ナホム2章〜3章「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」

2013年12月8日

今、日本では、与党の絶対多数を背景にした強引な採決手法が批判されています。それは当然、反省が促されるべきことですが、同時に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」という永遠の真理を忘れてはなりません。

力に対して力で対抗するのではなく、法案の問題点を、忍耐をもって、分かりやすく、優しく指摘し続けることの方がはるかに大切です。なぜなら、どんな法案であろうとも、時が来たら修正できるからです。

日本人はもっと長い視点で政治を考えるべきかもしれません。今から約七百年余り前に記された平家物語の有名な一節、「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し、猛き人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」ということばの背後に、そのさらに二千年近く前に記されたナホム書の影響があるような気さえもします。

創造主を敵とする権力者は、必ず滅びます。その滅亡は驚くほどあっけないものです。それは歴史で証明されています。私たちの主イエス・キリストはすでに、目に見えない天の領域から、この地を支配しておられます。そして、私たちに求められているのは、謙遜の限りを尽くして人々に仕えたイエスの姿に習って生きることです。

1.「雄獅子の住みかはどこにあるのか・・・」

2章は、「散らす者が、あなたを攻めに上って来る」ということばから始まります。これはアッシリヤ帝国を「散らす」軍隊が攻めてくることを示しています。

そして、その攻撃軍の恐ろしい姿が、3,4節で、「その勇士の盾は赤く、兵士は緋色の服をまとい、戦車は整えられて鉄の火のようだ。槍は揺れ、戦車は通りを狂い走り、広場を駆け巡る。その有様はたいまつのようで、いなずまのように走り回る」と描かれます。盾が「赤い」のは、多くの人々を殺した血のせいかもしれません。兵士の服が「緋色(深い紅色)」なのは、恐怖をもたらす意味だと思われます。そして、彼らの戦車は通りを狂ったように走ります。

「その有様はたいまつのよう」とありますが、これは暗やみの中に赤々と力強く燃える、人に恐怖心を起こさせます。しかもそれが「いなずまのように走り回る」というのです。

5節の主語は1節の「散らす者」を受けた「彼」だと思われます。ここは、「彼は勇士を覚えている。彼らは進軍しながらつまずきつつ、その城壁へと急ぎ、攻撃塔を設ける」と訳すことができ、その結果のニネベの陥落も「川の水門は開かれ、宮殿は消え去る」と訳すことができます。

これは、攻撃軍が強力な統率者のもとで、「つまずき」ながらも、われ先にと城壁に襲い掛かり、たちまちのうちに城壁を落とす攻撃塔を建て、その上で町を防御する川の流れを変え、町を水没させたのだと思われます。

詳細は分かりませんが、史上初の異民族国家を支配した大帝国の首都が、たったの三か月で陥落したと言い伝えられていますが、その背後に神のさばきがありました。

そのような中で、「王妃は捕らえられて連れ去られ、そのはしためは鳩のような声で嘆き、胸を打って悲しむ」(2:7)という悲惨が描かれます。

そして無敵を誇ったニネベを守るアッシリヤ軍の逃げ惑う姿が、8節で「ニネベは水の流れ出る池のようだ。みな逃げ出して、『止まれ、立ち止まれ』と言っても、だれも振り返りもしない」と描かれます。これは軍律が乱れ、「立ち止まって戦え」と言う将軍の声が空しく響く中で町が陥落する様子です。

そして、9節では略奪を競い合う攻撃軍の声が、「銀を奪え。金も奪え。その財宝は限りない。あらゆる尊い品々が豊富だ」と記されます。世界の富を略奪したニネベは、今反対に、蓄えた富が一瞬のうちに奪い取られようとしています。

そして、10節の「破壊、滅亡、荒廃」とはヘブル語で極めて似た発音のことばが三つ並べられ、ニネベの荒廃が描かれています。そして、町の住民たちが恐怖に震える様子が、「心はしなえ、ひざは震え、すべての腰はわななき、だれの顔も青ざめる」と続けて描かれます。

11,12節での「雄獅子の住みかはどこにあるのか・・・」とは、ニネベの王宮が滅びたことを皮肉った表現です。獅子は強力な王権の象徴でした。

そして、ニネベのかつての王宮の安心感が、「それは若い獅子のためのほら穴。雄獅子が出歩くとき、雌獅子と子獅子はそこにいるが、だれも脅かす者はない」と描かれます。かつてはみなが王の権威を恐れて、王の不在中でも王妃や王の子供たちは安心しきっていました。

またかつての強欲の繁栄、軍事力で王宮が諸国の略奪物で満たされていた様子が、「雄獅子は子獅子のために、十分な獲物を引き裂き、雌獅子のためにかみ殺し、そのほら穴を、獲物で、その巣を、引き裂いた物で満たした」と描かれます。

そして、攻撃のすべての背後に、イスラエルの神、主(ヤハウェ)ご自身がおられることを、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。─万軍の【主】の御告げ─わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣はあなたの若い獅子を食い尽くす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす」と記されます(2:13)。つまり、ニネベ攻撃軍を動かしているのは主ご自身であるというのです。

そして、最後に、「あなたの使者たちの声はもう聞かれない」と言われますが、これは1章15節の神の民ユダに「良い知らせ」「平和」が告げ知らされるのとは対照的です。

なお、ヘブル語聖書では、1章15節が2章の始まりになっています。つまり、2章の始まりと終わりが、「見よ」ということばとともに、ユダにとっての「良い知らせ」は、ニネベの滅亡であったと描かれていることになります。これこそ神のみわざでした。

残念ながらこの世においては、私たちに危害を加えるのは私たちと同じ人間です。しかしイエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5:44)と言われました。

そんなことをしたら、敵はますます増長することになると不安になるかもしれませんが、イエスがそのように言われたのは、天の神ご自身があなたの敵にあなたの代わりに復讐をしてくださるということを知っておられたからです。主(ヤハウェ)の復讐こそナホム書のテーマです。

イエスは十字架上で、ご自分を十字架にかけた者たちのことで、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈られましたが、その直前にイエスは、「彼らが生木(イエス)にこのようなことをするなら、枯れ木(エルサレムの宗教指導者)には、いったい、何が起こるでしょう」と言われました(ルカ23:31,34)。

つまり、イエスは彼らの上に降りかかる神の復讐を眼のあたりに見ていたからこそ、その赦しを願われたのです。敵が勝ち誇っていて、あなたの目にも彼らの繁栄が続くように思えるときに、彼らのために祈る必要など感じないのは当然です。

しかしあなたの身近にいる人々が滅びに向かっているのを目の当たりに思い浮かべるなら、たといその人があなたにとっての敵であったとしても、少しは可愛そうに思え、祈ろうという気持ちになるものです。

なお、「敵を愛する」とは、敵を感情的に好きになることではありません。愛は、何よりも行動で表現されるからです。それは「あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませる」という、敵を隣人として扱うことです。

2.「あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。『ニネベは滅びた』と」

3章初めではニネベの罪を告発する声が、「ああ。流血の町。虚偽に満ち、略奪を事とし、強奪をやめない」と描かれます。

アッシリヤはその残忍さで知られていました。しかも、彼らは虚偽によって征服する国に降伏を勧めました(Ⅱ列王記18:31,32)。また、2章12節にあったように彼らは「略奪」と「強奪」によって富を蓄えていました。

そして、ニネベを攻撃する軍隊の様子をナホムは目撃者であるかのように、「むちの音。車輪の響き。駆ける馬。飛び走る戦車。突進する騎兵。剣のきらめき。槍のひらめき。おびただしい戦死者。山なすしかばね。数えきれない死体死体に人はつまずく」と描きます(2,3節)。

これは2章の3-5節の描写を簡潔に言い換えた表現ですが、驚くほどにリアルな表現です。それこそ、神が見せてくださった幻です。特に「死体」の描写がリアルですが、この情景を思い浮かべる時、神の復讐の恐ろしさが心に迫ってきます。

また主のさばきの理由が引き続き、「これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行う女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った」(3:4)と描かれます。この当時のアッシリヤは守護神アッシュールの礼拝をすべての支配地の住民に強制するようになっていました

たとえば北王国イスラエルの滅亡の前、エルサレムの王アハズはアラムを滅ぼしたアッシリヤの王に会うためにダマスコに上りましたが、その直後に彼は、何とエルサレム神殿の庭に、異教の祭壇を築かせ、そこで伺いを立て、また神殿の大改造を行いました。そこでその理由が「アッシリヤの王のため」と記されています(Ⅱ列王記16:10-18)。この神殿改造でどのようにアッシリヤの王のご機嫌を取ることができたかはわかりませんが、ここにはアッシリヤが自分たちの宗教を支配地に強制して行く様子を垣間見ることができます。

また、アハズの孫のマナセもアッシリヤに徹底的に服従しましたが、その際、彼は、「まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをし・・・自分が作った偶像の彫像を神の宮に安置した」と描かれています(Ⅱ歴代33:6,7)。この背後にもアッシリヤ王の圧力があったのだと思われます。

何しろ、異民族を心から服従させるためには、彼らのアイデンティティーの基礎を作るその宗教を変えることが必要になるからです。それはたとえば、日本が朝鮮半島を支配する際に、神社参拝と天皇崇拝を強要したことと似ています。

それに対し、2章13節と同じ表現が用いられながら、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう。─万軍の【主】の御告げ─」(3:5)と宣告されます。

そこで主は、「わたしはあなたのすそを顔の上までまくり上げ、あなたの裸を諸国の民に見せ、あなたの恥を諸王国に見せる」と言われます。これは、アッシリヤに遊女の真似を強制的にさせるという意味です。

彼らは自分たちの支配地に、偶像礼拝や呪術まじないという淫行を広め、彼らを堕落させて行きました。それで今度は、主ご自身が、彼らを遊女として辱めるというのです。

そればかりか、主は、「わたしはあなたに汚物をかけ、あなたをはずかしめ、あなたを見せものとする」(3:6)という「のろい」を宣告します。

そして、ニネベが辱められる様子が、「あなたを見る者はみな、あなたから逃げて言う。『ニネベは滅びた』と」と描かれます。これはニネベを見る者が、何か汚れたものを見たように、恐れて立ち去るという意味です。

その上で、「だれが彼女を慰めよう。あなたのために悔やむ者を、どこにわたしは捜そうか」と問いかけられます。そこでは、ニネベを慰める者はだれもなく、ニネベのために悔む者はどこにもいないという答えが前提とされています。そこには、ニネベに媚を売って、商取引で利益を得ていた人々も含まれていることでしょう。

ニネベはすべての民にとっての軽蔑の的、あざけりの対象とされるというのです。人々から恐れられ、人々の貢物を傲慢に受け取っていた町が、今、汚れた町として人々から軽蔑され、無視される、それこそが神の燃える怒りを受けたしるしでした。

それにしても、「あなたを見る者はみな・・」という表現に、イエスが十字架で人々の辱めを受け、ののしられ、無視される様子がダブって見えます。十字架は本来、神にのろわれてしまったことのシンボルでした。

パウロはガラテヤ書で、「キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(3:13)と記しています。ニネベに対するさばきにキリストの十字架を重ねるなどというのは、なかなか思い浮かべにくいことかも知れませんが、少なくともあなたの周りで、人々を占いやまじない、呪術や偶像礼拝に誘惑している人、また、人を人とも思わないような人は、やがてニネベと同じように滅ぼされることは確かなのです。

彼らのためにもイエスは十字架にかかってくださいました。そのような人々の罪の贖いのために、イエスは彼らが受けるべき呪いを代わりに引き受けてくださいました。それを心から味わい、彼らのために祈るべきでしょう。

3.あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。

3章8節で突然、「あなたは、ナイル川のほとりにあるノ・アモンよりもすぐれているか」という問いかけがなされます。「ノ・アモン」とはヘブル語名ですが、多くの人々はそのギリシャ名の「テーベ」という名でこの町のことを知っています。ここは地中海からは640㎞も南にあるエジプト南部の強大な都市で、長い間エジプトの首都であった神聖な文化都市でもありました。

その守りの堅さが、「水がこれを取り囲む。その塁は海、その城壁は水」と描かれています。ナイル川はこの付近で約800mもの川幅があり、「海」とも呼ばれる水の豊かさを持っていました。またそこから引かれた多くの運河は町の堅固な城壁としても機能していました。

そして、「クシュとエジプトはその力。それは限りがない」(9節)とありますが、「クシュ」はテーベの南のエチオピアを指し、エジプトはテーベのある地域全体を指します。とにかく当時の世界で最強の軍隊がテーベを守っていると思われていました。

また「プテ人、ルブ人もその助け手」とありますが、「ルブ」とは多くの英語訳でリビアと記され、「プテ人」とはリビアの西にある町だと思われます。とにかく、これらの地中海沿岸の町々もテーベの援軍となると期待されていました。

「しかし、これもまた、捕囚となり、とりことなって行き、その幼子たちもあらゆる町かどで八つ裂きにされ、その高貴な人たちもくじ引きにされ、そのおもだった者たちもみな、鎖につながれた」(3:10)とは、このように難攻不落と思われたテーベも紀元前663年にアッシリヤのアッシュール・バニパルの軍隊によって陥落させられ、その住民は捕囚とされ、幼子たちは殺されました高貴な人たちがくじ引きにされるとは、その能力に従って奴隷としてくじ引きで征服者の間で分配されたという意味です。これは、当時の世界の常識をひっくり返す出来事でした。

そして、この同じ悲劇がニネベを襲うことが、「あなたも酔いしれて身を隠し、敵から逃げてとりでを捜し求めよう」(3:11)と記されます。皮肉にも、テーベを陥落させたと同じ軍隊は、その方向が変われば自分自身をも滅ぼす力になり得るのです。なぜなら、アッシリヤ軍は支配地からの強制的な徴兵によって成り立っており、忠誠心など期待できないからです。

ここで「酔いしれて身を隠す」とは、ニネベの住民が、実は酔っ払いのように無力であることをそのときに自覚させられ、敵から逃げてどこかに避難することしか考えられなくなることを指しています。

またニネベの要塞のもろさが、「あなたのすべての要塞は、初なりのいちじくを持ついちじくの木。それをゆさぶると、食べる者の口に落ちる」(3:12)と描かれます。これは、敵の攻撃に揺さぶられるだけで、城壁が簡単に落ちる様子を描写したものです。

また、「見よ。あなたの兵士は、あなたの中にいる女だ」(3:13)とは、兵士が女のように無力であるという意味、「あなたの国のもろもろの門は、敵のために広くあけ放たれ、火はあなたのかんぬきを焼き尽くす」とは、敵の攻撃が始まるとすぐに城門が開け放たれ、敵軍が町に殺到する様子を描いたものです。

なお、14節は皮肉を込めた語りかけで、「包囲の日のための水を汲み、要塞を強固にせよ」とは、敵が包囲してくるとき町に水を供給する水路がまずふさがれるので、それに備えて水を備蓄することで要塞を強固にせよという意味です。

また、「泥の中に入り、粘土を踏みつけ、れんがの型を取っておけ」とは、これからでも煉瓦造りに励むようにと言う皮肉です。

そして、敵軍に攻められたときの様子が、「その時、火はあなたを焼き尽くし、剣はあなたを切り倒し、火はばったのようにあなたを焼き尽くす」(3:15)と描かれます。これはニネベの町が火で焼かれ、ばったが農作物を食い尽くすように、廃墟とされることを示します。

続く、「あなたは、ばったのように数を増し、いなごのようにふえよ」という表現は、再びニネベに対する皮肉です。ニネベが防衛力を増強しても、いざとなったら彼らはばったやいなごのように、すぐに別方向に飛び去って、町の防御の役には立たないからです。

そして、「あなたの商人を天の星より多くしても、ばったがこれを襲って飛び去る」(3:16)と記されるのは、ニネベが商業の町として繁栄していたからですが、敵の攻撃の前には商人は何の役にも立たず、すぐに逃げ去ります。

また、「あなたの衛兵は、いなごのように、あなたの役人たちは、群がるいなごのように、寒い日には城壁の上でたむろし、日が出ると飛び去り、だれも、どこへ行くか行く先を知らない」(3:17)とあるのは、町の守り手となると思えた人々は、「寒い日」には城壁の上に立って、自分たちの存在をアピールしていながらも、日の出のように敵の来襲が明らかになると、すぐに逃げ去ってしまい、だれもその行き先を分からないように霧散してしまうというのです。アッシリヤの防衛力は、まさに見かけ倒しでした。

18節の「アッシリヤの王よ。あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は山々の上に散らされ、だれも集める者はいない」とは、本来、民を導く牧者がいて初めて、羊のように方向感覚のない民は安心して生きることができるのに、アッシリヤの指導者は、自分の民を敵の襲撃から守る気力も能力もないことを示したものです。

彼らは私腹を肥やすことばかりに専念して、民を導くという責任を放棄しています。

最後に19節では、「あなたの傷は、いやされない。あなたの打ち傷は、いやしがたい」とあるのは、アッシリヤ帝国が今まさに滅亡に向かっている動きを誰も止めることができないという意味です。そのようになったのは、アッシリヤ帝国がその残忍さと横暴さのゆえに、世界中の人々から嫌われていたからです。

そのことが、「あなたのうわさを聞く者はみな、あなたに向かって手をたたく。だれもかれも、あなたに絶えずいじめられていたからだ」と最後に記されます。

アッシリヤの支配地のすべての人々が、アッシリヤの指導者たちから苦しめられていました。それで、彼らの滅亡は、世界中の人々にとっての喜びの喝さいの時となるというのです。

力で強引な支配をつづけた支配者が滅びる時は、あまりにもあっけないものです。それは、数十年前の共産主義国での独裁者の最後や最近のアラブの春での独裁者の最後を見れば明らかなことです。

民衆を力で押さえていた者は、ちょっとしたきっかけで、瞬く間にその権力が崩壊し、自分を守るはずの軍隊が権力者に向かって牙をむきます。そして、そのような権力者の破滅の背後に、神の公正なさばきがあるというのがナホム書の中心メッセージです。

天の神を侮った地の権力者は、すでに滅びに向かっています。私たちもこの地で、権力者の横暴に悩まされることがあります。しかし彼らを恐れる必要はありません。彼らの滅亡は目の前にあります

ですから、あなたに求められていることは、この世の権力者たちに力で対抗しようとすることではありません。私たちはただ、日々、主に向かって祈りつつ、自分に課せられた務めをただ忠実に果たして行くことです。

ナホム書は、史上初の多民族国家、圧倒的な軍事力で多民族を従えたアッシリヤ帝国のあっけない滅亡を描いています。それは、彼らの傲慢さ、横暴さに対する天の神のさばきでした。

今日の箇所では、「見よ。わたしはあなたに立ち向かう」と繰り返されています。神を敵としてしまうことは恐ろしいことです。私たちは小さい時から、知恵や力や弁舌によって、自分の願望を達成するように訓練されています。この世の勝利者とは、しばしば、自分の願いを押し通す力を持った人を指しますが、それは絶え間のない争いの連鎖を生み出します。

ヤコブの手紙はそれに対し次のように明快に語ります。アッシリヤに対する神のさばきを思い浮かべながら味わってみましょう。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです・・・

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです・・・

ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』。ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(4:1-7抜粋)

アッシリヤ帝国は、自分たちの欲望のために平気で人を殺しました。私たちも自分にとって邪魔な存在を心の中で殺そうとしていることがあります。

それは神の公正なさばきを信じていないからではないでしょうか。