ビジョンに渇いていないでしょうか

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2013年秋号より

「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう」(ルカ14:28-30)

私たちは何かをしようとするとき、きちんと事前の計算が必要です。イエスは何の計算もなしに前に動くことをいましめてこのように言われました。ただ、このような計算が先行することも危険です。私たちは今回の会堂建設に当たり、最低限の計算はしましたが、あとは祈りつつ、主にお任せしました。そして、ふだん私たちの教会に集っておられない多くの方々が驚くべき応援をしてくださいました。それは私たちの教会のあり方やビジョンをご理解くださり、お役にたちたいと願ってくださった方々です。

「基礎を築いただけで完成できなかったら」、塔を建てようとした試み自体が嘲りの対象となるというのです。信仰は幻想を追うことではなく、しっかりと地に足をつけた歩みをすることです。信仰の名のもとに無謀が正当化させるようなことがあってはなりません。お金の計算は、きわめて霊的なことです。そして、イエスはこのたとえを通して、イエスの弟子となるためには、「まずすわって」そのコストを「計算」する必要があると言っておられます。

この直前には、「自分の十字架を負ってわたしについてこないものは、わたしの弟子になることはできません」(27節) と記されていますが、そこにおいては、肉体のいのちを失う覚悟と合わせて、あらゆる名誉を奪われ、誤解されるという孤独の苦しみを引き受ける覚悟が求められていました。

つまり、イエスに従うことは、盲目的な生き方になることでも、ばら色の夢を抱くことでもなく、肉体の命を捨てる覚悟を冷静に決めることだというのです。「そんな厳しいことを迫られて、誰が従う覚悟ができようか……」と言いたくなるのも当然です。しかし、これは犠牲をかけるに値するほどの豊かな「いのち」があるというしるしでもあります。事実、西暦二百年ごろ、迫害のただ中にあって教会を導いた教父テルトゥリアヌスは、権力者に向かって、「殉教者の血は、福音の種である」と弁護しました。なぜなら、多くの人々は、キリスト者が肉体の命を賭けてイエスへの忠誠を守っている姿を見て、「ここには、苦しみも、退屈も超えた、真のいのちの輝きがある」と感動したからです。

このように見てくると、上記のみことばは、決して、この世的な計算をしてから働きを始めるという意味ではないことが良くわかります。それどころか、イエスに従うことにどれだけの犠牲が求められているかを語った言葉なのです。そして私たちが何かのプロジェクトに取り組むときに、私たちがどれだけそこに自分たちのたましいを賭けようとしているかが問われています。

多くの方々が私たちの会堂建設を応援してくださった理由はそこにあります。私たちが自分たちの都合ばかりを優先しているのではないということが見えてくるから人々は応援したいと思われたのです。

今回、福音自由のアジア会議に参加して、改めて、私たち日本の教会に不足しがちなのは、将来へのビジョンと、日本の教会の覚悟であるということが良くわかりました。

シンガポールや香港には豊かな大教会が数多くあります。彼らはアジアの文化の中心都市、東京に福音が広がることを夢見ています。そして、日本の福音自由教会が首都圏伝道の主導権をとってくれるならいくらでも協力したいという思いを持っています。

フィリピンの教会などは、自分たちの最大の輸出産業は出稼ぎ労働者であると豪語するぐらい、多くのフィリピン人クリスチャンを海外に送り込んでいます。名古屋の福音自由教会は、フィリピンの福音自由教会と協力して、フィリピン人と結婚した日本人の家庭への伝道を展開しています。

マレーシアの教会はまだまだ小さいですが、ミヤンマー教会の宣教に協力しておられます。私は今回の会堂建設から香港でのアジア会議参加を通して改めて、より大きなビジョンを持つことの必要性を覚えさせられました。あまりにも自分たちの手元にあるリソース(資源)に縛られて、「無理しないように……」と自分で自分にブレーキをかけすぎてきたように思わされました。私たち日本の教会は、何よりもビジョンに飢えているのではないでしょうか。