Ⅰテサロニケ5章1〜28節「神があなたがたに望んでおられること」

2013年12月15日

私たちはこのままでイエスと同じ立場の神の子どもとされています。それは王子や王女であるよりもはるかにすごいことです。ところが私たちの心からは古い奴隷根性が抜けません。奴隷は脅しの力で動かされます。

ネルソン・マンデラ氏は、牢獄の中で、白人の看守たちを敬服させることができました。それは、彼が神の子ども、「光の子ども」としての誇りを持って生きていたからです。

それは決して強がることではありません。自分の弱さや愚かさを正直に認めながら、なおまったく卑屈になることなく、自由な心で人の助けを受けられるようになることです。

1.「人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります」

5章初めで、「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません」と記されていますが、「いつ」とはギリシャ語のクロノスを、「どういうとき」とはカイロスということばを用いています。クロノスもカイロスも、時に関しての数量的な面(クロノロジー、年代記の語源)と質的な面(タイミング)を象徴することばであると言われますが、その区別は明確とは言えません。

とにかく、時に関するふたつのことばを用いて、「主の現れ(パルーシア)」のときに関して、パウロは改めて書く必要はないと述べています。

イエスが死の中からよみがえって、弟子たちにご自身を40日間にもわたって現された際、弟子たちは主に、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか」と問いかけますが、主は「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われました(使徒1:6,7)。そこでも、ここと同じ、クロノスとカイロスという言葉が用いられていました。

なおここのテーマ、「主が再び来られるとき」(4:15)と訳されている言葉は、「主の現れ(パルーシア)のとき」と訳すのが正確で、それは「使徒の働き」に登場する弟子たちにとっては「神の国の実現」を意味したことは明らかです。

主はそこで、弟子たちがイスラエル王国の再興について尋ねたこと自体をナンセンスとは言っていません。弟子たちはそれをローマの支配からの解放として理解していたのに対して、主はローマ帝国をもはるかに上回る「神の国の完成」のことを語ったのです。主が言われた「神の国」は霊的というより人々の理解を超えるものでした。

しかもその直後、「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」のですが、そのときに御使いが弟子たちに現れ、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天にのぼって行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」と言われました。そして、パウロが話題にした「主の現れ(パルーシア)」とは、そのことを指します。

そしてパウロは、「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです」(5:2)と言います。泥棒は、予期しない時にやってきますが、主の現れ(パルーシア)も突然のことで、それは主を知らない人にとっては「滅びのとき」であるというのです。

そのことが、「人々が『平和だ。安全だ』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」と記されています。

この「平和だ。安全だ」という言葉は、エゼキエル13章10節で、エルサレムがバビロン帝国によって滅ぼされる前、主は偽預言者の問題を、「平安がないのに、『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう」と非難したことを連想させます。

偽預言者たちは、真実を見ようとせずに、表面的につくろうようなことばかりを語って誤魔化していました。

当時のローマ帝国は「パクス・ロマーナ」と呼ばれた時代で、皇帝の支配のもとで皆が「平和だ。安全だ」と言い合っていましたが、それも見せかけに過ぎないとパウロはここで暗に批判していると解釈できます。つまり、「主の現れ」は、帝国の支配下で、「平和だ。安全だ」と思い込んでいる人にとっては恐怖の時となるというのです。

2.「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」

しかもそれは、「ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨む」(3節)のと同じように、避けがたい事であるというのですが、それは「産みの苦しみ」とも言われるように、滅びを通して喜びが生まれる時でもあります。

そのことが4節では「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」と言われます。それが「いつなのか」、「どういう時」なのかは、決して事前には分からないにしても、主との交わりのうちにある者にとっては、泥棒に襲われるような恐怖の時にはならないという意味です。

そして、その理由が、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」と述べられ、同時に、「私たちは、夜や暗やみの者ではありません」と念を押すように言い換えられます(5:5)。イエスは「光の子」ということばを「この世の子」との対比で、神の国に属する者として述べています(ルカ16:8)。

なおこれは「子ども」を指したのではなく、ご老人であっても、イエスを主と告白しておられる方々は「光の子ども、昼の子ども」なのです。それは同時に、この世の横暴な権力者、「夜や暗やみ」の絶望的な支配から解放され、新しい希望の時代に移されているという意味です。ですから、主の現れ(パルーシア)のときは、その人にとって大きな祝福、喜びの時となるのです。

それを前提としての励ましが、「ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです」(5:6、7)と言われます。これはもちろん、肉体的な睡眠ではなく、霊的に眠った者になってはならないという意味です。

ここでの「眠る」という動詞は、4章13,14節の「イエスにあって(を通して)眠った人々」というときの「眠る」とは違ったことばで、道徳的に盲目になることを指す場合に用いられます。

ここでの「ほかの人々のように眠って」とは、4章13節の「他の望みのない人のように悲しみに沈む」という絶望に囚われた状態になることだと思われます。それは「酔う」ことと同じく心身の麻痺状態になることです。

8節では、「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」と記されますが、イザヤ59章16、17節では、「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこでご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義をささえとされた。主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり・・」と描かれています。

ここでの私たちにとっての「信仰と愛の胸当て」は、イザヤが語った「主の義のよろい」に対応するもので、主の真実への応答として生まれるものです。

そして、そこでの主の「救いのかぶと」が、現在の私たちにとっては「救いの望みのかぶと」となります。なぜなら、私たちはなおこの世の不条理のただ中で「うめいて」おり、「望みによって救われている」状態にすぎないからです(ローマ8:23,24)。ここに「信仰、希望、愛」というキリストにある人生の特徴が描かれています。

そして、「主の現れ(パルーシア)」において実現することを、パウロは、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった」(5:9)と描いています。

続いて、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」(10節)と記されます。「眠っていても、主とともに生きる」というのは不思議な表現です。ここでの「眠る」とは7節と同じく無感覚になってしまうこと、熟睡とか死の状態を指します。つまり、私たちは肉体的に熟睡していても、また、死んでしまっていても、その霊が主と共に生きている状態を保つことができるのです。

その上で、新しい希望の時代に生きる者どうしがその自覚を促し合うようにという意味での勧めが、「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」(11節)と記されます。

パウロは別のところで、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)と高らかに語りましたが、私たちはいつも繰り返し、「人間的な標準で」(同5:16)自分も人も測ってしまう昔の生き方に戻ってしまいがちなので、その意味で励まし合いが必要なのです。

私たちもしばしば、地位やお金というこの世的な安心感を求めます。しかし、それは私たちを人やお金の奴隷に戻す生き方です。私たちは既に「新しいエルサレム」の市民とされているのです。お互いをそのようにキリストにあって新しくされた者として、互いを喜び合うことが何よりも大切です。

互いの足りない部分を指摘し合って切磋琢磨しようとすると、「そのままのあなたはダメ」というニュアンスが生まれてしまいがちです。そのままの存在を喜び、互いの長所を喜び、その成長を励まし合うということこそが、「徳を高め合う」ということではないでしょうか。

3.光の子としての暗唱すべき生きる指針

5章12,13節では急に、「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」と指導者に対する尊敬の訴えのことが記されます。

パウロは伝道した先々で、「彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた」(使徒14:23)という、各地域教会に指導者を立て、働きを委ねるということをしていました。

しかし、テサロニケの教会はたった三週間余りの伝道で生まれたもので、パウロもその指導者を訓練するということができなかったのだと思われます。当然ながら、教会の人たちも、自分たちを「指導し、訓戒している人々」の権威を十分に認めることがなく、「深い尊敬を払う」ということもなく、そこには互いの権威で競争し合うということがあったのではないかと思われます。

14節には、「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」と命じられていますが、気ままな者」とは、本来、「権威に服移しない者」という意味で、「怠け者」とも訳されることばです。創造主は私たち一人一人にこの地を管理するという責任を委ねられましたが、そのことの意味を理解せずに、働きもせずに教会の人々の善意に甘えていた人々がいました。それらの人を「戒める」必要があったのです。

また、「小心な者」とは、迫害にすぐにおびえたり、身近な人々の死をまえにすぐに悲しみに沈むような人です。そのような人々には、キリストにある希望という「励まし」が必要になります。

「弱い者」とは、肉体的、精神的な弱さを抱えた人を指すのかもしれません。彼らには「助け」が必要です。そして、これらをまとめるように、「すべての人に寛容でありなさい」と言われます。

「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ」(5:15)とは、私たちの敵や迫害者に対して取るべき態度です。また、「お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい」とあるのは、「お互いの間で」また「すべての人に対して」とは、パウロの書き方の特徴で、3章12節の祈りにおいても、「あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように」と表現されていました。

パウロはローマ人への手紙12章17,18節で「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と記しています。

そして、16-22節は、「主の現れ(パルーシア)」を待ち望む者としての日々の過ごし方を簡潔にまとめたもので、すべての信仰者が日々心にとめるべきことです。これは暗唱しやすいように、詩的な表現で描かれます。

まず、「いつも喜んでいなさい」ですが、ここでは「いつでも」が最初に強調されます。私は最初、このことばがとっても好きでしたが、後に、いろいろ嫌なことに直面しながら、これが非現実的なことに思えて来ました。でも逆説的ですが、詩篇に親しみながら、自分の中にある不安、怒り、悲しみ、さみしさを優しく受け止められるようになったときに、「いつも喜ぶ」ということが現実的に思えてきました

「喜び」は悲しみを初めとするマイナスの感情と対極にあるものではありません。喜びの反対にあるのは無感動です。それは何でも斜に構えてみる皮肉屋の心、また感情を麻痺させるような「横着な心」(哀歌3:65)です。実は、泣くことと笑うことはセットになっている感情なのです。

それにしても、「いつも喜んでいる」ことができるためには、真の意味での救いの理解が必要です。ピリピ人への手紙では、「いつも主にあって喜んでいなさい・・・主は近いのです」(4:4,5)と記されていますが、それは今、このときが主の御手の中にあること、また、主がこの世界を完成に導いてくださることを信じていることから生まれることです。

ここでは先の、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです」という自覚の中から生まれるものです。

次の、「絶えず祈りなさい」においても、「絶えず」ということばが先に来ています。東方教会の流れの中に、「イエスの御名の祈り」があります。それは呼吸に合わせて、「イエス・キリスト神の御子、この私をあわれんでください」と繰り返すことです。

意識的な訓練の後、ふと、自分の呼吸にこの祈りがついてきて、無意識のうちに主の御名を呼び求めるということになっているというのが目標です。寝ても覚めても、イエスの御名を思い起こすことができるなら何と幸いなことでしょう。

先のピリピ人への手紙では、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(4:6,7)と記されています。

18節では「すべての事について、感謝しなさい」と記されます。ここでも「すべての事について」が先行します。ピリピ書の表現では、「祈りと願い」は、「感謝」という翼にのって神に届くと言われることがあります。

またそこでは続けて、「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」(4:8)と記されています。

感謝の心はあなたの目の向けどころから生まれてくるものです。

そして、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」というのは、この「喜び」「祈り」「感謝」の三つの命令にかかってくることばです。

いわゆる「神のみこころ」は何かと悩むような時、これこそがまず、神のみこころであることを心に留めるべきでしょう。そこからすべてが始まるからです。

そして、19-22節は聖霊の働きに関することです。まず、「御霊を消してはなりません」と記されています。これはほとんどの英語訳では、「Do not quench the Spirit.」と訳されます。

これはランプの灯を消すように聖霊の炎を消すことです。しばしば福音派の教会は、超常現象や奇跡を強調しすぎる教派への警戒心から聖霊の働きを理性の枠の中に押し込めてしまいがちだと言われることがあります。

またこれは次の「預言をないがしろにしてはいけません」(20節)という言葉とセットです。「預言」とは未来予測ではありません。また、聖書の啓示が不十分であるかのように、イザヤ書の続きを語るということではありません。

パウロはⅠコリント14章で、「預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話します・・・もしみなが預言するなら、信者でない者や初心の者が入ってきたとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう」(3、24節)と記しており、現代の奨励や証しをも含む幅広い働きと見ることができます。

そして21節では、「しかし、すべてのことを見分けなさい」と記されますが(文章はここで切るべき)、語られた預言が本当に神からのものなのかを「見分ける」必要があります。

これに関してパウロは先のコリント書で、「預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。もし座席に着いている別の人に黙示(啓示)が与えられたら、先の人は黙りなさい。あなたがたはみながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです」(14:29-31)と記しています。

これは誰かの預言が誤解を生みそうだった時には、すぐに別の人が立ってその人は黙り、預言が預言によって修正され、何人もが預言する中でその会衆の中に神のみこころが明らかになるというようなものだと思われます。つまり、見分けるための基準を作るなどというのではなく、預言が預言によって修正されることを期待する自由を尊重するのです。

そして続く、「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」とセットの勧めとして22節で「悪はどんな悪でも避けなさい」と言われます。これこそ御霊の働きに敏感になって生きることの秘訣と言えましょう。

この世の慣習に毒されてはなりません。しかし、批判先行ではなく既にそこに在る「良いものを堅く守る」という建徳的な視点が大切です。

16-22節は、そのまま暗唱すべきクリスチャン生活の宝物のことばです。ただし、その際、私たちの交わりが肉の惰性に流されないように適度な緊張感が必要ですから、14節から暗唱するとなお良いでしょう。

私たちはいろんなことを目に見えるマニュアルやルール作りで対処しようとしますが、何よりも大切なのは、私たちの交わりのうちに聖霊の働きがすでに豊かにあることを信じることです。修正は互いの御霊にある自由を尊重し合うところから自然に行われます。

強制力による解決は一時的に効果がありますが、御霊の働きを窒息させ、長期的には、その交わりを息苦しいものにしてしまいます。交わりの中に忍び込む悪の力に対して、互いに目を覚ましつつ、しかも、互いを「光の子ども」として認め合い、そのうちに働く御霊の力を信じて、いつでも希望を持って語り合うのです。

4.あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます

23節でパウロは、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨(パルーシア)のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」と祈ります。この地上の生涯では、「もう完成した」ということはありません。主は私たちのうちに「キリストが形造られる」(ガラテヤ4:19)ことを願っておられます。

そして24節では、「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます」と断言します。ここでも主の現れ(パルーシア)がテーマですが、キリストが天から救い主としておいでになるとき、「キリストは万物をご自身に従わせることができる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(ピリピ3:21)と約束されているからです。

また、最後にパウロは、「兄弟たち。私たちのためにも祈ってください」と願いながら、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい」(26節)と述べます。

「聖なる口づけ」を交わすとは、本当に互いを神の家族に属する者として、兄弟姉妹の挨拶を交わすことです。私たちも礼拝でそれを実践すべきではないでしょうか。

神の御子は二千年前に預言された救い主として、奇想天外な姿、無力な赤ちゃんとして現れてくださいました。それは私たちの発想を根本的に変えるものです。私たちはいつも人間的な努力を励まし合う世界に生きています。それはそれとして当然です。真面目に勉強し、誠実に働かなければ結果は出ません。

しかし、それを神の救いのご計画に当てはめると、恵みが見えなくなります。私たちはすでに「光の子ども」、栄光に輝く新しいエルサレムの市民とされています。自分や人の成長度合いを測るのではなく、神がキリストにおいてなしてくださったみわざに繰り返し心を向けることこそが大切です。

そのときに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」ということばが、極めて現実的な恵みに満ちたことばとして心の底に響いてくることでしょう。