ゼカリヤ12章〜14章「その日、一つの泉が開かれる」

2014年5月4日

私たちは目の前の問題の解決をいつも求めます。しかし、主の救いは常に、苦難のただ中に現されるものです。イエスはゼカリヤ書を読みながら、エルサレムを襲う苦難を知り、それに先立ってご自分が弟子たちから裏切られ、十字架にかけられるということを通して人々の悔い改めが生まれると知っておられました。

多くの人は苦しみの原因を断つことを求めますが、真に大切なのは、苦しむことを通して私たちが変えられることではないでしょうか。

1.「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主(ヤハウェ)にある」

12章も9章と同じように「宣告」ということばから始まります。そして、その内容は、「イスラエルについての主(ヤハウェ)のことば」と記され、その「主(ヤハウェ)」のことが、「天を張り、地の基を定め、人の霊をその中に造られた方」と描かれます。

なお、主がどのようなお方であるかに関してのこの短い紹介は、とっても大きな意味があります。たとえば自然科学的には、日本列島の火山活動も地震も、津波も、循環的な地殻変動の中で起こる自然現象にすぎないとも言えますが、私たちの主は、そのすべてを支配しておられ、一人ひとりに目を留めておられる方です。

23節では、最初に「わたし」という主語が強調されながら、「エルサレムを、その回りのすべての国々の民をよろめかす杯とする」という表現と、「わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする」という表現が並行して記されます。

これは、周辺諸国がエルサレムを攻撃しようとすることで、自分自身を傷つけることを意味します。「よろめかす杯」ということばは、イザヤ511722節にもありますが、これは神の怒りを受けることを意味します。そして、ここではそれが、「重い石」として、「すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける」と描かれています。

3節の終わりでは「地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう」と、エルサレムが攻撃を受ける様子が描かれますが、4節では、「その日」ということばとともに、主ご自身が、「わたしは、すべての馬を打って驚かせ、その乗り手を打って狂わせる」と言われ、攻撃軍を混乱に陥れることが描かれています。

そして一方、「しかし、わたしはユダの家の上に目を開き、国々の民のすべての馬を打って盲目にする」と述べつつ、主がユダの家を守るために「目を開」いておられるのとは対照的に、攻撃軍の馬が「盲目」とされる様子が描かれています。

そして、そのとき「ユダの首長たち」に信仰の覚醒が起きて、「心の中で」「エルサレムの住民の力は彼らの神、万軍の主(ヤハウェ)にある」と告白をするようになるというのです(12:5)

そしてその現れとして、再び、「その日」、主は、「ユダの首長たち」を用いて、「回りのすべての国々の民を焼き尽くす」とあるようなユダの勝利が描かれる一方、「しかし、エルサレムは、エルサレムのもとの所にそのまま残る」という安全の保障が記されます。

 そして7節では「主(ヤハウェ)は初めに、ユダの天幕を救われる」と敢えて記され、その理由が、「それは、ダビデの家の栄えと、エルサレムの住民の栄えとが、ユダ以上に大きくならないためである」と記されます。それは、主のあわれみは社会の底辺の人々にまず最初に注がれるということの現れと言えましょう。

89節では、「その日」ということばが三回繰り返されながら、エルサレムの住民に対する主の守り、ダビデの家のリーダシップの回復、エルサレムを攻撃する国々への主のさばきが約束されます。

なお、「ダビデの家は神のように、彼らの先頭に立つ主(ヤハウェ)の使いのようになる」という預言は、イエス・キリストにおいて成就したと言えましょう。

2.「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見・・・その者のために激しく泣く」

1210節から131節では、それまでの主がもたらす直接的な戦いの勝利とは対照的な、不思議な主の救いのみわざが示されます。今まで繰り返された「その日」とは、何よりも「エルサレムの包囲されるとき」(12:2)のことでした。

いつの時代にも、町が敵によって包囲された時、誰かをスケープゴートにして敵の攻撃をかわそうという動きが生まれます。イエスの時代の大祭司は、明確に、イエスを殺すことによってローマ軍との戦いを避けられると考えていました(ヨハネ11:50)。ここでは、そのような人間的な打算をしたことへの「悔い改め」が起きることを意味します。

それは、主ご自身が起こしてくださることで、その核心とは、主が「ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ」(10)というものです。これは「あわれみと哀願の霊」と訳した方が、続く「嘆き」との連続性が明らかになります。

そしてその契機が、「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」ということで描かれます。 

ここで不思議なのは、主ご自身が「彼らはわたしを仰ぎ見」と言いつつ、ご自分とエルサレムの住民が「突き刺さした者」とを重ねていることです。

ヨハネ福音書1937節では、イエスのわき腹が十字架上で、兵士によって突き刺されたときに、「この事が起こったのは聖書のことばが成就するためであった」と述べられながら、二つの聖句のひとつとして、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と、このゼカリヤ書が引用されています。これは、十字架のイエスの苦しみを見る人々に、「あわれみと哀願の霊」が注がれ、自分たちこそが神の御子を十字架にかけた張本人であるという自覚と悔い改めが生まれるという意味です。

ペンテコステの日に、ペテロはエルサレムの住民に向かって、「あなたがたは…・・・この方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました(使徒2:23)と迫りましたが、それを聞いて三千人ほどが弟子に加えられたと記されています。

つまり、イエスの十字架の目撃者は、自分たちが神ご自身を突き刺したような気持ちになり、親が初子を失って泣くように、イエスのために「激しく泣く」という嘆き」の連鎖が、十字架の日から始まりペンテコステの日に頂点に達するという流れが起きるというのです。

11節の「その日、エルサレムでの嘆きは、メギドの平地のハダデ・リモンのための嘆きのように大きいであろう」というのは、ユダ王国の最後の栄光の時代を導いたヨシヤ王の死に対する激しい「嘆き」と比較できるほどであるという意味です(歴代誌35:24,25)

12-14節は、「この地は嘆く」から始まり(「嘆く」と言う動詞は最初だけ)、ダビデの家の氏族、またその息子「ナタン(Ⅱサムエル5:14)の家の氏族」、祭司の家系「レビの家の氏族」、また、その中の「シムイの氏族」から「残りのすべての氏族」へと、悔い改めの「嘆き」が広がって行く様子が劇的に描かれています。 

そして131節では、その結論として、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」と描かれます。

その泉から「きよい水」が流れ出るのですが、それに関してエゼキエル362526節では、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける」と描かれています。つまり、主ご自身が彼らの「罪と汚れ」を「きよめ」てくださるのです。

主は不思議にも、エルサレムに救いをもたらすために、ご自身の御子を十字架にかけることによって、イスラエルの民の「嘆き」を引き起こし、その上で、彼らの「罪と汚れをきよめる一つの泉」を開いてくださるというのです。

神はエルサレムの救いのために、軍事的な勝利以前に、彼らが神を突き刺しているという罪の自覚を促し、同時に、主ご自身が彼らの罪をきよめてくださるというのです。

ここには、十字架から「泉」が開かれるという不思議が描かれています。ゼカリヤ書のテーマは、エルサレムの繁栄を、主が回復してくださるという約束ですが、そのプロセスとして、主ご自身がエルサレムの住民によって「突き刺される」と預言されていることは何と不思議なことでしょう。

3.「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ」

132節では「その日」とのことが、主ご自身が「偶像の名をこの国から断ち滅ぼす・・・その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く」と断言されます。

そればかりか、偽預言者に対して、「彼を生んだ父と母とが」、「あなたは生きていてはならない。主(ヤハウェ)の名を使ってうそを告げたから」と偽預言者である息子の罪を告発するというのです。

しかも、「彼を生んだ父と母が、彼の預言しているときに、彼を刺し殺そう」と記されます。この「刺し殺す」ということばの原文は、先の「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」というときの「突き刺す」と同じです。 

これは、救い主を刺し殺したエルサレムの住民が自分たちの罪を深く悔い改めひとり子を失って嘆くように・・・激しく泣」いたように(12:10)、自分の子が偽預言者であることを発見した時には、主への熱い思いのゆえに、自分の子さえ殺してしまうということです。

これは荒野の四十年の終わりに、イスラエルの民がモアブの娘たちとみだらな行為をした際、ピネハスが「主のねたみ」を「自分のねたみ」とし、手に槍を持って異教の女と交わるイスラエル人を串刺しにすることによって、主の「憤りを・・・引っ込めさせた」ことを思い起こさせることです(民数記25:7-11)

4-6節は、「その日」には偽預言者が自分たちのことを恥じるようになるということとが描かれます。4節では、預言者のしるしとしての「毛衣を着なくなる」ということで自分を隠すことが記されます。

5節では、自分のことを預言者ではなく農夫であると偽るという姿が描かれます。

6節では、「あなたの両腕の間にあるこの打ち傷は何か」と聞く者に対する答えのことが記されますが、これはバアルの預言者がエリヤとの戦いに際に、自分の身を傷つけて必死に祈った姿を思い起こさせるもので、偽預言者のしるしになります(Ⅰ列王18:28)

レビ記1928節には「死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない」と記されています。それに対し、この偽預言者は、「私の愛人(友人)の家で打たれた傷です」と誤魔化して答えるというのです。とにかく彼らは自分を隠すようになるというのです。

  7節からは、主が「わたしの牧者」と呼ぶ方に対する不当なさばきとその結果が記されます。これは、イスラエルの民の主への情熱が誤った方向に現されることを示しています。彼らはバビロン捕囚を契機に、一切の偶像礼拝との縁を断ちきりました。それは2-6節の預言の成就と言えます。

そして偽預言者に対する厳しいさばきは、申命記13章に基くものでした。しかし、その「熱心」のゆえに、イエスの時代の宗教指導者は、イエスを偽預言者として死刑に定めました。

そのことを使徒パウロは、「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は、知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神に義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」と述べている通りです(ローマ10:2,3)

しかも、それは不思議にも、主(ヤハウェ)ご自身が、彼らをかたくなにされた結果です(9:18)。つまり、誤った熱心さも、主の御手の中で起きているというのです。

まず、「剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ」(13:7)とは、主ご自身が剣を持つ者にご自身の牧者とその仲間を攻撃させるという意味です。

そして続く、「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける」ということばは、イエスご自身が最後の晩餐の後で弟子たちの逃亡を予告した際に引用したことばです。

そのときイエスは、「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかし、わたしはよみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行きます」と言われました(マタイ26:31,32)

つまり、主(ヤハウェ)がご自身の牧者を殺させるのは、信仰者に試練を与え、その上で、彼らに真の信仰を芽生えさせるためであるというのです。

残念ながら、アダムの子孫は自分の失敗を通してしか、主に徹底的にすがるという歩みを始められないからです。また、イエスを十字架にかけた者たちも、自分の熱心さによって、主の応答を引き出そうとしていました。

そして、89節では、信仰を練り直す主ご自身のご計画が、「全地はこうなる。─主(ヤハウェ)の御告げ─その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」と描かれます。

これは、イスラエルのバビロン捕囚の際に起きたことであり、また、その後の神の民の歴史に中にも繰り返し起こって来たことであり、また終わりの日に起きることでもあります。しかし、それを通して神の民の信仰が練りなおされるのです。

そして、その結果が、「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主(ヤハウェ)は私の神』と言う」と描かれます。

なお、歴史を振り返ると、主ご自身がイスラエルの三分の二を、天からの火で直接に殺したということはありません。彼らはたとえば、南のエジプトと北のバビロン帝国を両天秤にかけて自分の身を守ろうとして国を滅ぼされました。イエスの時代のユダヤ人は、ローマ帝国への無謀な戦いを仕掛けて自滅しました。

常に、戦争は、自分を神のような立場において、相手の尊厳を無視することから生まれます。そして、主のさばきは、人が互いに殺し合うことを、そのまま放置するということに現されます。ただそれも、主がすべてを支配しておられるという意味に変わりません。

使徒ペテロは「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったことが起こったように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどるものとなるためです」(Ⅰペテロ4:12,13)と記しています。

私たちは苦しみを悪と捉えがちですが、それらはすべて栄光へのプロセスなのです。 

4.「主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる」

141節は、「見よ。その日が主(ヤハウェ)に来る」と訳した方が良いかと思われます(ESV訳Behold, a day is coming for the LORD)。それは、人の目には主の敗北の日に見えるからです。

そしてその際の情景が、「あなたから分捕った物が、ただ中で分けられる」と描かれます(私訳)。それは、あなたが敵の目には存在しないも同然だからです。イエスが十字架にかけられた時、兵士たちがイエスの着物をくじ引きにしたのは、この預言が成就したものと言うこともできましょう(マタイ27:35)

そして2節は、「エルサレムに向かっての戦いのために、すべての国々をわたしは集める」(私訳)と訳すことができます。新改訳では主ご自身がエルサレムへの攻撃を主導しているように思えますが、主の働きは、「国々を集める」ということに過ぎません。国々は自分の意志でエルサレムに戦いを挑んでくるのです。

そして、その際の悲劇が、「町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く」と描かれます。これは、バビロン捕囚の悲劇が繰り返されることを意味します。 

ただ、そのような悲惨のただ中に、主の救いが訪れます。そのことが、「しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。主(ヤハウェ)が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ」と描かれます。これは、主ご自身がオリーブ山の上に立って、敵と戦われることを直接的には意味します。

興味深いのは、イエスご自身がエルサレム神殿の崩壊を弟子たちに向かって話したとき、神殿を見降ろすように「オリーブ山ですわっておられ」たことです(マタイ24:3)。そのときイエスは明らかに、エルサレムがローマ帝国の軍隊によって包囲され、神殿が廃墟とされることを示唆しておられ、40年後にそのとおりになりました。

イエスは、ユダヤ人たちが無謀な戦いを仕掛け、自滅することを警告しておられたのです。しかしイエスはこのとき、武力によってではなく、ご自分から十字架にかかることによって、「剣の力」「死の力」に打ち勝とうとしておられました(ヘブル2:14)。

続けてここでは、「オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る」(14:4)と記されますが、エルサレムを見下ろすオリーブ山は、攻撃軍にとっては格好の前線基地になり得ます。ところが、山が南北に分かれるので、そこが最高の逃げ道になると、5節では記されます。なお、「アツァル」がどこを指すかは不明です。

とにかく、急いで逃げる様子が、「ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう」と描かれます。アモス書にもその自身の事が記されています。

イエスは、「荒らす憎むべき者」が「聖なる所に立つのを見たなら・・ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と言われました(マタイ24:15,16)。当時の人々は神殿が汚されたなら命がけで戦うべきと思っていたのに、主は逃亡を勧めました。それは、この預言のゆえです。

そして、神の民がエルサレムから逃げ出すという絶体絶命のときになって初めて、「私の神、主(ヤハウェ)が来られる。すべての聖徒たちもあなた()とともに」(5節私訳)と「救い」が描かれます。 

67節はひとつのまとまりとして理解すべきで、「光も・・なくなる」とは、昼と夜の区別をつける太陽の光がなくなって、主ご自身が新しい世界を照らしてくださることを意味すると思われます。

黙示録ではそのことが、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない」(22:5)と描かれます。

そして、8節こそ131節の「一つの泉」に続くこの預言の核心部分で、「その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる」と記されます。これはエゼキエル47章により劇的に描かれ、また黙示録221節の「いのちの水の川」につながるものです。とにかく、「湧き水が流れ出」るのは、エルサレムこそが新しい世界を豊かに生かす源となるという意味です。

そして、「主(ヤハウェ)は地のすべての王となられる。その日には、主(ヤハウェ)はただひとり、御名もただ一つとなる」(14:9)というのは、主のご支配が目に見えるかたちで完成し、全世界が神の平和(シャローム)に包まれることを意味します。

1011節はエルサレムの平和を描いたものですが、「アラバのように変わる」とは、エルサレムの北10㎞のゲバから南西56㎞のリモンまで「平地になる」という意味です。そしてエルサレム自体も捕囚以前の繁栄を取り戻すというのです。

その上で12-15節では、「エルサレムを攻めに来るすべての国々の民」に対する「災害」が描かれます。彼らは突然の疫病や同士討ちによって自滅するというのです。

14節は「ユダもエルサレムで戦い」と訳した方が良いかと思われます。そしてその結果、「回りのすべての国々の財宝」がエルサレムに集められることになるというのです。

16-19節では、生き残った諸国の民が、「万軍の主(ヤハウェ)である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」と、エルサレムが全世界の礼拝の中心となる様子が描かれます。

「仮庵の祭り」は、収穫感謝祭とも言えますが、その際に礼拝に上って来ない民には雨が差し止められるのは、(ヤハウェ)を礼拝することこそがすべての豊かさの源となるという意味です。私たちにとっても、主を礼拝することこそが、すべての生産活動の源となります。

2021節は、エルサレムの日常生活のすべてが、「馬の鈴」から家庭で使う「なべ」まで、「主への聖なるもの」とされるという姿が描かれています。

最後に、「その日、万軍の主(ヤハウェ)の宮にはもう商人がいなくなる」とありますが、「商人」の原語は「カナン人」と訳すことができる言葉です。イエスが神殿から「商人」を追い出したのは、このみことばの成就であったのかもしれません。当時は神殿でいけにえをささげるために商人は必要でしたが、イエスはご自分が永遠の贖いを成し遂げるという前提で、彼らを排除したとも言えましょう。

当時は神殿の中にこの世の便利さや金儲けの論理が張り込んでいましたが、イエスはそれを聖めてくださいました。同じ意味でエゼキエル449節には、「心にも肉体にも割礼を受けていない外国人は、だれもわたしの聖所に入ってはならない」と記されています。

しかし、神はその後、外国人にもご自身の聖霊を注いで、彼らは神の民として受け入れてくださいました。エゼキエルでもゼカリヤでも神殿の完全な聖別がテーマになっていますが、イエスこそは十字架と復活で神殿を完成してくださった救い主です。

イエスはこの目に見えるエルサレム神殿を天の神殿として完成し、再臨の日には、「聖なる都、新しいエルサレムが・・・天から下って来る」(黙示21:2)という姿を実現してくださいます。

ゼカリヤの時代は、神殿の再建中でしたから、天にある「まことの聖所」(ヘブル9:2410:19)のことまでは話すことができませんでした。イエスの復活以降の時代に住む私たちが目に見えるエルサレム神殿の復興を望む必要がないのは当然のことです。

ゼカリヤ書は「ひとつの泉が開かれる」「エルサレムから湧き水が流れ出て」と描かれながら、その最後は、仮庵の祭りが全世界の民にとっての祝いとなるという記事で終わります。

イエスはその「祭りの終わりの大いなる日に」、神殿の庭に立って大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました(ヨハネ7:37,38)

主の十字架から「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれ」ましたが、それは私たちのうちから「生ける水の川」として「流れ出るようになる」というのです。

そのために必要なのは、私たちが苦しみを通して自分の力の限界にぶち当たり、聖霊の働きによってのみ、私たちが真の意味で神に仕えることができるということを知ることです。