マラキ1章〜2章「神殿再建後の倦怠感の中で」

2014年5月25日

イスラエルの民はバビロン捕囚から解放され、約束の地に戻り、神殿を再建できました。その際、預言者ハガイは、ソロモンの神殿とは比較にならないほどに貧しい神殿を指して、「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう……わたしはまた、この所に平和を与える」(2:9) と述べました。民は、このことばに励まされ、大きな夢を抱きながら、神殿を完成させました。

しかしやがて、「もっと立派な神殿であったら……」、「われわれは相変わらず、異教のペルシャ帝国の支配下で不自由な貧しい生活を強いられている」などという、つぶやきが生まれたことでしょう。

私たちも新会堂建設の感動と興奮が冷める倦怠期に入ってしまう可能性があります。なぜなら、会堂の外観は変わっても、そこに集っている私たちの意識は、そう簡単には変わらないからです。

この世では、興奮はすぐに冷め、希望が萎え、倦怠感が生まれます。それは、環境の問題ではなく、私たちの意識のなせるわざです。

1.「『わたしはあなたがたを愛している』と主 (ヤハウェ) は仰せられる」

この書の最初のことばは、「宣告」ですが、これは主のさばきが迫っているという意味での「重荷」とも訳され、ゼカリヤ9章、12章の始まりのことばと同じです。ですから、ゼカリヤの9章以降とマラキ書とには一連の関係にあると思われます。そして続くことばは、「ヤハウェのことば」「イスラエルへの」「マラキを通して」と記されています。

なお、「マラキ」は、預言者の名前と解釈するのが一般的ですが、31節の「わたしの使者」と同じことばなので、そのように訳すべきという解釈もあります。

この預言が語られたのは、ハガイやゼカリヤの励ましで紀元前516年に第二神殿が完成した後しばらくの、その感動が冷めてしまった倦怠期と言える時期で、内容的にエズラ、ネヘミヤのときの問題と重なっており、広い意味では彼らと同時代のことだと思われます。なお、紀元前458年のエズラによる宗教改革の少し前の時代と考えた方が、エズラ記との整合性が調和するかもしれません。

2節では、突然、「『わたしはあなたがたを愛している』と主 (ヤハウェ) は仰せられる」と記されます。申命記77節では、「愛している」とことばの前に、「主( ヤハウェ) があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれた」という表現が先行しており、「愛」とは何よりも「選び」を意味します。

ただ、イスラエルの民は、なおもペルシャ帝国の支配下にありながら、さらなる解放を望んでおり、主の「愛」が実感できなくなっていたのだと思われます。そのことが、「あなたがたは言う、『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか』と」という疑問として表現されています。

それに対し、「エサウはヤコブの兄ではなかったか。─ 主 (ヤハウェ) の御告げ ─ わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした」(23) という応答が記されます。これは、イサクの双子の長子であったエサウの代わりに、ヤコブが選ばれたことからイスラエルの歴史が始まっていることを思い起こさせるものです。

神の愛は、あらゆる人間的な説明を超えた一方的な選びに基いています。しかし同時に、ここではその対比として、エサウの子孫の受け継いだ地の惨めさが描かれています。

なお、「エサウを憎む」とは、「愛」との対比を示すための誇張表現です。イエスも弟子たちに向かって、「自分の父、母、妻、子……自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることはできません」(ルカ14:26) と言われました。

また、申命記237節にはエサウの子孫を指して、「エドム人を忌みきらってはならない。あなたの親類だからである」と記されています。

一方、パウロはローマ書96-13節で、このマラキ書の冒頭のことばを引用しながら、イスラエルの民がアブラハムへの祝福を受け継いだ理由が、「『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです」と記されています。

残念ながら人間の目には、ヤコブへの愛は、エサウの子孫に対するさばきとの対比でしか理解しがたいものなのかもしれません。そのことが引き続き、4節では、「たといエドムが……『廃墟を建て直そう』と言っても、万軍の主 (ヤハウェ) は……『わたしは打ちこわす』」と言われ、エドムの再建の努力は決して報われないと記されています。

その一方で、イスラエルは今、約束の地への帰還が許され、不可能と思えた神殿の再建さえも成し遂げることができました。この対比のうちに、イスラエルに対する主の愛が明らかにされています。

そして、このような対比を見た結果として、イスラエルの民は「主 (ヤハウェ) はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ」と言うようになると記されます。

当時は民族ごとに異なった神があがめられていましたが、ヤハウェは地境を超えた全世界の支配者であるということが、次々と明らかにされて行きます。そして、その出発点がここにあります。

2.「わたしは、大いなる王である……わたしの名は、諸国の民の間で、恐れられている」

6節で、主はイスラエルに対して、「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人 (アドナイ) であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか」と問いかけられます。

出エジプト422節には、「イスラエルはわたしの子、わたしの初子である」と記されていますが、イスラエルの神ヤハウェと民との関係は、最初から父と子の関係にたとえられています。ところが、イスラエルの民の主に対する態度は、人間の父や奴隷の主人に対する態度に、はるかに劣っているというのです。

特に主はイスラエルの宗教指導者たちを、「わたしの名をさげすむ祭司たち」と非難しながら、彼らが「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」と、自分たちの罪を認めていないことを責めています。

そこで、彼らが祭壇の上に「汚れたパンをささげ」ながら、「どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか」と言っていると指摘します (7)。そして、主は彼らの心の底で、「主の食卓はさげすまれてもよい」と思っていると断罪します。

なお、「パン」とか「主の食卓」とは、具体的には8節のいけにえを指しています。そのことが「あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか」と問われます。レビ記では繰り返し、「ささげもの」の条件に、「傷のない」ということが強調されます (1:310)

そしてマラキは、彼らの愚かさを示すために、「さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか」と問いかけます。この世の権力者が、傷のついた贈り物を喜ばないのは明らかなのに、主 (ヤハウェ) が傷のついたいけにえを受け入れるなどと、どうして思えたのでしょうか。

9節は原文で、「さあ、今、神の御顔を慕い求めてみよ。恵みを受けるために」と記されますが、これは彼らに対する皮肉です。それは、彼らが自分たちの「手によって」、神に受け入れられないいけにえをささげているからです。

そして、10節は「だれかいないのか」という問いかけから始まり、「あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は」と、愚かな礼拝にストップをかける敬虔な者の現れを待ち望んでいます。

その上で、「わたしは、あなたがたを喜ばない。─ 万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる ─ わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない」と断固として言われます。

11節初めには、「なぜなら」という接続詞があり、主が、ご自分の民のエルサレム神殿でのささげものを受け入れないこととの対比で、「日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ」と記されます。

このみことばは非常によく知られていますが、本来は、主の名は既に全世界に知られ、あがめられているので、主には、イスラエルからのいけにえも賛美も必要とはしないという皮肉だと思われます。

ただ、これは同時に、イエスの復活以降に、エルサレムでの神殿礼拝の道が閉ざされるとともに、福音が全世界に広まり、世界中で主の御名があがめられるようになるという形で成就する預言として理解することもできます。

12節は、「しかし、あなたがたは……冒涜している」と言葉から始まり、「『主の食卓は汚れている。その果実も食物もさげすまれている』と言って」と記されます。

それは、「汚れている」ことや「さげすまれている」ことを、まるで当たり前のことのように受け止めているという意味です。主への礼拝においては、「聖別する」ということが大切です。

たとえば私たちはかつて、礼拝する場と食事する場を同じにしなければなりませんでした。しかし、今は、礼拝の空間を聖別することができるようになりました。しかし、昔の習慣が抜けずに、この礼拝の空間を「聖別する」ということを忘れているかもしれません。そのような行動は、結果的に、主を私たちの地平のレベルに引き下ろすという意識につながりかねません。

今、主の御名は全世界において「すべての場所で」あがめられていますから、特定の場所を聖別するということが不必要になったとも考えられます。しかし、私たちの感性は、その置かれる空間によって影響を受けます。この世の論理から隔絶された聖別された空間だからこそ、主の臨在を感じることができるという面もあります。

礼拝堂を主への礼拝のために聖別するということは、私たちの必要から始まっていることなのです。

ところが、そのような勧めを聞きながら、「あなたがたはまた、『見よ。なんとうるさいことか』と言って、それを軽蔑する」ということが起きているというのです (13)。彼らは些細なことなど気にする必要がないという気持ちで、「かすめたもの、足のなえたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物としてささげている」というのです。

それに対し、主は、「わたしが、それをあなたがたの手から、喜んで、受け入れるだろうか」と厳しく問われます。

そして14節では、具体的に彼らの罪が、「群れのうちに雄の獣がいて、これをささげると誓いながら、損傷のあるのを主にささげるずるい者」と描かれながら、そのような者は「のろわれる」と厳しく宣告されます。私たちの目に見えない心は、目に見える形で現されます。

私たちはどこかで、「こころの中の思いこそが大切なのです」ということを、すべてのことを自分の都合に合わせて安易にしてしまうことの言い訳に使ってはいないでしょうか。

そして、主はこのように述べた結論として、原文では、「なぜなら、わたしは、大いなる王であるからだ。─万軍の主 (ヤハウェ) は仰せられる─わたしの名は、諸国の民の間で、恐れられている」と記されています。

主のご支配の現実を、たとえ主の民が心から認識していないとしても、それは既に、世界中に知られ、恐れられていることだというのです。

3.「わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた」

2章の初めでは、「祭司たちよ。今、この命令があなたがたに下される」と言われつつ、「もし、あなたがたが聞き入れず、もし、わたしの名に栄光を帰することを心に留めないなら」と、彼らの聞く姿勢と心のあり方を正そうとしないなら、という条件下においての主のさばきが、「わたしは、あなたがたの中にのろいを送り、あなたがたへの祝福をのろいに変える」と宣告されます。

そればかりか、「もう、それをのろいに変えている。あなたがたが、これを心に留めないからだ」と、すでに、「のろい」が実現していることを宣言しておられます。これは、16節で、「どのようにして……あなたの名をさげすみましたか」と、反省することもなく問い直していることへのさばきと言えましょう。

3節では、「見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたの祭りの糞を。あなたがたはそれとともに投げ捨てられる」などと、忌まわしい表現によるさばきが宣告されていますが、これは17節で、「どのようにして……あなたを汚しましたか」と無反省に問い直したことへの答えと言えましょう。

そして4節では、「このとき、あなたがたは、わたしが、レビとのわたしの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知ろう」と記されながら、彼らは主のさばきを通して、主が祭司の先祖であるレビとの契約の意味に立ち返って来ると述べます。

そして、5節ではその「契約」の意味を、主は、「わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた」と説明してくださいました。「いのち」とは、「しあわせに……長く生き続ける」(申命記4:40)、「平和(シャローム)」とは、戦いがない状態以前に、すべての必要が満たされる繁栄の状態を意味します。

まさに、「いのちと平和」こそが、「新しい天と新しい地」で完成を迎えるものの本質でした。

そして、「それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた」とは、「恐怖」以前に、主が約束してくださった恵みの大きさのゆえに、心からの畏敬の念が生まれたという意味です。

そして、彼らが主を恐れていた時に実現していたことが、「彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた」(6節) と描かれます。

「主 (ヤハウェ) を恐れることは知識の初め」(箴言1:7) と言われ、また、伝道者の書の結論では、「神を恐れよ。その命令を守れ。これこそが人間にとってすべてである」と記されています。

神を恐れるとは、神の厳しいさばきが自分を襲うことが無いようにと、すべてにおいて注意深く、委縮して生きるようなことではなく、伝道者の書にあるように、毎日の生活を、また、家族や友人との交わりを神の恵みとして受け止め、喜び楽しみながら生きることを指します。

主の命令の第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛する」(申命記6:5) ことですが、その第一歩は、主から与えられたすべての恵みを思い起こすことから始まります。

自分の出生を恨み、自分の体形や性格を嫌うことは、あなた自身の創造主を愛することとは正反対のです。主への恐れは、さばきの警告以前に、主が約束してくださった「いのちと平和」の豊かさを理解することから始まるということを私たちは決して忘れてはなりません。

しかし、レビの子孫である祭司たちは、その正反対の道を歩んでしまったということが、「しかし、あなたがたは道からはずれ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった」(2:8) と非難されます。

そして、その必然的な結果を、主は、「わたしもまた、あなたがたを、すべての民にさげすまれ、軽んじられる者とする」(2:9) と言われます。イスラエルの民は自分たちの主を、「さげすみ、軽んじた」ことの当然の報いを受けるというのです。

4.「神は人を一体に造られたのではないか……その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか」

210節からはイスラエルの民全体の罪が指摘されます。まず、マラキは、「私たちはみな、ただひとりの父を持っているではないか。ただひとりの神が、私たちを創造したではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り合い、私たちの先祖の契約を汚すのか」と述べます。

これはモーセがイスラエルの民への告別説教において、「主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを建てるのではないか。昔の日々を思い出し、代々の年を思え」(申命記32:6、7) と語ったことを思い起こさせるものです。

そして、11節では、「ユダは裏切り……主 (ヤハウェ) の聖所を汚し、外国の神の娘をめとった」と、具体的な罪が指摘されています。ここでは、主の聖所を汚すことと並んで、異教徒の娘との結婚が非難されています。これはエズラ記9章以降により具体的に記されていることでもあります。

そして12節ではマラキが、「どうか主 (ヤハウェ) が、このようなことをする者を……ひとり残らずヤコブの天幕から断ってくださるように」と、厳しいさばきを求めて祈っています。

その上で彼は、民が、「涙と、悲鳴と、嘆きで主 (ヤハウェ) の祭壇をおお」いながら必死に願っても、「主がもうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取らない」という事態に既になっていると指摘します (13)

それに対して、「ユダ」の民たちは、「なぜなのか」と問いかけていると描かれながら (14)、それに対して、彼は、「それは主(ヤハウェ)が、あなたとあなたの若い時の妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに」と言います。これは、ユダヤ人の中に、若い時の妻を捨てて、異教徒の妻を娶るような人がいたからだと思われます。

それに対し、マラキは、「神は人を一体に造られたのではないか。彼(その関係)には、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか」と述べます (15)。これは難解な箇所ですが、神は夫婦を一体の者として造り、その関係の中にご自身の霊を与え、それを通して「神の子孫」を創造するというご計画を立てられたという意味だと思われます。

そして、「あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない」とは、妻を裏切ることが、神が与えてくださった「霊」に反抗することだからです。そこで、「イスラエルの神、主 (ヤハウェ)」は、「わたしは、離婚を憎む」と、断固として言われます (16)

続くことばは、「それ(離婚)は外套のように暴虐で自分を覆うもの」(フランシスコ会訳) と訳した方が良いと思われます。これは、新改訳のように、神のさばきとしてではなく、離婚という行為が自分を取り巻く世界への暴虐であるという意味として理解すべきでしょう。

そして最後に、15節のことばを繰り返すようにして、「あなたがたの霊に注意せよ。裏切ってはならない」(16) と閉じられます。

聖書では繰り返し、創造主への信仰が、親から子へと受け継がれてゆくことがいかに大切なことかと強調されています。クリスチャンホームが次のクリスチャンホームを生み出すということが、当然ながら、神の国の広がりの核心です。多くの親は、子供の教育に極めて熱心です。しかし、すべてにまさって大切なのは、信仰が親から子へと受け継がれることです。それを疎かにすることは、神のみこころに真っ向から反します。

そして、その前提として何よりも大切なことが、同じ信仰に立つ者どうしが結ばれて、聖書の教えに従って、互いに愛し合うことです。不思議にも、聖書の初めの書に、「ふたりは一体となる」と記され、また旧約の最後の書に、「神は人を一体に造られた」と記され、一体の人は「神の子孫」を求める、また、主は離婚を憎むと記されていることは非常に興味深いことです。

パリサイ人たちが、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」と問いかけたことに対して、イエスは、「創造者は、初めから人を男と女に造って……ふたりは一体となる」と言われた、「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と述べられました (マタイ19:3-7)

この言葉の背景には、創世記ばかりかこのマラキ書のことばがあると思われます。聖書は何よりも、健全なクリスチャンホームがクリスチャンホームを生み出すようになることを求めているのです。

イスラエルの民は自業自得によって国と神殿を失いました。エサウの子孫は歴史から消えてしまいましたが、イスラエルの民は約束の地に戻していただき、神殿を再建することさえできました。

しかし、彼らはすぐに主の圧倒的なあわれみを忘れ、いけにえをけちり、外側の体裁だけを整えて、心の中で主を侮るようなことを平気でしてしまいました。人間はどんなにすばらしいものを手にしても、すぐにその感動を忘れ、日々の生活に夢中になります。

私たちはどうでしょうか。使徒ヨハネは黙示録2章で、エペソの教会の人々が異端を見分ける洞察力を持っていることを称賛しますが、それと同時に、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(45) と厳しく迫りました。

信仰はすべて、主が私たちを一方的に「恋い慕って」くださったことから始まっています。その原点に繰り返し立ち返ることが何よりも大切です。