詩篇96篇「主 (ヤハウェ) は王である」

2014年10月26日

長い歴史を振り返ると、現代の日本は人類史上未踏の繁栄に中にあると言えます。宇宙船から見下ろす日本はまさに「光の国」に見えるとのことです。そして、その繁栄のシンボルは東京ですが、その中でひとりひとりの心はどんどんやせ細り、漠然とした不安や不満が広がっていると言われます。生活はどんどん便利になる一方で、心はどんどん余裕がなくなっています。

それは私たちが太陽の光の代わりに、人工的な光の中で過ごす時間が多くなった結果ではないでしょうか。創造主のみわざを喜ぶ中では、人が自分の弱さを謙遜に認めた結果の交わりが生まれます。しかし、人間の能力を誇る中には互いの比較が生まれ、人を競争へと駆り立てます。

1.創造主のみわざを覚えて歌う

この詩篇とほとんど同じものがⅠ歴代誌16章に記されています。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行なったことは、「十のことば」が収められた契約の箱を運び入れることでした。その際、全イスラエルが歓声をあげ、様々な楽器を響かせる中で、ダビデは飛び跳ねて喜び踊りました。そのときに聖歌隊によって歌われたのが、この詩篇だったというのです。

当時の常識では、このようなときに王が取るべき態度とは、自分を神の代理としての威厳に満ちた衣装で包み、自分は玉座に乗せられたままで運ばれ、上からしもべたちの踊りを見下ろし、神と自分とを並べて拝ませることでした。ところがダビデは、人々の眼差しを忘れたかのように、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置いて、喜び踊ったのでした。

彼は、王権が創造主からの一方的な恵みであり、王として立てるのも退けるのも神のみこころしだいであることを、前任者サウロの失敗を通して分っていました。サウルは人々の信頼を得ようと必死でしたが、ダビデは人々の目を創造主である神に向けようと必死になりました。

ダビデは最初に、「主(ヤハウェ)に歌え」と三度繰り返します(1,2節)。その際、恐れ多い御名、「ヤハウェ」を大胆に口にします。そこには、いかなる人でもなく、すべてのみなもとであられる主(ヤハウェ)ご自身こそが誉めたたえられ、注目されるべきだとの訴えがあります。

「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。後に、預言者エレミヤは、エルサレムが廃墟となった中で、「私たちが滅び失せなかったのは、主(ヤハウェ)の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀歌3:22,23)と歌いました。同じように私たちも、どのような状況下でも、主(ヤハウェ)の恵みとあわれみを思い起こし、日々新鮮な感動とともに「主に歌う」ことができます。

そしてダビデは、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる」(2節)という歌を奏でる世界を夢見ながら、「主(ヤハウェ)に歌う」ことを訴えています。

「御救いを日から日へと告げ知らせよ」(2節)とは、当時としては、主がイスラエルをエジプトから不思議な御手をもって救い出してくださったことから、ダビデによるエルサレムの占領に至るすべてのことを、主の救いのみわざとして後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。それは、現代の私たちにとっては、二千年前のキリストのみわざが現代の私たちに救いをもたらしているという霊的な現実を、歌い継ぐことを意味します。

そして、そのような救いをもたらす「主の栄光」を、自分の身近な人にとどめないで、「国々に語り告げよ」(3節)と勧められます。なお、「栄光」とは、本来「重い」という意味で、7,8節でも繰り返されるこの詩の鍵のことばです。それは、たとえば、この社会で最も影響力があり、小さな意見の相違をも包み込み、安定をもたらす人を、「重い存在」と呼ぶようなものです。主こそは、この世界の安定と調和の鍵で、栄誉を受けるのにふさわしい方です。また、「語り告げる」とは「記録する」とも訳されることばで、主の「くすしいみわざ」を、ひとつひとつ数え上げ、それを「すべての民に」、つまり、まわりの人々すべてに、「語り告げる」ことが勧められています。

教会で歌われている様々な賛美の歌は、「主(ヤハウェ)に」歌われているものであるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。ルターやウエスレーは、福音のメッセージを歌にすることで、世界を変えるような働きをしました。そして、そのような「新鮮な歌」は今も、生まれ続けています。「主(ヤハウェ)に歌う」ことは、「主の・・くすしいみわざを、すべての民に」宣べ伝えることでもあるという原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

2.「栄光と力を主(ヤハウェ)に帰せよ」

「主(ヤハウェ)は偉大、大いに賛美されるべき方」とは、先の「栄光」という表現を言い換えたものと言えましょう。また、「すべての神々にまさって、恐れられるべき方、まことに、諸国の民のすべての神はむなしい」」(4節)とありますが、この世の多くの人々は、自分が社会の中で仲間外れにされることを恐れて教会に来なかったり、また、何かのたたりに会うことを恐れて偶像の神々を拝むことがあります。

ある宣教師がアフリカの奥地に伝道に行ったとき、その現地の人々は、「あなたの神は、どんな災いを起こすのか」と聞いたそうです。それに対して、宣教師は、「私たちの神は、災いを起こすような方ではありません」と答えた所、その人は、「災いを起こさない神をどうして礼拝する必要があるのか・・」とかえって聞き返したとのことです。

それは日本にも恐ろしいほどに生きています。日本人の心の中には、「たたり」を恐れる思いが根付いています。

最近では1985年の阪神優勝の際に、ケンタッキーフライドチキンの創業者カーネルサンダースの銅像を胴上げしたあげく道頓堀に落としてしまい、最近になるまで引き上げることができなかったがゆえに、阪神タイガーズがカーネルの呪いを受けて弱小球団になったという話があります。

それは怨霊信仰とも呼ばれます。無念の死を遂げた人の怨霊が、生きている人に災いをもたらすと考えられます。たとえば、菅原道真は学問の神としてあがめられますが、もともとは権力争いに負けて左遷され非業の死を遂げた貴族でした。ところが、彼を追いやった人々の家に災いが続いたときそれが菅原氏の怨霊であると言われ、彼を神として祭って怒りを鎮めるということになったとのことです。日本はある意味で、死者の霊が支配している世界です。先祖を供養しないとたたりに会うと恐れられています。

しかし、「諸国の民のすべての神はむなしい」と言われます。「むなしい」とは、見せかけだけの「からっぽ」であることを意味します。それに比べて、聖書の神は天地万物の創造主です。たとえば日本で大きな地震や火山の噴火が起きると、自然が怒っているとか、何かのたたりなどと言われることがあります。しかし、地球物理学の先生が、「日本列島は火山活動と地震によって生まれた地です」と言った時に、何か心にストンと落ちました。私たちは火山活動も地震も抑えることはできません。どんな神々にもそれは無理なことです。だからこそ、私たちはこの地球の創造主である神を恐れる必要があるのです。

ただし、私たちは他の神々を礼拝してはいなくても、この世の富や権力を恐れて生きてはいないでしょうか。通貨を用いていなかった南太平洋のサモア諸島の人々がヨーロッパの宣教師によって真の神を紹介されました。しかし、後に彼らは、白人たちは創造主を礼拝しているように見せかけて、実はお金を神としてあがめていると非難したとのことです。

「しかし、主(ヤハウェ)は、天を造られた」(5節)という現実を、私たちもまず覚えるべきでしょう。人間の技術が太陽の光を真似たものを作ったと言っても、それは本物に遠く及ばないものに過ぎません。神が創造された「天」(複数)とは、私たちの想像をはるかに超えた全宇宙の広がりと、この世の現実の背後にある目に見えない永遠の世界のすべてを含むものです。

私たちの視野が狭すぎるため、知らないうちに、真の「尊厳と威光」「力と光栄」(6節)がどこにあるかを忘れてしまってはいないでしょうか。「威光」とは、「名誉」とも訳される言葉で、9節にも繰り返されています。また、「尊厳」は「威光」とペアで使われることが多いことばで「輝き」を意味します。

また「光栄」とは大祭司の衣の美しさなどを現す時に使われる言葉です。ここで、作者は、「主の栄光」とも表現できる概念を、敢えて異なったことばで多様に言い表しています。

7,8節では、「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは「栄光と力を主に帰せよ」という意味ですが、そのように文章を完結させずに、「主(ヤハウェ)に帰せよ」ということばだけが繰り返されるのは、何とも不思議です。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからではないでしょうか。それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」ということばが重なって、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。

「栄光」の本来の意味は「重さ」であると述べましたが、それは「まことに人間の子らは息のようなもの・・彼らを合わせても、息よりも軽い」(詩篇62:9)とあるような人の「軽さ」と対照的な概念です。人の愚かさは、その軽い人間の栄光を、神の栄光よりも優先してしまうことにあります。

モーセは約束の地を前にしたイスラエルの民に向って、「あなたは心のうちで『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主(ヤハウェ)を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。あなたが万一、あなたの神、主(ヤハウェ)を忘れ・・るようなことがあれば・・あなたがたは必ず滅びる」と警告しました(申命記8:17,18)。しかし、イスラエルは豊かさの中で主を忘れ、滅びてしまいました。

これは現代の社会に対する警告とも言えましょう。現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。

パウロは自分の知恵を誇るコリントの人々に向って、「いったいだれがあなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたは、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7)と戒めました。

もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。そのとき私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられるからです。

3.「主(ヤハウェ)は王である」

ダビデは、人々が貢物を携え、王である自分の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、「ささげものを携え、主の大庭に入れ。主(ヤハウェ)にひれ伏せ・・・」(8,9節)と勧めました。それは、心ばかりか自分の身体と財産のすべてを用いて、主への感謝を表わす姿勢です。

また多くの人は、この地の権力者の前で「おののき」ますが、「地のすべてのもの」は、この地の真の支配者であるヤハウェにひれふし、「御前でおののく」べきなのです。

そしてダビデは、「主(ヤハウェ)」こそがイスラエルばかりか全世界の「王」であると、聖歌隊がそろって宣言するようにと命じます(10節)。この告白こそ、この詩の核心です。そして、「主(ヤハウェ)は王である」という告白こそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。

あなたの人生では、誰が「王」となっているでしょうか。自分の無力さ、愚かさを忘れた「裸の王様」も悲劇ですが、目に見える人間を「王」とあがめて、その人の期待に添うようなことをしては息苦しくなるばかりではないでしょうか。

今も、主は、この世界の「王」として、全地を支配しておられます。決まった時間に日が昇り、四季の繰り返しがあるのは、主が「世界を堅く立て」ておられる結果です。地震や洪水があっても、局地的な被害にとどまり続け、この地が「揺るぐことがない」のは、当たり前ではなく、主がノアに対する契約を守っておられるしるしです(創世記8:21,22)。

エレミヤはイスラエルの国が滅亡する中で、昼と夜との繰り返しを見ながら、主のダビデに対する契約も守り通されると預言しました。そこで主は、「もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす」(エレミヤ33:20-22)と言われました。

そして、今、主ご自身が私たちひとりひとりに対し、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と約束しておられます。主は、「王」として、あなたを守り通してくださいます。

「やがて主は公正をもって人々をさばかれる」(10節)とは、強い者が弱い者を虐(しいた)げ、自分たちの労苦の実もかすめ奪われてしまうような世の不条理が正されることを意味します。それは、救い主の到来によってすでに始まっていることです。

ですから、イザヤ書11章では「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という書き出しとともに、ダビデの子として生まれる救い主は、この世の弱肉強食を終わらせ、「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し・・獅子も牛のようにわらを食う」(6,7節)という平和を実現させると預言されています。

ここにおける主の「さばき」は、そのような救いの完成のときを指し示します。それを前提にパウロは「被造物自体も滅びの束縛から解放され、神の子供たちの栄光の自由の入れられる」(ローマ8:21)と記しています。そして、その被造物すべての救いの完成の望みのことが、11,12節では、「喜べ」「喜び踊れ」「とどろけ」「歓喜せよ」「喜び歌う」というほとんど同じ意味をもつ五つもの異なった喜びのことばで表わされています。

なお、「そのとき森のすべての木も主(ヤハウェ)の御前で喜び歌う」(12節)と、「森の木」に特に目が向けられます。エゼキエル31章では北王国イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ帝国が「レバノンの杉」にたとえられ、自分の高さを誇って神のさばきを受ける様子が描かれています。しかし、世界の完成のときは、森の木は天にそびえながら、主を賛美するのです。

「主は確かに来られる。地をさばくために来られる。正しく世界を、真実に人々をさばかれる」(13節)とは、私たちにとってはキリストの再臨の希望を意味します。二千年前にキリストが肉の身体をもって来られ、十字架にかかってよみがえられたことは、やがてキリストが世をさばくために再び来られることとセットになっています。

主は罪人をあわれまれたからこそ、さばきのときを遅らせておられます。そして、私たちが自分の罪深さを認めてイエスにすがっている限り、この再臨のときを恐れる必要はありません。それはキリスト者にとっては、「祝福された望み」(テトス2:13)だからです。

この詩篇には、聖書の最初から最後までの要約が記されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちています。それらを直視しながら、どうして喜んでいることができるでしょう。しかし、「主(ヤハウェ)は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。私たちは永遠の喜びの世界に入れられることを保証された者です。その永遠の観点から見ると、どんな悲しみも、束の間の出来事です。

この神秘を、英国の作家、G.K.チェスタトンは、今から百年ほど前に次のように記しています。「歓喜は・・・キリスト教徒にとっても巨大な秘密である・・・この人はみずからの涙を一度も隠しはしなかった・・・だが彼には何か隠していることがあった・・・神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれに見せるにはあまり大きすぎるものが、たしか何かしらひとつあったのである。そして私は時々一人考えるのだーそれは神の笑いではなかったのかと」。

今、神が沈黙しておられるように感じるのは、私たちの霊の耳が聞き分けることのできる音が限られていることの結果かもしれません。天にはすでに神への賛美の歌が響いているのではないでしょうか。私たちはその喜びの声が、あまりにも大きすぎて聞こえないのかもしれません。主に歌うことは、天上の賛美に私たちの心を共鳴させてゆくプロセスです。

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人の哲学者はキリストとの深い出会いを体験した後、「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空(天)にです。」と言ったそうです。

彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれたとのことです。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけからはじまり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。

彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動、またその支配者である方が自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わいました。

私は大地に根ざした生き方を大切に思ってきましたが、それ以上に大切なのは、この自分の世界が諸々の天の主であられる神のご支配によって守られ、支えられているということをいつも覚えることです。この私は天に根を張って、この地に一時的に置かれ、荒野に咲く花のように、短いいのちを、この地で輝かせるように召されています。そして、樹木が天から引っ張られるようにして地中から水を吸いながら、そのために大地に根ざすように、天を出発点とした考え方は大地に根ざす生き方と矛盾するものではありません。

つまり、神の創造のみわざを喜ぶことと、この地に置かれた自分の存在を喜ぶことは切り離せない関係にあるのです。私は、このままの姿で、この地において、神を愛し、人を愛し、神を喜ぶことができます。

この第一部のまとめとして、主の祈りの第一、「あなたの御名があがめられ(聖とされ)ますように」を覚えさせられます。心の中で、主の御名が聖なるものとされ、御名があがめられるとき初めて、私たちも、いのちの喜びに満たされます。私たちの心が、これらの主の創造のみわざをたたえる賛美に導かれるとき、そこに真の自由が生まれます。

私たちはしばしば、「主の御名をあがめる」ということの意味を、いろいろ抽象的に考えてしまいがちかもしれません。しかし、そうする前に、ただ、これらの詩篇を、心から味わい、それを口に出して、主を賛美すべきではないでしょうか。

しかも、それをひとりでするとともに、信仰者の交わりの中で、この詩篇にある並行法の形式を生かしながら賛美すべきではないでしょうか。聖霊が詩篇作者を通して与えてくださった形にしたがって主を賛美することの中に、思っても見なかった祝福が体験できるかもしれません。