イザヤ11章1〜10節「いと高き所におられる神のご支配がこの地に広がるために」

2013年12月24日 クリスマス・イヴ礼拝

聖書ではイエスの誕生という重大なことが、驚くほど簡潔に記されています。

「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

救い主の誕生の様子は、たったこれだけしか描かれていません。たとえば、しばしば聖誕劇では、ヨセフとマリヤがベツレヘムに着いてすぐに宿屋を捜したけれどもどこも満室でどうにか馬小屋に入れてもらったかのように描かれますが、そのようなことは何も記されていません。

ただ、「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて・・」(6節)と記されているだけです。それは、彼らが、ベツレヘムに既に一定の期間滞在していながら、誰からも助けてもらえなかったことを示唆しています。

しかも、ギリシャ語ではしばしば主語が明記されなく動詞の形から主語を推測しましが、「布にくるんで飼い葉おけに寝かせた」(7節)という際のふたつの動詞とも「男子の初子を産んだ」に続く三人称単数形ですからのは、飼い葉おけに寝かせたのはマリヤ自身であるかのようです。出産を助けてくれる人が誰もいなかったのです。

ヨセフの様子は描かれていませんが、ただおろおろとしていたのかも知れません。しばしば、男は見知らぬことに直面するとそんな風になるものですから・・・。また、「飼い葉おけ」が、「家畜小屋」の中にあったとも記されていません。昔の人は、それは町はずれの洞穴の中だった推測していました。

実は、何よりもここで強調されているのは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節)というこの一点なのです。なお、当時の宿屋は極めて粗末、かつ危険であり、豊かな人々は、親類や紹介された家に泊めてもらうのが普通でした。ところが、ヨセフは、ダビデの家系だというのに、誰の紹介も受けられませんでした。

つまり、彼らは、「貧しい人が泊まる宿屋にさえ、居場所がなかった」と言われているのです。マリヤは誰の目にも出産間近と見えたことでしょう。それなのに、何日もの間、その粗末な宿にさえ入れてもらえませんでした。これは、住民登録で町が異常に混雑していたからという理由ばかりではなく、彼らが誰からも相手にされなかったことを示唆しています。

暖かい宮殿で、多くの人にかしずかれながら出された皇帝の命令が、マリヤをこのような惨めな出産に追いやりました。しかし、それを導いておられたのは、天の王である神様でした。それは、イエスが、世界の創造主で、すべてを支配しておられる方なのに、いる場所がない」という人の仲間になってくださったということを意味します。

かつて河合隼雄さんという心理学者が、多くの日本人は「日本人という病」を病んでいると、不思議なことを言っていました。今年初め「現代人の悩みに効く詩篇」という本を出版させていただきましたが、それは百万人の福音というキリスト教月刊誌に連載していたものを単項本化したものです。そこで、僕は自分が生まれながら抱えてきた生きにくさを正直に記させていただきました。すると多くの方々から、「それこそ私に悩みです。それを言葉にしてくださりありがとうございます」というレスポンスをいただきました。

振り返ってみると、僕は河合さんがいうところの日本人という病を病んできたのかなと思わされます。日本人は全員一致して同一行動を取ることができるように歴史始まって以来、千数百年間訓練されてきていると言われます。

しかし、当然ながらそれぞれ異なった個性を持つ者たちが同一の行動を取ることはできません。必ずはみ出し者が出て来ます。僕はずっと、自分の中に、皆と群れることができない、また群れることを嫌う強い思いを持ちながら、仲間外れになることを恐れている自分がいることを過度に意識し、「いる場所がない」という状態になることを恐れていました。

ところがそのような中で、私たちの救い主ご自身が、「いる場所がない」者の仲間となるために、人となってくださったということが分かった時、ほんとうに気が楽になりました。

僕は、個人を村社会のような集団に埋没させようとする日本人の中に流れる無意識的な強制力がとっても嫌いでそれから自由になりたいと思っていました。しかし、最近はふと思います。僕はやはり何と言っても日本人であり、それから自由になることはできないのだと・・・河合さんも同じような葛藤を味わっていたとのことです。そして、それは多くの日本人の心の底に流れる葛藤です。

私たちが目指すべきことはその葛藤を無くすことではなく、その葛藤を避けようとして、間違った方向に決断してしまうことです。私たちの救い主が、私たちと同じ葛藤を味わう者となってくださったのは、この葛藤を無くすためではなく、その葛藤のゆえに誤った決断をすることがないようにというためだったとは言えないでしょうか。

ところでイエスがマリヤとヨセフのもとで寂しくお生まれになられた時、そこから離れたところで起きていたことが次のように記されています。

「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした・・御使いは彼らに言った・・・  きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。

この羊飼いたちに示された、救い主の「しるし」とは、まばゆい光ではなく、何と、「布にくるまって飼い葉おけに寝ている」(12節)という貧しさそのものだったのです。飼い葉おけに寝ている赤ちゃんなどあり得ないからこそ、それが「しるし」となるにしても、どうせなら同じ「しるし」でも、もっと美しく輝くしるしであって欲しいと思いたくもなります。

そして、原文では、「飼い葉おけ」ということばに続いて、「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて・・」(13節)と、地の貧しさと対照的な、天の栄光が垣間見せられます。

これは、歴史上のどんな偉大な預言者も聞けなかったような天の軍勢による最高の賛美でした。これこそ多くのクリスマスキャロルの原型です。

ここでは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と歌われましたが、「御心にかなう人々」とは、エルサレム神殿の宗教指導者ではなく、毎日の糧をやっとの思いで手に入れている社会の最下層の人々、羊飼いたちのことだったというのが何とも驚きです。これは、「御心が向けられた人」とも訳され、神があわれみをかけてご自身のまなざしを向けてくださった人を意味します。

しばしばこの祈りは、「天では神に栄光、地では人に平和」と、天と地での祈りの内容が異なるかのような印象を与えますが、これは、この地を治めるコントロールルーム(いと高きところ)におられる神に栄光が帰せられるときに、その結果として、神のあわれみが注がれ、羊飼いのような、地で虐げられている人々に平和(繁栄)がもたらされるということを覚えた祈りと解釈できます。つまり、これは、いと高きご支配に栄光が帰せられることは、神のあわれみの注がれる地の平和と繁栄につながるという、天と地が一つになる祈りなのです

その後、羊飼いたちは・急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てます。マリヤとヨセフは貧しい救い主の誕生の傍らで、そのような前代未聞の天使の賛美が羊飼いに聞かされていたことに慰めを受けたことでしょう。

それは、救い主の誕生が、なぜこうも悲惨なのか・・・と疑問を持ったであろうマリヤとヨセフに、すべてのことはいと高き神のご支配の中で起きていることであるという深い安心感を与えたことでしょう。

人間の目には「いる場所がない」という状態にある中で、いと高き所におられる神のご支配があがめられていました。そして羊飼いの上にこそ、神のあわれみが注がれていました。

この場面を深く黙想するとき、神の平和が、人間の目には弱く惨めな人々によって実現されるということがわかります。もう、「自分こそが一歩でも先に進むことで居場所を確保し、安心できる・・」という駆り立てがなくなるとき、人は互いを喜ぶことができるようになります。

預言者イザヤの時代、イスラエルは二つの国に分かれて争っていました。そして、今まさに北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされようとし、南王国ユダに対しても来るべき裁きが宣告されていました。そのような中で、イザヤは、国が滅亡した後に実現する神の不思議な救いの御計画を人々に知らせようとしていました。

イザヤ11章では、驚くべきことに、クリスマスの預言と新天新地の預言がセットになっています。つまり、二千年前のキリストの降誕は、全世界が新しくされることの保証として描かれているのです。

まず、「エッサイの根株から新芽が生え」と記されますが、エッサイはダビデの父です。ダビデから始まった王家はそれ以降堕落の一途をたどりバビロン捕囚で断絶したように見えましたが、ダビデに劣ることのない理想の王がその同じ根元から生まれるというのです。

彼は様々な過ちも犯しましたが、多くの詩篇を記したことにも現れているように、いつも神との豊かな交わりのうちに生きていました。それが、ダビデの支配下で、イスラエルが平和と繁栄を享受できた原因です。救い主は、ダビデの子として、その平和と繁栄を再現すると期待されていました。

イエスは人々の注目を集めずひっそりと生まれますが、彼の上に「主(ヤハウェ)霊がとどまり」ます。

そして3-5節では「この方は【主】を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し・・・正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」と記されます。

「恐れる」とは、自分ではなく主のみこころに徹底的に服従する姿勢を表します。これは、理想の王が、日々天の父なる神との豊かな交わりのうちに生き、その生涯を通して父なる神のみこころに従順である姿勢を現します。

特に興味深いのは、「その目に見るところによってさばかず」とあるように、この方は、人間の視覚や聴覚の誤り易さを深く知っておられるというのです。

そして、この理想の王は、「正義は腰の帯となり、真実はその胴の帯となる」とあるように、帯をしっかりとしめて働きをまっとうし、正義と真実で世界を治め、この地に理想の世界をもたらすというのです。

神は、エデンの園という理想的な環境を造り、それを人間に管理させましたが、アダムは神に従う代わりに自分を神とし、この地に興廃をもたらしました。そして、残念ながら、アブラハムの子孫たちも、乳と蜜の流れる豊かな約束の地を治めることに失敗してしまいました。

そこで、神の御子である方ご自身が、人となり、自らこの地に平和をもたらそうとしたのです。

そして、6節からはこの第二のダビデ、理想の王が、ダビデが成し得なかったような完全な平和をエルサレムに実現し、エデンの園を再興すると語られます。この世界こそが、65:17-25によると、「新しい天と新しい地」と呼ばれるのです。

「狼と小羊、ひょうと子やぎ、子牛と若獅子」とは食べる側と食べられる側の関係ですが、新しい世界においては弱肉強食がなくなり、それらの動物が平和のうちに一緒に生活できるというのです。

「小さい子供がこれを追う(導く)」とは、エデンの園における人間と動物との関係が回復されることです。人が神に従順であったとき、園にはすべての栄養を満たした植物が育っていましたから、熊も獅子も、牛と同じように草を食べることで足りました。新しい世界では、それが一時的な変化ではなく、それぞれの子らにも受け継がれます。

 

また、「乳飲み子」や「乳離れした子」が、「コブラ」や「まむし」のような蛇と遊ぶことができるというのは、エデンの園で蛇が女を騙したことへの裁きとしてもたらされた、「蛇の子孫と女の子孫との間の敵意」(創世記3:15)が取り去られることを意味します。これは、蛇がサタンの手先になる以前の状態に回復されることです。

「わたしの聖なる山」とは、エルサレム神殿のあるシオンの山を指しますが、それが全世界の平和の中心、栄光に満ちた理想の王が全世界を治めることの象徴的な町になります。

現在のエルサレムは、残念ながら民族どうしの争いの象徴になっています。それは、それぞれの民族が異なった神のイメージを作り上げてしまっているからです。

しかし、完成の日には、「主(ヤハウェ)を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」ので、宗教戦争などはなくなります。そのとき、神はご自身の律法を人々の心の中に書き記し、もはや「主(ヤハウェ)を知れ」と互いに教える必要もなくなるからです(エレミヤ31:34)。

つまり、神の救いの御計画の目標は、人間を含めるすべての被造物が、「主(ヤハウェ)を知る」ことにあるのです。この世界の悲惨は、根本的には、人間が主を忘れたことに起因します。ですから、私たち人間が本当の意味で、心の底から「主(ヤハウェ)を知る」ときに、この世界は神の平和で満たされるのです。私たちが求めるべきことは、何よりも、私たち自身が、主をより深く知ることと、より多くの人々が主を知るようになることなのです。

この世界が、暗闇に向かっているのか、また、主にある平和の完成に向かっているのか、どちらに向かっているかを知るということは、私たちの日々の歩みに決定的な違いをもたらします。

 

シモーヌ・ヴェイユという20世紀初頭に生きたユダヤ系フランス人は世界の悲惨を自分の痛みとしながら34歳で天に召されましたが、キリストとの深い出会いを体験した後、次のような印象的なことばを語っています。

「樹木は、地中に根を張っているのではありません。空(天)にです。」

彼女はギリシャ語で「主の祈り」の初めのことばを暗唱している中で不思議な感動に包まれました。その祈りは、原文では、「お父様!」という呼びかけからはじまり、その方が、「私たちのお父様」であり、また、「天(複数)におられる」と続きます。

彼女はそれを繰り返しながら、自分がこの目に見える世界を超えた天の不思議な静寂と平安に包まれているという感動を味わいました。そればかりか、またその支配者である方が、自分を愛する子どもとして引き受け、その愛で包んでくださるという感動を味わったと記しています。

それは私たち自身の心や身体についても言えることです。優しい日の光に包まれながら、自分が天に根を張ってこの地に一時的に遣わされているとイメージしてみてはいかがでしょう。

もちろん、私たちは、能力を最大限に生かし、世界を少しでも住みよくするために協力し合うべきですが、いのちのみなもとである方を忘れ、人間の能力ばかりを見るなら悲劇が生まれます。なぜなら、そこに人と人との比較競争が生まれるからです。それによって私たちの心は、卑しく貧しく余裕がない状態へと駆り立てられてしまいます。

僕も小さいころから日本人という病におかされながら、居場所のない状態に追いやられることを恐れ、頑張ってきました。しかし、ふと、この葛藤を味わったままの自分が神の愛に包まれていると感じたとき、自分の感性を自由に喜ぶことができるようになりました。そして、同時に、人の感性も尊重できるようになりました。

自分の正義を主張して戦って一時的に勝利を収めてもそこには必ず次の戦いが待っています。しかし、私たちは、今、問題を抱えたままで神の愛に包まれていることを実感することができます。救い主の貧しい誕生は、天の父なる神の御手の中でたしかに起きていました。あなたの現在がどれほど悲惨であったとしても、救い主の誕生に比べればずっとずっと良い状態にあるのではないでしょうか。

たとい、私たちが自分の置かれている世界の悲惨に涙を流しているとしても、救い主がこのイザヤ11章に記された神の平和と繁栄(シャローム)を実現するためにこの世界に降りて来てくださったことを思いを巡らすとき、この世界が神の平和の完成に向かっていることに心の目が向けられ、いつでも喜ぶことができるのです。