創世記2章4節〜3章24節「神のようになることの悲劇」

2014年7月6日

神は調和に満ちたすばらしい世界を創造してくださいました。しかし、この地には今、混乱と争い、不条理があります。それは人間が神のかたちとして生きるのをやめてしまった結果です。

それにしても、私は昔、「神はなぜ禁断の木の実をエデンの園に置いたのか?」と神の善意を疑っていました。しかし、それこそアダムと一体化した気持ちだとわかりました。これは、過去の御伽噺ではなく、歴史を超えた私たち自身の人生の生きた物語でもあります。

なお、2章3節までは「神」(エロヒーム) という普通名詞が35回も繰り返されましたが、2章4節以降は、3章末までに「神である主」(ヤハウェ・エロヒーム) という表現が20回、4章では「主」(ヤハウェ) が10回繰り返されます。著者は明らかにことばの使い分けをし、これらをセットの物語としています。

2章4節以降で、神の名が異なっていることに関し様々な解釈がありますが、1章では、神が創造主であることに目が向けられる一方で、ここではパーソナル(人格的)な交わりが強調されるという主題の違いにこそ目を留めるべきでしょう。神がご自身の名を紹介しつつ、人に個人的に語りかけながら、世界の始まりを「人の創造」という観点から説明し、その上でその堕落を描いているのです。

1.エデンの園での祝福とそれを失う可能性

2章4節の「経緯」とは、ギリシャ語七十人訳で Genesis と記され、本書の英語の書名の由来です。これは「歴史」とも訳され11回登場し、これをもとに創世記を十二に区分けすることもできます (次は5章1節)。

その上で、4節後半では、「神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) が地と天を造られたとき」と、地の創造に焦点が向かいます。そして、この初めの時の状態が、「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も目を出していなかった。それは、神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである」(2:5) と描かれます。

これは、神が地に植物を生えさせたのは、そこを耕す人間の創造を前提としてのことであるという驚くべき記述です。

創造主は人間がご自身の代理としてこの地を治めるということを前提として、地に植物を生えさせたというのです。人は自然界の進化の結果として生まれたのではありません。

1章27、28節には、「神のかたち」としての人の創造の目的が、「地を満たせ。地を従えよ……すべての生き物を支配せよ」と記されていました。この地の祝福の鍵は、人が「神のかたち」として生きることにあり、地の様々な問題は、人が「神のかたち」として生きることを止めた結果と言えます。

だからこそ、「被造物も切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる」と言われます (ローマ8:19)。これは人が「神のかたち」として生き方を完全に回復することが世界全体の祝福につながるという意味です。

その上で、人の創造が、「神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) は、土地 (アダマー) からのちりとしての人 (アダム) を形造り (the man of dust from the ground)」と描かれ(私訳)、土地 (アダマー) と人 (アダム) との密接な関係が強調されます。

これは1章24節で、「地が、種類に従って、生き物を生ぜよ」と記されていたように、その由来が土地にあると言いながら、何よりも人間が土地に依存して生き、また物理的な個体としての人間は「ちり」に過ぎないということを描いたものです。

しかし同時に、主ご自身が「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」と記されます (2:7)。まさに、主の御顔が人に触れ、そこにご自身の息が吹き込まれたというのです。

ですから、ここでは、人のすばらしさは、個体としてよりは、神と顔と顔とを合わせる関係にあるということが強調されていると言えます。

そして、主 (ヤハウェ) は、エデン(喜び)に園を設けますが (2:8)、不思議にも人の創造の後に、「その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた」と描かれ (2:9)、また「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた」と記されます。この二つの木が、後の人間に大きな意味を持ちますが、ここでは単に、「見るからに好ましい」木々の代表として描かれています。

そして、10節では、「一つの川が、この園を潤すために、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」と記されます。これは「水が地から湧き出て」(2:6) ということをより詳しく描いたもので、ここで強調されているのは、エデンから世界を潤す四つの大河の水が湧き出て流れ出るという点ですから、現在の地理でその場を捜すことには意味がありません。

また、終わりの日には、エルサレム神殿から湧き水が流れ出て、世界を潤し、癒すということが、エゼキエル47章、ゼカリヤ14章に記されています。これも、現在の地理的なエルサレムと考えることには無理があります。なぜなら、黙示録では、その「聖なる都、新しいエルサレムが……神のみもとを出て、天から下って来る」(21:2) と描かれているからです。

私たちは、目に見えるこの地の歴史を超えた、神のご支配に思いを向ける必要があります。神の目から見た世界の歴史は、「エデンの園」から始まって、「新しいエルサレム」で完結するということを心に刻む必要があります。

とにかく、エデンの園において、人はその地を管理するというすばらしい働きが委ねられました (2:15)。しかも、そこには耕す前から「食べるのに良いすべての木」(2:9) が生えていました。人は、そこで、神との交わりを喜び、世界を喜ぶことができていたのです。

私たちは心のどこかで、「この世界は本来のあるべき姿ではない……」という思いを持ってはいないでしょうか。それは失われたエデンの園への憧れが、人の心の奥底に刻まれているからでしょう。

主 (ヤハウェ) はそこで、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い」という祝福の命令とセットで、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」という限界を設けられました (2:16、17)。

しばしば、「なぜ神はそんな危ないものを園の真ん中に置いたのか?」と言われますが、この文脈全体では、「思いのまま食べて良い」という祝福こそが強調されています。そして、その祝福を意識できるために、それを失う可能性が述べられているのです。それは、広い宇宙のどこにも、この地球のような環境を発見できないと分かって初めて、空気のありがたさを意識できるようなものです。

またこれは、結婚指輪にもたとえられます。そこには、すばらしい祝福と合わせて、「浮気をしない」という誓約が込められています。この木は、神と人の関係を豊かに保つための、超えてはならない限界を示すとともに、神の側からの、愛の誓約のしるしでもあります。

2.エデンの園の調和のシンボル 互いを恥じない

一方で、主は、「土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られ」ますが、人をそれらすべての生き物の名付け親にしてくださいました (2:19)。それは、人が「すべての生き物を支配する」(1:29) ということの象徴です。

この直後に、人は、「善悪の知識の木」を、「賢くするというその木」(3:6) と見てしまいますが、人は最初に創造された状態のままで十分に賢く、すべての生き物に名をつけることができるほど創造的な知性が与えられていたのです。

ところで、主 (ヤハウェ) は、「人が、ひとりでいるのは良くない……ふさわしい助け手を造ろう」(2:18) と言われ、女を、人の「あばら骨」から造られました。「助け手」ということばは、神を指す場合もありますし、また「あばら骨」という素材は、「土」よりも上等とも言えますから、ここに、女が男に劣っているという響きを読み取る必要はありません。

それよりもここは、女は男と一体になる者として創造されたという関係が強調されています。ですから、人はこの時、女を見て「私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男からとられたのだから」(2:23) と言いました。

女はヘブル語で「イシャー」と呼ばれ、男「イーシュ」の女性形という響きがあります。男は女を自分と同じ「神のかたち」に創造された尊い存在の女性形、自分と同じ骨と肉を持つかけがえのないパートナーとして喜んだのです。

その上で、「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:24) という人類一般におよぶ記述がなされます。すべての夫婦関係は、この初めの男と女の創造の原点に立ち帰るからです。

夫婦関係は親子関係に優先します。人の始まりは、一組の夫婦だったからです。実際、多くの夫婦関係の亀裂は、親離れができていないことから始まっています。

今も、「自分の家に嫁を迎える」という発想で結婚する人がいますが、神は三千数百年前の人に向かって既に、結婚とは、ふたりでまったく新しい家庭を築くことであると説いているのです。

しかも、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(2:25) と記されますが、これこそエデンの園での平和を描いた象徴的な表現と言えましょう。

彼らは、互いの欠けを補い合う関係にありましたから、自分の弱さを隠す必要がありませんでした。人間の歴史は、調和に満ちた一組の夫婦から始まりました。そして、「新しいエルサレム」では、欠けのあった愛の交わりが完成する状態として描かれています。

なお、人は、個体として完全というより、「土の器」(Ⅱコリント4:7) に過ぎない者であり、息を吹き込んでくださった主に見守っていただくことなしにこの地を治めることはできませんでした。

また人は「ひとりでいるのは良くない」者として創造されています。しかも、人以外のすべての被造物は、「助け手」にはなり得ません。ですから、結婚に限らず、人は、互いに愛し合い、助け合う者として創造されたことを忘れてはなりません。

3.善悪の知識の木の実を取って食べることの意味

3章の初めのことばは、原文で、「さて、蛇がいた。それは神である主が造られた野の獣のうちで最も賢かった」と記されています。「蛇」は、最も「賢い」(元来は中立的な意味)獣ではありましたが、人が名づけた獣、また人が治めることができるはずの「野の獣」でした。

私たちは、「サタンが女を誘惑した」と理解しますが、ここではそのようには記されていません。それは人が、自分をサタンの犠牲者として、被害者意識に流され、自分に責任があるということを忘れないためです。

しかも、この構図は、現代も続いていることです。すべての偶像礼拝の基本は、神との対話を避けて、神の被造物と対話をすることに始まります。それは、神社で狐にお伺いを立てることから、ニューエイジでの「宇宙との対話」に至るまで、すべての原則は同じです。

しかも、蛇の最初の話し相手は、神の命令を直接聞いた男ではなく、後に造られた女でした。そしてその上で、女が男を誘い、男は神に背きます。ですから、ここで描かれていることの中心は、何よりも創造の秩序が崩されたということにあるのです。

蛇は、明らかに間違いと分かる質問を、「ほんとうに神は言われたのですか、園のどんな木からも食べてはならないなどと……」(3:1私訳) と、投げかけて警戒心を解きつつ、神のことばを自由に解釈する誘惑の中に女を招き入れました。女がいい気になって蛇に答えた時点で、神の命令は、過保護な母親のことばのように変えられています。

まず、園の中央に置かれたのは、「いのちの木」なのに、女は「善悪の知識の木」を園の中央に置かれたと言い換えてしまっています。

また、主は、「それに触れてもいけない」などとは言っておられませんし、「死ぬといけないから」ではなく、「必ず死ぬ」と断言しておれました。

今も、聖書のことばを、文脈を無視して読んだあげく、あいまいな記憶のままで思い巡らしたり、人との会話に持ち出し、「神は、人を束縛する意地悪な方!」という勝手なイメージを作り上げて、つまずく人が後を断ちません。

蛇との対話に夢中になった女は、自分の知性に頼って神のみことばを分析しだしました。彼女は、神のみことばを直接に聞いた男に相談しようとも思いませんでした。

また、男もあっけにとられて傍観しているだけで、この異常な構図を止めようともしなかったのかも知れません。

とにかく、蛇は、女を自分の土俵に招き入れることに成功しました。その上で、蛇は、「あなたがたは決して死にません」(3:4)と断言し、神のことばを覆し、その上で、「それを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と甘い約束を加えます。

これは、新興宗教のマインドコントロールに足をすくわれる知的能力の高い人のパターンかも知れません。しかも、これは完全な嘘ではありません。神ご自身が、「見よ。人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るようになった」(3:22) と認めておられるのですから……。

そしてその次の事が、「そこで女が見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」と記されますが、この表現は、「賢くする」という言葉以外は、2章9節で「見るからに好ましく食べるのに良い」という園の中の「すべての木」に相当する表現です。

つまり、女の目には、すべての好ましい木は視界の外に外れ、「食べてはならない」と言われた木しか目に入らなくなったということなのです。

私たちの場合も、すぐに手に入る祝福は、無価値なものに見え、禁止されたことばかりに欲望が湧くということがあります。

蛇の誘惑の根本は、神の禁止命令を女の目の当たりに置き、禁止命令によって欲望をかきたてることにありました。

このときに女に必要だったのは、他のすべての園の木から思いのまま食べて良いという神の愛の語りかけを思い起こすことだったのです。禁止命令にではなく、祝福の教えにこそ目が向けられる必要があったのです。

その後、「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」ということが起き、その結果が、「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」と描かれます (3:7)。

つまり、彼らは確かに、その実を食べたことで、「目が開け……知る」ようになったのですが、現実に起きたことは、「賢くなる」ことではなく、「裸であることを知る」ということでした。

そしてその結果、「彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」という状態に至りました。それは、「互いの裸を恥じることがなかった者」が、「互いの裸を恥じる者となった」ということ、つまり、エデンの園での調和が失われたということではないでしょうか。

かつては、彼らは、互いの弱さ知ることが、互いに助け合うということの始まりとなりましたが、今は、「弱みを見せたら、つけ込まれる……」というような関係になってしまいました。彼らが作った「腰のおおい」は、衣服の始まりですが、私たちも様々な肩書きや経歴を着ることによって自分を装ってはいないでしょうか。

しかも、彼らは創造主に対しても、「私は裸なので、恐れて、隠れました」(3:10)と言いました。裸は、神に創造されたままの姿なのに、それを恥じているのです。それは、裸には、自分の弱さを明るみに出すという意味があるからです。

しばしば誤解されますが、アダムは、「私は罪を犯したので、恐れて、隠れました……」と言ったわけではありません。良心の呵責に悩んでいるのではなく、自分の弱さがあらわになっていることに恐怖を覚えているのです。

恥の感覚は罪の意識より根源的なものということができます。多くの日本人は、良心の呵責以前に、恥じることや辱められることを恐れますが、その始まりがここに記されています。

私は聖書との無縁の世界で育ち、両親からは、「そんなことをしては恥ずかしい……」というような教育を受けてきました。そのため、罪責感から神の赦しを求めるという感覚は心の底に落ちにくく、クリスチャンになっても、「自分は罪意識が希薄だから十字架の赦しが腹の底に落ちない」などと悩んでいました。

しかし、この創世記の記事が分かったとき、恥の感覚から人間の堕落と救いを理解できるようになり、福音を自分の腹の底から理解できる道が開かれました。

4.「神のかたちの喪失とエデンの園からの追放」

主 (ヤハウェ) は、彼らのすべての行動を見ておられましたが、そよ風の吹く夕方まで待っておられました。しかも、「彼らは園を歩き回られる神である主 (ヤハウェ・エロヒーム) の声(音)を聞いた」とあるのは、主がわざと音を出しながら、彼らの応答を待つかのように近づいてくださったという意味です。

主はその上で、「あなたは……食べたのか?」と事実のみを尋ねられました。それらすべての意味は、人が自分の犯した罪を認めて、自分の方から告白する機会を与えるためでした。

ところが、人は、自分の罪を認める代わりに、「あなたが私のそばに置かれたこの女が……」と、女に責任転嫁をしたばかりか、その創造主である神を非難しました (3:11、12)。

つまり、罪責感に悩んで神の救いを求めはしなかったというのが、善悪の知識の木から取って食べたことの結果でした。その意味で、罪責感に悩んで救いを求めたわけではなかった自分は、まさにアダムと同じでした。

これによって私は、創造主を知らない日本人の子孫であるという以前に、アダムの子孫であり、聖書はそんな私のために記されているということが分ったのです。

「責任」は、英語で Responsibility と表現されますが、これは Response(応答)する ability(能力)を意味します。これこそ、「神のかたち」の基本です。

ところが、人は、神の問いかけに正面から答える代わりに、自分を「無力な被害者」に仕立て上げてしまいました。

神は、過ちを犯すことも自分の弱さも恥じる必要もない方ですが、皮肉にも、神のようになった人間は、それによって自分の過ちも弱さも認めることができなくなったのです。

皮肉にも、「神のようになり、善悪を知る」とは、自分を世界の中心、善悪の基準にして、まわりを非難する生き方の始まりでした。そこにおいて、最初に創造された男と女は、エデンの園における、「神のかたち」として調和を、自分から失ってしまいました。

そして、恥の感覚は、神でない者が自分を神のようにした結果として味わった感覚でした。それは、自分がいのちの根源から離れてしまったことの不安から生まれるものです。ちょうど、自立できない子供が自分から親を捨てて不安に陥ることと似ています。

私は最初、この箇所を読んだとき、善悪の知識の木の実自体に何かを起こす力があったのかと誤解しました。しかし、神は、エデンの園に毒りんごを植えるような方ではありません。「善悪の知識の木」から取って食べるという行為自体が、人を害してしまったのです。

その後、主は、土から造られた人(アダム)に対しては、その源である「土地 (アダマー) があなたのゆえにのろわれてしまった……一生苦しんで食を得……顔に汗を流して糧を得、ついには土 (アダマー) に帰る」と宣告されました (3:17-19)。仕事に苦しみとむなしさが入ってきたのは、アダムが自分を神のようにした結果だったのです。

そして、最後に、「あなたはちりだから、ちりに帰らなければらない」と言われます。これは非常に冷たい響きです。人は「ちり」として創造されましたが、神の息を受けて「生きもの」になりました。

しかし、「神のかたち」として神との交わりに生きることを自分から切った人間は「ちり」のような無価値な、「生けるしかばね」のような存在になったのです。

その後、主 (ヤハウェ) は、御心を痛めながらも、人間をエデンの園から追い出しました。主は、かつて、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われましたが、それがこのときに成就したのです。

今、エデンの園の外に住むすべての私たちは、「必ず死ぬ」ように定められています。それをパウロは「罪によって死が入り、こうして、死が全人類に広がった」(ローマ5:12) と語っています。なお、「ちり」に過ぎない人間が永遠に生きる可能性があったのは、「いのちの木」がエデンの園の真ん中にあって、それを食べることが許されていたからですが、主はこのとき、いのちの木への道を封じられました (3:24)。

そして、その道を開いてくださったのがイエス・キリストです。そして、イエスは終わりの日に、「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」(黙示録2:7) と約束してくださいました。

もし、私たちが自分こそがアダムの子孫であることを認め、自分の努力では自分を救うことができないとイエスにすがるときに、主は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5) と安心させてくださいます。

恥の感覚は、今はしばしば、「見捨てられ不安」とも表現されますが、イエスにつながる者は、見捨てられる心配はありません。そして、十字架に死んで、復活されたイエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20) と約束してくださいました。

ですから、もう死の力が、私たちと神との交わりを引き裂くことはありません。それこそが、私たちに与えられた「永遠のいのち」の意味です。

アダムは「神のようになり」、自分を善悪の基準として、この世界に死をもたらしました。しかし、イエス・キリストは、「神の御姿である方なので、神と等しくあることを奪い取るべきこととは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿を取り、人間と同じようになられ」ました (ピリピ2:6、7私訳)。

イエスは神の御姿であるからこそ、簒奪者としての生き方とは正反対の、仕える生き方によって、「神のかたち」としての模範となり、救いの道を開いてくださいました。

この生き方に習った代表者が19世紀末のダミアン神父です。彼は単身でハンセン病者が隔離されているハワイのモロカイ島に入り、病者の世話をしました。当時の島の中は希望を失った人々が、密造酒や淫乱に走っている無法地帯でもありました。しかも島の人々は彼をよそ者としか見ませんでした。

それで彼は徹底的に彼らのひとりのようになり、同じ病になることさえ受け入れました。そこから人々にも希望が芽生え始めました。

彼が感染に気づいたとき、それを「神からの勲章」と呼び、「病者の気持ちが分かる」と喜びました。しかも、彼の発症を契機に、次から次と彼の働きを助ける人々が与えられ、絶望の島は世界中の人々にとっての希望の源の島へと変えられました。