎないと、自分の責任が問われなくなる言い訳に終始しています。
彼はこれほどの恵みを受けながら、自分を引き続き、被害者の立場に置いていると言えましょう。
確かに、癒された人は、自分を癒した方が誰かを知りませんでした。ところが、イエスの方から、この男を宮の中で見つけて、「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(14節)と言われたというのです。
これはこの人の病が、罪のせいであるという意味にも解釈できますが、それよりも、自分を徹底的に被害者の立場に置き、自分ができることすらやって来なかった、人生を無駄にしてきたような生き方自体を「罪」と言ったのではないでしょうか。
この人は、イエスの御声を聞いて癒されながらも、復活の後にさばきに会う可能性があります。その「永遠のさばき」こそ「もっと悪い事」です。
ところで、「罪を犯す」とは、この世界で人々から非難されこととか、敗北者になることではありません。この男は、今まで、社会的弱者として、人々のあわれみを受けはしても、その被害者意識を責められることはありませんでした。
しかし、聖書による罪とは、神を愛し、隣人を愛するという、心のあり方の問題でした。彼は少なとも、「そこにいる誰よりも早く入る・・・」ということを正当化する、自己中心のとりこになっていました。
身体がどんなに不自由な人に対しても、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という命令は、そのまま有効です。そこに、「そんなことこの私には無理です」という被害者意識の言い訳は成り立ちません。
彼はこれからイエスによって癒された者として、その愛に応答して生きる責任が生まれたのです。彼は癒されたことによって、言い逃れの余地が奪われました。恵みを受けることに責任が伴います。
それなのに、この男は何をしたでしょう。彼はわざわざ、ユダヤ人のところに行って、「自分を直してくれた方はイエスだと告げた」(15節)というのです。
これに関しては、この人はあくまでもイエスのすばらしいみわざを証ししようとしたという解釈もありますが、先のこの人の応答の仕方から言うと、明らかに、自分の身を守るための責任逃れとしか思えません。実際、16節を見ると、「このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した」と記してありますが、この人は、そのような結果が生まれることを全く予期できなかったほど愚かだとは思えません。
彼は少なくとも、自分がどのように応えたら、自分の責任が問われないかを冷静に判断しながら応答しているように思えます。ある意味で、被害者意識を正当化する知恵ばかりが、38年間もの間発達していたのかもしれません。
とにかくこの男の応答が、イエスを窮地に陥れ、イエスは安息日律法違反で訴えられます。まさにひとりの人を助けるために十字架の道を歩み出したのです。
なお、安息日は、「第七日目に、神がなさっていたすべてのわざ(働き)を休まれた」(創2:2)ことに由来します。イエスは、ご自分の行動を弁護する代わりに彼らの聖書理解を真っ向から覆すように、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(5:17)と語られました。
イエスの言われたことは、字義的には創世記の記述に反するようでありながら、神が七日目に休まれたのは、創造のわざの完成を告げられるという喜びにあることを思い起こさせるものでした。
ダビデは、主がエルサレムの丘シオンを住まいとして選ばれた理由を、主が「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう」(詩篇132:14)と言われたと記しています。
主はご自分のからだを休めるためにエルサレム神殿に入られたのではなく、イスラエルのただ中に住んでイスラエルを守り導くということの証しとして、シオンを安息の場所に選ばれたのです。
同じように、主が七日目に休まれたというのは、神がお造りになられた世界のただ中に神が住んでくださり、この世界を導いてくださることに他なりません。つまり、彼らは、「労働してはならない」という安息日律法の字義に短絡的にこだわって本来の意味を忘れていたのです。
しかも、19節でイエスは、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」と、ご自分の癒しのみわざが、安息日を定めた父なる神に由来することを大胆に語りました。
そればかりか続けて、「父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです」と言われ、敢えて彼らの疑念を肯定するかのようにご自身を「神と等しくされ」ました。これは、彼らにはとうてい受け入れられません。イエスは冒涜罪を自分で招きよせています。
多くの人は、イエスが様々な良い働きをしたあげく無実の罪で十字架に架けられた悲劇の主人公のように見ますが、彼が私たちと同じ人間だったとしたら、ユダヤ人から死刑判決を受けたことは当然のことです。
イエスの主張を聞く者は、彼を父なる神と等しい方と認めるか、それとも彼を冒涜者または狂人として排除するかのどちらかの選択しかできません。イエスを知る者自身が、答えを求められています。
そればかりかイエスは、「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(21節)と言われました。
38年間、死んでいたも同然の生き方をしていた男を歩けるようにしたのは、この男の信仰以前に、イエスの一方的なみわざでした。私たちの場合も、イエスがいのちを一方的に与えたいと思ってくださった結果として「いのち」が与えられました。
それなのに、何を臆病になる必要があるのでしょう。私たちは、自分を弁護する必要などありません。神が私たちを選び、「いのち」を与えてくださったのです。
3.死からいのちに移った者として
「父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました」(22節)とありますが、イエスに対してどのような態度をとるかが、私たちの「いのち」にとって何よりも大切なことです。私たちもアダムの子孫として、必死に自分の正しさを神と人の前で主張する傾向があります。しかし、イエスは、私たちが正しくあり得ないからこそ世に下ってくださったのです。
そこで問われているのは私たちの所まで降りて、私たちと同じ弱い肉体を持ってくださった方の導きに従う気持ちがあるかどうかということです。
たとえば、あなたが怪我をして動かなくなった手足のリハビリを行っているとき、最高のトレーナーが徹底的にあなたに寄り添ってくれたとしたら、そこで問われているのは、何よりも、その援助者の善意と知恵を真正面から感謝して受け取るかと言うことです。あなたがその援助者を軽蔑するようなことがあったら、そのような態度自体が、何よりのさばきの理由になることは当然です。
なお、旧約聖書が語っているのは、人が、すばらしい教えを神から受けながら、それを守ることができなかったという人間の罪の深刻さです。しかし、神は終わりの日に、人の心を根本から造りなおすために救い主を遣わすと約束しておられました。
ですから、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる」(24節)とは、自分の罪の現実を受けとめ、父なる神がイエスを通してなして下さろうとすることにお任せすることなのです。
興味深いのは、イエスのことばを聞くことと、イエスを遣わした御父への信頼がセットになっていることです。残念ながら今も、「イエスは優しいが、父なる神は恐ろしい・・」などという方がいますが、それは旧約のストーリー全体から救い主を見ることができていないからに過ぎません。
しかもここでは、イエスのことばを聞いて御父を信じる者は、すでに「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている」(24節)と断言されます。
「永遠のいのち」とは、来たるべき新しいエルサレムのいのちの交わりを今から体験していることです。「死からいのちに移っている」とは、その「いのち」が、決して失われないという意味です。
また、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして聞く者は生きるのです」(25節)とは、私たちも霊的には死人と同然だったのに、イエスの御声を聞いて、生きる者とされたという意味です。
私たちのいのちは、自分で獲得したものではなく、イエスによって与えられたイエスのいのちです。ですから、このいのちをだれも奪うことはできません。
ただし、すべての人は、やがて墓の中に葬られます。そして、やがて「子の声を聞いて出て来る時が来ます」。そのとき、「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受ける」(29節)というのです。
イエスは、38年間、臥せっていた人を見つけて癒し、その後も宮で彼を見つけて、その生き方を変えるようにと警告されました。ところが彼は、神の御名をたたえる代わりに、イエスが迫害される道を開いてしまいました。残念ながら、彼はイエスに身体を癒されながら、心が癒される機会を自分で閉じたのです。
もし彼がイエスに向かって、「私の罪とは何ですか」とか「安息日律法違反で非難され、怖くてたまりません」とか、「私は自分の人生に責任を持つのが怖いのです」などと、正直にイエスに訴えるなら、まったく違った人生が待っていたのかもしれません。
なぜなら、それこそがイエスに信頼して「いのち」を受ける始まりだからです。
イスラエルの民にとっての38年間とは、本来、荒野で信仰の訓練を受け、ゼレデの谷を通過した後(民数記21:12)、エモリ人の王シホン、バシャンの王オグなどに連戦連勝するように変えられるという勝利の生活への転換点でした。逃亡奴隷の集団が、連戦連勝の主の民へと変えられたのです。
同じように、本来、イエスのことばを聞いて御父に信頼して「永遠のいのち」に入れられるとは、「死んでも天国に行ける」ということ以前に、この世の様々な困難に立ち向かいながら、勝利を体験することができる人生の始まりなのです。
しかし、残念ながら、この38年間臥せっていた男は、主の力を受けながら、この世の戦いを避けてしまいました。イエスに出会いながら、イエスの圧倒的な恵みを受けながら、なお尻込みしてしまう人がいるのです。
それは私たちの問題にもなり得るかもしれませんが、恐れる必要はありません。旧約の歴史を見てくると、イスラエルの民は何度も主の恵みを忘れて、主のさばきを受けてしまいますが、最終的に、主は彼らのために救い主を送って、彼らを心の底から造り替えてくださいました。
これはあくまでも希望的観測ですが、この男はイエスが十字架にかけられた場面を見ながら、自分の罪がイエスを十字架に追いやったことを自覚し、悔い改めることができたのではないでしょうか。
大切なのは、被害者意識に囚われる代わりに、心の中にある恐れや不安を正直に主に告白して、主からの力を受けることなのです。
「永遠のいのち」は、今ここに生きる力となっているのです。臆病にならずに、いのちの豊かさを大胆に味わってみましょう。なぜなら、問われているのは、社会で尊敬されること以前に、神を愛し、隣人を愛するという生き方の方向だからです。成功かするか失敗するかは関係ありません。
38年間、動けなかった人は、イエスによって癒されましたが、このときはイエスに従うところまでは行けませんでした。それは、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったから」(ヨハネ7:39)です。
私たちには今、聖霊が与えられています。ですから私たちは、この男とは違い、正直に自分の葛藤や不安を、イエスを通して御父に打ち明けることができます。私たちはそこでイエスと御父のあわれみを体験することができます。
「死からいのちに移っている」とは、何よりも、父なる神と御子イエスとの間にある親密な愛の交わりの中に聖霊によって招きいれられていることを意味します。それは、しばしば、葛藤や不安の中で神に祈るという交わり自体の中に現されています。肉体の癒しよりも大切なのが、この神との交わりなのです。
世の人々は、わざわいに会うことを恐れながら、自分の身を守ることに汲々としています。しかし、私たちは、試練を通し、自分の無力さを痛感するときこそ、自分がすでに「死からいのちに移っている」ので、キリストのいのちが自分のうちに生きていることを味わうことができます。
今、試練に会っている人は、主の御名を呼び求めつつそこに留まりましょう。悲しみの涙を流すようなことがあっても、主はそれを感動の涙に変えてくださいます。すべての試練は、御父と御子にある「いのち」の豊かさを味わう機会として備えられているものなのですから。