パスカルはパンセの中で、「すべての人は、幸福になることを捜し求めている。それには例外がない・・ある人が戦争に行き、他の人たちが行かないのは同じ願いからである・・・人間の中にはかつて真の幸福が存在し、今ではその全く空虚なしるしと痕跡しか残っていない…この無限の深淵は、無限で不変な存在、すなわち神ご自身によってしか満たされ得ない」と語っていますが、それこそ、私たちの原点と言えましょう。
創造主に拠り頼むということを除いては、誰もエデンの園の祝福に到達することはできません。そして今、私たちはイエスの十字架によって、そこへの道が開かれました。
それなのに私たちは何としばしば、この世が提供する「しあわせ」の約束に心を奪われて、愚かな寄り道や失敗を繰り返してしまうことでしょう。真理は単純です。そこに留まり続けたいものです。
1.「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ」
27章23節には「あなたの羊の様子をよく知り、群れに心を留めておけ」と記されています。「よく知り」とは厳密には「知って知る」と同じ動詞が重なって記され、「心を留めておけ」ということばは「心を置きなさい」と記されています。そして「様子」ということばは「顔」とも訳されることばです。
私たちは羊の群れを、生活の手段としてではなく、一匹一匹によくよく注意を払い、その顔を見分けるばかりか、その変化を見続ける必要があるというのです。
これは教会の群れをはじめとして、あらゆる組織に適用すべき教えです。目の前のひとりひとりに注意を払うということは、その群れがどんなに大きくなっても実践すべきことです。あなたが自分の身近な人の状態を心から良く知って、そこに心を向けるということこそ、「愛」の基本です。そのように愛されている人は、同時に、他の人を愛して行くことができます。
組織が大きくなればなるほど、この原則が大切にされる必要があります。今回の訪問で、香港の一万人の群れを牧会している牧師が言っておられたことが印象的でした。それは神との個人的な交わりを築くことと、ひとりひとりとの人格的な交わりを築くことには切り離せない関係があるということでした。彼はひとつの家庭集会から始めた群れが27年間で一万人になるというプロセスを導いてきましたが、信仰の訓練は一対一の関係から始めているとのことでした。働きを任せている人との交わりには、すべてを優先させるとのことでした。どれほど忙しくても、その人たちの心の交わりの時間を持つことにはすべてを優先させるとのことでした。
「富はいつまでも続くものではなく、王冠も代々に続かないからだ」(27:24)とは、この地における繁栄のはかなさを語ったものです。「富」も、「王冠」に象徴される権力もこの世では有効な手段ですが、だからこそ神を忘れさせる契機になってしまいます。
しかし、神は私たちが被造物に注いだ愛情のひとつひとつを記憶していてくださいます。ですから大切なのは、富や権力を手にすることよりも神との交わりを大切にし、それを深めることなのです。
その上で、これらの労働の実のことが、「草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると、子羊はあなたに着物を着させ、やぎは畑の代価となる。やぎの乳は十分あって、あなたの食物、あなたの家族の食物となり、あなたの召使の女たちを養う」と記されます(27:25-27)。
神の祝福とは、何よりも、働いたことが無駄になることがなく、労働が豊かな実を結ぶこととして描かれます。キリストの復活以来、私たちは神の祝福の時代の中に移されています。
そのことが「堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58)と記されています。
私たちは現在、非常に忙しい時代に住んでいます。そして、いろんな働きの結果をすぐに出すことができるようなプレッシャーを受けながら生きています。
しかし、人と人との関係は、一朝一夕に深められるものではありません。様々な試練の時を経て初めて深められるものです。日常的な心と心の交わりこそ、あなたの人生を豊かにする最高の道です。
富や力で築かれる関係ほどはかないものはありません。継続的な交わりを重んじたいものです。
2.「おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う」
「悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい」(28:1)とあるのは、神を知らない悪者は、自分の身を守ることに汲々となっているため、追っ手がいないのに逃げてしまうことがあるという一方で、創造主を知っている「正しい人」は若獅子のように「頼もしい」存在となることができるということです。
「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる」(28:2)とは、国全体が神に逆らい、神の示す善悪の基準がなくなると、家来が王に逆らうことも正当化されます。その結果、北王国イスラエルには九つもの王朝が次々と生まれました。それはクーデターによって古い王が廃され、新しい王が誕生したためです。
一方、「しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」とは、たとえばダビデの分別と知識によって、ダビデ王家が350年続いたようなことを指しています。神を恐れる「ひとりの人」に社会全体を変える力があるというのです。
「おしえを捨てる者は悪者をほめる。おしえを守る者は彼らと争う」(28:4)とありますが、この「教え」ということばは原文でトーラー(律法)と記されています。「悪者」とは神を恐れない者のことですから、聖書の教えを捨てる者が、神を恐れないこの世の成功者を賞賛する一方で、聖書の教えに注目する者は、そのような者に媚びたり妥協したりすることなく、言うべきことを言って争う勇気を持っているというのです。
私達は誰との関係を第一に考えているかが問われています。私たちは互いに愛し合うために神の民とされており、互いの間に愛があることこそが、何よりも私たちがキリストの弟子であることを証することになっているということを忘れてはなりません。
私たちは神を恐れない者を称賛する以前に、神を恐れる者の愛の交わりを築きつつ、この世と対峙する必要があるのです。
6節では、「貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる」とありますが、私たちはいつの時代でも貧しい人よりも、富んでいる人を信用しがちかもしれません。なぜならどこかで私たちも因果応報的に、富んでいる人は、人の信頼を勝ち得て豊かになっていると思いがちだからです。
ただ、善悪の基準を無視してお金儲けに邁進して富んでいる人もいるわけですから、富と貧しさは人間の価値を判断する基準にはなりません。神は私たちの誠実さに報いてくださいます。
同時に神は曲がった道を歩む者にさばきをくだされます。
7節の「おしえを守る者」というのも「律法(トーラー)を見続ける者」と訳すことができます。神の目に彼らは「分別のある子(息子)」と見られます。しかし同時に、「放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる」とも記されます。
ここでは息子と父が対比されます。どの父親も子供の交友関係が気になるものです。人は誰を友にしているかで生き方が変わります。しばしば、神を恐れる父親のもと育った息子が、あえて放蕩者と交わることがあります。それはしばしば聖書の教えが自由な生き方に反する道徳かのように誤解されているからです。
律法は三千年前の時代においては最も先進的な教えでした。私達はそこに流れる神のみこころの奥義を味わう必要があります。奴隷がいるのが当たり前、また、女性の人格が認められないのが当たり前の時代にあって、聖書はどのようにそれぞれの人格を尊重していたかを知るときに、三千年前の文化を超えた適用を考えることができます。
8節では「利息や高利によって財産をふやす者は、寄るべのない者たちに恵む者のためにそれをたくわえる」と記されていますが、「高利」とは「利益」と訳したほうが良いかもしれません。
利息も利益も、商業においては不可欠なもので、それは危険を冒すことへの報酬と考えられます。申命記23章19,20節には「同胞」から利息を取ってお金を貸すことは禁じられていますが、外国人から利息を取ることは許されています。それはたとえば医者が患者から診療費を取っても、家族を治療して報酬をとるということはありえないのと同じです。
ユダヤ人はバビロン捕囚によって国を失って以来、寄留の地において土地を持つことは困難になりましたが、その代わり、商業や金融業によって財産を増やしてきました。そしてその利益は同胞の貧しい人々をささえるために用いられてきました。
9節の「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる」とは、まさに耳の痛い話しです。
ここでも「教え」の原文はトーラー、その基本は三千数百年前に記されたモーセ五書ですが、その御教えを聞こうとしない者は、たとい創造主に向かって熱心に祈っても、「その祈りさえ忌み嫌われる」というのです(15:8)。
「正直な人を悪い道に迷わす者は、自分の掘った穴に陥る。しかし潔白な人たちはしあわせを継ぐ」(28:10)とありますが、「正直な人」とは厳密には「まっすぐな人」と記され、「潔白な人」とは「完全な人」または「健全な人」と記されています。
つまり、まっすぐな人を悪い道に惑わすほどに狡猾な者は、自分の仕掛けたわなに陥ってしまう一方で、日々の働きを喜ぶ健全な生き方をする者は、すべての「しあわせ(よいもの)」を受け継ぐというのです。
「完全な人」または「健全な人」とは何よりも神からのすべての恵みを心から喜ぶことができる人です。
11節の「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる」とは示唆に富んでいます。富む者は自分を成功者と見ていますが、それこそ危ないことです。なぜなら、自分を知恵ある者と思い込むことこそ、26章12節にあったように、愚か者よりも始末が悪いからです。
それに対し、貧しさの中で不足を知っている人は、その分別(見分ける力)を用いて、自分の現実を神の視点から見られるようになるというのです。
12節では「正しい者が喜ぶときには、大いなる光栄があり、悪者が起き上がるときには、人は身を隠す」と記されますが、これは人と人との集まりの中で考えるとよくわかります。
神を恐れる「正しい者」の喜びは社会全体の光栄ですが、悪者が権力を握るとき、人々は自分の身を隠すようになります。
日本の文化の中では、個々人の個性が共同体の中に埋没してしまいがちです。しかし、4,7,9節では神の御教え(律法、トーラー)に対するひとりひとりの態度が問われています。神はひとりのアブラハムから神の民を創造しようとされました。そしてクリスチャンとなるとは、アブラハムの子孫となるという意味です。
人間的な意味での共同体の調和以前に、ひとりひとりがどれだけ神との親密な交わりを築いているかが問われているのです。
3.「幸いなことよ、いつも震えている人は」
13節では「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」と記されていますが、これはダビデやペテロの例を見ると良くわかります。世界中の人が彼らの問題を知っていますが、それは彼ら自身が望んだことでした。
彼らは自分を神のあわれみの見本としたのです。それはどんな罪人も自分の罪深さに失望することも、自己嫌悪に苛まれることもなく、神のみもとに立ち返ることができるためでした。
14節は「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る」とありますが、原文では「主を恐れている」ということばは、単に「いつも震えている人」と記されています。1節と対照的に思われますが、この中心は自分の弱さや頼りなさをよく知っているという意味です。
詩篇の祈りにはダビデの恐怖心が生々しく描かれています。彼は恐れを告白して勇気を得たのです。それと反対に「心をかたくなにする」とは、手綱さばきに従おうとしない馬のようなることです。間違った道に進んでいても強情すぎて修正が効かなくなります。
私たちは周りの意見や評価に左右されない堂々とした生き方を理想としますが、それは時によっては、「心をかたくなにする」という生き方につながります。自分の弱さや愚かさを自覚して「恐れおののいている人」の方が、神に喜ばれるということを忘れてはなりません。
ですから使徒パウロも、ご自分をむなしくされたキリストの謙遜の模範を示した後で、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、あなたがたのうに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:12、13)と勧めています。
4.「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主(ヤハウェ)に拠り頼む人は豊かになる」
19節から27節は堅実な生き方を勧めたものです。まず、「自分の畑を耕す者は食糧に飽き足り、むなしいものを追い求める者は貧しさに飽きる」(19節)という表現では、「飽き足り」「飽きる」という同じ原文が繰り返されていますが、これは「満ちる」とも訳すことができます。
「むなしいもの」とは「空っぽ」とも訳すことができることばです。それは見せかけの豊かさを追い求めることです。地に足のついていない生活には貧しさが伴います。
「忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない」(20節)とありますが、「罰を免れない」ということばは、厳密には、「無実ではいられない」と記されています。つまり、これは富を得ようとあせる者は、どこかでこの世の悪に手を染めざるを得なくなるという意味です。
それに対し、目先の富よりも「忠実さ」(真実さ)に価値を置く生き方は、創造主に喜ばれ、「多くの祝福」を受けることができるというのです。
21節の「人をかたより見る」とは、原文では「顔で見分ける」と記されています。つまりここは、「人を見栄えで判断するのは良くない。人は一切れのパンで、そむくのだから」という意味だと思われます。それは、「心は何よりも欺くもの、それは癒し難い」(エレミヤ17:9私訳)と記されている通りです。
人を疑いすぎるのも問題ですが、見かけで信じ込んでしまい、裏切られて人を恨むという悪循環に陥るようなことは避けなければなりません。
24節では、「自分の父母の物を盗んで、『私は罪を犯していない』と言う者は、滅びをもたらす者の仲間である」と記されていますが、これは親の財産を受け継ぐのは子供の当然の権利と思い込む中で起こることです。
これは親の承諾なしに親の財産を奪うことばかりか、放蕩息子のたとえのように、親が元気なうちから遺産の先取りを請求するような生き方を指します。自分の手で稼ぐことを厭うような者は、この社会を滅ぼす者たちの仲間です。
25節では「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主(ヤハウェ)に拠り頼む人は豊かになる」と記されていますが、最初のことばは厳密には、「広いたましい」(満足を知らない生き方)と記されています。
使徒パウロは弟子のテモテに向かって、「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Ⅰテモテ6:5,6)と書いています。依存症的な人は、いつも「もっと、もっと」という心の渇きに駆り立てられていますが、そこには絶え間のない争いが生じます。
一方で、「主(ヤハウェ)に拠り頼む」とは、今ここで、様々な欠けがあるままで、最終的にはすべての必要が満たされることを知って、安心していられる心の状態を指しています。「豊かになる」ということばは、厳密には、「太る」と記されています。それは健康な動物が脂身の豊かな状態になることからイメージされた表現です。それは繁栄するとも訳されます。
そして、豊かな心こそ、豊かさの源となります。心の余裕こそが、生活の余裕の最大の源になるというのです。
ただそこですぐに同じ「拠り頼む」という動詞を用いながら、「自分の心にたよる者は愚かな者、知恵をもって歩む者は救われる」(26節)と記されます。
私たちは自分の心の強さや豊かさに拠り頼むのではなく、神に拠り頼むことが求めれています。
「知恵をもって歩む」とは、一瞬一瞬を、「心を尽くして主(ヤハウェ)に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)というみことばにしたがって歩むことに他なりません。
27節では、「貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける」と記されますが、これこそ、主にある経済生活の基本です。出し惜しみする人には、主にある豊かさは巡って来なくなります。
イスラエルの死海はまわりの地域から水を受けるばかりで、受けた水を注ぎだす場所がないので塩分が蓄積され、生き物が住むことができない死の海になっています。一方、ガリラヤ湖はヨルダン川に大量の水をいつも流し出しますが、ヘルモン山の雪解け水をいつも受けて、その地域はあらゆる生物の宝庫となっています。
四年前にフィリピンで福音自由のアジア会議が開かれアジアのリーダーの方々と交わりを築くことができました。その後まもなくフィリピンを大洪水が襲いました。私は当時日本の福音自由の会計担当として諸教会に緊急支援を訴え、短期間のうちに多額の資金をお送りすることができました。
それから一年半後、東日本大震災が起きました。今度は、日本の教会はアジアの諸教会から支援を受ける側になりました。そのようなことはまったく初めての経験でした。私たちの身近な方もシンガポールで日本支援を訴えのために労してくださいました。
そして、今、シンガポール、香港、フィリピンの教会は東京での宣教の働きに興味を抱き始めています。また、一方で、ミャンマーの福音自由教会の牧師の教育に日本人牧師を短期間でも遣わして欲しいとの要望も出てきております。
世界の様々な必要に目を開き、それに積極的に応える働きは、不思議に、いろんな人々を結びつける働きにつながります。
人はだれも、生きた心の交わりを求めています。何かに駆り立てられるような動きではなく、それぞれの自由な気持ちからいつも何かが動いている教会、そのような群れこそ人を引きつけます。
米国やシンガポールの教会指導者との会話の中で、彼らは何よりも日本の教会のビジョンを聞きたがっているということに心が動かされました。
彼らは明確なビジョンのあるところにはいくらでも献金をしたいと願っています。私たちに必要なのは、お金や人材の問題以前に、ビジョンであるということが改めて心に残りました。
「主に拠り頼む人は豊かになる」の「豊か」を「太る」と訳すと、主に信頼したいという思いが萎えるかもしれません。しかし、これを共同体的な「太さ」と理解したらどうでしょうか。人間は、基本的に、人と人との交わりの中で生きています。
「幸せへの扉は外に向かって開く」とも言われるように、あなたの目が自分の生活の余裕ばかりに向かい、世界の必要に向かっていなければ、太ることによって自分の身体をむしばんでしまいます。
私たちの交わりが世界に広がるとき、そこには不思議な豊かさが生まれることでしょう。与えれば与えるほど、新陳代謝が良くなり、あなた自身はスリムさを保ちながら、共同体として豊かになって行けます。そこで大切なのは、あなたのビジョン、この教会のビジョンです。能力とか時間の限界を最初から考えてはなりません。
必要な人材も資金も、主ご自身が用意してくださいます。主にあって大きな夢を抱きながら、同時に、地に足の着いた歩みをしたいものです。